福音 №330 2015年11月

願いと祈り(1)

 

 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。

   ルカ11:1

 クリスチャンは「祈っています」「祈ってください」と合い言葉のように言う。それは当然だとして、神も仏も信じない人であっても、手紙に「あなたの健康を祈っています」と書いたり、特に年賀状などでは「ご多幸をお祈りします」というのが一般的だ。その場合の祈りとは、「願っています」というくらいの意味だろう。だが、このルカ11章1節を読むと、キリスト教の祈りとは単なる願いではないのだとわかる。自分の願いを神様に告げることが祈りなら、自分が何を願っているか教えてもらう必要などないのだから。「祈りを教えてください」と言う「祈り」とはいったい何なのだろう。

 フィリピ書4章6節には「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」とある。ヘブル書5章7節には「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」とある。ここで言う「祈り」と「願い」はどう違うのだろうと、今更のように考え込んでしまった。

 そのことを考えながら聖書を注意深く読んでいくと、願うというのは神様に願うこともあるけれど、「わたしのために祈ってください」とか「この婦人を支えてあげてください」とか、人に願っていることも多い。そうか、「願い」は神にも人にもするが、「祈り」は神様限定で、そこが違うのだと気づいたが、これだけではあまりに幼稚すぎる。

 そうだ、あれこれと自分で考えるより、「祈りを教えてください」という弟子の言葉に答えて、イエス様が教えてくださった祈りがあるのだから、この祈りから祈りとは何かを学ぼう。

 イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。

『父よ、御名が崇められますように。

御国が来ますように。

わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。

わたしたちの罪を赦してください、

わたしたちも自分に負い目のある人を

  皆赦しますから。

わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

 

 さすがイエス様の教えてくださった祈りは、人間の心から自然発生的に出てくる願いではなさそうだ。この祈りを、わが祈りとして祈るためには、もう少し深く正確に学ばなければと強く感じた。

 「主の祈り」について書かれた本は多い、でも私も無教会人のはしくれなのだから、まず内村鑑三のものから読もうと、全集の中に「祈祷の模範」ルカ伝11章1~4節とあるのを見つけだして読んでみた。

 「はなはだ簡単な祈祷である。マタイ伝に記されたものより更に簡単である。しかし簡単であればあるだけ意味深長である。まことに祈祷の模範として謹んでいただくべきものである」ううん、なるほど、と身の引き締まる思いがする。続いて「神を呼び求めるのに、ただ『父よ』と叫ぶ、これで十分である。」「わが側にいてくださる父よ」「願うより前に、わが願いをすべて知っておられる父よ」「なつかしき慕わしき父よ」・・・・。

 うん、うんと読み進めて、さて最初の祈り「御名が崇められますように」の「崇められますように」が、内村訳では「聖められんことを」となっている。内村訳だけではない、塚本訳では「お名前がきよまりますように」前田訳で「み名の聖まりますように」岩隈訳で「あなたの名前が聖(なるもの)とされますように」となっている。なのに一般に売られている日本聖書協会「文語訳」「口語訳」「新共同訳」、日本聖書刊行会「新改訳」では「崇められますように」とあるのは何故だろう。そりゃあそうだ、と思う。「あがめられますように」と言えば、特に説明されなくても何となく分かる気がする。神様が崇められることが私たちの第一の祈りだと言われれば、納得もいく。それを「あなたの御名が聖(きよ)められますように」と祈れといわれても、それだけではさっぱり分からない。なるべくわかりやすくという配慮から一般的な聖書は「あがめられますように」と訳してあるのだろうと、一人納得したが、やはり「聖められますように」の本当に意味を知らなければ、この祈りは祈れないと思った。さて内村はこれを何と言っているか。

 

 「『名』は性格である。『御名』は神が人に啓示された御自身の性格である。聖書の示す、特にイエスキリストのお教えくださった『御名の聖められんことを』とは『イエスキリストの御父なる真の神がどのようなお方であるか、人の心に明らかになりますように』との祈求(ねがい)である。神が真に人に知られることと、人が真の神を知るに至ること、世にこれに勝って願わしいことはないのである。イエスがこの事を祈祷の第一位に置かれたのは正当な理由がある。しかも人は、神の子イエスによらなければ、このような祈求を思いつきはしない。キリストがこられて千九百年、この祈求は今なお最も必要である。人は未だ神の御性格を知らないのである。キリスト教国の民といっても、イエスキリストの御父なる真の神の御性格においては多くを誤解している。神の御性格を知るなら、自らキリスト教国と言い他国に向けて戦争を宣言するなど、とうてい出来ないはずである。・・・・神は武力の神ではない、はかりごとの神でもない、愛の神であると・・・自ら人類の罪を担って十字架につかれたイエスこそ最も完全に神をあらわす者であると知るに至るように。伝道の目的はこれである。人類の進歩とは人々が神についていだく観念の進歩にほかならない。人類が一日も早く、神がどのようなお方であるか、真に覚り得ますように。」

 

 なるほど今の世を見れば、人間の文化文明はますます盛んになって、神の名はますます汚されていく。イエス様は十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られた。父なる神を知らなければ、人は自分が何をしているかさえ分からない者なのだ。真の神がどのようなお方であるか、すべての人が知り得ますように。さあ私も、父なる神を聖なるお方としてあがめ、御前にひれ伏すことから、今日一日を始めよう。それがきっと、主の祈りを生きることなのだから。