福音 №329 2015年10月
御言葉と讃美歌に支えられて
御言葉を信じて生きる。それほど力強いことはない。
御言葉に支えられて生きる。それほどありがたいことはない。
御言葉はいついかなる時も、すぐそばに。
「御言葉はあなたの近くにあり、
あなたの口、あなたの心にある。」ロマ10:8
ああすれば良かったのに、こうすればもっと上手くいったのにと、自分の足りなさばかありが思われて心が重く暗くなったとき、
「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」ルカ10:41-42
との御言葉に、はっとした。そうだ、私は本当に必要なたった一つのことを脇に置いて、あれこれ思い悩んでいた。「主よ、御言葉をください」と静かに目を閉じると、
「祝福を祈りなさい。」1ペテロ3:9と。
そうだった、私は足りないことだらけでも、神様がその人を祝福してくださるなら、それにまさる善きことはないのだと信じて祈った。
「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」フィリヒ°4:6-7
御言葉の約束どおり、神の平和に包まれてすべては感謝にかえられる。
「思い悩むな」と主は言われる。
以前講演で「知能に重い障害をもつ人たちは、共に生きる私たちに苦しみを与えることはあっても、悩みを与えることはありません」といわれた言葉が印象に残っている。
重症心身障害児・者施設の園長さんからのお葉書にも「園生さんは、痛いことや苦しいことは嫌ですが、それ以上の生きること死ぬことについての悩みは持たずに、一日一日を生きているように見えます。私もそうありたいと思います。」「何年も何十年もねたきりですごしながら、自分のいのちのことを思いわずらうことのない園生さんの上にも春の暖かさを通して神の愛が届けられています。」とあり、いのちのことを思い悩まないという恵みの深さ豊かさを思う。
「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」マタイ6:27
「何よりもまず、神の国と神の義をもとめなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」マタイ33-34
なつかしい金木犀の香りに天の国を思うように、御言葉のさわやかさに神様のお心にふれる思いして、うれしいなあっとうっとりしていたら、
「御言葉を行う人になりなさい」ヤコブ1:22と。
「はーい」と山に向かって手をあげる。
御言葉と共に、時には賛美歌が慰めとなり励ましとなることがある。
先日「少年H」という映画を見ていて、戦争のもたらす理不尽さに、こんな世に生きているのが心底いやになった。戦争の悲惨さを味わい尽くして「戦争はしない」と宣言した憲法を、時代に合わないと言って簡単に崩していく、こんな世の中は嫌だ嫌だと一人叫んでいて、はっとした。イエス様はこんな嫌な世に来てくださったのだ。それも、その嫌な世の中を造りだしている私たち人間の罪をあがなうために来てくださったのだ。そう気づいた時、
1)主にのみ十字架を負わせまつり われ知らず顔にあるべきかは
という賛美歌が口から出て、自分の勝手な思いに申し訳なさでいっぱいになった。
2)十字架を負いにし 聖徒たちの 御国にいこえる 幸やいかに
わが身もいさみて 十字架を負い 死に至るまでも 仕えまつらん
3)この世の禍幸 いかにもあれ 栄えのかむりは 十字架にあり
2番3番と歌っていくと、嫌だ嫌だと否定的だった思いは消え、こんな罪の世にその独り子イエス様を与えてくださった神様の愛に打ち震えて、この世の現実がいかようであれ、私たちはこの神様に生かされているのだと希望があふれてきた。
「あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです」1ペテロ1:21
信仰と希望が自力にかかっているなら風に吹き去るもみがらのようなもの。でも、信仰と希望が神にかかっているなら、天地が滅んでも大丈夫。天も地も神様の御手の中。
マザーテレサが貧困や病気で死にそうになっている人の最期を看取るための施設に、なぜ「死を待つ人々の家」と名付けたのか、分からなかった。もっと優しい名前はないものかと思っていた。だが、そうだ、死とは待つものなのだと知らされて、合点がいった。
人はいつも何かを待っている。子供が生まれるのを待ち、一人前になるのを待ち、老年になって動けなくなると死ぬ日を待つ。死が滅びを意味するのであれば、死を待つどころか死なないように全力で戦わねばならないだろう。しかし、イエス・キリストは死に勝利され、よみがえられた。そして「わたしを信じるものは死んでも生きる」と永遠の命を約束してくださった。
「死は勝利にのみ込まれた。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のどげはどこにあるのか。」1コリント15:54-55
その御言葉を思っていると、「主よともにやどりませ」というフレーズを歌っていた。
そうか、死は終りではないと信じていても、死を待つというのはやはり心細くさみしいことだろう。愛する人にそばにいてほしい、手をとって「共にいるよ」と言ってほしい。そうか、だから「主よ共にやどりませ」と歌うのだ。
1)日暮れて四方は暗く わがたまはいと寂し
寄る辺なき身のたよる 主よ共にやどりませ
2)命の暮れ近づき 世の色香うつりゆく
とこしえに変わらざる 主よ共にやどりませ
3)世の闇おしせまりて いざないの声しげし
時の間も去りまさで 主よ共にやどりませ
4)死の針いづこにある 主の近くましまさば
われ勝ちてあまりあらん 主よ共にやどりませ
5)十字架のくしき光 閉ずる目に仰がしめ
み栄えにさむるまで 主よ共にやどりませ。
私たちを造り、罪を贖い、死に行く時も共にいてくださるイエス様、確かにあなたは私たちのすべてのすべてです。