福音 №379 2019年12月
「永遠の命を」
昨日(5日)の朝日新聞一面トップは「中村医師 銃撃受け死亡」の記事だった。若き日にパキスタンで医師として働きながら、「飢えや渇きは薬では癒せない」「100の診療所よりも一本の用水路」と、アフガニスタン復興の支援を続けてこられた中村医師、ペシャワール会の働きを少しでも詳しく知りたいとETV特集2016年「武器ではなく命の水を 医師中村哲とアフガニスタン」をYouTubeで見た。
干ばつの地に水を、不毛の大地を実り豊かな緑の地に。それも素朴な土木工事を現地の人たちと共に。こんなことが本当にできるのだろうかと圧倒されながら、用水路に水が流れ、柳の木が繁り、稲穂が揺れる様を見続けて・・・、最後の言葉を私は忘れない。
作業地の上空を
盛んに米軍のヘリコプターが 過ぎてゆく。
彼らは殺すために空を飛び
我々は生きるために地面を掘る。
彼らはいかめしい重装備、
我々は埃だらけのシャツ一枚だ。
彼らに分からぬ 幸せと喜びが 地上にはある。
乾いた大地で水を得て
狂喜する者の気持ちを 我々は知っている。
水辺で遊ぶ 子供たちの笑顔に はちきれるようす
生命の躍動を 読み取れるのは 我々の特権だ。
そして、これらが 平和の基礎である。
(中村哲 手記より)
用水路とともに、アフガニスタンの人たちの心の支えとなるモスク建設にも力を尽くすその姿は、「自分を愛するように隣人を愛する」中村さんの心なのだと感じた。中村さんが何を信じて生きたのか、人道主義なのかどうかも知らない。でもその映像から、あのパウロの言葉を思った。
「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」フィリピの信徒への手紙4:8
だが、私がこの12月の「福音」に書きたいと思ったのは、その事ではない。
今日(6日)、朝日川柳
赤ひげを撃ってどうする愚か者
井戸涙きれいな水に君思う
に続く、
神さまはいないと思う時がある
という句についてである。選者も「そう思いました」とある。川柳というのをそんなに真面目に読んではいけないような気もするけれど、ええっ、その神さまってどんな神さま?と思ってしまった。空爆や栄養失調で毎日のように人が死ぬのを黙って見ていても、中村さんのように立派な人だけは助ける神さまって? そんな神さまを期待してるってわけ?
理不尽な死、どう考えても納得できない死、それで「神さまはいないと思う」のであれば、「時がある」ではなく、「神さまは確かにいないいつの日も」でなくてはならない。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネによる福音書3:16
クリスマスの月、この聖句を一人でも多くの人に届けたい。
あなたは、いやすべての人は、立派な人もそうでない人も、貧しい人も豊かな人も、善人も悪人もみな、この世で長生きするためではなく、罪赦されて永遠の命を得るために生まれてきたのだと。
愛誦聖句をもう一つ。
いちじくの木に花は咲かず
ぶどうの枝は実をつけず
オリーブは収穫の期待を裏切り
田畑は食物を生ぜず
羊はおりから断たれ
牛舎には牛がいなくなる。
しかし、わたしは主によって喜び
わが救いの神のゆえに踊る。
ハバクク書3:17-18
中村さんたちが尽力した緑も、度重なる戦いによって再び荒れ地となることがあるかもしれない。いや、アフガニスタンだけではない、原発事故で緑豊かな地も、人の住めない地となることをこの日本も経験しているではないか。
しかし、私たちには希望がある。たとえ、田畑は食物を生ぜず、牛舎には牛がいなくなろうと、
私たちには、罪の犠牲となって十字架につき、三日目に復活された主、
やがて再び来てすべてを新しくしてくださる、主がおられる。
いついかなる時も、
私たちはこのお方によって喜び踊ることができる。
私たちには、このお方、イエス・キリストを信じることがゆるされている。
死について、内村鑑三の説明が分かりやすいのでここに書きます。
死は大事である。しかし最大事ではない。死は取り返しのつかない災厄ではない。死は肉体の死である、霊魂の死ではない。形体の消失である、生命の湮滅ではない。私たちは死んで永久に別れるのではない、私たちは後にまた復び会うのである。人生の大事は死ではない、罪である。天地の主なる神に背き、生命の泉から離れることである。このために神は人を死から免れさせようというその道を取られなかった。しかしながら彼らを罪から救おうとしてその独り子を遣られた。死の棘は罪である、罪が除かれて死は死でなくなるのである。
「一日一生」より