福 音 |
最近ある方に、二冊あった「杣友豊市文集」を一冊さし上げた。その方は、すぐに読まれて「とても良かったです」と言ってくださった。そして、「その文集の中で引用されていた、服部治という方の文章に心惹かれるので、その方の著作がないか図書館で調べてみます」と言われていたが、その後、「一つの福音、一つの交わり」という本が見つかり読んでおられるとのことだった。
私が服部治さんと聞いて、まず思い出したのは、「イエスさま主イエスさまイエスさま主イエスさま主イエスさま」という分かったような分からないような短歌だった。たった一度、ご講演を聞く機会があったが、その時「現代の偶像はお金だ」と言われたのを覚えている。それから、大阪に来てまもない私に、住所が近くだからと一人の信仰の友を紹介してくださった。その方は、服部さんが格別愛おしんでおられた方の親友とのことで、大阪狭山市駅の近くに住んでおられた。一人っきりで聖書を読んでいた私は、すぐに電話をし、夫を誘い、つたい歩きを始めたばかりの長女を連れて、その方の家庭集会に参加させていただいた。その方は教会に集っておられたが、イエスさまの喜びにあふれておられ、その喜びが夫をキリスト教に引きつけたのだと、私は今も心密かに思っている。
数日前、ふと本棚を見ると我が家にも「一つの福音、一つの交わり」という本があり、読み返していて、あのなつかしい短歌を見つけた。
今月の「福音」は、お読みくださる方々へのクリスマスプレゼントに、その短歌の書かれている服部治氏の短文を転載させていただきます。
三十一文字
イエスさま主イエスさまイエスさま主イエスさま主イエスさま
これが短歌だと言ったら、専門家はもちろん、たいていの人が吹き出すだろう。しかし、この児戯に類する腰折れを、私はまじめになって称えているのである。
四十才でばったりと医者をやめ、外国米の石をひろいながら短歌に打ち込み、そうして命をおとした父が、朝な夕な独特の調子で口ずさんでいたそのいぶきが、ある日、このわたしの口をついて出たものであって、どうにもならないのである。
事実、私のうちにあふれる主イエスの思いは、このみ名を何べん繰り返しても足りない。死ぬまで言いつづけても、十分とは思えない。書いて書いて書きまくって、紙ばかりか、石にも木にも、家にも人にも、天上にも地下にも、地獄や悪魔にまでも書きつけて、それでもなお書き残しがある感じだ。やむなく短歌の形をかりて、もはやこれ以上書き加える余地のない三十一字によみ尽くしたわけだ。まことに短歌はありがたものである。
ひとりよがりではあるけれど、この歌は、私にとっては天地一切であり、それを占拠される主イエスご自身である。
父がそうであったように、私もまた窮乏の道を選んで四十年を歩んできた。さいわい私は、父が模索して得られないで終わったものを、得ることができた。父の執念が、この身に成ったような気がする。父はよく「わたしは死んでも、お前として生きる」と言ったものだ。
かけがいのない人生をかけて与えられたこの至宝を、私は私なりに大切にして生きてきた。わが愛のきわみなる主、この主を思う思いこそ、わが生きがい、また死にがいである。 私がこんなにも主を思うようになったのは、主が先ず私を愛して下さったからだ。あるとき気がついてみると、私のために天から下ってこられた主が十字架につかれ、三日目によみがえり、私を罪と死とさばきから救っていて下さったのを知って、主を信じた。そして主は今日まで、いや増す愛をそそいで、私を導いて下さった。
私の主は、天地のつくり主、生ける真の神のひとり子、天地創造の前から父とともにおられ、万物は主によって造られた。主は真実であられ、罪なく、しみなく、けがれなく、その義は完全、その愛の広さ長さ高さ深さは計りがたく、父に満ち満ちる一切のよきものを備えられ、私をもふくむ全人類のいのち、また光であられる。
この主のほかに救いはない。私たち信じる者の主となられたこの方こそ、君の君、主の主として万国万民を統べ治められる方、やがて父のみもとからこられて、新しい国をひらかれる。その日を私たちは一日千秋の思いで待ち望んでいる。
では、もう一度、詠嘆させていただこう。
イエス君ああイエス君イエス君ああイエス君ああイエス君 1967年1月
私の周りにさえ、こうしてキリストに命をかけて従われた方が何人もおられるのだ。そして、その方々の熱い祈りと愛の労苦によって、私もまた「イエスさま、ああイエスさま、イエスさま」と主の御名を呼び、その喜びにあふれるものとされてきたのだ。そのお一人お一人に恩返しはできなくても、その方々を突き動かし、今も愛によって迫られる主イエス様の証人として、私もまた誰かのために、小さな祈りと小さな愛の労苦を捧げる者でありたいと、熱い思いがあふれてくる。
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暗い中を歩いて光を得なくても、なおも主の名を頼み、
おのれの神にたよる者はだれか。 イザヤ50:10(口語訳)
口語訳で心に深く留まっているこの御言葉を、他の訳でも調べてみると、新改訳では「暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主に信頼し、自分の神に拠り頼め。」となっている。
今年は確かにこの日本にも暗やみが押し寄せ、その闇の力は今も多くの人を不安や絶望に引きずり込もうとしている。だが来年は今年のように暗いことは起こらぬと、誰が断言できるだろう。社会的にも、個人的にも。しかし、それでも主は言われる。
わたしの救いはとこしえに続き
わたしの恵みの業は絶えることがない。イザヤ51:6
そして、暗やみの中でこそますます「主に信頼し、自分の神に拠り頼め」と言ってくださる。
今年一年の主にある良きお交わりを心より感謝いたします。新しい年も、喜びの日に悲しみの日に、何があっても、飽くまでも神を信じ、ひたすら祈ることができますように。兄弟姉妹、このような時にこそ愛によって深くつながっていることができますように。
「然り、わたしはすぐに来る。」
アーメン、主イエスよ、来てください。 (ヨハネ黙示録)22:20)
久しぶりに近くの老人専門病院を訪ねた。もう20年の付き合いになるOさんも、骨折をして寝たきりになってからは、私のこともほぼ分からない。白内障の手術の途中で脳溢血を起こし、気がついた時には盲目になっていたというOさんは、初めの頃、散歩に誘っても一歩も歩かなかった。今日は3メートル、次回は5メートルと歩く距離を伸ばし、ついには、看護師さんに見つからないように病院の外まで散歩したことを思い出すと、何ともなつかしい。今では私のことどころか、自分のこともほとんど忘れているから、Oさんの子供さんのことや、Oさんの幼い日のことを話すと「あんた、よう知っとるなあ」と感心してくれる。以前Oさんが話してくれたことばかりなのに、今ではOさん自身より私の方がOさんのことを良く知っているという不思議に、ちょっと感動する。歌も忘れたというけれど、歌い始めると少しは思い出すらしく、♪秋の夕日に照山もみじ♪静かな静かな里の秋、そして最後に♪月が出た出た月が出た、と炭坑節を一緒に歌って病室を後にした。炭坑節の2番の歌詞を教えてくれたのもOさんだった。「友達はいいなあ、また来てや、必ずやで」と大きな声でくり返すOさんの笑顔は、私の人生の一部かもしれないとふと思う。
Oさんはこの20年、何をしてくれたわけでもない。いや、歩ける時は週に一度、病院の廊下など一緒に歩いてくれたけれど、病気で時間の観念のないOさんだから、行くのを待っていてくれるという訳ではなかった。彼女はいつもすべてが受け身だった。それでも私はOさんと歩いたり歌ったりするのがうれしかったし、歩くこともできなくなり私が誰だかわからなくなっても、Oさんは私にとって大切な人だとしみじみ思う。Oさんも「また来てな」と喜んでいる。病院側では大変な存在らしいが、私たちはお互い何の利害関係もなく、存在を喜び合っている。こんな不思議な、素敵な関係はイエス様が与えてくださったとしか思えない。
イエス様は言われた。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ヨハネ13:34
イエス様が愛してくださったように、と思うと、愛とは命がけでなければならないようにも思う。確かに「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」ヨハネ15:13と言われている。でも、お互いの存在を大切に思い、お互いを喜び合う、これだって愛の一つの形であるに違いなく、そんな大層なことはできない私でも、これからもOさんのように大切な人を、一人また一人と増やしていけたらと思う。増やしていくというより、神様の出会わせてくださった方を、かけがえのない人として心から大切にしていくこと。イエス様の愛の戒めは、想像もできないほど深く高いものに違いないが、あの人この人を大切に思い、神様にその存在を感謝する時、確かにこの世では得られぬ喜びと平安が満ちてくる。そして幸いなことに、大切に思うべき相手はいくらでもいる。誰かの助けを必要としているすべての人は、神様が「互いに愛し合う」ために備えてくださった人。できないことを嘆くより、今できる小さなことから始めればよいと、Oさんの笑顔が教えてくれる。
次に訪ねたTさんは今年1月で100歳になったが、いつ行っても不自由な手で編み物などをしている努力の人。同郷なので、会う度に話しもはずんだ。ところが今回は、「ええっ、これがTさん」というほど面変わりしており、言葉もおかしい。詳しい事情は分からないが、最期の時も遠くはないだろう。ここ数年、見舞客もごく少なくなったと話していたが、Tさんは今何を考えているのだろう、何を思っているのだろう。信仰は今日を生きるために必要であるが、死ぬ時にこそ、無くてならぬものだと胸が痛んだ。
エレベーターで2階に下りて、Yさんの所へ。Yさんとの付き合いも、私がヘルパーとして勤めた時以来、20年を超える。気難しいおじいさんだが、人生についてよく語り合ったし、病院を出て少しの間一人暮らしをした時は、桜並木を散歩したり、電車に乗って出かけたこともあった。Yさんは浄土真宗で、キリスト教の本もよく読んではいたが、それでも信仰的思いが一致することはなかった。今回、Yさんも急激に弱りほとんど会話もできなかったが、何かを訴えるような目が悲しかった。Yさんは今、何を考えているのだろう。何を思っているのだろう。
死とは何と重い現実だろう。だが、
「弔いの家に行くのは、酒宴の家に行くのにまさる。
そこには人皆の終わりがある。命あるものよ、心せよ」
とコヘレトの言葉7:2にあるのは、人が真に生きるためには、死と向き合うことが必要である、と言うことだろう。確かに、自分がいつの日か死ぬ、それは20年後かもしれないし、明日かもしれないと真剣に考える時、今日をいかに生きるべきか見えてくる思いがする。終わりのない日々なら、今日という日に重みはないが、「はい、そこまで」と、天からの声が必ずあると思うと、今日という日が何と愛おしく、何と貴重に思えることか。
「何事をなすにも、お前の人生の終わりを心に留めよ。
そうすれば、決して罪を犯すことはない。」シラ書(旧約聖書続編)7章36節
聖書には「死」という言葉が新旧合わせて962回、それではと、「生」という字を検索してみると1312回。聖書が人の死を語り、にもかかわらず、「生きよ」と語り続ける書であることを、この数が暗示しているようにも思える。
「『イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死を も喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる。」エゼキエル18:32
「生きよ」と語りたもう神は、私たちが真に生きるためにキリストを与えてくださった。
キリストだけが、罪にまみれて死ぬより他ない私たちを死から命へと導き、永遠の命を与えてくださるお方。私たちは、空しく死んでいくためにではなく、永遠の命なるキリストに出会うために生れて来たのだ。罪の苦しみ、救いの喜び、すべてキリストが教えてくれた。
このキリストが死にゆく人たちを、今日も訪ねて歩いておられる。
<信仰>
神を信じる、そうすると私の心の中に一本の道ができる。真っ直ぐに、天まで続く道が見えてくる。
神を信じない、そう思うとその道はたちまち壊れ、心の中はぐちゃぐちゃになる。何が正しいのか、何が大切なのか分からなくなり、生きる力や喜びも失せてしまう。いったい自分は何をすればいいのか、何を求めているのか、今日の日をどう生きればいいのか、振り出しに戻ったような思いで、混沌の中に立ち尽くすばかり。
この二つの自分がはっきりと分かるから、今日まで生きてきて与えられた最大の恵みは「神を信じる」という信仰であったと心の底から思う。これが原点であり、ここからすべては始まった。
私の信じる神がどのようなお方であるか、聖書がそれを教えてくれる。聖書によって「初めに、神は天地を創造された」と知り、人は「神にかたどって創造された」ことを知った。その人が、神に背いて神の顔を避けるようになり、怒りや憎しみで人が人を殺すようになったと知った。そんな無残な人間に、神は「神を信じる」という祝福の道を開かれたが、しかし、その道を歩み通すことのできた人は一人もなく、罪を犯さなかった人は一人もなかった。長い歴史を経て、地上にただ一人、神を信じぬき、ただの一度も罪を犯さず、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで神に従いぬいたお方が現れた。この方こそ、神が私たちに与えられた救い主、イエス・キリストであり、このキリストを信じる人は、不完全なままで、罪と汚れにまみれたままで、神の祝福に入ることができるのだと、聖書は告げている。
「このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」1コリント1:30
声に出して言ってみる。
「キリストが私の義(正しさ)となってくださった。」
「キリストが私の聖(清さ)となってくださった」
「キリストが私の贖い(罪のつぐない)となってくださった」
キリストが私のすべてのすべてとなってくださった。これ以上何が必要だろうか。
このことを思い、このことを信じ、このことで満たされる時、キリストを復活させられた神はこの私をも復活させてくださると、素直に信じることができる。さあ、その日まで、主よ、憐れみによって心低くされ、どこまでもあなたに従い行かせてください。
<希望>
「脳梗塞で倒れて数年、ベッドに寝たきりで言葉も自由に出なくなってた老婦人の枕元に置かれた一冊の聖書。クリスマスの夜、娘さんが『お母さんはこの聖書全体から、何を学んだの』と語りかけた時、たった一言、『希望』とはっきり答えられたのだそうです。」
こう記された葉書をいただいて、私はいたく感動した。健康も、住み慣れた家も、親しい友も、何もかも無くしてしまったとしても、決して失われることのない希望。その確かな希望を聖書の中に見つけた喜び。
ペトロの手紙1章3~12節のタイトルも「生き生きとした希望」となっている。(前回の続きです)
それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。(6~9節)
それゆえに・・・、終わりの時の全き救いという、生き生きとした希望のゆえに、確かに、キリスト者は心から喜んでいる。
「今しばらくの間、試練に悩まねばならないかも知れませんが」とあるが、この肉体をもち、この罪の世にある限り、たとえ特別な迫害に遭わなくても、多かれ少なかれ誰にだって苦難は訪れるだろう。罪から離れ、神と共にある生活をしようとすると、それ自体が戦いであったりする。それらの苦難を聖書は何と言っているか。ここでは、信仰が本物かどうか明らかにするのに役立つと言っており、有名なロマ書5章では「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」とある。ある時、若い人から「練達って何ですか?」と質問されて、「それは練られた品性、人格が良くなるってことだね、きっと」とあいまいに答えていると、「忍耐できるようになることでしょう」と教えてくださる方があり、なるほど練達とは耐える力が増していくことかと合点がいった。「愛は忍耐強い」とある。愛もまた苦難を通して成長するものであり、耐える力が増すにつれて、永遠の命、全き救いという希望もいよいよ確かにされていくのだとわかった。
だが、その苦しみも「将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」とパウロは言う。たとえ苦難の日々が続いても、永遠に比べればほんの短い、限られた時にすぎないのだという聖書のメッセージは、地に住む私たちに天からの声援のようにさえ聞こえる。
聖書とは本当に不思議な書物で、「今日の、今の私にはこれだ!」と思える言葉がある。おそらく世界中のすべての人に、その日その時、それぞれにふさわしい言葉がある。慰めとなり、励ましとなり、力となり、希望となる言葉がある。
だからこそ、生きた神の言葉であるキリストを愛さずにはおられない。目で見なくても信じ、一心にキリストを思っていると、この世では得られぬ喜びが満ちてくる。「ここにまことの希望がある」と、辛く苦しい思いをしている人にこそ、神の言葉を届けたい。
☆希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。ロマ書15:13
ある二人の信仰の友から、もちろん別々の時に、ペトロの手紙1、2章18~25節を開いて、「これね、『あなたがたが召されたのはこのためです』って、本当にそうだと思うの。」というような、ひかえめな言葉を聞いた。二人が同じ箇所をとても大事そうに言われたものだから、ずっと気になっていて読み返してみた。
「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。」19~21
へえっ・・・、こんな従順って、こんな謙遜って、こんな信仰ってどこから生まれるんだろう・・・と感嘆するばかりだけれど、ともかく「ペテロの手紙1」を読んでみよう、一節一節、分かっても分からなくても、丁寧に読んでいこうと思った。
イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。1:1
あの、水の上を歩かれるイエス様を見て「わたしにも水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言った大胆なペトロ。イエス様が捕えられ裁判を受けている時、「イエスなんて知らない」と3度も言ってしまって、後で激しく泣いたペトロ。復活のイエス様に出会って「わたしを愛しているか」と3度も問われ、悲しくなって「わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」と燃えるような思いで答えたペトロ。その時、イエス様から「わたしの羊を飼いなさい」と言われ、その教えをしっかりと守って、迫害のさ中にある人々をも力強く励ます、こんなに良い指導者になったんだなあと、感動する。
このペトロの手紙のあて先は「ポントス、ガラテヤ、カパドキヤ、アジア、ビティニアの各地」となっているけれど、神の言葉は時空を超えて真理なれば、この各地の中に大阪狭山市も、この福音を読んでくださる一人一人の地域名も入れたってかまわない。ペトロだってそんなふうに読むことを喜んでくれるに違いない。ほら、よく「聖書は神様からのラブレター、自分で読みなさい」と言われるように、私のために書いてくれたと思えばこそ、ドキドキしながら真剣に読みます。
「大阪狭山市に離散して、仮住まいをしている選ばれた人・・・」神様、あなたは見ていてくださるのですね。なぜかここに、ポツンと置かれて、御近所を見ても神様を信じない人に囲まれて、それでも天の御国を慕いながら仮住まいしている私のことを。その上、あなたをわが神と信じ、キリストをわが救い主と信じるが故に、ただそれだけの故に「選ばれた人」とまで言ってくださる。私だけでない、「近くにクリスチャンの友がいなくて」と寂しがっているAさんも、遠くに行ってしまったBさんも、施設で一人祈っているCさんも、みんなみんな神様は天から見ていてくださって、「選ばれた人」と呼びかけてくださる。大丈夫だね、一人ぼっちでも。神様が見守っていてくださる。そして「わたしがあなたを選んだ」と言ってくださるのだから。
あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。1:2
ここでも「あなたがたは・・・・選ばれたのです」とくり返す。神様のずっと以前からの御計画によって。聖霊によってきよめられ、何よりも、イエス様に従い、罪の赦しという十字架の恵みにあずかるために選ばれたのだと。
クリスチャンとは選ばれた人、じゃあクリスチャンじゃない人は選ばれなかったということ?などというのではない。イエス様は言われた。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と。「だれでも来なさい」と呼びかけて、来た人に「あなたは選ばれていない」などと言われることはあり得ない。自分ではどうすることもできない重荷を抱えて神様に助けを求め、イエスのもとに行った時、じつは、この私も生まれる前から選ばれた存在だったと、そして神様は、今日までこの私を待っていてくださったのだと分かるのです。
恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。
「恵みと平和があなたをいっぱいにしますように」とペトロは祈る。なんて美しい祈りだろう。「あなたに神の恵みがありますように」「あなたに神の平和がありますように」。誰と出会っても、道行く人にでも、この祈りを届けたい。
神様は地に住む私たちに、祈りという天への道を備えてくださった。イエス様が命をかけて開いてくださったこの道を、荒れ果てた道にしないように、朝に夕に祈りを絶やさぬようにと、主の御名を呼ぶ。
わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。 1:3-5
神様はその豊かな憐れみによって、わたしたちを「新たに生まれさせてくださる」という。この世では一度犯した過ちは、取り返しがつかない。忘れたようでも消え去りはしない。それが積み重なって、いつしか私たちの人生を暗く無気力にしてしまうことも多い。こんな哀れな私たちを新しく生まれさせ、イエス・キリストの復活によって、私たちも復活するんだという確かな希望を与え、この世のどんな財宝も糞土のごとく思えるほどの天の財産を受け継ぐ者としてくださった。そのような最終的な救いを受けるために、私たちは神様の力によって、信仰によって守られているのだという。 ペトロと共に「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。」と心のかぎりに讃美しよう。
7月30~31日、幼児から高齢者まで62名の者が集められた近畿集会もあふれる恵みの内に終え、このような集会は、決して人の考えや分別によるのではなく、すべて主の御意志と導きによるのだと実感したことでした。「主にあって良からざるものはなし」と主をたたえつつ過ごし、それから4日後。
本当に夢のような一日でした。青森に住むIさんと共に鳥取の倉吉に住むTさんを訪ね、IさんとTさんの50年以上も前のたった一度の出会いの故に、Tさんのご家族みんなが歓んで迎えてくださったのです。こんなにも美しいもてなしがあるのかと、胸打たれるほど心のこもったおもてなし。玄関に活けられた3本のパイナップルリリーまで「よくいらっしゃいました」と微笑んでいるようでした。
そんな良き交わりの中で、何よりもうれしかったのは、Tさんのお父様の前でIさんが「私はキリストの神を信じておりますので、お父様のためにお祈りをさせていただきます」と、心のこもった祈りを捧げられたこと。
その時、私にはIさんが創世記47章7節に記されているヤコブのように思えました。創世記47章でのヤコブは、住んでいたカナンの地が飢饉となり、エジプトに住む息子ヨセフを頼って逃れてきた身なのですが、エジプト王ファラオの前に立った時、「ヤコブはファラオに祝福の言葉を述べた」と記されています。「お世話になります。よろしくお願いします」という挨拶ではなく、まずファラオの祝福を祈ったのです。王が自分の所に逃れてきた民を祝福するのならともかく、避難民であるヤコブが何の臆することもなくエジプトの王を祝福したのです。ヤコブはどんな状況にあっても、アブラハムに約束された神の祝福を受け継ぐ者であるという、尊い自分の立場を忘れることはなかったのです。
Iさんはよく「わたしはキリストによってあがなわれた、神の子ですから」と、さりげなく言われますが、それが単なる言葉ではなく、Iさんの日々の実感なのだとわかります。だからこそ、神様を信じない人の前でも、何のためらいもなくごく自然に、神の子として父なる神様に祈ることができるのです。そして、その祈りによってみんなが満ち足りた思いになり、ご家族の方まで「お父さん、お祈りしていただいてよかったね」と喜んでくださったのでした。
まだまだ夢のような一日は続きます。Tさんのお家を後にして、Tさんの運転で次に向かったのは鳥取砂丘の宿舎。そこでTさんが共に礼拝をしているHさんも合流してくださることになっていました。途中車の中で、今夜の小さな夕拝の聖書箇所を選び、讃美歌のコピーもして準備は万全。仕事を終えて駆けつけてくださったHさんと4人で、まず声を合わせて歌ったのが新聖歌171番。
今日まで守られ 来たりしわが身
つゆだに憂えじ 行く末などは
いかなる折にも 愛なる神は
すべての事をば 善きにし給わん 新聖歌171-1
ただ、神様の導きとしか言いようのない4人の出会い。それぞれに、その歩みのすべてを語り尽すことはできないけれど、今日まで確かに神様によって守られ導かれてきたんだという喜びに包まれて、「いかなる折にも、愛なる神は、すべての事をば、善きにし給わん」とは、私たち一人一人の心からの告白となりました。
読んだ聖書箇所はローマの信徒への手紙 第8章。
「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」という涙がでそうな宣言に始まり、「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」という高らかな勝利宣言まで、一節一節をたどりながら「そうだ、そうなのだ。神の言葉とは信じるためにあるのだ」と、私の心は叫んでいました。
Tさんは言いました。「わたしが苦しかった時、Iさんが書いて送ってくださった18節の『現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。』という御言葉がうれしかった。その御言葉に励まされて、生きることができた」と。
Hさんは言いました。「2節『キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。』とあるように、罪と死との法則から解放された私たちは、そのキリストの救いの御業を伝えなくては。どうして死にゆく人を黙って見ていることができるでしょう。」と。Hさんに与えられた特別な賜物を思って祈りました。
Iさんの日々の希望であるという主の再臨を思い、御国の完成を思い、その人知を超えた祝福の中に、取るに足りない私たちまで導き入れてくださった主の十字架を思い、次に賛美したのは新聖歌45番
「十字架の血に きよめぬれば 来よ」との御声を われは聞けり
「私たちは十字架のしるし、復活の証人」とくり返されるIさんの言葉の重さにたじろぎそうになる私も、「御言葉は信じるためにあるのだ」という啓示を受けて、へブル書9章14節「御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか」との御言葉をまっすぐに信じ、「主よ われは 今ぞ行く 十字架の血にて きよめ給え」と、心のかぎりに歌いました。
窓の外にイカ釣り船の光が見え始め、あっという間に過ぎた時を惜しみながら、主許し給うなら「また会う日まで」とHさんを見送り、その不思議な平安に、天国の前味とはこのことかと、夢のような一日は終わったのです。
「主よ、憐れんでください」と叫ぶしかない愚かな者を、主はかくまで憐れみ、守り、導いてくださるのだと味わい知らされた一日でした。
キリストを信じて、良かった。
ここに命があった。
聖書を読んで、読み続けて、良かった。
聖書こそ、希望の書だった。
神様の愛を知って、良かった。本当に良かった。
窓を開ければ、くちなしの香りが流れきて、
今日も誰かに、この神様の愛を
ひとしずくでも届けたいと祈る。
神に逆らう者はその道を離れ
悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。
主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。
わたしたちの神に立ち帰るならば
豊かに赦してくださる。 イザヤ55・7
ただ一つ、心のかぎりに証しよう。
主は、憐れみの神、赦しの神。
どんなに間違っても、悪しき心になっても、
「ごめんなさい」とひれ伏して、赦されなかったことは一度もなく、
「主よ、主よ」と御名を呼んで、答えられなかったことは一度もない。
私の内には、正しさも、賢さも、清さもないから、
でも、何もないからこそ、
ひたすら御名を呼び、今日まで生きてきた。
主の慈しみは決して絶えず、
主の憐れみは決して尽きなかった。
わたしは福音を恥としない。
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、
信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
ローマの信徒への手紙1・16
信じる者すべて。そこには一人の例外もなく、信じる者すべて。
どうしようもなく悪い心なら、だからこそ、主イエスにすがればいい。
もう取り返しがつかないなら、だからこそ、主イエスに望みをおいて。
今日を生きる力が出ない、だからこそ、主イエスのもとに逃れればよい。
イエス・キリストこそ、
信じる者すべてに救いをもたらす神の力なのだから。
ここひと月足らずの間に、実にいろいろなことがあった。いろいろな人に出会ったと言うべきか。「エエッ」っと感じるようなことが次々とあり、その度にいらだったり、腹立たしく思ったり。その抑えきれない思いを夫に聞いてもらって、夫は「ふんふん」と、良いとも悪いとも言わずにほぼ黙って聞いてくれるから、その名カウンセラーぶりにいつしか、「こんなことを言ってる自分が間違ってるよな」って気づいて、一件落着のくり返しだった。
だが、どんなに聞いてもらっても、そんなことを言っている自分のおかしさに気づいても、度重なる失望感に打ちのめされる思いがして、心は暗く沈んだまま。こんな私に「イエス様、すべてを捨ててあなたに従います」などと言う資格のあろうはずもなく、でもイエス様を離れるわけにもいかない。そうだ、イエス様につながったままで、適度な距離を置いてついて行こう。でも、それでいいのかなあ・・・と目を閉じれば、脳裏に浮かぶのは「
主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。」という、第一ヨハネ、3章16節の聖句。
「イエスさま」と呼んでみる。「わたしはあなたのために命を捨てた。わたしのすべてをあなたに与えた。わたしはあなたを愛している。それでもまだ不足か」とささやく御声を感じて、涙ながらに悔い改めた。
次に心に浮かんだのは「愛は忍耐強い」という第一コリント13章4節。ああ、私には愛の一かけらもありはしない、長年信仰してるんだから少しは優しくなれたかな、なんてとんでもない。相手の一言にも忍耐できなくて、心の中で裁いてしまう。そうだったのだ、イエス様は今回の一連のことを通して、「思い違いをしてはいけないよ。あなたは砂粒ほどの愛も持ち合わせてはいないのだ。愛はわたしのもの。このわたしの愛を受けてあなたの心にも愛が宿るようになるのだ。相手の悪い言葉も、騒ぎ立てず、はね返さず、黙ってその人の成長を祈れるようになるんだよ」って教えてくださった。
以前、ある姉妹からいただいた一枚の半紙を取り出して広げてみる。「愛は寛容にして慈悲あり・・・」美しく、整然と並んだ一文字一文字。「書くのなら、精いっぱい祈りをこめて、良い文字でと、毎日毎日小一時間書き続けています」と添えてくださったお手紙にあるように、「愛」を慕い求めるまっすぐな思いが伝わってくる。
私もこの愛の15の性質を暗記しよう。私の内には、このたった一つもないってことを思い出すために。それにもかかわらず、イエス様はこんな完全な愛で今も愛し続けていてくださるんだってことを、決して忘れないために。
もう一つ、示されたのは「成長させてくださるのは神である」という御言葉。人は死ぬまで成長する。ほんの一かけら、真実を求める心があれば、より良くなりたいと願う心があれば、誰かに祈られているなら、人は死ぬまで成長する。今の自分も、今のあの人、この人も、みな成長の過程にあるんだ。未完成品なのだ。今真っ暗闇で呻いているのは、ある朝、美しく花開くためかも知れない。今の姿だけを見て、あれではダメだと決めつけつなんて、とんでもない。みんなみんな生きている限りより良くなる可能性を秘めている。今朝の御言葉に「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐を軽んじるのですか」とあった。そうなんだ、神様は私たち一人一人が真の悔い改めに至るために、慈愛と寛容と忍耐の限りを尽くして今日も導いていてくださるのだ。
だったら、私も希望をもって祈ろう。自分のことも、あの人、この人のことも、決してあきらめないで、必ず善くなると信じて祈り続けよう。祈っている限り、希望の火は消えない。腹が立ったり、いらだったりした人のことこそ祈っていこう。その一人一人も、私も、みな共に神様に向かって成長して行けますようにと心をこめて。
主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」創世記2:16
朝の聖書が「創世記」になり、少しずつ読み進めているが、2章16節を読んでハッとした。「決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。神の言葉は真実である。この神の言葉を適当に聞き流すようなことがあってはならないと心引き締めつつ、でも・・・と思った。神様は食べたら死ぬような木を、なぜあえて園の中央に植えられたのか。そうか、そうなのだ、私たちは人であって神ではない。人は神に従うべき存在であって、神を捨てて自分を神としてはならないのだ。私たちは神の戒めを守るべき存在であると教え諭すために、この木をあえて園の中央に置かれたのではないかと、一人納得した。そして、近頃大問題となっている放射能汚染の問題も「決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」という神の言葉に背いた結果かもしれないと思いつつ、友人からの、胸が痛くなるような手紙を読み返した。
「『もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす』ということは、昔も今も変わらないはずですが、私の心の空はくもりっぱなしです。黙示録9章に『底知れぬ所の穴が開かれると、その穴から煙が立ちのぼって、太陽も空気も暗くなった。そしてその煙の中から恐るべきいなごが出てきて、額に神の印がない人たちに、死の苦しみ以上の苦しみを与えることになる』とありました。東電の福島第一原発という底知れぬ穴から立ちのぼった放射性物質という黒雲によって、神の栄光を表すはずの大空はまっ黒く(日本人の目には、そのようには見えないようですが)汚されてしまいました。そしてその雲からはβ線、γ線という悪魔の光が絶えず日本人の頭上に降ってきているのです。私は昔から、セシウム137は、一滴たりとももらしてはいけないものと考えておりました。ところが3月11日以降、この悪魔の灰が、日本全国にまき散らされることになりました。黙示録9章に記されているいなごの災害は、5か月に限定された災害でしたが、セシウム137による放射能災害は、何十年、何百年も続く長期的な災害です。我々以上に、我々の子や孫たちが苦しめられるであろう災害なのです。・・・・中略・・・・・
今多くの日本人が放射能汚染はたいしたことではないと思っている時に、私は数十年、数百年後のことを考えて、胸をたたいて涙を流すのです。預言者的な思いによってではありません。もっぱら科学的な考察によってであります。放射能汚染こそは、悪魔のわざの中の最悪のものであるに違いありません。神以外に、この汚染を清めることはできないでしょう。終末の遠くないことを思わざるをえません。」
預言者的な思いも、科学的考察も持たない鈍い私にも、この友人の心の痛みだけは伝わって来て、神が 「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」と命じられた、その被造物としての立場を、私たちは越えてしまったのだと身震いがする。
人は人であって神ではない。人は人であることの分を越えてはならない。そのことを思っていると、救いと滅び、命と死、光と闇、それらすべてがこの一点にかかっているのだと思われてくる。人は神に聞き従うとき生きた者となる。しかし、神を無視し、自分が神のように高ぶって生きる時、滅びるしかない。人とはそのように造られているのだとつくづく思う。
「聞き従う」という言葉を全聖書で検索してみると、「聞き従わなかった」という言葉が一番多いのは、エルサレム滅亡の時の預言者、エレミヤの言葉だった。
「わたしはお前たちの先祖をエジプトの地から導き出したとき、わたしは焼き尽くす献げ物やいけにえについて、語ったことも命じたこともない。むしろ、わたしは次のことを彼らに命じた。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る。』しかし、彼らは聞き従わず、耳を傾けず、彼らのかたくなで悪い心のたくらみに従って歩み、わたしに背を向け、顔を向けなかった。」エレミヤ書7章22~24
この他にも、30か所以上で「あなたたちは聞き従わなかった」とくり返されている。それはイスラエル民族にとって最大の危機、エルサレム滅亡、バビロン捕囚によるユダヤ民族の離散が、神の言葉に聞き従わなかったことによるのだと如実に語っている。
それでも、そのような人を神様はなおも見捨てられはしなかった。バビロン捕囚からの解放を間近にして、第二イザヤは再び神の言葉を人々に告げる。
わたしに聞き従えば
良いものを食べることができる。
あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。
耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。
聞き従って、魂に命を得よ。 イザヤ55:2~3
「聞き従って、魂に命を得よ」。これくらいわかりやすいメッセージはない。確かに、アダムとエバが食べるなと言われて食べなければ、人は死ぬことはなかった。しかし、食べたのである。ダビデ王国を継いだソロモンに、「無垢な心で正しくわたしの前を歩むなら、あなたの王座をとこしえに存続させる」と神は約束された。でも、あの賢明なソロモンにして、正しい心で歩み続けることはできなかったのである。人に問うまでもない、何よりも自分の心を見ればよく分かる。神の前に正しくありたい、清く美しい心で今日一日を過ごしたいとどんなに願っても、ふと気づけば、良からぬ思いが渦巻いている。自分の心一つどうすることもできないのだ。
ああ、しかし、このような者のために、このような罪人のためにこそ、最後の唯一の希望として、神様はイエス・キリストを与えてくださった。最初の人アダムが神に背いたためにすべての人に罪と死の力がおよんだように、イエス様が完全に、十字架の死に至るまで完全に神様に聞き従われたことによって、私たちすべての者に、罪と死からの解放、永遠の命に生きる恵みの道が開かれたのである。だれ一人、この恵みを拒むことがありませんように。
見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今「見える」とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。 ヨハネ9:41
大地震と津波で福島の原発事故が起き、それでも「ただちに影響はありません」とくり返される言葉に、ならどうして20キロ圏内の人はすぐ避難しなさいなんて言うんだろう、放射能が飛び散ったって届くのは一回胸のレントゲンを撮るより少ないらしいのに、どうしてそんなに大騒ぎするのだろう、くらいに思っていた。
ところがある夜、スカイプの練習のために徳島の友人と話すと、私の練習などそっちのけでその友人は1時間余りひたすら原発の危険を語り続け、最後に「あなたもぜひ『小出裕章』さんの本を読んでね」と熱く言った。インターネットとはこんな場合実に有難いもので、「小出裕章」で検索するとすぐにその講演まで聞けてしまう。夜も遅いし、ちょっとだけと思ってyoutubeで(大切な人に伝えてください・小出裕章さん『隠される原子力』)を聞き始めて、気がつくと2時間近い講演が終わった頃には、これが本当なのだと全身で直感していた。しかし、知らないってなんて恐ろしいことなんだろう。いや、本当に知らなかったのだろうか。
原発事故の恐ろしさも知らない私でも、原子力発電所があることは知っていた。「絶対安全ならどうして東京湾に造らないのか」という反対運動があることくらいは知っていた。いや、原子力の危険性についても少しは読んでいた。知らなかったのではない、知らないふりをして目を閉じていたのだ。そして、本当は何も知らないのに、人並みには知っていると思っていたのだ。
それにしても原子力発電所ってどんなところなんだろう、ともかく一度見てみようと、旅のついでに敦賀発電所、美浜発電所、もんじゅと回ってみた。夕方だったので原子力PRセンターは閉まっていたが、そのパンフレットには「確かな技術がいっぱい。海と緑と空、美しい自然に囲まれた福井県美浜町。その中に、最先端の技術が広がります。原子力のいろんな知識が発見できる美浜原子力PRセンターです」とあった。
「海と緑と空、美しい自然」とあるけれど、原発付近の水晶浜はそんな言葉ではとても表現できないほど美しかった。波の音を聞き、水晶のように光る海を見ながら砂浜に立ち尽くしているといつしか夕闇に包まれ、見上げれば金色に輝く糸のような三日月。考えなくても、知識がなくても、創造の神様を一瞬にしてわかってしまう時がある。そんな場所がある。なのに、目の前には原子力発電所。このパンフレットに、美浜は「海水浴、釣り、新鮮な海の幸。行ってみたいところ、見てみたいところがいっぱい」と書かれていても「美浜原発が大事故を起こすと、その美しい砂浜も即効立ち入り禁止区域になります。2度とふたたび水晶浜を訪れることはできなくなるでしょう。」とはどこにも書かれてはいない。
若き日に、原子力の開発に命を捧げようとまで決意された小出裕章さんが反原発の道を歩み始められたのは、大量の電気を使う都市になぜ原子力発電所を建てないのかという疑問からであり、「今から思えば当たり前のことですが、その答えはとても単純なものでした。原子力発電所は都会では引き受けられない危険をかかえたものでしたから」と書かれている。
今回、敦賀や美浜など原発のある所を車で走って、ずっと走って、ごくまばらな小さな家々を見てそのことの意味が良く分かった思いがした。なるほど、この世のやり方は大都市の何百万人が豊かで快適な生活をするためには、ここで暮らす少数の人など問題ではないのだ。地方交付金を与え、それなりの仕事を用意し、安全ですと言い続ければそれで済むと思っている。事故が起こり、いのちの危機にさらされながら作業をしている人たちの映像を見ても、それはそれでしようがないと思っている。そしてこの私もまた、その少数の人たちを犠牲にして生じた豊かさを享受している一人であり、本当のことも何も知らないのに「知っている」と思っている、どうしようもなく愚かで罪深い人間なのだ。
そんな鈍い私にも、小出さんの講演には「これは真実だ」と思わせる力があったが、その力がどこから来たのか。徳島から送っていただいた「隠される原子力・核の真実」という本の最後を読んで納得できる思いがした。
「私は今、大阪の郊外に住んで仕事をしています。大阪は日本一暑いと私は思っていますが、研究室でも家でもクーラーは使いません。TVも見ませんし、エレベーターやエスカレーターを使うこともしません。これは私が実践していることですが、一人ひとりが自分でできるエネルギー消費を抑える方法を見つけることはできるはずです。それは自分がどのような未来を生きて、選択するのかに関わる大変重要なことと思います。
社会構造を変革し、エネルギー中毒社会から抜け出すために、まず私たち一人一人がしっかりと自覚することが大切です。」
そうだったのだ。思いと言葉と行いが一致しているなら、そしてそれが真理に根ざしているなら、いつか必ず人の心に届くものなのだ。
100匹の羊を置いても迷い出た一匹を探しに行かれるイエス様の話を何度聞いても、自分の生活の中で、その一人を見過ごしにするなら何の益になるだろう。イエス様の弱く小さな者を愛される愛をいくら人に語っても、自分が小さな一人を無視するようなら何の益になるだろう。「ああ幸いだ、神に寄りすがる貧しい人たち」と貧しさの喜びを語っても、自分が何らかの貧しさを自ら生きようとしなければ、どれだけの真実味があるだろう。
日々の生活を思い返し、自分の無知、偽善性、不誠実という罪に打ちのめされる思いがする。その罪は放射性廃棄物と同じで、日本のものをモンゴルに捨てに行っても放射性廃棄物そのものは決して無くならないように、私の罪を社会や誰かのせいにしても、それで罪が無くなるわけではない。
静かに目を閉じて「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われたイエス・キリストの言葉を一つ一つ思い起こす。どの言葉も暗い海に光る灯台のように、闇夜に輝く星のように思えてくる。この希望の言葉を携えて、今もイエス・キリストは自分の罪に泣く人を、見捨てられた人たちを、訪ね歩いていてくださる。そんなイエス様を思っていると、道端に座り「わたしを憐れんでください。目が見えるようになりたいのです。」と叫び続けたバルティマイのように、私もこの濁った心の目を開いていただいて、なおも道を進まれるイエス様にどこまでも従っていこうと、不思議な喜びがあふれてくる。
背信の子らよ、立ち帰れ。
わたしは背いたお前たちをいやす。エレミヤ3:22
「帰れ、帰れ、わたしに帰れ」と、今も聞こえる主の御声。
どんな苦難、困難の中でも、どんな緊急な時でも、神様に立ち帰るのが一番。それ以上に重要なことはない。何をおいてもまず神様を仰ぎ見る。全能の父なる神様の御前にひれ伏し、赦しを乞い、今を生きる力と正しい道を求める。これ以上に大切なことはない。
神様はすべてのすべてを知っていてくださるから、緊急の時長々とした祈りなどいらない。「主よ!」その一言で足りる。「イエス様!」と、心からすがればすべて分かってくださる。ともかく「立ち帰れ」である。「主を仰ぎみよ」である。
主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。
わたしたちの神に立ち帰るならば、
豊かに赦してくださる。イザヤ55:7
詩編116編から
わたしは主を愛する。
主は嘆き祈る声を聞き
わたしに耳を傾けてくださる。
生涯、わたしは主を呼ぼう。
大震災があって、死者は一万人を超え、日毎に増えていく。家族を失い、愛する人を失い、仕事を失い、住む家を失い、友人のもとにも「何もかも失いました。0からの出発です」とメールが届いた。この地震に、津波に、どんな意味があるのか、なぜこの時に、この場所で・・・と問うて、すべての人が納得のいく答えなどあるはずがない。でも、どの人にとっても、その人にだけ分かる、その人にだけ与えられる意味がある。必ずある。
一人一人の人を、それこそかけがえのない人として創られた神様。一羽の雀さえお忘れにならず、私たち一人一人の髪の毛まで数えておられる神様は、たとえ千人が一度に水に流されても「津波の被害者」として千人を一括りにされたりはしない。その一人一人の人生をすべて知っておられ、その一人一人にふさわしく報いてくださる。
死の綱がわたしにからみつき
陰府(よみ)の脅威にさらされ
苦しみと嘆きを前にして
主の御名をわたしは呼ぶ。
「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」
思いがけない苦難の中でこそ、私たちは「どうか主よ、わたしの魂をお救いください」と祈ろう。イエス様の十字架の横で同じように十字架に付けられた囚人が、その死の苦しみの中で「イエスよ、わたしを思い出してください」と願い「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束された話を、私たちは何度も何度も聞いている。死の間際にでも「主(イエス)の名を呼び求める者はだれでも救われる」と知っている。私たちが死の波にのまれる瞬間にも主の御名を呼び、「恐れるな、水の中にも、炎の中にも、わたしはあなたと共にいる」と言ってくださる主にすがることができるようにと、切に切に祈る。
主は憐れみ深く 正義を行われる。
わたしたちの神は情け深い。
哀れな人を守ってくださる主は
弱り果てたわたしを救ってくださる。
わたしの魂よ、再び安らうがよい
主はお前に報いてくださる。
どんな試練の中でも、いや試練の中でこそ「わたしたちの神は情け深い。哀れな人を守ってくださる主は、弱り果てたわたしを救ってくださる」と信じ抜こう。世界中の何ひとつ信じられなくなっても、このお方だけを信頼してすがり続けよう。
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」感嘆の声をあげつつ聞いたこの御言葉を、苦難の中でこそ思い起こそう、信じ抜こう。御言葉には魂を救う力がある。
あなたはわたしの魂を死から
わたしの目を涙から
わたしの足を突き落とそうとする者から
助け出してくださった。
命あるものの地にある限り
わたしは主の御前に歩み続けよう。
わたしは信じる
「激しい苦しみに襲われている」と言うときも
不安がつのり、人は必ず欺く、と思う時も。
♪望みも消えゆくまでに 世の嵐に悩むとき 数えてみよ主の恵み 汝が心は安きを得ん♪と歌うとき、確かにあの時も、あの時も、主は私を助け出してくださったと、そして何よりも、主にすがらずにはおられない弱さこそ恵みであったと気づく。
「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
一瞬にして持てる全てを、命さえも失ってしまう弱い弱い私たちのためにこそ、キリストの十字架という逃れの道が備えられている。キリストの十字架だけが滅びゆく私たちにとって唯一の逃れの道。自分ではとうてい耐えられない苦しみの時、耐えられない私のために耐え抜いてくださった十字架のキリストを思っていよう。信じていよう、弱いからこそすがっていよう。
主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。
いずれ私たちはみな死んでいく。この御言葉を忘れまい。
「主なる神はこう言われる」
聖書を読み始めて間もない頃、旧約聖書を開けてこの言葉に出会って、ハッとした。
あなたがたの神は言われる
主は言われる
主なる神はこう言われる
あなたを創造された主はこう言われる
畳みかけるようなその言葉に、神様の存在を疑うことはできなくなった。人はよく「神は人間の想像の産物だ」と言ったりする。だが、聖書に記された神の言葉に、一つ一つ心の耳を澄まして聞き入るなら、それが決して人の言葉ではなく、神にしか語り得ない言葉であることに気づくだろう。そして、それが神の言葉である何よりの証拠は、その言葉をまっすぐに信じるとき、その言葉によって人は生きることができるという自分自身の実感である。
神である方、天を創造し、地を形づくり
造り上げて、固く据えられた方
混沌として創造されたのではなく
人の住む所として形づくられた方
主は、こう言われる。
わたしが主、ほかにはいない。(イザヤ45:18)
「わたしが主、ほかにはいない」と神様自らが語っておられるのだ。どうして信じないでおられよう。
そのように聖書を読んで、読み続けて、聖書の言葉はますます慕わしくなっていく。
彼はわたしを慕う者だから
彼を災いから逃れさせよう。
わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。
彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え
苦難の襲うとき、彼と共にいて助け
彼に名誉を与えよう。
生涯、彼を満ち足らせ
わたしの救いを彼に見せよう。 詩編91:14~16
この「わたし」とはもちろん神様だが、「彼」と言うところに自分の名前を入れて読んでみる。「咲子はわたしを慕う者だから、咲子を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、咲子を高く上げよう。咲子がわたしを呼び求めるとき、咲子に答え、苦難の襲うとき、咲子と共にいて助け、咲子に名誉を与えよう。生涯、咲子を満ち足らせ、わたしの救いを咲子に見せよう。」 こんなにもこんなにも名を呼んで、私を愛おしんでくださるお方がいるのだと胸がいっぱいになる。こんな私を、私たち一人一人を、これほどまでに慈しんでくださるお方がいると知って、そしてそれが私たちの父なる神様なのだと知ってどうして黙っておられよう。さあ、あなたも『彼』の所に自分の名を入れて読んでみてください。そして、神様があなたのことをどれほど深く愛しておられるか、味わってみてください。世界に69億の人がいても、この世にあなた一人しかいないように、神様にとってはあなたがすべてであるかのように、あなたを待っておられるのがおわかりになるでしょう。」
神と人、その一対一の特別な関係はどのようにして生まれるのか、この詩人に倣おう。
☆彼はわたしを慕う者だから。・・・小さな子供が親を慕うように、私たちも神様を慕い求めていこう。
☆わたしの名を知るものだから。・・・神様を知らなければ今見えるこの世がすべて。この世のどこに真実があるだろう、人は死んだらお終いじゃないか、それにしても人生は謎に包まれていると嘆くばかり。でも、一度神を信じ「わたしを見た者は父(神)を見たのだ」と言われるイエス・キリストを知ったなら、この世では得られぬ永遠の世界へ「彼を高く上げよう」と導いてくださる。
☆彼がわたしを呼び求めるとき。・・・そうなのだ。私たちは神様を呼び求めてよいのだ。それがたとえ困った時の神頼みであっても「神様助けてください」と叫ぶより他ない苦しみを、誰よりも知っていてくださるのは神様ご自身なのだから。
「そのためにわたしは来た」とイエス様は言ってくださる。苦難の襲う時、共にいくださるイエス様。それが私の罪ゆえの苦しみであっても、共に苦しんでくださり、その罪を共に担ってくださり、ご自身の「友」という名誉を与えてくださる。こんな恵みの中にいて、どうして御名を呼ばずにおられよう。
☆生涯彼を満ち足らせ。・・・先日、礼拝の後お茶を飲みながら「どんな時に心満たされていると感じるか」話し合った。お互い心開いて話し、そのままを受け取ることが出来るのは主にある交わりなればこそと嬉しかった。答えは様々だったけれど聖書の答えはただ一つ。神様だけが私たちを満ち足らせてくださるお方だとある。そうか、答えの違いは日常生活でどこに神様の恵みを実感しているかの違いであり、皆共に、その神様を慕い求めているからこそこうして日曜毎に喜んで集っているのだと感謝でいっぱいになった。
Kさんからの うれしいメール
「先週からの、おばあちゃん(母)の幻覚から始まった認知症騒ぎも薬の影響だとわかり正気に戻りつつあります。昨日、5日ぶりに一人で寝れました。でも、神様からの大きな大きな憐れみがありました。この騒ぎをきっかけに、私がおばあちゃん自身を受け入れる事が出来たのです。急激な認知症だと思っていた時、泣きました。神様もう一度私に親孝行する時間をお与えください。おばあちゃんを疎ましく思っていた自分を恥じて、一生懸命祈りました。今はおばあちゃんを心から受け入れることが出来たので、排泄物の処理も世話も全然苦にならなくなり、心が平安で満たされ、おばあちゃんを心から愛おしく思えます!人間の弱さゆえいつまでどこまでこの気持ちが続くか分かりませんが、神様に祈ってより頼んでいけば、神様の深い憐れみによって支えてくださるという事を、今回のことを通して実感しました。♪ハレルヤ神様、ハレルヤ神様♪と歌い出したいほど私自身救われた気持ちです。お祈りありがとうございます。」 うれしくて涙があふれた。
今日は朝からうれしい。朝の聖書が「天の国」のたとえの箇所で、そうか、私たちは確実に天の国に向かっているんだと心の中が虹色の希望に輝いた。「うれしいねえ、イエス様を信じる私たちには行くところがあるんだから。死という絶望にではなく、天の国という希望に向かって生きてるって、本当にうれしいね」「毒麦は一掃されて善きことだけ。一粒のからし種のように小さかったイエス様が、無限に大きい新しい天と地を開いてくださる。私たちはその新しい天と地に向かって歩いている。最高だね」と、ちょっと興奮気味にしゃべり続ける私に、夫は「でも僕はとりあえず、今日も会社に行かなければ。」と出かけて行った。
今朝のように御言葉が心に入れば、不思議なほど満たされた思いになるけれど、でも、いつもいつもそんなにうれしいわけではない。昨夜はなぜか虚しくて、娘に電話をしても「まだ仕事が残ってるけど、急ぎの用事?」と言われると「いいわ」と電話を切って、狭山池に歩きに行った。帰ってからも善きことに向かえないで、ぐずぐずして、「渇いているなあ」と骨身にしみて「♪谷川の流れを慕う鹿のように」という歌を何度か歌ってみた。「♪あなたこそわが盾、あなたこそわが力、あなたこそわが望み」・・・本当に、本当にと詩編42,43編を開いて読んだ。
涸れた谷に鹿が水を求めるように
神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。
なぜうなだれるのか、わたしの魂よ
なぜ呻くのか。
神を待ち望め。
わたしはなお、告白しよう
「御顔こそ、わたしの救い」と。
わたしの神よ。
そうだった。この心の渇きは神様によってしか満たされないんだ。この詩人がうなだれる自分の心に「神を待ち望め」と語りかけ、「御顔こそ、わたしの救い」と告白しているように、この渇きは神様への渇きなのだ。そう気づいた時、
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
とイエス様のお言葉どおり、渇いた心に生きた水が流れてきて、虚しいとか、所詮一人だとか、つまらない思いは吹っ飛んで、心にかかっているあの人この人が思われて、どうか守られるようにと切に祈って眠りに就いた。
イエス様は「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」と言われた。
なるほど、と思う。イエス様につながっていなければ、私の心はすぐに渇いてしまう。そんな渇いた心でどうして善い働きができるだろう。まず、イエス様によって満たされなければ確かに何もできないのだ。試練のただ中にある人と話すのに、「でも大丈夫、神様がおられる」と言うためには、自分自身が生きておられる神様を実感していなければならず、長患いの人を見舞うには、自分の内に確かな希望がなくてはならない。「神様は愛」と告げるには、自分がその愛を生き生きと感じていなければならず、罪に苦しむ人に十字架の赦しを語るには、まず自分が赦された喜びに満ちていなければならない。
心浅く、自分の内からは何ひとつ善いものの出てこない私は、ただイエス様につながって、イエス様によって満たされるほかはない。「主よ、憐れんでください。あなたによって今日も満ち足りていることができますように。あなたは『悲しみの人で病を知っていた』とあります。今も悲しむ人、病の床に臥す人と共にあるために、そのあなたの深い御心にふれさせてください。」と祈り求めるしかないのだ。
そうだった。イエス様は「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言われた。受けるのが先で、与えるのは後。それはまた、与える人になるために豊かに豊かに受けなさいと言われているのかも知れない。
それなのに、ふと気づけばまた、言いようのない虚しさを抱えてため息をついている自分がいる。そしてまた、
♪谷川の流れを慕う鹿のように、主よわがたましいあなたを慕う。
と歌い始めるというわけである。
そんな、何とも情けない者だけれど、「主よ、主よ」と呼び続けて、「憐れんでください、共にいてください」と祈り続けて、答えられなかったことは一度もない。それどころか、祈りさえすればこんなにも速やかに答えてくださるのに、何と祈らない、祈るに遅い者だろう。神様は今も「あなたの口を大きく開けよ。私はそれを満たそう」と待っていてくださるのだ。
心の虚しさや不安は神様からのノック音。それに気づかなければ心はだんだん暗く悪くなっていくけれど、「はい、お入りください」と喜んで心のドアを全開にすれば、「父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」という御言葉どおり、主と共にある喜びは川のように流れてくる。こんな流れが目の前に、豊かに豊かに流れていると知る人は、何と幸いなことだろう。
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★ カナンの女の信仰(マタイによる福音書15:21~28)をくり返し読んでいる。読むたびに感動するのは「主よ、ごもっともです。」というこの女の人の言葉。新改訳では「主よ、そのとおりです。」口語訳では「主よ、お言葉どおりです。」となっている。「わたしを憐れんでください。娘を助けてください。」と叫んでも何も答えてくれず、「わたしはイスラエルのためにしか遣わされていない」と言われ、あげくの果てには「子供たち(イスラエル人)のパンを取って小犬(外国人)にやってはいけない。」と言われた。ここまで言われれば「主よ、なぜですか。あなたはそんなにも心の狭いお方なのですか」と自分の思いの一つもぶつけたくなるだろうに、この女の人の口から出たのは「主よ、ごもっともです。」という拒否されることさえ受け入れる低い低い言葉だった。その低さの中から「小犬もご主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と尚も憐れみにすがるのが、まことの信仰であり、これこそ「神を神として生きる」ことなのだと知らされる。