福音 №341 2016年10月

 

「信仰とは」

 

 信仰がなければ、私の人生空っぽだなあと思う。

 今月はこの信仰について書こうとして、まず思い浮かんだのが、ヘブル書11章1節。

  「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」

 有名な御言葉で、何度も学んで分かっているはずなのに、いざ自分の言葉で説明しようとすると、はっきり、スッキリとはとてもいかない。だいたい「信仰」って、と国語辞典を引く始末である。「神・仏など、ある神聖なものを(またはあるものを絶対視して)信じたっとぶこと。そのかたく信ずる心」とあるが、こんなに信仰を広げるとますます分からなくなる。困ったなぁと思ったが、この御言葉が書かれているのは聖書なのだから、信仰の対象は聖書の神、それも新約聖書なのだからキリストの神にしぼっていいのだと気づいた。次に「望んでいる事柄」とは、まさか私が自分勝手にあれこれ望んで、それを確信することが信仰ではないだろうから、望んでいる事柄とは、神様が人間に与えようと望んでおられる事柄に違いない。先に神様の「与える」という約束があって、それを確信して待ち望むのが信仰であるというと、少し分かるような気がする。見えない事実を確認するとは、見えないのに見えるもの以上に確かにわが内で認識できること。それが信仰だというなら、神様は目に見えないけれど、私にとっては目に見える人や物よりはるかに確かな存在なのだから、これが信仰なのかと少し納得。

 

 こんな風にいろいろ思いめぐらしていてもらちがあかないので、それではと内村鑑三全集の索引でヘブル書を探すと「ヘブル書11章の研究」を発見。20巻113pを開いてみると、「ヘブル書11章の研究」は副題で、「アブラハムの信仰」となっている。ともかく読み始めて、さすがに分かりやすい説明に感動。まず、

 

 人が救われるのは信仰による、行いによらない。その意味においての信仰は信頼である。おさなごの心をもって神に信頼し、疑わないでその恩恵にあずかることである。

 しかしながら、信仰の意味は信頼だけでは尽きない、信仰は確信である、忍耐である。パウロはおもに信頼の意味においての信仰を唱えた、そして新約聖書の他の記者によって信頼以外の意味においての信仰が唱えられたのである。ヘブル書記者の唱えた信仰は、パウロの唱えたものとは少し趣を異にする。彼は言うた。

 1節、それ信仰は望む所を疑わず、いまだ見ざる所をまこととするものなり

 

 そして、この11章1節を「これはすこぶる難解な一節である」として、異なる解釈も含めて、それをもし今日の言葉でいうなら、「信仰は希望の基礎、霊界の確認」と簡約してみせて、「しかしこのように訳しても、ヘブル書記者のいう信仰が何であるかをはっきりすることは出来ない、11章全体がこの一節の注釈であるのである。」と、ヘブル書11章の研究を書き始めている。

 ええっ、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」という、この一節だけを正確に知りたいと内村全集を開いたのに、「11章全体がこの一節の注釈である」と言われては後ずさりしそうになるけれど、この一節だけですっきりハッキリ理解したいと思った安易さに、自分の信仰の安易さが指摘されたような気がして、ここで止めてはいけないと読み進める。(ここからは聖書の言葉は新共同訳を用います)

 

 2節、「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」

 昔の人たちとは、アベル、エノク、ノア、アブラハム等を指しており、この人たちは信仰によって義者として証せられた。ガラテヤ書3章6節に「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」とあるのはこのことであり、イスラエルの先祖たちがその義を認められたのは彼らの信仰によってである。

 3節、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」

 「この世界」は、宇宙万物。「神の言葉によって創造され」とあるが、「言葉」は言語に限らない、すべて内より外に現れるものは言葉である、神はご自身の中に無限に保有なさる力を外に現されて、天地とその中にある万物とを造られたということである。

 見えるもの 見えないものを哲学の言葉で言えば、「現象」と「実体」である。宇宙万物は実体の外に現れたものであって、現象の中に(上に)、感覚器官によっては感じることのできない実体があるとギリシャ哲学では言う。非哲学的なイスラエル人は現象、実体とは言わないで、見えるもの、見えないものと言うた。見えるものは「この世界」であり、パウロの言う「被造物」であって、目で見て手でさわることのできるもの。それに対して見えないものがあり、それがすなわち神であった、霊であった、生命であった、霊の世界である来世であった。パウロはその二つを対照して言った。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」2コリント4:18

 見えるものは見えないものによって造られたことを、わたしたちは信仰によって、本能的に知る。信仰はイスラエルの民に限られた能力ではなく、人類共通の本能性である。

 ヘブル書記者は一節で、信仰とは何であるか、「信仰は希望の基礎、見えないもの証明」と言い、二節で「イスラエルの先祖は信仰によって神に認められ」信仰こそイスラエル国建国の精神であると述べ、三節では「われら人類全体は、信仰によって宇宙万物が神の力によって造られたことを知る」と信仰の人類共通性をのべている。

 このように1節から3節で、ヘブル書記者は信仰概論を述べ終わり、こらからイスラエルの歴史に現れたる信仰の実例、ならびにその諸方面について語ろうとしているのである。

 

 ここまで内村の文章を要約しながら引用してきたが、やっと3節。信仰概論を述べ終わった所で「福音」の紙面はお終い。この後の、感動的なアブラハムの信仰については内村全集でお読みください。ご希望があればコピーしてお送りします。

 さて信仰の現象はいろいろな形をとるが、信仰の実体は一つ、一心に神様を信じること。そこからすべては始まるのだと思うと、神様がいよいよ慕わしく天の御国がなつかしい。