福音 №346 2017年3月
「わたしはここにいる」
今日は何か不思議なことを実感した日だった。4人での月一回の聖書集会で、最後の祈りの時祈っていて、これらすべてを力をもってなしておられるのは‘‘主だ‘‘とありありと感じて、人間が薄れていき、主が生きて働かれるのが分かった。人間の浅い思いつきや言動も、それが主から出たことであれば、主が成し遂げられるのだと。
主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。
主はこの地を圧倒される。
「力を捨てよ、知れ
わたしは神
国々にあがめられ、この地であがめられる。」
み言葉の真実が天にも地にも響き渡る、静かな夜,
主は今も、一人一人のすぐそばに立ち、「わたしだ」と心の戸を叩かれる。
友人からのうれしいお便り。
「昨日の聖日、こちらは朝から雪が降っていて、空は雪雲で暗く、いよいよ冬本番かと思われましたが、私は祈りました。そして、応えていただきました。バス停までの10分程歩く間、雪は止み、バスを待つ間、空を見上げていたら、雲が吹き払われたように青空が広がっていったのです。そして、雲間から太陽が照らしてくれたのです。私はイザヤ65:1
「わたしはここにいる、わたしはここにいる」
と、父なる神の御声が青空から降ってくるように思えて、何とも楽しく嬉しくなりました。
神はわれわれと語り給う。彼は考え得る限りわれわれの近くに来て、いわば一人の友人が語るように「見よ、わたしだ!君はもうわたしのことを覚えていないのかい。わたしが君にどんなに好意を持っているか、君は知っているだろう!」と言い給う。
ある時にはこちら側から、またある時にはあちら側から、神はご自身をわれわれに示し給う。彼の静かに迫ってくる語りかけによって、ある時はわれわれの心情が震撼させられ、ある時はわれわれの良心が驚かされ呼び覚まされる。ある時はそれは、おそらくそれ自体としては取るに足りない生活の一要件において、ここかしこに輝く小さな光であり、ある時はそれは、どんな高い山をも登り、そこからどんな深い谷にも流れ下り、どんな片隅をも日陰にしない大いなる明るさである。神はそのように無限に多様な声で語り給う。それにもかかわらず神はわれわれに常に同一のことを為そうと欲すのである。神は、それにおいてわれわれに全てのことが与えられるような、唯一のものを与えようと欲し給う。彼は、われわれの生が美しく豊かになり、永遠の生になるために、われわれを御自身と結びつけようと欲し給う。彼はわれわれに、御自身が一切の者より偉大であるというあの深い内的な認識を、つまり、われわれを全く確実に自由に、強く、至福にするほかはないその認識を、与えようと欲し給う。(カールバルト説教選集4 p213より)
「彼は、われわれの生が美しく豊かになり、永遠の生になるために、われわれを御自身と結びつけようと欲し給う。」
何とうるわしい表現だろう。そう、私たちは神様と結びつくときにだけ、真に美しく豊かな日々を、永遠に生きることになる。イエス様も言われた。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。・・・あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」ヨハネ福音書15:5-7
「彼はわれわれに、御自身が一切の者より偉大であるというあの深い内的な認識を、つまり、われわれを全く確実に自由に、強く、至福にするほかはないその認識を、与えようと欲し給う。」
そうなのだ、私たちが神の偉大さに圧倒されて、
主よ、わたしたちの主よ あなたの御名は、
いかに力強く 全地に満ちていることでしょう。
あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。
月も、星も、あなたが配置なさったもの。
そのあなたが御心に留めてくださるとは、
人間は何ものなのでしょう。
と告白するときに満ちてくる、あの自由と喜びを与えてくださるのは神なのだ。
これを書いていると、信仰の友からの電話で、「異なる信仰を持つ人から、強く激しく折伏(しゃくふく)されて、私、ステパノのように理路整然と信仰を語ることはできなかったけれど、でも、私は神様を愛してる、自分なんてふっと吹けば飛んでしまうような者だけど、でも神様によって強くされて喜んで生きてるんですって、子供のように一生けん命言っていると、何だか喜悦が込み上げてきて、ああこの喜びがあれば、この人からどんな酷いことをされても赦せるなって思って、うれしかったです」とのこと。生きた信仰の証しを聞くのは本当にうれしい。
〇わたしたちの心が疲れ果て、絶望し、そして主に向かい、「わたしのすべてを支配してください」と呼びかけるのを、神の愛はどれほどの切ない思いで待っていることか・・・。夜見るいかなる幻もそれを示すことはできない。どんなことばもそれを語ることはできない。
神の愛がわたしたちの心を満たすようにと、懇願する必要はない、まるでそのことを神が願っておられないかのように。そうではない。神は願っておられる。光の輝きを迎えようとして開け放たれた部屋に、光の洪水が押し寄せるように、乾ききった川底に、奔流が押し寄せるように、神はわたしたちを満たそうとしておられる。愛はまるで空気のようにわたしたちのまわり全体に押し寄せているではないか。あらがうことを止めさえすれば、その時すぐにも愛はわたしたちのうちに溢れる。
エミール・カーマイケル「カルバリの愛を知っていますか」より