福音 №427 2023年12月
「神のため、人のためにと」
夜中に目が覚めて、ふっと一つの短歌が浮かんだ。
神のため人のためにと身を捧げささげつくしてわが妻はゆきぬ
人は自分とはかけ離れた人にこそ強い憧れを覚えるのだろう。この歌を読んだとき、気が遠くなるほど感激したものだ。さて、この歌はどこにあったかと思いめぐらし、野村伊都子さんの「流れのほとりに」の中に、たしか、ハス博士の歌だと思い、起き出してその本を探した。「流れのほとりに」は、もうほとんど暗記しているといっていいほどの愛読書、必ずあると探して、読み始めるとその通り。
「東の空が白んでくると、もやのたちこめるハス池に朝の玉露をいっぱいにふくんで、ハスの花はこうやって、このように、こういうふうに、だんだんこう開いていってね・・・」
ハス博士は、手のひらと指で大きなつぼみをつくり、それをだんだんとひらき、だんだんとつぼめ、またひらいてみせるのだった。p58
「81歳のハス博士逝く。白い大きなハスの花が散った。そんな感じの大賀一郎博士の死であった。古代ハスの精が身がわりに、この世に送り出したようなロマンチストの学者の一生であった」と、朝日新聞に報じられたとあるが、そのハス博士が、うた夫人を読んだ歌だった。
「…彼女は僕が関係していた学校の小使いの娘だった。僕はその父親のところに懇望に通った。むろんことわられたよ。友人も親戚も猛反対だった。しかし内村先生が賛成してくださった。彼女とは学問、家柄、年令、性格等あらゆるものが違っている。だがただ一つ信仰だけは一致していたから」
その うた夫人こそ、新婚の日から一番下がまだ5歳という、博士の12人の弟妹を全部育て上げ、貧しい博士の日常の糧を生み出し、研究費を生み出し、博士をして霊肉共によく生き長らえさせ、よく神様の御用にいそしむことをえしめた人であったから。P61
その後に、この歌はあった。
神のため人のためにと身を捧げささげつくしてわが妻はゆきぬ
妻うたが逝って百日を経ました。それは私にとっての大事でした。・・・
もう寝られそうもないので、「流れのほとりに」をめくっていると、「エレミヤ」という文字が目に留まった。題は「出会い」。野村伊都子さんのイエス・キリストとの出会いを書いたものだが、その内容はあまりにも重く、深く、高い。
「勝つまでは!」と、がむしゃらに身を削ることで今の苦悩をごまかすことを覚えてからは、しゃにむに挺身しました。そして敗戦の日、がっくりとたおれ、以来20年、未だ肉体は傷跡を消すすべもなく、刺あるままとなりました。
戦後の苦しみはみな同じです。そのなかでも、肉体的・精神的・経済的に、およそ希望の一片すらなくして厄介者でしかない長病み者は悲惨です。私はこの悲惨な自分を自らの意志と手で葬ることを考えました。・・・p26
野村さんは、今日が最期と枕辺の整理をしていて、本の下積みになっていた旧新約聖書を見つける。だれかが持って来てくださったのに、1ページも開いていない自分を恥じ、パラっとめくって見つけた「エレミヤ」という文字。
かつて、響きが好きで忘れ得なかった文字、言葉となった「エレミヤ」が、こんなところにいて死の床の私を救うために待ちうけていてくれたとは―。私は食い入るようにしてそのまま聖書に読み入りました。P26
私はこの野村さんの文を何度も読んでいるけれど、いつも不思議に思うのは、あのエレミヤ書をはじめて読んで、死ぬ覚悟が生きる覚悟に変わったということ。
聖書という本は確かに不思議な本で、その一言が今を生きる力となり、暗い心がパッと明るくなり、絶望が希望に変わることは本当にある。だが、野村さんの読んだのは新約聖書のイエスさまの言葉ではなく、あのエレミヤ書である。
「エレミヤの言葉。彼はベニヤミンの地のアナトトの祭司ヒルキヤの子であった。主の言葉が彼に臨んだのは、ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代・・・」こんな名前や地名から始まり52章、110pもある長い預言書。野村さんは、これを読み進めてエレミヤの孤独が身に沁み、エレミヤの痛苦、天を仰ぎ臥す慟哭、切々とした言葉、彼の叫びに腸を断たれたという。
そして私なりに歩んできた過去の道程のすべてが痛みとなり、この痛みに流す涙によって、目の塵が洗われていくのを覚えました。
「心はよろずの物よりも偽るもので、
はなはだ悪に染まっている。
だれがこれを、よく知ることができようか。
『主であるわたしは心を探り、思いを試みる。
おのおのに、その道にしたがい、
その行いの実によって報いをするためである。』」17-9・10
ここに至って脳天が割られました。思いかえせば、ものごころついてより、つまるところは偽りに対するあくなき憤りと、その審きをすることのみに自分だけを正しいとして人生の遍歴を思索してきた私ではなかったか。
「背信の子どもたちよ、帰れ。
わたしはあなたがたの背信をいやす」3-22
「見よ、われわれはあなたのもとに帰ります。
あなたはわれわれの神、主であらせられます。」3-22
星もなく月もなく、真暗やみに外界はしんとして更け、私はまんじりともせずエレミヤと共に夜を明かしました。次第にしらんでゆく朝の光に、枕元の黄水仙が二輪、ほのかな匂いをはなってくれていました。 P28-29
私も、もう寝てはおられないとエレミヤ書を読み始めると、「難しいねえ」と言いながらも集会で何度も学んできたせいか、不思議なほどスラスラ読めて、私の心に残ったのはただ一つ。「神の言葉を聞くこと、神の言葉を信じること、それがすべて。」
主よ、あなたがいやしてくださるなら わたしはいやされます。
あなたが救ってくださるなら わたしは救われます。エレミヤ17:14
死ぬ覚悟で生きる私たちに、さあ生きるのだと、永遠に生きる覚悟を与えるために来てくださったイエス・キリストさま。メリークリスマス!