福音 №385 2020年6月
「6月」
「もしもし、カエルの鳴き声聞こえる?」
山陰に住む友の声の背後で、確かにゲロゲログヮァグヮァとカエルの合唱。
「うん、聞こえる」と言うと、
「カエルの声聞かせてあげようと思って、今、田んぼのあぜ道にいる」と、彼女。
昨年もほとんどカエルの合唱を聞かなかったと言った私の言葉を覚えていてくれたのだ。
「今日は、午後2時間ほど田植えの植え継ぎをしました」というメールから5日目、夜8時過ぎ、カエルの声を届けたいとあぜ道に立っている彼女を思い、こんな友がいるなんて、私もすてたものじゃないと思えた。
でも、携帯電話とは不便なもので、その人の声が止まるとカエルの鳴き声も止まる。話し出すと背景のカエルの声も聞こえる。カエルの合唱を聞き続けるために、彼女にも小さな声で「ゲロゲロ」と言い続けてもらって、そこは普段の生活では想像もできないほど広やかな世界だった。
「ホタルが光ったらまたメールするね」と言って電話が切れてからも、なつかしい田んぼの香り、幼い日の田植えの風景、そして彼女とのたぐいまれな出会いなど、心はどこまでも広がっていった。
ありがたい、とはこういうことに違いない。
そして思った。人の生きている意味は、その人の中にだけあるのではなく、生きる意味は共有するものなのだと。
「隣人を自分のように愛しなさい」、
このイエス様のお言葉は、
「その時、あなたは生きるようになる」と続いているのだと、ふと思う。
コロナになってクラウドファンディングの動画に、奥田知志さんと若松英輔さんの対談があって、そこでの若松さんの「ホーム」の表現が心に深く届いて、他にもと、若松さんの講演の動画で「志樹逸馬」という詩人を知って、「新編 志樹逸馬詩集」をアマゾンで購入。ほんの数日で手元に届き、そうか、人と出会うとはこういうことかと噛みしめている。
肉体と心
落ちていく私と
飛翔してゆく私と
ああ この私は一つの体であるというのに
〇被造物だけでなく‘霊‘の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。ロマ8:23
大空を仰ぐとき
大空を仰ぐとき
地にある万人の瞳を感じます
風のそよぎにふれるとき
万人のささやきを聞きます
水をのむとき
万人と共に生きていることを
味わいます
〇すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、12の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が5千人ほどであった。マタイ14:20-21
雨の降る日
私はなにもしない
何もかも濡れてしまって
眠ったように
雨の唄をきいている
幸か 不幸か わからない
白い空から
雨は こやみなく 降って
雨だれの音だけが
しずかに扉を叩いている
〇見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。ヨハネ黙示録3:20
夕映え
夕映えの空に
うすもも色の雲は
じっと動こうともしない
ああだのに
もう・・・
山も 海も 人家も 樹木も
いつしか
うす暗い暮色の中に
沈んでいこうとする
夕映えよ
あした またあした
いいえ
―これからさき
私がどのような環境におかれ
孤独と病苦に
汚れた体を
暗いベッドにすがらせるときも
きっと
この美しい素顔をみせておくれ
しずかな入江の桟橋に立って
私は
いつまでも生きていたいと思う
〇「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。エゼキエル18:32
まよっても
まよっても
人は
神にかえる
カエルの鳴き声のお礼にとこの詩を送ったら、
「まよっても 人は 神にかえる」って印象的。
放蕩息子のことを思います。
神様は愛のある方だね。
午後八時、今日は蛍が4匹飛んでいた。
月の光と、蛙の声だけが聴こえる。
静かです。
と、返信あり。
「昼間草取りをして、きれいな草なので送ります」と、ヒメコバンソウの写真が添付されていた。