仕えるという生き方
福音335 2016年4月
「仕えるという生き方」
水曜集会でマルコ福音書を学んできたが、8、9、10章とイエス様がご自分の「死と復活」を3回予告されていて、その予告の後には3回とも重要な戒めが続いていると教えられた。学びの後の感話で、若い姉妹が「私はこの3つの戒めをしっかり守っていきたいです」と言ったので、へぇーっと感心し、これは私もこの3つの戒めを頭にたたき込まなければと思った。それで、事ある毎にこの戒めを思い出すようにしているのだが、
第一回目の予告の後には次のように語られている。
わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、
自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
2回目の後には
いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、
すべての人に仕える者になりなさい。
3回目の後にも、
あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
とある。よく読めば、3つとも同じことが言われているのが分かる。要するに、イエス様に従うとは、この世にあって自分の満足や自己実現を目的とするのではなく、自分を捨てて他者のために生き、他者に仕える者になれというのである。
こう書きながら強く思う。これがイエス様の言葉でなく、他の誰かの教えや最高の人生訓で、そう生きれば100パーセント成功しますと保障されても、私はそのように生きたいと願うことはあるまい。ではなぜ「自分を捨てて従え」とか「すべての人の僕になれ」などという理不尽とも思える言葉にこれほどまでに心ひかれるのか、それはイエス様のお言葉だから。3度目の「仕える者になりなさい」という言葉に続いて、イエス様ご自身が次のように言われている。
人の子(わたし)は仕えられるためではなく仕えるために、また、
多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。
そうか、イエス様の言葉がこれほど慕わしいのは、その言葉がイエス様の生き方(死に方)そのものであり、それこそ私たちの歩むべき道であり、求めるべき真理であり、生きるべき命であると、ご自身の命をもって証しされたからなのだ。そうか、イエス様というお方を知れば知るほど、その言葉が真理であることがわかり、その言葉に従うことによって人は真に生きるのだと分かってくる。
このところ「はじめてのボンヘファー」という本を読んでおり、「他者のために存在する」イエス、という言葉にいたく感動したので、その部分をここに書いておきます。このような抜き書きでは分かりにくいと思うので、分かりにくかったら飛ばしてください。
神とは誰なのか。まず第一に神の全能といった一般的な神信仰を言うのではない。それは真の神経験ではなく、この世の延長の一部である。イエス・キリストとの出会い。ここですべての人間的存在の逆転という経験が起こる。それは「イエスがただ他者のためにそこにおられる」という事実において与えられる経験である。イエスの「他者のための存在」こそが超越経験なのである。ご自身からの自由、死に至る「他者のために存在する」ということ。ここから初めて、全能、全知、偏在も起因するのである。信仰とは、このイエスの存在(受肉・十字架・復活)にあずかることである。・・・神に対する私たちの関係、イエスの存在にあずかることを通して「他者のために存在する」という新しい生である。超越的なものとは、無限の、到達不可能なもろもろの課題のことではなく、その都度与えられる手の届く隣人のことである。p172
「『他者のために存在する』という新しい生」、それがパウロの言う「古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け」る、ことなのだと知らされるとき、イエス様の「仕える者になりなさい」との言葉こそ、新しくされた者の生き方なのだと、その言葉が真に迫ってくる思いがする。
「仕える」という言葉を思っていると、いろいろな場面が浮かんでくる。
イエス様が荒野でサタンの誘惑を受けられたとき、「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」マルコ1:13とある。そうだ、天使も神に仕えるための存在だった。
12才のイエス様はエルサレムの神殿で、ここが「自分の父の家」と言われながら、「ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった」ルカ2:51とある。幼き日からイエス様も、仕えることを学ばれた。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」マタイ6:24イエス様のお言葉は鋭い。うわべはいかようであれ、心底を問われる。
パウロがエフェソの人たちに告げた別れの言葉。読む度にパウロの心が迫ってきて、ここにパウロのすべてがあると思ってしまうのだが、「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました」パウロのすべては、主にお仕えすることだった。
命をかけて文字通り主に仕えたパウロはまた、仕えるということは特別な伝道者に課せられた務めではなく、ごく普通の私たちの日常であるべきだという。
「互いに仕え合いなさい。」「主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい」「人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい」エフェソ・コロサイ
このように少しでも深く思いめぐらせていくと、「仕える者になりなさい」と言われたイエス様の単純なお言葉が、春の日ざしを受けた若葉のように輝き始める。
御言葉は確かに生きている。