福音 №365 2018年10月
「開かれた窓」
指が痛くて整形外科に行って、帰ってきてひと休みとテレビをつけると、映画をしていた。何となく迫力があり引き込まれるように見て、途中でテレビ番組表を見ると「天国と地獄」という、子どもが誘拐されてそれを追う刑事ものの映画だった。50年以上前の映画で、犯人を許せない刑事が、犯人を死刑にするためにもう一度犯行を犯すまで捕まえないで泳がせるという、今では考えられないストーリーもあったが、途中から見たせいもあってなぜ題名が「天国と地獄」なのか分からなかった。最後に刑務所で、犯人と子供を誘拐された靴会社の重役(子供は運転手の子だった)が面会する場面でやっと納得したが、苦しみを抱えた犯人が住むぼろアパートの一室が地獄で、そこから見える丘の上のモダンな邸宅、そこに住む重役の生活が天国ということなのか。ともかく、自分の不幸を嘆く者が、豊かに幸せに見える者を憎み、妬んでの犯行だったようだが、最後に「俺は悔改めたりしない、死刑も恐れてなどいない」と金網に掴みかかり狂ったように絶叫する犯人の姿が印象的だった。それと映画の中で麻薬中毒者が苦しみもがく姿に、これが地獄かと思ったりもした
映画を見たり、新聞の記事を読んだり、その度に思うのだが、悪いと言われる人はどうして悪いことをするようになったのだろう。生まれ育った環境のせいもあるのか、自分で考えたり努力するだけの能力がなかったのか、・・・反対に良い人と言われる人は、たとえ劣悪な環境でも、真っ当に生きようと努力したから良い人なのか、それとも優しい人たちに囲まれて悪いことをする必要がなかったのか。人の性格が良いとか悪いとかもある程度は生まれつきなのだろうか。どこからどこまでが本人の責任で、その人の罪はその人一人だけのものなのか、それとも罪にも連帯性があって、私の存在が誰かに罪を犯させるということもあり得るのだろうか。考えれば考えるほどわからなくなる。
そんな理不尽としか言いようのない人の世で、良い人にも、悪い人にも、能力のある人にもない人にも、世に貢献している人にも、役に立たないと疎まれている人にも、いくら苦労しても報われない人にも、嫌々生きている人にも、死にたいと思っている人にも、すべての人に開かれた窓がある。いつの時代にも、闇の力が横行し真の解決などないこの世に、その闇を突き抜けて開かれた窓がある。窓の向こうは、どこまでも自由な神の世界。
すべての人は、この自由と喜びに満ちた世界に招かれていると、この窓を開いてくださったイエス・キリストを信じる者は誰でも永遠の神の世界に生きることができると、このたった一つの真実を伝えるために、さあ、今月も福音を書こう。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜なものだから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
マタイ福音書11:28~30
私はこの頃、このイエス様の言葉を一日に何度も暗唱する。部屋の中で、道を歩きながら、どこでもいつでも、声に出して言う度に、「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と、本当にイエス様が言っておられるのがわかる。ともかく、神の言葉というのはすごい! 「一つ聖句を暗記すれば、何百万の貯金をしたより価値があります」と教えてくれたおじいさんの柔和な笑顔とその教は、本物だった。神の言葉(イエス・キリストの言葉)こそ、この闇の世に開かれた窓であり、その窓の向こうは永遠の神の世界。
さあ、天を見上げてご一緒に、イエス様のお言葉に聞き入ってみませんか。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と、このイエス様の言葉は決定的だ。私たち人間は、誰によっても、何によっても、真に安らぐことはできない。どんな新薬ができても死の前には無力であるし、どんなに品性を高めても罪の力から解放されるわけではない。そんな無力な私たちに、イエス様が言われる。「わたしが休ませてあげよう」と。
この「休み」とは、今までは、自分自身で身を守らなくてはならないとか、身を守ることができるとか考えていたのに、実は自分は守られているのだと知るようになること。これからどうなるのだろうという不安に一つ一つに備えて得る休み(安らぎ)ではなく、イエス様のお言葉を信じれば、このお方に守られているのがわかるようになる。「自分が守られていることを知っている者が、休みを持つのである!」
「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」「わたしに学びなさい」とはイエス様の「柔和と謙遜」に学ぶことに違いないが、「わたしの軛を負え」とはどういうことか。今回、やっと腑に落ちたように思う。
イエス様の負われた軛とは私たち人間、私たちの罪、私たちの悲惨。イエス様が十字架で負うてくださったその重荷を、再び私たちに負えと言われるのだろうか。いや、そうではない。イエス様はご自身の命と引き換えに、私たちを買い取ってくださった。イエス様のものとされた私の生は、もはや私のものではない。私はイエス・キリストのもの。そうか、私は私のものでなく、柔和で心のへりくだったイエス様のものとされている、この驚くべき恵みこそ、私が負うべき軛なのだ。こんなありがたい軛がどこにあろう。
「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」この言葉を聞くだけでなく、言葉どおりのことが身に起こったなら、それが救われること。そのために、
イエス様のもとに行き
イエス様の軛を負い
イエス様の柔和と謙遜を学ぶ
他の誰でもない、イエス様だけが私たちを守り、神の世界に導いてくださるのだから。