福音 №338 2016年7月
「天に富を 人間と同じ者に」
イエス様がおられる
それが福音
イエス様を信じて生きる
それが正しさ
イエス様を信頼する
それが平安
イエス様と共に
それが喜び
イエス様を知ること
それが人生
◆「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」マタイ6:19~21
「富を天に積むって、どういうことですかねえ。人を助けたり、何か善い行いをすれば、天に積むことになるんですかねえ・・・。」「さあ、どんなことをすれば、いいのかなあ。
」「でも、それって、何かおかしいよねえ、善い行いをする度にポイントアップなんて。イエス様のお言葉だもの、そんなものではないって気がするね。」 聖書を読みながら3人で考え込んだ。若い人たちと一緒に少しでも御言葉の深みに分け入っていくことはとても楽しい。聖書は間違ってはいけないので正しい解説が必要だとも言われるが、先に正しい答えが与えられて、その答えに黙って従うだけは何かしら味気ない。何よりも、自分たちがイエス様ご自身から聞いたんだという感動が生まれない。「富を天に積む」って、口語訳では「天に宝をたくわえなさい」となっているけれど、さてどういうことかと、3人で頭を寄せ合って何度も読み返し、ついに最後の「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」という御言葉に着目。「そうか、富と心は同じ所にあるんだ。」「だとしたら、富を天に積むって、心を天に向けるってことじゃないかなあ。」「地上に富を積むってことは、天を見ようともせず、地上のことばかり思ったり考えたりしてること。」「何をしていても、心を天に向けて、神様を思ってするなら富を天に積むことになるんだ、きっと」。会話の進展に「なるほど!」と感心しながら、「神様を仰いで、藁一本拾っも善い働きだ」というような言葉を思い出した。ルターの言葉だったように思うけれど、どうして藁一本なのかよく納得できないまま、ともかくどんな小さなことでも、神様を見上げてすることが善いのだろう・・と、その言葉が妙に心に残っていた。3人で祈りながら心を合わせて見つけた答えが、ルターと同じだったら、これはすごい。
◆「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」ヨハネ14:26
無学な私たちでも恐れることはない。聖霊様が教えてくださる、気づかせてくださる、助けてくださる。
◆「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」マタイ18:20
本当だ、イエス様のお心を知りたいと集まって聖書を読んでいると、「日々の生活で、何よりも大切なのは心を天に向けること、神様を求めること、イエス様と結びついていること」だと、イエス様のお心が分かってきた。
◆詩編130編
深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
主よ、この声を聞き取ってください。
嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。
主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら
主よ、誰が耐ええましょう。
しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。
わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。
わたしの魂は主を待ち望みます
見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして。
イスラエルよ、主を待ち望め。
慈しみは主のもとに、豊かな贖いも主のもとに。
主は、イスラエルを、すべての罪から贖ってくださる。
月に一度の集まりで、今日はピリピ書2章を読んだ。キリストの謙遜を描いた、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」の御言葉から話されたSさんの感話が、今も心に響いている。
「『人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。』とあるけれど、イエス様は『人間と同じ者になられた』とあるのだから、私たちと同じ人間になられたイエス様が、安々と病気を癒されたわけではないと思うんです。『わたしは自分では何もできない』と何度も言われているように、神様を一心に仰いで、祈りに祈って、神様の力をいただいて、ご自分の身を削りながら癒しの業をなされたのだと思うと、胸が痛くなります」と。
どんな奇跡も、癒しのわざも、イエス様は神の子なのだから、出来て当然、イエス様はどんなことでも出来るお方だから何でもお願いすればいい、と言うのはちょっと違うなと思う。私たちの罪を負うためには、神の子でありながら私たちと同じ人間となられねばならなかった。イエス様を思うとき、その低さをこそ忘れてはならない。どんな罪人よりも低くなって、その罪を負われた十字架の御姿を思うとき、「何事も、不平や理屈を言わず行いなさい」とのパウロの勧めが、イエス様に学ぶための愛の言葉だと分かってくる。