福音 №381 2020年2月
「しつように頼めば」
ふりかえれても、
立ち止まる勇気がなかなか、
もてない自分がいました。
病気になり、
しかたがなく、現実的に、
現状維持ですらできないことに、愕然としていますが、
人に負けようと、どう見られても、
今の自分を大事にしないと、
これからの、安定した生きる道がないと、
思えるようになっています。
スポーツ選手として全国を飛び回っていた彼女、「スポーツはやっぱり勝つことです」と言っていた彼女が、一年ほど前に急に難病になり、それでも前を向いて気丈に見えたけれど、こんな思いを抱えていたのだと知らされるメールが今日届いた。この前会って話したとき、そんな彼女の心も知らず、励みになるようなことは何も言えなかった。愛には「注意深さ」と「想像力」が必要だと言うけれど、自分の鈍さに泣きそうになる。だが、深刻であればあるほど、病む人を前にして元気な者に何が言えるだろうか。
「『残念だ』と言いながら死んでいきたくはない、でも『思う存分好きなように生きたからもういい』というようなのも嫌だ」
そんな彼女の言葉に、「死は終わりではない」と何度か言おうとしたけれど、それではないと言い淀んでいるとき、自分の問いに自分で答えるかのように、最近読んだという詩を「読んでみてください」と開いてくれた。
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれくらい
自分の耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合なことやある
倚りかかるとすれば
それは 椅子の背もたれだけ
この茨木のり子さんの「倚りかからず」という詩、私も知らないわけではなかったが、
改めて読んで「もはや、できあいの宗教には倚りかかりたくない」という言葉にドキッとした。この機会にこそ、イエス・キリストを伝えたいと手ぐすねを引いている私。でも今の彼女にとっては、
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」
という真実な御言葉さえ、できあいの宗教としか受け取れないかも知れない。
そうだ、今、自分の苦難の意味を必死で聞き取ろうとしている彼女に、安易にできあいの答えをさしだすべきではない。それは、彼女が、彼女自身が聞き取るべきなのだ。
では、この私には何ができるのか。静かに思っていると、先日水曜集会で学んだ「ルカ福音書11章5~8節が思いだされた。
(イエスは)弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
そうだった。旅行中に立ち寄った友達にパンをあげたいのに、自分の家にないのなら、「パンを貸してください」と友達のところに行って頼めばいい。一度でだめなら、何度でもしつように頼めばいい。そう教えておられるのはイエス様なのだから、何の遠慮がいるだろう。「しつように頼めば、起きてきて必要なものは何でも与えるであろう」と言われるのはイエス様ご自身なのだから、イエス様にお願いすればいいのだ。「友達だということでは起きて何かを与えるようなことはなくても」とある。♪いつくしみ深き友なるイエスは♪と歌っているだけではだめなのだ。イエス様がその人に働いてくださるまで、しつように祈り続ける。その人に聖霊が与えられ、神の力を受け、キリストの愛に包まれ、喜び祝うその日まで祈り続ける。そうか、私には祈ることが許されているのだと、元気が湧いてきた。
そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。
ルカによる福音書11:9~13