福音 №425   202310

「私はいる」

 

神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われた。

出エジプト314

モーセが、イスラエルの人びとをエジプトから連れ出すようにと命じられたとき、神様の名を問いました。その時のお答えが、「わたしはある。」であり、新しい訳では「私はいる、という者である。」となっています。

神はある、神はいる、神がおる、これがすべてです。

聖書の神、イエス・キリストの父なる神がおられるのに!と思うと、胸が熱くなって泣きたくなります。神さまがおられるのに、み~んな神さまなどいないかのように平気で生きている。み~んなの中に、もちろん私の日常もあります。

だから、どんなに拙くても「福音」を書いているのです。神がおるのに、神はあるのに、神はいるのに、いないようには生きられない、生きてはならないと、世と自分に対する精一杯の反抗なのかも知れません。

 

神がいるとは。イエスさまがこの世におられた日々を思い起こします。

「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい者は福音を告げ知らされている」(マタイ11-5) これが、当時の人が見聞きした、イエスさまのおられる情景だと思うと、誰だって喜びが満ちてくるでしょう。イエスさまは神の愛を語り、その愛を人々の日常の中に生きられた。

 

 ところが、旧約聖書を読んでいると、「神に逆らう民を滅ぼし尽くせ」と、神によって命じられる箇所が多くあり、今でいう「人権」などあったものではありません。神様はどうしてこんなことをされるのかと、訳が分からなくなります。だから、聖書を読むときは、旧約で止めてはいけない。新約聖書にこそ神の秘められた計画は完成しているのですから。

罪なるものを滅ぼし尽くせ、と旧約でくり返された厳しい言葉が、十字架上のイエスさまに成就しているのだと気づいた時、ここから新しい世界、愛と赦しの世界が始まった、永遠の始まりがここにあると驚嘆します。

「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。」コロサイ113

私たちはイエス・キリストの十字架によって、神の恵み、恩恵の中に移されているのに、なのに、なぜいまだに悪の力に縛られて、生きることは苦しい、苦しいと嘆き悲しまなければならないのだろう・・・。

どこを見ても、何を聞いても、神などいなくても人の知恵と力で生きられる。十分幸せになれると、私たちの忙しい日常がひっきりなしに告げているようです。そんな日常の中で、神の言葉を聴こうとするのは、とうてい自然なことではありません。にもかかわらず、今も人の言葉ではなく神の言葉に聴き入る人がいる。神の言葉に生きようとする人がいる。これこそ神が有る、神はいる、ことの確かな証なのかもしれません。

 

先日、マタイ福音書182135節の説教を読んで、このイエスさまのたとえ話から、「赦しは神の奇跡」であり、「赦しこそが神の世界秩序」であり、「赦しは最初で最後の真理」だと知りました。そして直感しました。このたとえ話に聴き入るなら、きっと日常の中に、全く新しい始まり、永遠への窓が開かれているに違いないと。

 

イエスは言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。」マタイ福音書1823-27

 

このたとえ話、王が神、家来は人、天の国には決済があるということ。人には、どのように生きたか、神に問われる日があるというのです。

ここで神は、1万タラント(スマホに聞くと6千億円)と、一番たくさん借金()のある人を赦し「借金を帳消しにしてやった」とあります。それも、決して返せないのに「きっと全部お返しします」などと、身の程知らずの(自分の罪が分かっていない)人です。この人は、自分も妻も子も持ち物も売らず、自分のものは自分のもののままで、借金を帳消しにしてもらいました。これほど神の赦しは大きいのです。でもこの人には、神の憐みが分かりませんでした。案の定、借金が無くなっても、心はもとのままです。借金を帳消しにしてもらっても悔い改めることができないこの人は、仲間の借金を赦すことができず、お互いに訴え合い、裁き合うという、この世の牢獄に留まることになります。せっかく赦されたのにです。

 

世界の歴史を見れば分かるように、今日も戦争は続き、人の悪は終わるところを知りません。しかし、悪が無限のものであっても、神は悪を超越しておられ、神であるがゆえに、人には支払うことの出来ない借金を赦してくださる。「赦しは神の奇跡」であり、「赦しこそが神の世界秩序」であり、「赦しは最初で最後の真理」だと、十字架が告げてくれます。

もし私たちが罪のまま、ただ神の憐みによって赦されたことを理解するなら、その時こそ神を愛するようになり、神との美しい交わりが始まるのだと教えられました。

この世には「赦し」という窓が開かれています。この窓から見上げると、イエスとその十字架が見えます。

創造の神は、救済の神。アメイジンググレイス、すばらしき神の恩寵に感謝!