福音 №417 2023年2月
詩編
主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。詩編5:4
クリスチャンの多くの人が大切にしている、朝食前の「御言葉と祈り」の時間。
今年は詩編から読み始めようということになって、1月1日が詩編1編、1月のうちは15日なら15編と順調でしたが、2月になると、その日に31を足して、今日は7日なので38編という具合に、お互いにそのページを開いて交互に読みます。
聖書はどこを開いても、何度読んでも、はじめて読むような感動を覚えるものですが、詩編はまた格別です。ほぼ暗唱しているような聖句も、みなぎる命に心打たれます。
青空を見る度に永遠への思いが広がるように、夕焼けを見る度に天の国がなつかしくてたまらないように、この世の現実を超える神さまの現実が迫ってくるからです。
祈りによって天が開かれると言いますが、詩編は祈りの書だと、改めて感動しています。
祈りとは、静まって神さまの御声を聴くことだとも言われますが、でも詩編には、もっと直接的な、神さまへの「叫び」が満ちています。
「主よ、立ち上がってください。
わたしの神よ、お救いください。」3編8節
「呼び求めるわたしに答えてください
憐れんで、祈りを聞いてください。
主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。」4編2、7節
「主よ、わたしの言葉に耳を傾け
つぶやきを聞き分けてください。
わたしの王、わたしの神よ
助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。
あなたに向かって祈ります。」5編2、3節
「主よ、憐れんでください
わたしは嘆き悲しんでいます。
主よ、癒してください。」6編3節
詩人の叫びをこうして書いていくと、鮮やかに見えてくるのは「主よ」「わたしの神よ」という力強い呼びかけです。詩編はどこを開いても、「主がおられる」「神は生きておられる」という力が迫ってきます。これが祈りなのだと、改めて実感です。
この世の事でも、手紙を出すときは宛名をはっきりと書かなくてはなりません。入試の願書も学校名がなければ届きません。ましてや、どうしても聞いていただきたくて祈るのに、誰に向かって祈るのか、そこがあいまいでは困ります。
「神よ、あなたはわたしの神。
わたしはあなたを捜し求め、わたしの魂はあなたを渇き求めます。」詩編63:2
「神よ」と呼びかけるとき、「あなたはわたしの神です」という熱い思いがあればこそ、その祈りが即座に聞かれようと、聞かれまいと、わたしの神は最善をなしてくださると信じることができます。最初は心焦り、どうか、どうかと思いをぶつけるばかりでも、いつしか「人知を超える神の平和」に守られて、「あなたはわたしの神」という喜びに満たされるのです。
わたしたちは主を知ろう、
せつに主を知ることを求めよう。ホセア6:3
そうです。クリスチャンが朝毎の、夕毎の「御言葉と祈り」を何よりも大切にするのも、神さまを、神さまが私たちを救うために与えてくださったイエス・キリストさまを、もっともっと知りたいと思うからです。誰に祈っているのか分からないような、あいまいな祈りではなく、「あなたはわたしの主です」、「わたしの神よ」と、まっすぐに祈りたいからです。
人は本当に困った時、命にかかわる問題が起きた時、本能的に祈りたくなるのではないでしょうか。それこそが、私たちの祈りを待っておられる神さまが生きておられる証拠のように思えるのです。
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わたしは良い羊飼いである。
良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 ヨハネ福音書10:11
イエスさまは、ご自分を求めて押し寄せる群衆を見て「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」マルコ6:34とあります。
日本では羊を見る機会は少ないけれど、犬を3匹もつれて散歩している人に出会うことはあって、わが家にも一羽だけれどクーちゃんがいて、その運命は飼い主にゆだねられています。飼い主に捨てられたペット、鳥インフルエンザとかで埋められる鶏、そんな動物を見るとき私たちの心は痛み、抵抗できない姿に辛くなります。
ふと思うのですが、イエスさまが群衆を見て、内臓が痛むほど憐れまれたとあるけれど、イエスさまのもとに集まった人たちは、捨てられた猫や埋められる鶏ほど無力ではなかっただろう。みな欲も得もあり、自己主張もし、この世で上手く生きていくすべを身につけた人もいたでしょう。なのに、その人たちを見て憐れに思われたとはどういうことだろう。
そうか、イエスさまは、どこまでもついて来る人たちは大勢いても、その中に良き羊飼い、永遠の命への導き手、真の指導者がいないのを見て、これではいずれ滅びてしまうと憐れまれたのです。
確かに、集合体は、リーダーによって方向が決まります。家庭も、国も、学校やあらゆる組織も、上に立つ者が悪ければ、悲惨と混乱は必ずやってきます。ヒットラーを指導者としてどうなったか、天皇を神と仰いでどうなったか、だから私はひとり思いどおりに生きていく・・・それこそ飼い主のいない羊の姿です。
イエスさまがこの世に来られたのは、人の悪を責めるためでも汚れを疎んじるためでもなく、神の愛によって私たちを新しくし、まことの命を与えるためです。
「良い羊飼いは羊ために命を捨てる」と言われたイエスさまは、お言葉どおり十字架について、罪を贖い、私たちを永遠の命に生きる者としてくださいました。
私たちは、この世の終わりの日
「人の子(イエス)が大いなる力と栄光を帯びて、天の雲に乗って来る」との御約束を信じ、喜んで待っています。