福音 №361 2018年6月
「父の憐み」
主イエスと共に 歩きましょう どこまでも
主イエスと共に 歩きましょう いつも
うれしい時もかなしい時も 歩きましょう どこまでも
うれしい時もかなしい時も 歩きましょう いつも
ふくいん子どもさんびか90
「難しい病気だとわかって入院する日も、この歌をくり返し歌っていたら、なんだか元気が出てきてね」と言った友の言葉を、折々に思い出す。本当にイエス様を慕い求めて歩んでいる人の言葉だと思った。
「主イエスと共に」、確かに信じる者にとってそれほど心強いことはない。だから、だからこそ、今日もイエス様と共に歩かなければと思う。イエス様は忙しく立ち働いておられるのに、この私は「あ~あ、嫌な世の中」なんて暗い顔をしてすわりこんでいるわけないはいかない。そう、イエス様と共に歩くとは、イエス様の言葉に従うこと。
目を閉じて、思い返す。私は、本気でイエス様の言葉を守ってきただろうか。たとえ聖書を読まない日はなく、毎日のように小さな集会で学び、讃美し祈っているとしても、それで「イエス様の言葉を守っている」ことにはならない。聖書を少しでも詳しく正しく学ぶのは、神様のお心を知り、従うためであるはずなのに。
主よ、と呼べば「あなたがたの父が憐み深いように、あなたがたも憐み深い者となりなさい」とのお言葉が思われて、ルカ福音書6章27~36節を開いてみた。
「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐み深いように、あなたがたも憐み深い者となりなさい。」ルカ福音書6:27~36
「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」 そうか、そうなのだと思う。これがイエス様以外の人の言葉なら、一笑に付してよいだろう。だがこれは文字通り、「敵を愛し、憎む者に親切にし、悪口を言う者に祝福を祈り、侮辱する者のために今も祈り続けておられる」イエス様のお言葉なのだ。「今も祈り続けておられる」と書いて、自分でもハッとした。本当にイエス様は今も、背く者のために祈っていてくださるのか・・・。そう問うた時、木々の緑よりも鮮やかに、初夏の陽ざしよりも輝いて、イエス様が今もこの御言葉を生きておられるのがわかった。だから、だから、こんな私も祝福の道を歩むことが許されているのだと。
求める者には、だれにでも与えなさい。
人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。
わが子や家族、自分の気に入った人が求めるものは、できるだけ与えてやりたい。自分にとって良い人、好きな人になら、その人の喜ぶことをいっぱいしてあげたい。でもイエス様は、そんな人間の自然な思いに逆らうかのように、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか」と言われた。本当に、本当に、もしイエス様がご自身にふさわしい、性格の良い、心の正しい人だけを愛されるなら、こんな私は見向きもされず、気にも留めていただけなかっただろう。
いと高き方(神様)は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。
ああ、だからこんな私も救われたのだと、声をあげたくなる。聖書の神様は、恩を知らない者や悪人を憐れんで、すべての罪をイエス様に背負わせ十字架につけてくださった。この神様の憐みによってだけ救われた。だから、
あなたがたの父が憐み深いように、あなたがたも憐み深い者になりなさい
とイエス様は言われるのだ。
さあ、様々な事件の渦中にある悪しき人たちのためにも、祈ることから始めよう。自分を正しい側において、神に代わってその人たちを断罪する者とならないように、恩を知らない者や悪人のために、その罪を負い、罰を受けてくださったイエス様の十字架を見上げて、「主よ、憐れんでください」と祈ろう。
神の言葉を軽んじるなら、どんなに悪を憎んでも真に善きものは生まれない。神様を離れた心は、いつしか愛も消え、喜びは失せ、倦怠を覚えるようになる。
終りの日に、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言われないように、マタイ福音書18章21ー35節「『仲間を赦さない家来』のたとえ」を、もう一度読もうと思う。新共同訳聖書では35Pです。