福音 №360 20185

「マルコ福音書から」

 

緑の光いっぱいのゴールデンウイークも終わり、さあ5月の「福音」を書こうと思って、やっぱりまず聖書を読むことから始めようと、聖書を開いた。最初に書かれた福音書と言われ、そして一番簡潔で、一番短い「マルコによる福音書」は1~16章まで38ページ、味わいながらゆっくりと読み始め、読み終わって今、私は聖書の中でこの「マルコによる福音書」が一番好きだと思っている。

何がそんなに気に入ったのか。そこにはイエス様がいた。「イエスのいる風景」と書くと、思わず涙がこぼれそうになる。これが福音なのだと思う。聖書を読むことの何よりの喜びは、神様がおられる、イエス様がおられる、とはっきりとわかって心が燃えること。

読み終えて、この福音書の世界がこんなにも清々しく、こんなにも希望に満ち、平和と喜びを感じるのは、そこにイエス様がおられるからだとはっきりと分かる。ここに記された2000年前のユダヤの国も、今の日本も、人々の姿、その営みにあまり変わりはない。

 

湖のほとり、舟の中で網の手入れをする漁師、汚れた霊に取りつかれた人、不治の病にかかった人、罪にしばられて動けない人、友人のために必死に労苦する人、差別され嫌われている人、病気が治ると聞けば押し寄せる人、激しい突風にあわてふためく人、長患いのため財産を使い果たした人、愛する娘が死んでしまって泣き叫ぶ人、血筋や学歴で人を評価する人、食べ物のない大勢の群衆(今の日本に食べ物のない人は少ないかも知れないが、心が満たされず飢え渇いている人は数えきれないだろう)、口先だけで神様、神様と言い心は遠く離れている人、重複障害の人、真理の道を歩みたいがこの世の富に未練があって踏み出せない人、誰が偉いかと議論する人、宗教を商売にしてしまった人、立派な装いをして人々から挨拶されたがり上座、上席を望む人、貧しいながら精いっぱい真実に生きようとする人、人の苦しみが分かりできる限りのことをする人、愛する人を心ならずも裏切ってしまう人、正しいと分かっても保身のために折れてしまう人、相手の真実がわからず平気で唾を吐きかけ侮辱する人、等々。

マルコ福音書に登場する人の姿を次々とあげてみたが、どの人も今の世に関係のない人など一人もいない。書きながらドキドキするほど身近な人たちであり、それどころか自分自身の姿を見せつけられたりする。そして思う。もし、もしもこの人間模様の中にイエス様が登場されなければ、唯々この世の現実描写であり、そこには希望も平安も見いだすことはできないのだと。

 

◇舟の中で網を繕う日常に、「わたしについて来なさい」とイエス様の呼びかけを聞いた時、新しい人生は始まった。その時からその人は、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のため」に働く者となる。

 

◇イエス様は多くの悪霊を追い出されたが、その中でも特に印象的なのは、悪霊に取りつかれて墓場に住み、鎖を用いてさえつなぎとめておくこができず、昼も夜も叫んで石で自分を打ちたたいていた人。「汚れた霊、この人から出て行け」と、イエス様の言葉で悪霊が出ていき正気になったこの人の記事を読む度、人間が悪霊に支配される苦しみを思い、恐ろしくなる。復活のイエス様に最初に出会ったマグダラのマリアは、「以前イエスに7つの悪霊を追い出していただいた婦人である」と記されているが、だからこそ、マリアの感謝、喜びは限りなく深く、イエス様を命のように愛したのだろう。

イエス様は悪霊を追い出される。私たちはこれらの聖書記事を信じて祈ることができる。「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈り続けることができる。「イエス様がおられる」。だから、人は生きることができる。

 

◇この世ではいつの時代でも、差別や搾取、人間関係のもつれがつきまとう。愛されるように造られた人間は、誰からも愛されていないと感じる時、生きる気力さえ失せてしまう。人々から見下され、心に大きな空洞を抱えて生きていた税金取りレビたち。その人たちを蔑み、罪人など相手にすべきではないと言い放つ人たちに、イエス様は言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」マルコ2:17

自分の正しさを主張できなくなって、うなだれる時、イエス様はすぐそばにいてくださる。どうしようもないと泣く者に、「わたしがいるではないか」と言ってくださる。いついかなる時も「イエス様がおられる」。だから、人は生きることができる。

 

◇この世では血縁関係がどんなに重視されることだろう。しかし、イエス様のお言葉はそれらを高く超えており、情と欲が消された世界は実に清々しく、自由であり、真に明るい。

「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」3:35

 

 ◇誰が偉いかと議論する人に、イエス様は答えられた。

 「異邦人(神を知らない人たち)の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」10:42-44

 イエス様は私たちに何もしないで、ぼんやり安楽に暮らせとは言われない。「皆に仕える者になり、すべての人の僕になりなさい」と言われる。何と清々しい言葉だろう。何と平安に満ちた言葉だろう。こんな天の喜びを語ってくださる「イエス様がおられる」。

 神を離れて滅びゆく私たちの「身代金として、自分の命を献げるために来た」と言われるこのお方がおられるから、人は生きることができる。