福音 №377  201910

「流れのほとりに」


貧しい人々は、幸いである、


神の国はあなたがたのものである。

今飢えている人々は、幸いである、


あなたがたは満たされる。


今泣いている人々は、幸いである、


あなたがたは笑うようになる。 ルカ福音書6:20-21

 


 ルカによる福音書6章、主イエスの語られた「幸いと不幸」に聴き入っていると、若き日に読んだ、野村伊都子さんの「流れのほとりに」に記されていた言葉を思い出した。


  涙を流してパンを食べなかった人


  思いなやむ夜々を


  ベッドによって泣きあかさなかった人


  その人は神を知らない。―ゲーテ


この言葉を読む度、ああ、私には、この伊都子さんのようには神様を分からない・・・と心に思い、それでもそのような人生に深い憧憬を覚え、「流れのほとりに」を暗記するほどに読んだものだった。今再び手に取って、この本に響き渡っているのはまぎれもなく「貧しい人々は、幸いである。今泣いている人々は、幸いである」という主イエスの愛の御声だと知り、私をとらえて離さなかったのはこの「キリストの福音」だったのだと悟らされた。


覚えてしまっている内容も、はじめて読むように胸に迫りながら読み進め、「病んで30有余年、その間元気そうにしていて社会復帰した時があったとはいえ、一日も、それこそ一日も健康な日は無かった」と、52歳で天に召された伊都子さん自身の最後の日々を記した文章の中で、この直感が間違っていなかったと確信できる一文に出会った。

 


「そう、私はとうとう子どもの域から出ることもなく年老いてしまった。青春もなかった。いや、青春はあった。青春がきらきらしたもので、またどこか痛ましさと哀しさ、酷しさを秘めているというのなら、その質は違っても、私にも青春はあった。その歩んだ道は一すじ、血と汗と涙だったが、それこそきらきらしていた。なればこそ、流した涙がいま光ってみえるのだ。涙をぽたぽた落としてはいずって歩んだ血にそまる道だったけれど、そこは生命にみちあふれていた。地上に用がなくなったら、神がお呼びくださるであろう。そしてその時が私にとっては「死」が「生」となる。天国という新しいところでの「生」に接続されるのだ。それはきらきらして過去から未来に流れをとどめることはない。


 私の友たちのそのほとんども、世にあっては惨憺とした生きざまをひこずって歩んでいる。その酷しい姿をみるとき、


   『幸福なるかな、貧しき者よ、幸福なるかな、悲しむ者よ』


とのイエスの声をきかなければ、真の慰めも希望も得られない。そうなのだ。私たちは何という深い祝福と栄光にみちた旅路を歩む旅人であることだろう。」 

 


私がこの本に強く深く惹かれるのは、世にあって惨憺とした生きざまをひこづって歩んだ友たちが、「今日の重荷はなんですか」と日々問いつつ生きたという伊都子さんの真実にふれ、それこそいまわのきわに主イエスと出会う様。

 


貧しさの中で寡婦となり、働いて働いて働き通して15人もの子供を育てあげ、ガンも末期になって入院してきたおばあさんに、伊都子さんは「おばあさん、聖書にはこう書いてあります。」と話しかける。


私はマタイ伝5章を読んだ。彼女はきょとんとして微笑んでいた。自分にはおよそ縁の無いことだといわんばかりに―。・・・・・


ある夕、突然彼女は言った。「聖書とやらを、読んでほしい」


私はヨハネ伝11章のラザロの復活のところを読んだ。そして35節、「イエスは涙を流された」といったとき、彼女は突如、うううっと吠えるような声を出した。慟哭だった。号泣だった。「神様の御子が・・・・、神様の御子が・・・・」彼女はありがたい、ありがたい、といって泣き伏した。


それより数日後、彼女は尿毒症を併発して一夜にして逝った。やすらかな最期だった。


「神様の御子が、私のために十字架にかかって死んでくださった。もったいない。もったいない」とうわごとをいいつづけての召天だった。

 


ガンで放射線治療をしながら最期の時を迎えた28才のOさんが、伊都子さんに渾身の力をふるって問いかける。


「オシエテ!ワタシハ、ナニシニ、ウマレテキタノ?」


一言ごとに顔色がかわる。ああ、このときの彼女の目を、声を、私は決して忘れはしない。そしてその時の自分の内心のうろたえ方も忘れはしない。ほんのわずかだったとはいえ、Oさんとの交わりに一体私は主のはしためとして何をしたのか。・・・よしや神様のみ言を語ったことがあったにしても、本当の福音は教えていないのだ。福音は私どもを罪から救い出し、ただちに私共のうちに溢れて言い難い力となるものでなければならないのだ。それでなければこれほどの苦悩にさいなまれ、しかも瞬間も余裕のないせっぱ詰まったところにおいてまで、彼女をこんなに追いこむことはない筈だ。ああ、一体私は今、どう答え、どう語ればよいのか?・・・・・・


「神様のみもとに新しく生まれかわって帰るためよ」私はやっと口をひらいてそういった。するとかすかに首を横にふって彼女はつぶやいた。「私には、その資格が、ない」顔にはもはや死相があらわれていた。・・・私は、聖書を手にしたことも、開いてみたこともない人に向かって、思いきってルカ伝2339-43節までを一言一言ゆっくりと読んだ。そして、


「この十字架にかかって私ども罪びとのために血を流して死んで下さったお方にすべてをまかせるなら、安心していいの。目をとじていいの。何もかも一番よいようにしてくださるのよ」といい添えた。彼女は大きく息を吸い、ゆっくりと首をタテにふって目を閉じた。

 


病床で出会った人たちと、深い祈りと真実をもって交わった伊都子さんは、その人たちのいまわのきわに臨んでくださる主を目の当たりにし、その人たちの勝利の声を聞いた。


「私たちにとってはいつかなるときも、たとえ如何なる事が未解決のままに残されていても、今こそが恩恵(めぐみ)の時」と。