福音 №328 2015年9月

ヨシュア記6章から

 

 聖書を読む。読み続ける。週1回、旧約1章と新約は内容で区切りながら、ほぼ2人(時には3人、4人)で。そんなことが10年以上続いている。最初はひたすら通読を続けた。だんだんもう少し分かりたいと、簡単な注解書や聖書辞典で調べたりするが、基本は聖書のみ。

 8月から旧約は「ヨシュア記」を。ヨシュア記を読み始める日、Kさんが言った。「ここは戦争ばっかりだね」。Kさんは一緒に通読する前にいつも予習をしている。「日本だって家康による国家統一までは戦国時代、戦争ばかり、しようがないよね」と、何とも分からない返事をしながら、なあに大丈夫、どんな戦争の記事の中にも「御言葉」はある。そこに神様はおられ、必ず語っておられる。何を告げようとしておられるか・・・きっと示してくださる。そう信じて読み始めた、第一章。

 「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。

・・・わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。

・・・この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。・・・わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」

 本当に不思議だけれど、このヨシュアへの語りかけが、自分への語りかけと聞こえてくるのだからしようがない。

 事ある毎にうろたえたりおののいたりしている者に、「うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」と、今も神様は御言葉によって語られる。こんな力強い御言葉をいただかないで、悩みと不安の中に日々を過ごす手はないだろう。

 

 2章、3章と読み進めて、「来週は6章やね」と言うと、すでに予習をしているKさんが「6章は『町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼし尽くして主にささげよ。』6:17『彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした』6:21って、凄いねえ」と、ちょっと苦しそうに言った。わたしはあわてて、「でもきっと意味があるよ」と答えたが、どうも落ち着かない。このように滅ぼし尽くされるエリコは、過去に悪いことをしているに違いないと、創世記から見直してみたが、エリコの名が出てくるのは民数記からで「エリコに近いヨルダン川の対岸」とくり返されているだけ。エリコが滅ぼし尽くされる理由など、どこにも書かれていない。さて、困った。

 夜になってもこのままでは眠れないと、パソコンを前に「ヨシュア記」「エリコ」「聖絶」などで検索していると、目に飛び込んできたと言っても言い過ぎでない文を見つけた。

 「そもそも私たち人間はすべて聖絶されるしかない存在なのです。ただ、キリストであるイエスが、十字架という祭壇で、いけにえの小羊として殺された瞬間から、誰であってもキリストを信じることで聖絶をまぬがれることができるようになりました。」

 こんな当たり前のことにどうして気付かなかったのだろう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と百も千も承知しているのに。人は皆神に背き、神を離れ、滅びる者となった。そんな人間が神様と和解し、救っていただけるのはただキリストによるのだと、千も万も承知しいているのに。

 なのに「滅ぼし尽くす」という言葉にたじろぐようでは、キリストは人の罪を負うて神に捨てられ、裁き尽くされ、滅ぼし尽くされたという事実を本当に分かっているのだろうかと、われながら情けなくなる。

 それでも失望はしない。こんな自分の欠けゆえにイエス様に一歩近づけた思いがする。イエス様とは不思議なお方で、自分はダメだなあ、何も分かっていないなあと心底思うとき、すぐ側にいて「わたしが共にいるではかいか」とささやいてくださる。「わたしなしに生きられない者のためにわたしは来た」「わたしのもとに来る人をわたしは決して追い出さない」と優しく励ましてくださる。イエス・キリストが与えられた、この新約の時代に生きる幸いは計り知れない。

 元に戻って、滅ぼし尽くされたエリコの人たちにも救いの道(旧約での)が閉ざされていた訳ではなかった。神を知らず、自分たち人間の造った城壁を頼りに立てこもっていても、滅びから逃れることはできない。だが、そんな中にあって「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であらせられるからです」と告白し、

「父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちを生かし、わたしたちの命を死から救ってください」と懇願したラハブは、一族と共に助けられ、その後ラハブは神の民となりキリスト誕生の系図にまで名を連ねたのだった。

 

 これらの物語を読んでいると、旧約から新約までつらぬかれている確かなものが見えてくる。

 神は神であり、人は人である。

 神が万物を造られ、人は造られた者である。

 神に背き、神から離れて、人は死ぬ者となった。

 神は死ぬべき人に、ご自身の命を与えようと

   救い主イエスを遣わされた。

 「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと

 あなたのお遣わしになった、

 イエス・キリストを知ることです。」 ヨハネ17:3

 神は宇宙万物を完成される。

 われらはその日を待ち望む、

 約束されたキリスト再臨の日を。

 

わたしが顧みるのは

苦しむ人、霊の砕かれた人

わたしの言葉におののく人 イザヤ66:2