福音 №378 2019年11月4日
「信じるなら、あなたは神の栄光を見る」
「もし信じるなら、あなたは神の栄光を見る」ヨハネ11:40
これはイエス・キリストの約束である。
この一言に私たちの人生がかかっていると言ってもいい。
「もし信じるなら」である。
弟ラザロの遺体を収めた洞穴の墓の前で、墓をふさぐ「石を取りのけなさい」とのイエスの言葉に、死んで「4日もたっていますから、もうにおいます」と戸惑う姉マルタ。
その時、主イエスは言われた。
「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」
肉眼で見える墓の前に立って、
「あなたは嘆きつつ、なおも墓を見続けるのか、
立ち帰って、神の栄光を見よ」と、主は言われる。
「ラザロ、出て来なさい」と、主イエスの大声の叫びに、
死んでいたラザロは、手と足を布で巻かれたまま出て来た。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」
この言葉を信じたとき、凍っていた私の心は、たちまち溶けていのちの喜びに満ちた。
神を信じるなら、
キリストこそ真に人を生かすお方であると信じるなら、
キリストによってすべては新しくされると信じるなら、
もしキリストの言葉を信じるなら、
「あなたは神の栄光を見る」
この世にあってすでに、天の国の至福を見る。
聖書には、どれほどの神の約束が書かれていることか。
毎週毎週、いや毎日毎日聖書を読んでも、
そこに描かれている神の約束を
その喜びを汲みつくすことはない。
それは朝毎に新しく、夜毎に胸に響く。
先週水曜日には、ルカ福音書7章「洗礼者ヨハネとイエス」の箇所を学んだ。18節から23節まで読んで、もうその喜びを抑えていることができなくなった。
牢獄にいるヨハネが二人の弟子を使いにやって「来るべき方は、あなたでしょうか」と問わせた時、主イエスはこう答えられたのである。
「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」
これが神の国ではないか、
全き平和と喜びの国姿ではないか、
まず「人」ではないか。
一人一人の目(肉の目、霊の目)が開かれ、自分で歩く(杖も車椅子もいらない、誰にも依存せず生きることができる)ようになり、自分ではどうしようもなかった罪汚れを清められ、聞こえない耳(肉の耳も、神の声が聞こえなかった耳も)聞こえるようになり、死が終わりではなく、一人一人が完成された者として生き返る。貧しい人は、来るべき神の国の喜びを知らされている。
「来るべき方は、あなたでしょうか」と問うたヨハネ。私たちには問うことが許されている。問うからこそ確かな答えを聞くことができる。問うことを恐れまい。
ヨハネの使いの者に、「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい」と主イエスは言われた。当時の人たちが見聞きしたこと、この地上で、2000年前に現実に起こったこと。おびただしい民衆の中で、「病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた」主イエスは、まさに闇の中に輝く光であり、万物を新しくされる神のご臨在そのものであった。
イエスに使いを送ったヨハネも、今聖書によってこの場面を読む私たちも、自分の耳で「わたしがキリストである」という主イエスの御声を聞くのではない。ここに記された奇跡的な救いのできごと、死から命へのしるしによって、来るべき神の国、そこに生きる人々の至福を信じるようにと招かれているのである。
神の子、救い主とはイエスのことである。
私たちにはイエスを信じることが許されている。
私たちはイエスと共に生き、イエスにすべてを期待することができる。
それらの恵みを目の当たりに見せてくださり、そして主イエスは言われた。
「わたしにつまずかない人は幸いである」と。
イエスにつまずくとは、主イエスが今ここにおられるのに、まるでおられないかのようにこの世の現実を嘆くことではないか。
このままでは地球は滅びてしまうと憂い、こんな悪い時代はないとあげつらい、
見えるものではなく、見えないものに目を注ぐべきことを忘れ、
何よりも、主イエスに期待しないことではないか。
昨日の主日礼拝では、ハバクク書1章を学んだ。
主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに
いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。
わたしが、あなたに「不法」と訴えているのに
あなたは助けてくださらない。
どうして、あなたはわたしに災いを見させ
労苦に目を留めさせられるのか。
暴虐と不法がわたしの前にあり
争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。
律法は無力となり、正義はいつまでも示されない。
神に逆らう者が正しい人を取り囲む。
たとえ、正義が示されても曲げられてしまう。
礼拝の後、ある人が「ここを読んで今の世界のことが書かれていると驚きました」と言った。
この罪の世にあって、信仰とは
「主よ、いつまで・・・」「主よ、来てください」と神に向かって叫ぶことではないか。
キリスト集会とは、
この闇の世に輝くキリストの希望の光を、しっかりと共に見つめることではないか。