福音 №327 2015年8月
「幸いに至る道」「わたしに帰れ」
主はこう言われる。
「さまざまな道に立って、眺めよ。
昔からの道に問いかけてみよ
どれが、幸いにい至る道か、と。
その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」エレミヤ書6:16
聖書の言葉を信じていいんだ、いや信じて生きるのだ。ここにしか時空を超える真理はない、いやここには永遠の真理がこんなにもあざやかに語られ、描かれ、その言葉は今も、今こそ生きている。
拙いながらも聖書を読み続けて、2600年も前にエレミヤを通して語られた神の言葉の前に、ただ黙して主を仰ぐ。「どれが幸いに至る道か」
先日もエゼキエル書17章をくり返し読んでいると、これは今の日本へのメッセージとしても語られているのではないかと恐ろしくなった。
BC590年頃、神に背き続けてエルサレム陥落寸前にあるイスラエルの民。神が裁きの器として用いられたバビロンによって、イスラエルの残りの民のために立てられた王(ゼデキヤ)は、なおも神の言葉に従わず、エジプトに加勢を求める。
「主なる神の言葉がわたしに臨んだ。さあ、この反逆の家に語りなさい。このたとえが何を意味するか、お前たちには分からないのか。バビロンの王がエルサレムに来て、王(ヨヤキン)とその家来たちを捕らえ、彼らをバビロンへ連れて行った。そして、王の子らの一人(ゼデキヤ)を選び、これと契約を結び、誓いを立てさせ、更に、この国の有力者をも連れて行った。それは、この王国が高ぶることなく従順になり、契約を守り続けるようにさせるためであった。しかし、彼は王に背き、エジプトに使者を送って馬と軍勢を得ようとした。果たして、それでうまくいくだろうか。こんなことをして助かるだろうか。契約を破っておきながら、助かるだろうか。わたしは生きている、と主なる神は言われる。彼は、自分を王位につけた大王に対する誓いを軽んじ、彼との契約を破ったので、大王の国バビロンで必ず死ぬ。戦いになって、塁が築かれ、堡塁が建てられ、多くの命が滅ぼされようとも、ファラオは彼のために、強力な軍隊や多数の兵隊をもって戦いはしない。彼は誓いを軽んじ、契約を破った。彼は約束をしながら、これらすべての事を行った。彼は逃れることができない。」
私にはこの箇所が今の日本の姿と重なって、敗戦のゆえに与えられた契約(平和憲法)を破ったらどうなのるのか、こんなにも確かに語られているのだと驚いた。
天皇がただの人間であると宣言したのも、日本が「高ぶることなく従順になり、契約(平和憲法)を守り続けるようにさせるためであった。」しかし今の日本は、他国(アメリカ)に使者を送って馬と軍勢を得ようとしている。
この世が罪に染んだ人間だけの世界なら、正義も悪も時代と共に移り変わり、戦争という殺し合いがほめたたえられる日が再び来るかも知れない。しかし、
「果たして、それでうまくいくだろうか。こんなことをして助かるだろうか。契約を破っておきながら、助かるだろうか。わたしは生きている、と主なる神は言われる。」
天地万物を創造し、ご自身に似せて人を造り、「神は愛だ」とその独り子イエス・キリストによって示された神が、「わたしは生きている」と言われる。
「世界の状況が変わっているのです、私たちも戦わねばなりません」などと言う浅はかな言葉に従うなら、これから先、「戦いになって、塁が築かれ、堡塁が建てられ、多くの命が滅ぼされようとも、ファラオ(同盟国)は彼のために、強力な軍隊や多数の兵隊をもって戦いはしない。」という言葉も、覚悟しなければならない。
ともかく、聖書にはすべてがあると驚嘆するばかりだ。
先日、友人が北海道の「三浦綾子記念文学館」に行ったとき買ってきてくれた絵はがきを見つけた。そこには雪の中に続くかすかな道の絵にそえて
人生は
くり返しがきかないのだ。
かけがえのない命を
生きるにふさわしい道を
自分が歩いているかどうか
考えてみてほしい。 「あさっての風」
とあった。
自分の歩いている道を確かめるため、静かに目を閉じると、「わたしが道である」とイエス様の言葉。そうだ、私はこの神の言葉、キリストの言葉を信じて生きるのだ、これが私に与えられた道なのだと、心に深く平安が満ちてくる。
決してこの道をまっしぐらに進んでいるというのではない。日々あらぬ思いと戦いながら、それでもこの道以外に、真理の道はなく、希望の道もないことを知らされたので、日々この道に立ち帰りつつ歩んでいるのだ。
立ち帰りつつ、そうか、だから聖書には最初から最後まで「わたしに帰れ」という神の声が響いているのだ。神様は人間をよくよく知っておられるから、人間が自分の力では決して神に帰れないことを知っておられるから、キリストを与え、十字架によって救いの道を開いてくださった。
エゼキエル書17章に続き、18章はますます神の言葉が永遠であり真理であることを示してくれる。
「悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。」
「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」
「帰れ、帰れ、わたしに帰れ」と永久までも呼びつづける。それが神様の愛なのだと、今日も聖書は語り続ける。