福音 №390 2020年11月
「独り子さえ惜しまず」
主なる神よ!
あなたは私たちを高く引き上げるために、
御自分を低く謙らせ給いました。
あなたは、私たちが豊かになるために
貧しくなり給いました。
あなたは、
私たちがあなたの御許に行くようになるため、
私たちのもとに来たり給いました。
あなたは、私たちを永遠の生命に与らせるため、
私たちと同じ人間に成り給いました。
これらすべては、私たちには受ける資格のない、
あなたの自由な恵みによって
なされたものであります。
これらすべては、あなたの愛する御子、私たちの主、
救い主であるイエスキリストにおいて
起こったものであります。
・・・・・
この奥義と奇跡を目のあたりにして、
あなたを崇め、あなたをほめ讃えます。
「祈り」バルト著 より
「朝の15分があなたを変える」というキャッチフレーズや、早天祈祷会をとても大事にされた榎本保郎牧師の「一日一章」に励まされ、ずっと早朝の聖書と祈りの時間を守ってきたのに、決めた時間にはどんなに眠くても起きるという習慣を失くしたのはいつ頃からだろう。思い出せないが、ともかく「良い習慣は才能を超える」という帚木さんの言葉はきっと本当だ。朝まず一人で主と交わるために十分な時間をとるに勝る良い習慣はない!と気づかされ、即実行。たとえ夜遅くなっても、「明日の朝5時半に起こして」とスマホにお願いして、続けている。
そして気づかされたのは、
「わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」
とイエス様の言われた、「わたしたちの神である主」とはどのようなお方であるか、それが光を受けて少しでも明らかにされることの大切さだった。
神である主が、どのようなお方であるか分からなければ、「愛しなさい」という言葉は単なる命令であり、愛の強要など重荷でしかない。私たちの神である主がどのようなお方であるかはっきりと示されるとき、そのお方を愛することは喜びとなり、「愛しなさい」という言葉は戒めを越えて慕わしい福音となる。
1日の日曜日、子供集会の聖書箇所は「創世記22章1-19節・アブラハム、イサクをささげる」の個所だった。子供も大人も一節ずつ順番に、ゆっくりと聞きながら読んでいると、
「あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」
という御使いの言葉が迫ってきて、今は子供集会であるということも忘れてしまっていた。
アブラハムに、このように、自分の最愛の者をも神以上には愛さないと示させたものは何だったのか。このアブラハムの神への愛はどこからきたのか、と問うた時、
「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」ロマ書8:32
と、その独り子さえ惜しまず与えてくださる神の愛、十字架の上で「父よ、彼らをお赦し
ください」と祈られるキリストを、アブラハムは信じたのだと気づかされた。
そのことが分かったとき、新約聖書で語られるアブラハムの個所が次々とつながった。
イエスはお答えになった。「・・・あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」ユダヤ人たちが「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」というと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』ヨハネ8:56-58
信仰によって、アブラハムは、試練をうけたとき、イサクを献げました。・・・アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。
ヘブライ書11:17,19
主なる神よ!
あなたは天に住まわれるだけでなく、
地上の私たちのそばにも住まわれることを望まれます。
あなたは高く偉大であるだけでなく、
私たちと同じように低く小さくあることも望まれ、
支配するだけでなく、私たちに仕えることも、
永遠に神であるだけでなく、
私たちのために人間として生まれ、
生き、死ぬことをも望まれます。
あなたは、あなたの愛する御子、救い主イエス・キリストにおいて、
実にあなた御自身にほかならぬ方を贈って下さり、
私たちが寸分のすきもなく
あなたのものとなるようにして下さいました。
しかも私たちのうち誰一人としてそれに価する者がないのに、
それは私たちすべてにあてはまるのです。
今、私たちに残されていることは、
あなたが私たちに向かってなし給うた御業に驚き、それを喜び、それに感謝し、
それに固く依り頼む以外に何がありましょうか。
私たちはあなたに願い求めます。
どうか、このことが、今の時にも、私たちの間で
また私たちのすべての中で、真になりますように。
「祈り」バルト著より
聖なる高みにいますお方が、人となって私たちのところに来てくださり、来てくださっただけでなく、私たちの内に住んでくださる。
この計り知れないお方を、朝毎に、深呼吸するように深くいただき、
さあ、今日も、赦された喜びを抱きしめて。