福音 №337 2016年6月

神は愛 幸いなるかな

 

 「この度の熊本地震はほんとうに衝撃的な出来事でした。永遠の御国を思うこころが、いやがうえにも高まります。いずれこの世は滅びるのでしょうか、イエスのことばはひびきます。悔い改めなければ、みな同じようになる・・・と」

 熊本地震の後、周りのビニールシートの屋根に心痛めながら過ごしておられる友の手紙は次のように続く、

「キリスト者としては当然の思いであることを書きたててもどうにもなりませんが、ただ神は愛である ということだけは土台ですね。またあたりまえのことを書いてすみません」

 「神は愛であるということだけは土台ですね」との言葉に胸が熱くなる。地震でどんなにひどい目にあっても、壊れた家の前に立ち尽くしても、「神は愛である」という土台はビクともしない。キリスト信仰に生きるとは、こういうことなのだと思う。それも誇らしげにではなく「あたりまえのことを書いてすみません」とひそやかに。地震の後に送ってくださったご自身の写真、その下には「老いさらばえてはいますが、希望と喜びがあります」と書かれていた。神様は愛、と信じ抜く恵みは計り知れない。

 

 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。

 

 水曜集会で「ルカによる福音書」を学び始め、6章まできた。1章の書き出しに「わたしたちの間で実現した事柄(キリストの福音)について・・・わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました」とあるように、なるほど順序正しい感じがして、その流れにのって読み進めていくと一筋の道を行くようによく分かり、ともかくこの福音書は、私にぴったりだと感じる。一つの福音書に対してこんな心持ちになったのは初めてで、ちょっとうれしい。


 

 ◆幸いと不幸

さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。

「貧しい人々は、幸いである、

神の国はあなたがたのものである。

今飢えている人々は、幸いである、

あなたがたは満たされる。

今泣いている人々は、幸いである、

あなたがたは笑うようになる。

人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。

しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、

あなたがたはもう慰めを受けている。

今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、

あなたがたは飢えるようになる。

今笑っている人々は、不幸である、

あなたがたは悲しみ泣くようになる。

すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」6章20~26節

 

 今日学んだこの箇所は、マタイによる福音書5章3~12節と重なるが、そしてマタイの「心の貧しい人々」という方が断然よく知られているけれど、このルカの記した「貧しい人々」という素朴な言葉がスーッと入ってきて、これこそ福音だと喜びいっぱいになる。われらが主、天下の救い主イエス様が「貧しくていい、いや貧しい者こそ幸いだ」と言ってくださるのだ。もしイエス様が「貧しいことは辛いから、飢えないように、泣かないように常日頃蓄えておきなさい。信仰も大事だけどこの世ではお金も健康も大切だからね」なんて言われたら、お先真っ暗。だって人は皆、いつ何時貧しくなるか分からない存在なのだ。今日は健康でも明日は病院のベットの上かも知れない。財産があるから大丈夫と思っていたら、一番大切なものがないことに気づくかも知れない。でも、イエス様のこのお言葉がある限り大丈夫。何もかも失って、ああ自分には何にもないって気づいたとき、そこにイエス様がいてくださる。「神の国はあなたのものだ」と言ってくださる。苦労の向こうに光が見える。これがイエス様の約束された平安なのだ。与えられて感謝、失って幸い、人生ってやっぱり素晴らしい。

 後半の富んでいて、満腹していて、笑っている人たちの不幸について。富むこと、満腹すること、笑うことが悪いのではないだろう。特に「笑う角には福来たる」と言うくらいだ。ここで言われているのは、神様イエス様なしに満足して暮らしている人たち。神様イエス様を知らなくても、私たちは富んでいる、満腹している、ほらこんなに笑っている、私たちは人生の勝ち組だと安心している人たちに、「あなたたちはもう慰めを受けている」とイエス様は言われる。神様に造られた人間が神様を知らないままで満たされることなど決してない。人生絶好調の時でも、私は満ち足りていると思い込んでいるときも、その人の一番深いところは飢え渇いている。死と滅びの一歩手前にすぎない。それが神の似姿に作られた人間の現実なのだ。

 そのことに気づいて一刻も早く神様に立ち帰るように、あなたを死と滅びから救うために、その独り子(イエス)を与えた神の愛を信じるように。その愛さえ拒んで自分を誇っているなら「あなたがたは不幸である」とイエス様が言われる。

 

神は孤独な人の身を寄せる家を与え

捕らわれ人を導き出して清い所に住ませてくださる。 詩編68:7