福音 №359 20184

「イースターの朝に」

わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。「わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」と。

                    ヨハネ福音書20:17

 桜の花びらがふりしきる雪のように舞うイースターの朝、復活されたイエス様の「わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方」というお言葉に聴き入っていた。復活されてなお、どこまでも人であろうとされるイエス様。私たちと同じ立場に立ち、弟子たちのことを「わたしの兄弟」と呼び、わたしの父はあなたがたの父、わたしの神はあなたがたの神、わたしたちは父なる神の家族なのだと言われる。ご自身お一人だけが真実神の子であられるのに、私たちを神の子とするために、人として生まれ、人の罪を負うて十字架で死なれ、人として復活されたイエス様。

  

 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れへりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

                     フィリピ2:68

 この低さこそ神の子である証しなのだと、これが真の愛の姿なのだと、一心に思う。

 

 イースター礼拝の日、聖書箇所はホセア書1011章だった。10章は「イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木」で始まるイスラエルの汚れた姿、「彼らの偽る心は、今や罰せられる」「わたしは必ず彼らを懲らしめる」と、神に背いたイスラエルの罪と処罰が預言される。ところが11章では「ああ、エフライムよ お前を見捨てることができようか。お前を引き渡すことができようか」と、苦悩される神様のお言葉。人が悪を行って罰を受け苦しむのは当たり前、ところが人が苦しむより、はるかに神様が苦しまれ、いくら待っても心の方向転換をしない人間に代わって「わが心はわがうちで向きを変え 憐みは一時に燃え上がった。」(関根訳)とある。そして続く。

わたしはわが怒りによって事を行わない。

わたしはエフライムをふたたび滅ぼすことはしない。

何故ならわたしは神で、人ではなく

君のただ中にいる聖き者だから。

滅ぼすために臨むことはない。

 

 「主よ」と感激の涙を流しても、すぐにだらけてしまう心。「命さえ捨ててくださった主の愛に答えさせてください」と祈りながら、気がつくと怠惰な時を過ごしている。そんな自分を思うと、どうしようもなくなるけれど、しかし、しかし!この私がどうであれ、神は神であり給う。「わたしは神で、人ではない」「君のただ中にいる聖き者」と言われる。常に揺れ動く自分によってではなく、この神の真実によって救われたのだと、「あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです」1ヘ°テロ1-21とのみ言葉を、一心に思う。

 

 

主はわたしの牧者であって、

わたしには乏しいことがない。

主はわたしを緑の牧場に伏させ、

いこいのみぎわに伴われる。

主はわたしの魂をいきかえらせ、

み名のためにわたしを正しい道に導かれる。

・・・・・・・          

 わたしを導いてくださるお方がいる。死に至るまで、いや死によってますますご自身のもとに引き寄せ、引き上げ、御国に住まわせてくださるお方がいる。

 

ヨハネによる福音書10章1~18節は、詩編23篇「主はわたしの牧者」の新約版である。それも、ここではイエス様ご自身が「わたしは良い羊飼いである」と語られるのだから、今までの思いや、羊飼いへのイメージなどをわきに置いて、イエス様の言葉に聴き入ろう。

 

イエスはまた言われた。「・・・わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる」10:1015

くり返し読んでいると、そうか羊は羊飼いのものであって、それ以外の誰のものでもないだと、羊は羊自身のものでもないのだと、分かってくる。造られた者は造ったお方のものであって、そうか、私は私を造ったお方のものであるからこそ、造ったお方は命をかけて救ってくださるのだ。

イエス様は、私たちの人生を滅ぼし尽くす狼が来ると言われる。その時、羊飼いでない雇人(人間はみな雇人に過ぎない)は何の役にも立たない。神を離れ、神に背いたゆえの無残な死と滅びから、人は逃れることはできない。狼は来る。

しかし、だからこそ、「わたしは羊のために命を捨てる」と言われ、十字架の上で、自ら狼の餌食となって助け出してくださったイエス様。雇人でなく、羊の持ち主、私たちの造り主。私たちは、このお方を信頼して、このお方に導かれて生きていく。これ以上の平安がどこにあろう。「わたしは良い羊飼いである」と、このお言葉を一心に思う。