福音 №320 2015年1月
「信仰と真実」
「彼の信仰は神を絶対に義とし、神に絶対に信頼する生活そのものであった。彼の信仰は概念とか思想とか信条とかいうものではなかった。絶対信頼の思想にあらず、その感情にもあらず、絶対信頼の生活そのものであった。生活の中心、生活の内容、生活の態度であった。彼は生活中心と共に生活態度を重んじた。神を信ずると共に神を信ずる生活態度の誠実性を要求した。彼は最近私に語って言った、『もし信仰と真実といずれか一つを選ばねばならぬとするなら、自分は真実を選ぶ、何故なら真実なる心は神を知ることが出来るが、真実のない信仰はパリサイ主義に陥るから』と。・・・」
『藤井武君の面影』 矢内原忠雄「預言者の生涯と死」より抜粋
以前、「『もし信仰と真実といずれか一つを選ばねばならぬとするなら、自分は真実を選ぶ』と言った人がいる」と聞いたことがあった。何となく分かったようで、よく分からないまま、その言葉だけが心に残っていた。先日、永井訳という古い聖書の言葉を検索していて、「新着情報 矢内原忠雄の『預言者の生涯と死』を公開しました。」という案内にふと開いてみて、そうか、この言葉は藤井武が矢内原忠雄に語った言葉で、そうか、藤井武とはそのように生きた人だったのかと、名はよく聞きながらも知らなかった藤井武という人を垣間見る思いがした。
「彼の信仰は概念とか思想とか信条とかいうものではなかった。絶対信頼の思想にあらず、その感情にもあらず、絶対信頼の生活そのものであった。生活の中心、生活の内容、生活の態度であった。」という文章が格別心にグサッときたのは、普段は夫と二人だけの静かな生活なのに、みんなで九人という何とも賑わしい年末年始を過ごした直後だったからだろう。
夫と二人、短くとも聖書を読んで、共に祈って始める日常。幸いなことに、少人数ながらさまざまな集会も与えられ、御言葉こそ命の糧、聖書って何て素晴らしいんだと感嘆しながら、もちろん自分の不真実に折々に頭を床にこすりつけて悔い改めながらも、信仰に生きる喜びを満喫していたのが、これはいったいどうしたことか。
朝の祈りも二人だけで早々と済ませ、食前の祈りもみんなの顔色を見ながらごく簡単に、命のパンならぬ肉のパンを食べることに明け暮れる日々。それだけならいざ知らず、肉親の情とは面倒くさいもので、一人一人みな別の人格、それぞれの生き方を尊重すべきだとは百も承知なのに、わが子という甘えがあるせいか、どうしてもああだこうだと言ってしまう。あれこれと思い煩い、いらぬ心配までして迷惑がられたり、ああ、これではキリストを信じて生きる平安や喜びを証しするどころではない。
その時、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」と言われたイエス様の言葉が聞こえる思いがして、見せかけの平和を取り繕い、主の平安を失っている自分の姿に、われながらがっかりしたのだった。
そんな時、「信仰より真実」という言葉に出会って、「平和ではなく剣を」という聖書箇所を読み返してみた。すると、ルカ福音書ではもっと厳しく、「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」と言われているのだ。「自分を捨てて従いなさい」というのならまだ分かる。「わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」というのなら、まだ分かる。だがここには、それらを「憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」と言われているのだ。
さて、「真実こそ彼の人生の根柢であった」という藤井武の生活を読むことができるなら、きっとその深い意味も明らかになるだろうが、残念ながら藤井武のものは持ち合わせていないから、矢内原忠雄の「ルカ伝」を取り出して読んでみた。
「われらが聖霊のはたらきを受けて、決然起ってイエスに従おうとするとき、サタンもまた猛然としてわれらをイエスから引き離そうとする。その時、わが手が我をつまずかせるならば、これを切り捨てよ。足がつまずかせるならば、これを切り去れよ。目がつまずかせるならば、これを抜き出せよ。(マルコ9:43-47) 父母、妻子、兄弟、姉妹が妨げるならば、これを憎めよ。妥協するなかれ、躊躇するなかれ。一切をすてて、決然イエスに従うべし。
激しい戦いである。苦しい十字架である。しかしそこを通り抜けないと、我らはイエスに属する者とならないのである。・・・
そしてかくイエスに従う者となることによって、我らは一度憎んだ父母、妻子、兄弟、姉妹を真の意味で愛し、一度憎んだ己が生命を真の意味で救うことができるのである。それは、真の愛の交わりは、イエスにありて彼らと永遠の生命を共にすることであり、己が父母、妻子、兄弟、姉妹をイエスに結びつかせることが、永遠的意味をもつ真の愛だからである。」
「捨てることは得ること、憎むことは愛すること、死ぬことは生きることである。イエスに従う者は、己が涙と祈りをもってこの逆説的な真理を体験させられる。それを欲しない者はこの世の次元にどとまって、神の国の愛に上ることができない。すなわち『神の国で食事をする』幸福を味わうことができないのである」
矢内原忠雄 聖書講義Ⅱ「ルカ伝」より
「もし信仰と真実といずれか一つを選ばねばならぬとするなら、自分は真実を選ぶ」といった言葉の意味が、少しは分かった思いがする。
信じるだけで救われる。それがキリストの福音であることに違いはない。だが信じるとは、単に信じて終わるのではない。信じて生きること、信じて生きる日々の生活そのものなのだ。
怠らず励み 霊に燃えて 主に仕えなさい。
希望をもって喜び、苦難を耐え忍び
たゆまず祈りなさい。 ロマ書12:11,12
壁にかけた日めくりの言葉が、神の国の喜びとはこういうものだと語っているようだった。