福音 №351 20178

「赦されるということ」

 

「誰をも非難しないこと、人を非難して良いことなんて何にもないからね。」その人の落ち着いた言葉は妙に透明感があって、ああやっぱり私が間違っていたのだと心の奥深くが晴れていくのを感じた。自分では非難しているつもりはなく、単に相手の間違いを指摘しているのだから私は正しいと思っていたのが、「非難している」と言われてやっと自分の過ちに気づき、自分は正しくなかったのだと気づくと、やわらかな優しい気持ちになっていくから不思議だ。後で「非難」という言葉を辞典で調べると「欠点やあやまちなどを責めとがめること」とある。そうか、「非難する」は「赦す」の反対なのだと、2度納得。

 

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」マタイによる福音書18:2135

 

このたとえ話を読んで、いつも不可解に思うのは「借金を返すまでと牢に入れた」という言葉。牢に入れられて、どうして借金を返せるだろう。しかし主君もまた「借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した」とある。牢の中で借金が返せる訳がない。借金を返させるには、何が何でも働かさなければと思ってしまう。でもこれは最初に「天の国は次のようにたとえられる」とあるから、このように理屈っぽく読んではいけないのだろう。現代でも罪を犯せば牢に入れられるように、ここでの借金は罪で、牢に入れるとはその罪を償わせることだと思えば納得がいく。なるほどこのたとえ話の発端は「罪を赦す」ということについてであった。牢に入れるのは自由を束縛して苦しみを与え、その苦しみを通して自分の罪の重さを自覚させるということだろうか。

王は神様。1万タラントン(注解書によって違うが約数百億円)もの借金を返せるはずもないのに「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と言い逃れをしている家来は私。憐み深い神様は、自分の罪の重さもわからないまま必死に言い逃れをする私を、何の罰も与えないで無罪放免にしてくださった。でもどうもこれが良くなかった。神様のなさり方が良くないのではなく、私にはその驚くべき恵みが分からなかったということ。あまりに簡単に赦されたものだから、その時はもちろん大喜びもし感謝もしたが、自分が赦されたということなどすぐに忘れて、人の欠点や過ちを見ると相変わらず責めずにはおられない。なるほどこれは良く分かる。そしてその度、「心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」との御言葉どおり、人の過ちを責める度に、私も牢に入れられ(心の自由を奪われ)苦しむことになる。そのことのくり返し。

愛とは、人を責めないことが基本、そしてそれが一番難しい。

 

主の祈り(マタイ6:913)5番目も「赦し」について。

わたしたちの負い目を赦してください、

わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。

「負い目」とは「返さなければならない借金・負債。また、果たさなければならない責任」。なるほど、負い目を罪と一言で言ってしまうと、抽象的で実感になりにくいが、日々の生活の中で具体的に、たとえば、「今日果たさなければならないあなた様への責任を私たちは果たせていません。どうかお赦し下さい。私たちも、私たちに責任を果たさない人を赦しましたように」とすると、現実的になる。というのは、私がつい最近陥った過ちも、相手が当然の責任を果たさないということへの苛立ちからだった。自分は神様への責任など何ひとつ果たせないのに、それでも赦されて神の子とされたという驚くべき恵みを忘れて、「どうしてそれくらいのことができないの」と相手を責めていた。そして、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」とのイエス様のお言葉通り、その人を赦せないという事実が、神様に赦されていないという自分の本当の姿に気づかせてくれた。

 

 人を責めるとか赦すとか、神様に赦されるとか赦されないとか、そんなこと大した問題じゃないなど考えてはいけない。イエス・キリストは私たちの罪を赦し、取り除き、永遠の命を与えるためにこそ、この世に来てくださった。神の御子が命をかけてなしてくださったことを軽く考え、その真意を知ろうとしないなら、私たちの人生はどこまでいっても見せかけの、あいまいな、時と共に移ろうものでしかあり得ないだろう。

「キリストによる罪の赦し」が真実であるか否かは、一人一人が自分で実証してみるより他はない。そのために神様はいろいろな難しい人と出会わせてくださる。難しい人と出会ってゆるせない自分に気づけば、ゆるされていない自分を正直に認めて、「主よ、おゆるしください」とキリストの十字架にすがる。そして、確かにゆるされた喜びに満ちあふれても、またいつしか人を責める自分がいる。昨年のクリスマスに聞いた金牧師の「しぶといよ、罪はしぶとい、われわれ人間はしぶといよ」との声が聞こえてくるようだ。でも大丈夫。罪がしぶとければ、それだけ強く主にすがればよい。十字架に贖いえない罪はない。主は必ず、誰をも責めず、誰をも裁かず、どこまでも忍耐強く愛して止まぬ者に、私たちを造り変えてくださる。イエス様に似た者に造り変えてくださる。ハレルヤ。