福音 №384 2020年5月
「神のことば」
永遠の光
永遠の善
永遠の平和である方が
共にいることが、
われわれにその至福を得させる。
その方はわれわれの父であり、
われわれはその方の子どもである。
この両者が共にいることが
この世とあの世における救いである。
ノートの隅に書き込んであったこの言葉をみつけて、5月の晴れ渡った空のように心が明るく広がっていく。救いとは、神と人が共にいること。
この先行きの見えない現実の中で、そんなこと言われたって何の実感にもならないよ・・・って言われそうだけれど、でも、行き詰まってしまった時こそ、方向転換が必要だって気づくチャンス。
物事には何でも2面性がある。裏があれば表がある。夜があれば昼がある。地があれば天がある。だが、私たちは多くの場合、「地」だけを見て生活している。コロナで人と会えない、遠くにも行けない、コロナとは関係ないけれど年と共に足腰が弱ったり目が見えにくくなったり、そんな地上生活だけを思っていると気が滅入るのは当然だ。
あぁもったいない。私たちには地上を生きるだけでなく、天を仰ぎ見ることが許されている。人間について思い考えるだけでなく、永遠の光、永遠の善、永遠の平和である神を思い考え、求めることが許されている。もし神を思わず、永遠について考えず、地上だけ見つめて人間の世界にだけ閉じこもっているなら、与えられた人生を半分しか生きないことになる。それも死で幕引きになる人生。
聖書を読んでワクワクするのは、その神様の言葉に出会うこと。確かに神様が語っておられると「話すことも、語ることもなく、その声は聞こえなくても」信じることが許される時。
神である方、天を創造し、地を形づくり
造り上げて、固く据えられた方
混沌として創造されたのではなく
人の住む所として形づくられた方
主は、こう言われる。
わたしが主、ほかにはいない。 イザヤ45:18
地の果てのすべての人々よ
わたしを仰いで、救いを得よ。
わたしは神、ほかにはいない。イザヤ45:22
神の言葉というのは不思議なことに、聴き入っていると、自分がそう思うとかそう感じるとかではなく、語っておられるお方へと心が引き上げられていく。そして、「その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう」という、この世を超えた永遠の世界へと招き入れられる。死で終わりではない、「神が人と共に住み、人は神の民となる」至福の世界へ。
人間にとって何がうれしいと言っても、神様がおられ、その神様が私を、この私を愛していてくださると知るほどの喜びはない。
わたしたちが神を愛したのではなく、
神がわたしたちを愛して、
わたしたちの罪を償ういけにえとして、
御子をお遣わしになりました。
ここに愛があります。1ヨハネ4:10
ここ数週間、この御言葉をくり返し思い、暗唱し、今もこれからもこの世にどんなことが起ころうと、終末の徴として聖書に預言されている地震や飢饉や疫病のただ中にあっても、
「神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をおつかわしになりました」という、キリストの十字架による救いは、すべての人に開かれているのだと胸がいっぱいになる。何をおいても、この良き知らせを伝えたい。
☆みことばこそ力☆
遠くに住む友人から、「時空を超えて、祈り祈られている主イエスに在る交わりの恩恵を実感し感謝です」とうれしい手紙が届いた。手紙の最後は、「コロナウイルスで、教会は5月24日まで礼拝もお休みになりました。聖書のみことばのみ、力です。何があっても、ヨハネ14:1、14:26-27、1ヨハネ5:18、信じて祈ります。」と結ばれていた。
私も、みことばの力を信じ、主イエスを一心に見上げて聴き入ろう。
心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。ヨハネ14:1
わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。ヨハネ14:27
わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。
1ヨハネ5:18
「心を騒がせるな、おびえるな。ただ信じなさい」
天にも地にも響き渡るみことば、昨日も今日も永久に変わらない。