福音 №402 2021年11月
「神に由る、神のための信仰」
押し入れの隅に段ボール箱二つ。もうそろそろ処分してもいいかなぁと、と思って開いてみた。もう15年にはなるだろう、「このまま私の所に置いておけば、いずれ古新聞と一緒に捨てられますので、どうぞ引き継いでください」とのお手紙を添えて送られてきた「祈の友」の雑誌たち。そのうちの一冊を手に取って驚いた。1952年10月発行、だとすると私が2歳の時ではないか。開いて読み始めると、「そろそろ処分してもいいかなあ」などと思った自分が恐ろしくなった。これは送ってくださった方が、天から見ておられ「あらあら、それはもったいない」と声をかけてくださったに違いない。
どこを開いても、血のにじむような文章に、そうかこれが命脈打つ信仰、主によって一つとされた祈の友の姿なのだと、70年前の結核患者キリスト者に囲まれている思いになった。
午后三時祈祷療友会相互通信誌「祈の友」1952年10月発行・復刊第22号
葡萄の絵の表紙を開けば、「神に由る、神の為の信仰・江藤顕三」と短文がある。
どこを抜き書きしようかと何度も読み返し、でも、やはりこれはこのまま書き写そう。
星の美しい季節となりました。湖畔の秋色は日増しに深まり行き、静寂の気、天地を蔽って居ります。
人一人は小宇宙に等しいと云われます。誠に我らの存在は夜な夜な輝く美しい星にも増して或いは巍然と聳ゆる富嶽にも勝りて神の栄と尊貴とを冠らせられし栄光の器であります。神は創造の晨、もろもろの無生有生を創造り給いし後、その冠として、最後に「我らに象りて我らの像の如くに我ら人を造り之に・・(萬物)・・を治めしめん」とて人を造り給うたとあります。それは御神自らの為であり、神の喜びの全うせられんが為でありました。(創世記1:26-31)
さて我らは神の期待に背いて神より離反したるを、再び御子キリストの贖いにより、信仰によりて、神に立ち返ったものであります。それは正しく神の第二の創造によるものでありました。然らば我らの救いは又我らの為であるよりも、否我らの為でありとも、それによりて神の意志の成らんが為、神の喜びの満ちんが為でなければなりません。我らの信仰の熱心は、それによりて己一個の信仰(救)を全うするものであってはならない筈であります。我らの救は神の栄光の為であります。然らば我らの戦いは神の戦いであり、我らの勝敗は神の勝敗に関わるものであります。此処に併し、又我らの大いなる平安もあり、力の源もあるのであります。何故ならば神は最後に勝ち給うからであります。
要するに我らは我らの立ち処を神の確き意志の上に置きて戦うべきであります。この信仰の上に我らの人生観を、世界観を築いてこそ、躓き転びつつも真に希望のある人生を、常に進めることができるでありましょう。〔ロマ書8:28-30〕昭和18年9月8日・記念集より
当時の「祈の友」の編集発行者、西川賎氏は編集後記に次のように記している。
「裏表紙の江藤兄の短文は味わい深く、兄の信仰がよく語られています。信仰は絶対に自己中心、人間本位であってはなりません。神に由る、神のための、神の(御業としての)信仰であらねば、・・・・即ち徹頭徹尾、神本位でなければ意味をなしません。」
この「祈の友」の「僚友相互通信」を読めば、当時の結核患者の辛苦がどんなものであったか、心鈍い私にも伝わってくる。
「熱と悪寒の為じっと電気ゴタツにしがみついて、身動き出来ないベット生活が続く。去年の土用もそうだった。一体この病苦がいつまで続くのだろう。・・・唯耐えること。そのために祈り続けること。一切を御手にゆだねて」
「5月頃の様子では今年こそは再起が許されそうだと思われましたが、聖意に適わず再び六尺の病床に釘付けの身とせられました。・・・病者の気持ちは病者がよく知っています。感謝と喜歓を以って忍耐しましょう」
このような壮絶な戦いに明け暮れる180人の通信から伝わってくるキリスト信仰の力。
「枕辺に躓き給える政池先生の 祈りは癒しを超えたるものぞ」
「血を喀きつつ不思議に思う沈着を 何にたとえて言うべきかなや」
「5月18日の喀血、この度の喀血ほど主の御愛を感じたことはありません。量り難きかな主の愛、深きかな主の愛、厳しきかな主の愛、ああ量り難きかな吾が罪、表現できません。」
なるほど、このような苦境にあっては、自己中心、人間本位の信仰など何の役にも立たないのだ。神本位の信仰であればこそ、どんな時にも、何をおいてもまず「御名が崇められますように」と祈る信仰であればこそ、神が希望となってくださるのだ。
表紙、目次に続く「ヨブの見神」西川賎著は、それこそすべて書き写したいが、とても無理なので、宝の山からほんの一箇所だけ。
「ヨブは義をもって神の審判の座に出ようとした。この世の凡てを失ったヨブの唯一の精神的財産、その拠り所は己が義であったのである。それをふりかざしている中は神はヨブに答えようとはしなかったのである。神よりも自己を義しとする主張、神よりも自己を信じ自己を頼もうとする慾念、これこそ聖書にいう「己が腹を神となし、己が恥を栄光とする」(ピリピ3:13)破廉恥の罪である。凡ての人間が、人間である限りこの不逞の罪の捕虜である。生れ乍らにもつこの根源的罪性(原罪)は、げに巌よりも剛いのであるが、今やヨブはその罪の限りを砕かれて塵灰の中によよと泣き伏したのである。そして見よ、エホバが彼に臨み、神が彼の凡てとなった。ヨブの義が砕かれ、代わりに神の義が立てられた。人生の論理的解決に代わって解決者神自らがヨブの凡てとなりたもうた。言うまでもなく是は神の一方的恩寵によるのである。・・・」
私から何もかも取りあげておしまいになった
神様はよい方
神様をくださった (野村伊都子)