福音 №366 201811

「貧しさについて」

 

私がイエス様に格別心ひかれるのは、イエス様はいつもいつも必ず、貧しい者の味方だから。福音書のどこを開いても、イエス様は、貧しいもの、弱いもの、小さなものの味方。「お金持ちで元気で長生きして、お前は幸せだね」なんて、どこにも書いてない。それどころか、イエス様は言われる。

「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」ルカ6:20

何と痛快な言葉だろう。お金がなければ不安でしょうがない私たちに、「来るべき神の御国は、あなたがた貧しい人々のものである」と。こんなとびっきりうれしいお言葉も、信じなければ絵空事だけれど、でも信じたとたんに、心は今日の青空のように晴々と、清く美しくどこまでも広がっていく。

 

イエス様が十字架につかれる2日前、ただならぬご様子を見抜いて、高価な香油を注いでさしあげた女がいた。それを「無駄使いだ、貧しい人々に施すことができたのに」と憤慨する人々に、イエス様はきっぱりと「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる」と言われた。

「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」とは、不思議な言葉だ。集まってきた男5千人、女も子供も合わせれば1万人以上の人に、十分なパンと魚を与え、すべての人を満腹させられたイエス様が、この世で貧しさの中にある人をどうしてそのままにしておかれるのか。しかし、この世ではいつの時代にも、おそらくどの国にも、富める人と貧しい人がいる。病気も、戦争も、その他の人間的な暴力行為も後を絶つことはない。

先月、人はなぜ事件となるほどの罪を犯すのか、というようなことを書いたら、ある人からハガキをいただいた。

「罪なんて、めぐりめぐってたまたまある人に発現するだけ、この世の幸も不幸もまたしかり。それを根底で支え、すべてを統治される神様のご配慮と愛の深さを知らされる幸いの方が、いかにリアリティがあることか」とあり、本当にそうだと思った。

貧困とは、おそらく人間の罪によって生じるものであり、だからこの罪の世にはいつも金持ちと貧しい人がいる。ハガキの人が言われるように、たまたまある人は貧しく、ある人は富んでいる。ところが、旧約新約聖書はどこを読んでも貧しい人、無力な人に味方している。

 乏しい人は永遠に忘れられることなく

貧しい人の希望は決して失われない。 詩編9:19

神は裁きを行うために立ち上がり

地の貧しい人をすべて救われる。詩編76:10

 

イエス様は賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていく中、小さな銅貨二つをささげる一人の貧しいやもめに目を留めて言われた。「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて入れたからである。」マルコ12:41-44

 この記事には、大勢の金持ちではなく、たった一人の貧しいやもめを慈しみ、正しいとされるイエス様のお心があふれている。

 

 永遠の命を求めてイエス様のもとに来た金持ちの青年に、「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。・・・それから、わたしに従いなさい」と言われた。財産を捨てる決心がつかず去って行く青年を見て「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われたイエス様のお言葉はよく知られている。マルコ10:23,25

 

金に執着する人々の前で、貧しい人こそ神様のもとに行くのだと、具体的な話もされた。  毎日ぜいたくに遊び暮らしていた金持ちと、その門前に横たわってお腹を空かせていたできものだらけの貧しいラザロ。「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。」ルカ16:22-23

 

なぜこれほどまでに神様は貧しい人にお心を注がれるのか、・・・目を閉じて静かに聴き入れば、そうか、神を離れてしまった人間はみな貧しいのだ、自分の命ひとつどうすることもできないのだ。にもかかわらず人は自分の貧しさに気づかない。自分の力で生きていると、いつもどこかで思っている。リンゴを食べなければリンゴの味は分からないように、貧しさも身をもって味わわなければ、本当には分からないのだろう。お金で売り買いされた奴隷には、自分の貧しさが心底分かっただろうなと思う。なるほど、主の再臨の日まで、この貧しさという災いをこの世で引き受ける人たち(引き受けざるを得ない人たち)を、神様が見過ごしにされるはずがない。

だから神の子イエスは貧しくなられた。貧しい者の友となり、貧しい者といつも共にいるために、馬小屋で生まれ、十字架の上で極貧の中に死んで行かれた。イエス様は今も、飢えている者、家のない者、裸の者、病気の者、牢にいる者(マタイ25:35-36)の中に生きておられる。

そうか、人が老いて、病んで、死んでいくのは、自分の貧しさを知るために与えられた恵み、最後のチャンスかも知れないとふと思う。この世に頼るべきものは何もないと、貧しさを心底知った者だけが、「神の国はあなたがたのものである」と愛の御声を聞くだろう。貧しさこそ来るべき御国への隠された階段、イエス様が歩まれた道、侮るまい。

☆ペンが少し持ちにくくて、活字にしました。そんな時かなって、思います。