福音 №389 202010

「主イエスがおられるから」

希望の源である神が、

信仰によって得られる

あらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、

聖霊の力によって

希望に満ちあふれさせてくださるように。

            ロマ書15:13

 秋風が吹き、病院の道に咲くキバナコスモスも少なくなって、それでも「面会はできません」との受付の人の声に、Aさんの悲しみを思った。

7時頃、病院の横を通って帰宅する夫が、「いつもの人が、今日も4階の窓に向けて光をふりながら帰って行った」と教えてくれるようになって、もう何年になるだろう。その方が、病院の道淵に季節の花を植え、その道を車椅子の母親と散歩されているAさんだと、私が知ってからでももう3年。コロナで面会ができなくなって、それでも花の苗と水やりに使うペットボトルを持って病院に通われるAさんに「お母さん、窓から見ておられますか」と声をかけると、「たまに見えることがあります、今日はダメでした」と寂しそうに微笑まれた。「そうだ、時間を決めておかれればいい、3時とか決めて手をふれば」というと、「いや、それも看護婦さんにはあまりよくないようで・・・本当に辛いです。」との言葉に、胸がつまった。

父が晩年、軸に書いていた

別離随所に有り

悲脳は愛の結ぶに縁る

との言葉を思い出し、深く愛するが故の悲しみ悩み、人間が生きるとは決して安易なことではないと心重くなって、でもだからこそ天を仰ぐ。希望の源である神の言葉を思う。

 

わたしたちも、は神の子とされること、つまり体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

                    ロマ書8:23-25

 90歳を過ぎてもご自宅で日曜集会を開かれ、その聖書講話テープを最後まで送り続けてくださった方のお話がふと心に浮かんだ。終わりの数年、厳しいほどにくり返されたのが

家族や親しい人への伝道だった。「あなただけが復活して、それでいいのですか。イエス様は信じる者を救ってくださる、永遠の命を与えてくださるのに、あなたの大切な人にどうしてそのことを伝えないのですか。この世で愛し合っても、二人ともイエス様を信じていなければその愛はこの世だけのもの。愛し合った一人が信じても一人は信じていなければ、やはり二人の愛はこの世でおわりです。でも愛し合う二人が、共にイエス様を信じていれば、その愛はこの世で終わりではありません。復活の朝、イエス様の愛の中で二人の愛は永遠に続くのです。」

 ご自分は先に奥様を天におくられて、再び会える日を疑わないからこそ、集会員の一人一人にその希望と喜びを伝えたかったのだと、今にして思う。

 

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イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

              マルコ福音書3:31-35

 

 私はこの記事が大好きだ。イエス様を真ん中に集まった人たち、これこそ神の家族。この広やかさ、温かさから締め出される人は一人もいない。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」とイエス様が呼んでいてくださるのだから、だれでも大丈夫。ただ一つ条件があるとしたら、「自分は疲れている、重荷を負っているから助けてほしい」と、本当の自分に気づくことだけ。

 

イエス様の周りに座っている人々、福音書に記されているイエス様に出会った人たちを思い浮かべる。

仕事で漁をしている時に呼ばれて弟子となった人、

「幸いなるかな、心の貧しき者」と、今まで聞いたことのない言葉に引きよせられた人、悪霊を追い出してもらって正気になった人、

病気を癒してもらった多くの人、

罪を赦していただいた人、

イエス様の方から「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と声をかけられた人、

「もう泣かなくてもよい」と死んだ一人息子を生き返らせてもらった人、

遠くから何日もかけてお話しを聞くために集まった人、

イエス様一行の世話をしながらエルサレムまで従った人、

復活のイエス様に出会った人。

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こうして今もイエス様を求めて人は集まる。それが集会であり、教会なのだと、こう書きながら知らされる。イエス様を求めて一人また一人と集まり、何年も、何十年も集まり続ける。イエス様が真ん中におられて、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだと」言ってくださるから。

 

神の御心とは、イエス様のお言葉に聴き入ること。

神の御心とは、一歩従うこと。

神の御心とは、今日を生きること。

神の御心とは、・・・・

神の御心とは、・・・・

日々問いつつ、日々新たに示されつつ、聖名を呼びつつ。