福音 №321 2015年2月

小題 信頼 善きものは神から

 

 信頼 まことの父の愛ははなれじ

 40年近く前、集会からいただいた大型の引照つき聖書に「信頼 まことの父の愛ははなれじ」と書いてくださったのは、Nさんのご主人だった。その日から今日まで、私の方は信頼すべきお方から目を離して迷子になることはあっても、確かに、確かに、まことの父の愛は片時も離れることはなかった。こんなにも確かな神様に信頼しないで、ほんの小さなことにも慌てたり騒いだりしながら、でも思い返せば、その度に祈りの中に帰っていった。そこしか帰るところはなかった。

 「あなたが祈るときは、奥まった部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」マタイ6:6

 何という慰めに満ちたお言葉だろう。ある時は部屋の隅に身をかがめ、ある時はカーテンの陰に隠れて、「主よ」と御名を呼ぶ。誰にも見られない所でただ神様だけに小さな声で話しかける。具体的な答えはなくても「聞いていてくださる」という不思議な喜びと平安、それだけでよかった。

 信頼と祈り、それは一つなのだろう。

 

 94才の義母、昨年の4月急に弱って一ヶ月後、お医者さんが「復活しましたね」と言われるくらい元気を取り戻し平穏な日が続いたが、今年になって高熱をきっかけに再び食べられなくなって、水分を取るのも難しくなって一週間、なのに目が合うとあの花のような笑顔。平穏な日々には見ることのできない特別な笑顔が、ベッドに伏すだけの日々に生まれるのはなぜなのだろう。

 母の傍で、思わず携帯のメモ帳に書き留めた。

 「神様、このお母さんの笑顔、清められた平和に満ちた笑顔、これこそ傍らで過ごす者への最高のプレゼントです。

 このお母さんの笑顔によって、私は神様の一方的な愛、無限大の愛を知ります。

 人間が何を為したか、為し得なかったかなど問題ではない、人はただ神様の無限の愛を受けるばかりの存在なのだということを。

 自分の決意やひっしの決心、どんな熱心だって、風に吹き去るもみ殻のようなもの。そんなうつろうものの中にあって、イエス・キリストの十字架の愛は永遠なのだということを。                                                

 神様、お母さんをありがとうございます。私がお世話していると思っていたのに、自分にこだわる私に、『善きことはすべて神様がしてくださる』と教えてくれる。大切な世話をしてもらっているのは私の方でした。」

 

 刻み食も食べられなくなり、水も飲み込めなくなって、「あまりに素敵な笑顔なので、写真にとらせてもらいました」と夜勤の方が言ってくださるほど、とびっきりの笑顔が生まれるのが不思議でしょうがないけれど、ふと思う。そうか、これは神様の御腕に抱かれている平安、その神様への信頼から生まれるのだと。そして母親に抱かれた赤ちゃんは、自分が母親を信頼しているとは知らないで安心しきっているように、母も自分の意志や努力で神様を信頼しているのではないだろう。この信頼も神様が与えてくださったもの。

 

  静かに夜露の  くだるごとく

  恵みの賜物   世にのぞみぬ                                               

  罪深き世に   かかる恵み

  天より来べしと 誰かは知る。 讃美歌114ー3

 

イエス様も神様が与えてくださった。

聖霊も天から降る。

希望も平安も、笑顔も神様から来る。

そして私たちは、

「すぐに来る」といわれたイエス様を「来てください」と待っている。

善きものはすべて神から来る。

 

 また、「祈られている」という恵みを思う。母の部屋に用意してくださったノートに、お世話してくださる方が次々と書き込んでいてくださるのを読むと、「一緒に讃美のテープを聴きました」「お口のケアーをして、お祈りさせていただきました」「眠っておられますが、ゆっくりと祈りました」とある。そうなのだ、母は祈られているのだと、今更ながら喜びが込み上げてくる。私も母のことを祈らない日は一日もないけれど、多くの人の祈りの流れの中で、母はあんなにも安らかに憩っているのだ。

 「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」ヨハネ16:23

 

 聖書を読み続けて、この聖書の言葉は本当なんだと知らされていく。頭で理解するだけでなく日々の生活の中で、特に自分の過ちや弱さを通して、聖書の言葉は本当に本当なんだと知らされていく。自分の罪に苦しんだ分だけ確かにされていく御言葉の真実。苦しみと喜びはいつもセットなんだと思わず笑ってしまう。

 イエス様を信じるとは、イエス様の言葉を信じること。自分の力で信じることなどできないけれど、母の笑顔が、回りの人たちの愛が、これは神様から来ていると教えてくれる。 聖書の言葉を知らなかったら、この破壊と悲惨の渦巻く世にあって、どうしてこんな希望を持ち続けることができるだろう。「善きものはすべて神から来る」と知ることができるだろう。

 

 わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、

 白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。

 わたしは造ったゆえ、必ず負い、

 持ち運び、かつ救う。 イザヤ書46:4

アーメン、主よ。