福音 №388 2020年9月
「命より大切なもの」
わたしは道であり、真理であり、命である。
わたしを通らなければ、
だれも父のもとに行くことができない。
ヨハネ福音書14:6
「最大級の台風です。命を守る行動をとってください。自分の命を守ってください」。言葉は正確でないかも知れないが、ともかくNHKのニュースで、命、命とくり返されるのを聞きながら、違和感を覚えた。・・・私にとって命とは、イエス・キリストです。命という言葉をそんなに軽々しく使わないでください・・・そんな勝手な私の思いで、アナウンサーに文句を言ってはいけないけれど、でも台風で避難を呼びかけるのに、もっと適切な言葉はないのだろうか。
先日いただいたお葉書に書かれていた星野富弘さんの詩を思った。
いのちが 一番大切だと
思っていたころ
生きるのが苦しかった
いのちより大切なものが
あると知った日
生きているのが
嬉しかった
「いのちより大切なもの」、そのことに思いを巡らせていた時、友人が貸してくれた帚木蓬生著「守教・下」の裏表紙に書かれた言葉が目に留まった。
禁教の嵐が日本を襲った。苛烈を極めた拷問、眼前で行われた磔刑。・・・「人間には命より大切なものがあるとです」一人の男が決断した殉教、あふれてやまぬ涙。
帚木さんは「守教」の執筆動機の一つとして、次のように語っている。
「文字通り歴史の彼方に埋もれた人々を書かねばという思いがあった。・・・海を渡ってきた宣教師や日本人の神父や修道士、最高時には数十万人超もいた信徒たち・・・、彼らが伴天連追放令や禁教令で消えてしまった事実を、あるいは、キリスト教を受け入れた百姓たちの日常がどう変わっていったのかを、記しておきたいと言う思いがあった」解説より
「考えてみますと時代小説家、歴史小説家と言うのは、このキリスト教の日本に入ってきて盛んになったという時代をなんか見たくない、タブー視しているような印象を受けるのです。たとえば、キリシタン大名と言われる大友宗麟、有馬晴信、大村純忠、小西行長、高山右近・・・黒田官兵衛も熱心なキリスト教だったけれど・・・そういうことを、戦国時代、江戸時代初期の事件をたくさんの偉い小説家が書いているけれど、
そこのキリスト教の部分だけが書かれていないというのが、私にとっては非常に残念で、今回それを埋めるべく資料を集めて書き綴ったわけです。
たとえば、外国からあの当時、1549年ザビエルが鹿児島に着いてから日本に渡ってきた宣教師たちはおそらく200人に上るのではないでしょうか。日本人の修道士、神父はおそらく1000人をかるく超えると思います。信者は最高の時点で100万人に達していたのでは・・、それくらいキリスト教は栄えたんですね。それが、バテレン追放、禁教令の中で消えていくわけで、その過程というのは非常に大切であり、日本人が本当にキリスト教に慣れ親しんで帰依した時代があったんだということを、私たちは知っておく必要がある。そういう意味で「守教」は私にとっては 奇跡の書 であると言ってもいいのではないかと思います。」作家自作を語る、より
「守教」には当時1569年、秋月・荒平城大広間でのアルメイダ修道士の説教が、おそらくそのまま記されている。
「デウス・イエズスのおしえで、いちばんたいせつなものは、れいこんふめつです。あなたたちのからだはほろんでも、たましいはしにません。しんだあとも、れいこんはいきつづけます」
「わたしたちがしんこうするデウスは、ばんぶつをつくったそうぞうしゅです。ばんぶつをうごかし、ばんぶつをいのちでみたしています。もちろん、わたしたちにんげんも、デウスがつくりました。」
「にんげんがめざすのは、しんじつとぜんです。それをうむために、デウスはにんげんに、きおくと、ちせいと、いしをあたえました。きおくとちせいは、しんとぎ、せいとじゃ、ぜんとあくをくべつするためです。いしは、せいじつであり、とくをまなび、あいをあたえるためです。これによって、にんげんはデウスにちかづいて、れいこんがふしになります」
このあと、イエスズの十字架による罪の贖いと復活について、世の終わりにデウスの恩寵をいただいた人間は「このよにいたときのなやみ、あくとくからきよめられて、あかるく、うつくしいからだでよみがえります。そのからだはふしで、ひかりにみちた、てんじょうのよにいます。」と続いている。
「守教」を読みながら、当時の人たちがこのように数少ない言葉で、デウス・イエズスを信じ従ったのは、確かに聖霊によるのだと体が熱くなる。現代に生きる私が、たとえ聖書の隅々まで学び、正しく理解し、キリシタン信仰の問題を指摘することができたとしても、それで私が正しいわけではない。信仰は私たちが判別するのではない。私たちは皆、判別される存在なのだから。私たちは測る以前に、その心を、精神を測られているのだから。
私を見、聞いておられる主イエスが
「信じよ」と言われるのだから信じよう。
「祈れ」と言われるから祈ろう。
「愛せよ」と言われるから愛し、「仕えよ」と言われるから仕え、「自分を捨ててわたしに従え」と言われる、赦しを乞いつつ従って行こう。
「わたしのためにののしられ、迫害され、身の覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
マタイ福音書5:11-12
好きな御言葉だけでなく、どの御言葉も信じて行こう。