福音 №392 2021年1月
「パウロの祈り・永遠の命」
どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、
あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、
神を深く知ることができるようにし、
心の目を開いてくださるように。
そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、
聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。
また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、
どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。
神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、
天においてご自分の右の座に着かせ、
すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、
今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。
神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、
キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。
教会はキリストの体であり、
すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
エフェソの信徒への手紙1:17-23
こんなパウロの祈りを読むと、ああ、これが希望というものではないか、ああ、これが人の生きる意味というものではないか、ああ、これが宇宙の真理というものではないか、と身も心も永遠の風でいっぱいになる。
こんな神の言葉が記された「聖書」を今開いて、聞き入ろうとしている。
「神を深く知ることができるように」
「心の目を開いてくださるように」
私たちに与えられている希望、信じる者が御国で受け継ぐ豊かさを、
「悟らせてくださるように」
信じる者に対して絶大な働きをなさる神の力の大きさを
「悟らせてくださるように」
・・・そんなパウロの祈りのこもった一つ一つの言葉は、キリストによって突き動かされた天の父への叫びであり、この祈りを読む私たちへの、聖霊によってほとばしる愛である。
「コロナが収まりますように」。今世界中でそう願わない人はいないだろう。誰だって自由に出かけたいし、一緒に美味しいものを食べ、歌ったり笑ったりおしゃべりもしたい。普段はデパートになど行かないのに、緊急事態宣言が出ると「デパートに行きたい」と思ったりして、おかしいね、と誰かが言っていたけれど、たとえ今行かなくても、行こうと思えばいつでも行けるという心の自由が縛られるというしんどさもある。もちろん、そんな悠長なことより、新型コロナという思いがけない事態で、その困難を直接負っておられる方々に思いを馳せなくてはいけないけれど、この感染症というのは、どこか特定の場で起きる大災害とは違って、私には関係ない!といえる人はいないのだと、そのような国はないのだと、一人一人が実感せざるを得ない。
しかし、と思う。コロナがどうであれ、社会情勢がどうであれ、このパウロの祈りを空しくするような事態は決して起こらない。このパウロの祈りをわが祈りとし、主イエスを信じる人たちも今はまだ主イエスを拒む人たちも、知恵と啓示との霊を受けて「神を深く知ることができるように」、この時にこそ「心の目を開いてくださるように」と祈り求める自由は、いついかなる時も奪われることはない。
この時こそ、
「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」ロマ書11:36
という、パウロの告白に聴き入り、神を深く知ることができるように祈り求めることの許された、恵みの時ではないだろうか。
ヨハネ福音書は、4つの福音書のうち最後に書かれたものであるが、どこを読んでも「命」「永遠の命」という言葉がその中心にある。
最後に、この福音書が書かれた目的は
「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」ヨハネ20:31
とあり、全聖書の中心の御言葉と言われる3章16節は
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」
とある。
イエス様ご自身、
「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」ヨハネ9:10
「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また裁かれることなく、死から命へ移っている」ヨハネ5:24
「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終りの日に復活させることだからである」ヨハネ6:40
「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」ヨハネ6:47
とくり返し言われる。
そして、その永遠の命とは、
「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」ヨハネ17:3と、天を仰いで言われた。
キリスト教とはこれである。聖書に啓示された唯一のまことの神を知り、神がお遣わしになったイエス・キリストの十字架の愛を知ること。十字架からあふれでる永遠の命を受けること。
100歳を越えても「永遠の命!永遠の命!」と言って希望に輝いておられた杣友豊市さんを思う。始まったばかりの小さな集会のために、聖書講話テープを作って送ってくださったが、それに添えられていた
「次は使徒行伝などどうかと思います。この命ある限り働きます。62年6月21日 杣友」という言葉に、伝道とは何であるかを示される。
(1987年、杣友さん92歳の時のお便りから)
キリストの恩寵のあるところ、人間はいかにひっこみ思案の懐疑家であろとも、あらゆる時代と事物との転回たる復活の告知に参与する。 カール・バルト「ロマ書」p39