福音 №363 20188

 「愛を受ける恵み」

 

「あ~、さあみんなで、あ~」「い~、さあみんなで、い~」う~、え~、お~・・・と、発声練習をした後、「では、♪上を向いて歩こう、を歌いましょう」と看護師さんの声かけで、ホールに集まった10人ほどの人が歌い始めた。いつ行っても部屋で寝ているMさんも、今日はおばあさんたちに交じって真面目な顔で歌っている。個々のリハビリの他にこんな集まりも時にはあるのだとその様子を見ていると、何とも言えない思いになった。十数年前までは一流企業で働き、スポーツも、囲碁や将棋にも多少の自信はあったと言葉の端々から感じられるMさんが、今はそれこそ幼子のように、言われるままに一生けん命歌っている。これはどういうことなのだろう。

認知症にも色々あるだろうし、私には専門的な知識は何もないけれど、今の生活が記憶できなければどんなに大変かが分かる。朝起きて、さあ今日は何と何をしようと考えるのも昨日の記憶があるからなのだと、今更のように思う。

奥さんと知り合って、私はすぐ近くだから買い物のついでにでもと、週に2度ほどMさんを訪ねるようになり10ヶ月が過ぎたが、散歩や数独を楽しむときとは違って、今日のホールでの姿は現実を突きつけられたような気がした。その後、一緒に病院の周りを歩きながら、駐車場の車を見る度に「私も車に乗ってたんですよ、あの車どうしたかなあ」という言葉を聞きながら、奥さんの病弱な様子を思い、もう家に帰るのは無理かもしれない、これからこの人にできることって何なのだろう、と考えていた。何となく重いものを引きずって「では、また」と別れを告げ、ところが、ほんの数分の帰り道に急坂を下りたとき、ハッと気づいた。Mさんは愛を受けることができる、それもアガペーの愛、無条件の愛、一方的な愛を受けることができる。神様の愛を受けることができるとは、何と素晴らしいことか。

 

この頃聖書を読む度に、神の愛、イエスの愛、そして「愛し合いなさい」と私たちへの

愛の勧めが浮き彫りにされる思いがして、「愛がなければいっさいは無益である」という言葉が頭から離れなかった。そうか、Mさんは多くを失ったけれど、でも愛を自由に受けることができるようになったのだと分かって、喜びがあふれてきた。愛を喜んで受けることこそ愛を最高に評価することであり、それこそ互いに愛し合うことに違いない。「罪とは神の愛を拒むこと」だというが、小さな子供は多くの場合全身で愛を求める。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国にはいることはできない」と言われた、イエス様の言葉が胸に響いて、以前大流行したので何となく歌ったことのある「きみは愛されるため生まれた」という歌が思い出され、youtubeで、聞いてみた。

君は愛されるため生まれた  

君の生涯は愛で満ちている

永遠の神の愛は 

われらの出会いの中で実を結ぶ

君の存在がわたしには 

どれほど大きな喜びでしょう

君は愛されるため生まれた

今もその愛受けている。

以前は、それはそうだと軽く思っていたけれど、今回聞くと「君は愛されるため生まれた」という言葉が迫ってきて、そうだ、人は神様の愛を受けるために生まれてきたのだ、そして人はみな「今もその愛受けている」のだと、キリストの十字架のお姿がくっきりと浮かび上がった。世界中にその愛からもれる人など一人もいない。ただ人は、神から遠く離れてしまって、その愛が感じられなくなって、アガペーの愛の存在に気づかないまま、それでも愛を求めて生きているのだ。

 

日本語の聖書での「愛」は、ギリシャ語では主に4種類に分けられるという。(キリスト教聖書用語辞典より)

1 エロス:本能的な愛。肉体的な愛、主に男女関係の愛、見返りを求める愛。

2 フィリア:友情愛。友達、同郷、同胞のような連帯感の愛。

3 ストルゲ:親子愛。親子関係の愛、師弟関係の愛。

4 アガペー:神様の愛。無条件の愛、見返りを求めない愛。

 

私がキリスト信仰を求めたのも、エロスでもフィリアでもストルゲでもない、アガペーの愛を求めたのがきっかけだったと今にして思う。男女間の愛はもとより、友情も、親子の愛も、何かしら狭さがつきまとう。利己的なものがぬぐえない。そのような愛では満たされない何かが自分の内にあった。

時を得て、導かれるままにキリスト信仰の道を歩み始め、どの人とも分かち合うことのできる愛、分け合ってますますあふれる愛、そんな神の愛が本当にあるのだと知った今、Mさんとも、同じ病棟で寝ているあの人とも、あの人とも、この愛によってつながれているのだと実感する。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」「父()がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にどどまりなさい。」

人の愛は自分にとっての価値によって、増えたり減ったりするけれど、人がどんなに変わっても決して変わらない神様の愛によって、私たちはつながることができるのだと、Mさんが教えてくれたような気がする。