福音 №421 20236

「イエスさまがおられる」

 

「新日本風土記」の再放送で、永平寺での「起きてから寝るまで全てが修行」という雲水(修行僧)の一日、一年の姿を見た。「禅」の中に真理を追い求め、只ひたすら坐禅し、生活のすべてを決められた通り、アッと驚くような修行を続ける。人間にはこんな生活もできるのかと胸打たれるのは、深い雪につつまれた永平寺や森の凛とした美しさと、修行僧の姿が見事に調和しているからだろう。ただ一度見ただけで、そこで語られた言葉をメモしたわけでもないから、決して正確ではないが、修行の目的らしき言葉は印象的だった。「壁に向かって黙って座り続けて(ある期間は一日十時間)、自分を捨てて大自然の一部になる・・・」という。その言葉に、そうか!とうなずいた。人間は、あれも欲しい、これも欲しい、便利で、快適で、好きなように生きて満足!という訳にはいかない存在なのだ。

 

 だが、「自分を捨てる」のは禅の世界だけではない。イエス様も

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」マタイ福音書16:24

と言われた。イエス・キリストを世界に伝道したパウロは、

「わたしたち(キリストを信じる者)の中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」ロマ書14:7-8という。

これはすごいことだ、座り続けて自分を捨て自然と一体になるどころではない。人はキリストを信じる時、もはや自分のために生きたり死んだりすることなく、すべてが主のためなのだという。これほど自分を捨てきった姿はない。

 

 こう書きながら、ふっと気づいた。同じ「自分を捨てる」であっても、自分を捨ててイエスさまに従うとき、そこにはイエスさまがおられる!

光であり、命であり、全き愛であるイエスさまがおられる!

 

イエスさまが「自分を捨てて、わたしに従いなさい」と言われるのは、自分が空っぽになって、煩悩を捨てて、自然と一体になるためではない。罪と汚れに染んだわが内に、イエスさまが生きてくださるためだ。

 「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところに行き、一緒に住む。」ヨハネ福音書14:23

とイエスさまは言われる。

この世にあって、父なる神とイエスさまが一緒にすんでくださる。それにまさる喜びがあるだろうか。この喜びを知った者は、もう決してイエスさまなしに生きることはできない。

 

詩編には、神と共にある喜びが泉のようにあふれている。

 いかに幸いなことでしょう

あなたの家に住むことができるなら

まして、あなたを讃美することができるなら。詩編84:5

 

 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。

  命ある限り、主の家に宿り

  主を仰ぎ望んで喜びを得

  その宮で朝を迎えることを。詩編27:4

 

しかし、イエスさまのお言葉は甘く心地よいばかりではない。その厳しさは、家族を離れ一人になり、ひたすら修行に励みなさいどころではない。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」マタイ10:37と言われる。

信じるとは、やはり命がけである。それも、自分の決心や勇気でできることではない。イエスさまに、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と誓ったペトロも、次の日には「そんな人は知らない」と言ってしまった。

そんなあやふやな弱い私たちを励まし、どこまでも信仰へと導いてくださるのは神である。

「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」マタイ19:26

 

イエスさまを「わが主」と信じ、第一にして生きること、それこそ父を真に生かす道、母を愛する道、息子、娘に永遠の命を示す道、みな共に

「わたしたちの国籍は天にあります」フィリピ3:20と喜び祝う道。

 

これも随分古い番組だけれど、先日再放送で、鶴田浩二主演の「男たちの旅路」というドラマを見た。特攻隊で生き残った人が、死んでいった友人たちに義理立てをして、生涯一人で生きていく。最終回で、若い病気の不幸な女性を愛して、指一本触れないまま命をかけて看病する姿を、すごい!と思った。鶴田浩二の演技がうまいだけかもしれないが、以前の私なら、ああ、こんな愛もあるのかなって感動したことだろう。

 

でも今は、

「急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」ルカ19:5

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」マタイ14:27

と言われるイエスさまのお言葉を聞いたから、

汚れた私の足を洗い、

「父よ、彼らをお赦しください」ルカ23:34 

と十字架の上で祈られる、キリストの愛を知ったから。

もうこれでいいかなって、うれしい。

もう何もいらないなって、喜びが満ちてくる。

 

主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。1テサロニケ5:9-10