福音 №326 2015年7月
主イエスと共に
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」マタイ28:20
「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」1テサロニケ5:10
「福音」って、「よき知らせ」って、「イエス様が共におられる」ということ。イエス様が共にいてくださると言っても、イエス様を知らなければ、その素晴らしさも共にいてくださる喜びも分からないから、だから、イエス様をお知らせするのが、福音を伝えることなんだって思う。
それには何よりもまず聖書。イエス様のことは聖書に書かれているので、聖書(特に福音書)を読めば誕生から、話されたこと、行われた愛の業、十字架の死と復活のあらすじはわかるはず。でも、イエス様というお方を外側から見ただけでは行きずりの人。イエス様が共にいてくださる喜びや平安は、イエス様とつながること(生きた交わり)によってこそ与えられる。
先日、3才の女の子に、迷い子になった羊の話をして、「暗い穴に落ちて泣いてる羊を助け出してくださったのはイエスさま。だからあなたも困ったときには『イエスさま』と呼ぶんだよ」と教えると、その子はかぶりをふって、自分を助けてくれるのはママだと泣き出した。「ママにもできないことがあるんだよ」なんて意地悪は言わないで、「そうだね、いつだってママが助けてくれるものね」って賛同して話を打ち切ったけれど、ふと思った。イエス様を知るってことは、この子がママを知ってて必ず助けてくれると信じて疑わないように、イエス様を信頼してることなんだって。イエス様を信じます、イエス様を知っていますと言いながら、肝心なときには人に頼ったり、自分の思いだけで動き回ったりしないためには、やはりこの子とママのように、イエス様との濃密なつながりが必要なのだと。
八木重吉の詩を思い出す。
イエスの名を呼ぶこと
イエスの像を心に描くこと
イエスについて人に述べること
出来るかぎり人をゆるし人にやさしくし
素直な瞳をもちつづけること
そういうことを趣味にしたい
結局いつもそこに
考えが落ちてゆくようにしたい
ものの尺度がそこへ落ちてゆく様にしたい
イエスに近づく為めに
最后の一銭を支払うことが
出来るようになりたい
私が下手にあれこれ書くより、この詩を深く味わった方が、どんなにかイエス様の慕わしさがよく分かることか。ともかく、イエス・キリストを知らなければ、この世に生まれてきた甲斐がないし、イエス様と共にあるにまさる幸いはないと実感し、心から信じている。だから、すべての人にイエス・キリストを紹介したいと思う気持ちに嘘偽りはない。
だが、しかし。「ならば、あなた自身がもっとイエス様に近づいて、もっとイエス様に従って、もっとイエス様に深くつながって、イエス様のように清い、愛の人にされればいいのに。なぜあなたは、自分を捨てきれないで中途半端な生活をしているの?」と、自分自身に問うてみる。そうだ、ちょっと疲れると、もうこれくらいでいいだろうと心がゆるんで、だらけて、生活も楽な方へと向かう。今この時も、一刻一刻神様が与えてくださった時、一日24時間、それは神様の愛にお応えするためにある。それこそが真の喜びだってよく分かっているに、いつの間にか、神様の愛と真実を見失い、ぼんやりと自分の中にたたずんでいる。怠惰と堕落という、神様から引き離す力が私の心に隠れ住んでいるかのようだ。聖霊に満たされているときにはその影も見えないのに、ふっと自分を甘やかしていると、怠惰と堕落はしめしめと本領を発揮しはじめる。
実感として分かる。怠惰と堕落には喜びがない。イエスさまと共にあるあの生き生きとした喜び、愛されているという感動、愛したいという熱意、生きる力、それらを失わせるのが怠惰と堕落の仕事なのだ。
堕落とは:罪を犯す 汚れる 醜くなる 下劣になる 卑しくなる 落ちぶれることをいう。何を堕落とするかは価値観によって異なるが、人間が享楽や欲望のままに行動することを禁ずるのは、どの価値観でも同じである。(wikipediaより)
とあるが、堕落とは何よりも神様から遠ざかることなのだ。
そうか、なぜ私はイエス様から離れられないのか、イエス様を一人でも多くの人に紹介したいと願うのか。そうか、生きる力を失わせ、人の魂を死に至らせる怠惰と堕落から私を救ってくださるのは、イエス・キリスト様をおいて他にないと、今日までの人生を通して味わい知ったからなのだ。
この世で豊かな生活をするのが目的なら、イエス様の所に行く必要はない。この世を楽しみ尽くしたいと願うなら、イエス様のところに行ってはいけない。でも、今日までのすべてを赦され、愛と希望と真実に満ちた、新しい人生を歩みたいと願うなら、イエス様のもとに行くのが一番。
イエス様を外側から見ているだけでなく、イエス様をわが主、わが神と信じ、従っていく。「主よ、共にいてください」と御名を呼びつつ、従っていく。それでも、時には、怠惰や堕落に引っ張られそうになるけれど、それと気づいたときにはすぐに叫ぶ。「主よ、助けてください」「主よ、憐れんでください」このように、どんな時にも呼びかけることができ、確かに助けられることが、共にいてくださるということなのだ。
自分の内から来る怠惰や堕落だけではない、外から来る事故や災難、病むこと老いること死ぬこと。どんな時も、「主よ」と呼ぶことのできる幸い。それが、イエスが共にいてくださるということなのだ。
わからなくなった時は
耶蘇(キリスト)の名を呼びつづけます。
私はいつもあなたの名を呼んでいたい。 八木重吉 詩