福音 №343 2016年12月

神の民

 1968年・・・この年の12月9日、バルトが亡くなる前夜に、60年来の友人トゥルンアイゼンは、バルトに電話をかけた。彼らは、互いに世界情勢について、心を暗くするその危険や困難について話しあった。最後に、この談話を打ち切ったバルトは、話し合われた憂慮にたいして、トゥルンアイゼンを勇気づけてこう言ったのだ。

 

 「さあ、意気消沈だけはしないでおこうよ!なぜなら、治めていたまう方がおられるのだから。ーーモスクワやワシントンや北京だけではない。全世界を、まったく上から!天から、治めていたまう方がおられる。神が統治しておられるのだよ。だから僕は恐れない。どんな暗い時にも、にもかかわらず僕たちは確信しつづけようではないか!希望を失くさないようにしようよ。すべての人にたいする、全世界にたいする希望を!神は、私たちが滅びるままに委せられはしない。私たちのうちのただの一人も、私たちみなをすべて滅びさせはしない。治めていたまう方がおられるのだよ」(クーピッシュ『カール・バルト』)p243

 

 宮田光雄著「カール・バルト 神の愉快なパルチザン」を本屋さんでふと手にとって何気なく買って、読み始めて、難しいなあと思いながらも所々、闇に輝く星のようなさやかな光にひかれて読み進めてきて、終章「治めていたもう方がおられる」に、上記のカール・バルトの言葉を見つけて、この数行のためにだけでもこの本を読んで良かった!本当に良かった!と言いしれぬ喜びに満たされた。

 

 折しも、遠くに住む友人から送られてきた「野の花 森田典子記念文集」を読み終えて、そこに記されていた典子さんの父親の「あとがき」にある

 「これは、最重症の脳性マヒの子をもった不幸な両親の苦しい戦いの記録ではない。その愛する者の生と死をとおして、福音の喜びにふれ、イエス・キリストをより深く知ることを許された幸いな者たちの証であり、共同の讃美である」

 「典子の生と死を想うとき、そこに私たち地につける人間の想いを超えたある天的な現実が、鮮やかに映しだされ、指し示されているのを、感じずにはいられない。そうした『天の香り』とでも呼ぶほかないようなあるもの、それを典子の生涯の具体的な記述をとおして、いくらかでもお伝えしたい、あるいは感じとっていただけたら」

 という数々の言葉が、バルトの「『世の出来事の中にある神の民』は、この世を『別の新しい光』の中に見るのである」という言葉と重なって、私の限りなく平凡な日常に天からの光が射しこんだように、打ち震えた。

 

 「キリスト者は、自分たちの享楽や名誉のために(世から)孤立した少数者であるのではない。それは、彼らがそこへと立てられているあの奉仕を遂行するためなのである。彼らに顕された神のもろもろの業に関して、(すなわち)神がイエス・キリストにおいてご自身と世のあいだに立てたもうたあの《契約》・《和解》・《平和》に関して証言するためである。世は、この証言を必要としている。この証言の内容で重要なのは、世の救いなのである。この証言を世のただ中で響き渡らせるために、キリスト者は派遣されており、義務づけられており、また選び出されているのである。」

 「彼らの存在そのものが、公共的・社会的な性格をもっている。・・・そのことが一般大衆や社会によって注目されたり、承認されたり、評価されたりしようがしまいが、そんなことはなんら重要ではない。彼らは、人間歴史全体の結びつきの中で、そのまったき特殊性をもちながら、けっして華々しい人物でもなければ、天才的な神童でもなく、たしかに奇跡の行者でも、世の変革者でもない。だが、彼らは自分たちに委託され命じられている任務を担わされてるのだ。彼らは、あの万物復興の秘儀と奇跡に関する使信を伝えるために不可欠な使い走りの小僧っ子や小娘っこなのだ」p261262

 

 典子さんの、この世での11年10ヶ月はまさに、神様にとって不可欠な使い走り、小娘っことしての日々であったのだ。ご両親の天的なとも思える愛と、周りの方々の祈りによって、典子さんは神の小娘っことしての任務を果たし終えて天に帰っていかれた。

 

 キリスト者であるとは、自分だけの私的なことではなく、神様によって、この社会一般大衆のただ中に置かれた公的な存在なのだと知らされて、目を覚まされる思いがする。

 キリスト者とは、何を為すより、どこの誰であるより、キリストを信じる者としてこの世にあり、キリストの救いを生き、キリストを歓び祝う者。

 自分の人生、自分の価値、自分の考え・・・人は、どんなにか自分に縛られていることか。そして、その自分の思い通りにならないことを不幸と言い、不運であると嘆く。神様を信じても、自分の信仰は弱いとか、足りないとか、こんな自分はやっぱりダメだとため息をついたりする。しかし、自分自分と、自分に集中している限り真の自由も平和も歓びもやって来ない。なぜなら、真に善きものはすべてキリストにあるのだから。キリストを思わないで、自分を思っていてどうして自由になれよう。キリストを求めないで、自分を求めていてどうして平和であり得よう。キリストを喜ばないで、自分だけの喜びを求める者に、どうして真の喜びが与えられよう。

  わたしは主によって喜び楽しみ

  わたしの魂はわたしの神にあって喜び踊る。

  主は救いの衣をわたしに着せ

  恵みの晴れ着をまとわせてくださる。(イザヤ61:1110

 

 神様を信じるとは何と幸いなことだろう。人間を救うためにその独り子、イエス・キリストを与えられた神。これまでの人生がいかようであれ、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」と言われるキリスト。ご自身の手に釘打つ者に「父よ、彼らをお赦しください」と祈られるキリスト。このキリストをわが主と信じ、今日一日を生きる。自分で生きているように思っても、すべては神様の御手の中なのだから。

  あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。(ピリピ2:13-14

 たとえつまずきながらでも、立ち帰り立ち帰りキリストに従い行くなら、私たちはみな、キリストのための使い走り、神の小僧っ子や小娘っことして、御国のために用いていただける。これほどの幸いがどこにあるだろう。

数度勝茂様

いつもありがとうございます。

急に寒くなってきましたが、お変わりございませんか。

どうか主のお守りの中、平和な年末年始でありますように。