福音 №378  2019114

「信じるなら、あなたは神の栄光を見る」

「もし信じるなら、あなたは神の栄光を見る」ヨハネ11:40

 

これはイエス・キリストの約束である。

この一言に私たちの人生がかかっていると言ってもいい。

「もし信じるなら」である。

 

弟ラザロの遺体を収めた洞穴の墓の前で、墓をふさぐ「石を取りのけなさい」とのイエスの言葉に、死んで「4日もたっていますから、もうにおいます」と戸惑う姉マルタ。

その時、主イエスは言われた。

「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」

 

 肉眼で見える墓の前に立って、

「あなたは嘆きつつ、なおも墓を見続けるのか、

立ち帰って、神の栄光を見よ」と、主は言われる。

 

「ラザロ、出て来なさい」と、主イエスの大声の叫びに、

死んでいたラザロは、手と足を布で巻かれたまま出て来た。

 

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」

この言葉を信じたとき、凍っていた私の心は、たちまち溶けていのちの喜びに満ちた。

 

神を信じるなら、

キリストこそ真に人を生かすお方であると信じるなら、

キリストによってすべては新しくされると信じるなら、

もしキリストの言葉を信じるなら、

「あなたは神の栄光を見る」

この世にあってすでに、天の国の至福を見る。

 

聖書には、どれほどの神の約束が書かれていることか。

毎週毎週、いや毎日毎日聖書を読んでも、

そこに描かれている神の約束を

その喜びを汲みつくすことはない。

それは朝毎に新しく、夜毎に胸に響く。

 

先週水曜日には、ルカ福音書7章「洗礼者ヨハネとイエス」の箇所を学んだ。18節から23節まで読んで、もうその喜びを抑えていることができなくなった。

牢獄にいるヨハネが二人の弟子を使いにやって「来るべき方は、あなたでしょうか」と問わせた時、主イエスはこう答えられたのである。

「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」

 

これが神の国ではないか、

全き平和と喜びの国姿ではないか、

まず「人」ではないか。

 

一人一人の目(肉の目、霊の目)が開かれ、自分で歩く(杖も車椅子もいらない、誰にも依存せず生きることができる)ようになり、自分ではどうしようもなかった罪汚れを清められ、聞こえない耳(肉の耳も、神の声が聞こえなかった耳も)聞こえるようになり、死が終わりではなく、一人一人が完成された者として生き返る。貧しい人は、来るべき神の国の喜びを知らされている。

 

「来るべき方は、あなたでしょうか」と問うたヨハネ。私たちには問うことが許されている。問うからこそ確かな答えを聞くことができる。問うことを恐れまい。

 

ヨハネの使いの者に、「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい」と主イエスは言われた。当時の人たちが見聞きしたこと、この地上で、2000年前に現実に起こったこと。おびただしい民衆の中で、「病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた」主イエスは、まさに闇の中に輝く光であり、万物を新しくされる神のご臨在そのものであった。

イエスに使いを送ったヨハネも、今聖書によってこの場面を読む私たちも、自分の耳で「わたしがキリストである」という主イエスの御声を聞くのではない。ここに記された奇跡的な救いのできごと、死から命へのしるしによって、来るべき神の国、そこに生きる人々の至福を信じるようにと招かれているのである。

神の子、救い主とはイエスのことである。

私たちにはイエスを信じることが許されている。

私たちはイエスと共に生き、イエスにすべてを期待することができる。

 

それらの恵みを目の当たりに見せてくださり、そして主イエスは言われた。

「わたしにつまずかない人は幸いである」と。

イエスにつまずくとは、主イエスが今ここにおられるのに、まるでおられないかのようにこの世の現実を嘆くことではないか。

このままでは地球は滅びてしまうと憂い、こんな悪い時代はないとあげつらい、

見えるものではなく、見えないものに目を注ぐべきことを忘れ、

何よりも、主イエスに期待しないことではないか。

 

昨日の主日礼拝では、ハバクク書1章を学んだ。

主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに

いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。

わたしが、あなたに「不法」と訴えているのに

あなたは助けてくださらない。

どうして、あなたはわたしに災いを見させ

労苦に目を留めさせられるのか。

暴虐と不法がわたしの前にあり

争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。

律法は無力となり、正義はいつまでも示されない。

神に逆らう者が正しい人を取り囲む。

たとえ、正義が示されても曲げられてしまう。

 

礼拝の後、ある人が「ここを読んで今の世界のことが書かれていると驚きました」と言った。

この罪の世にあって、信仰とは

「主よ、いつまで・・・」「主よ、来てください」と神に向かって叫ぶことではないか。

キリスト集会とは、

この闇の世に輝くキリストの希望の光を、しっかりと共に見つめることではないか。