福音 №395 2021年3月5日
「夕べになっても光がある」
夕暮れの時になっても、光がある。
この、ゼカリヤ書14章7節の聖句がこんなにもなつかしいのは、以前に読んだ一冊の本のせいだと気づいて、本棚を探して見つけた書名は「夕暮になっても光はある」だった。(特養寮母の看護絵日記)と副題にあるように、日本に特別養護老人ホームができた頃、そこで働かれた土田セイさんという方の絵日記がほのぼのとして、
「へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考えなさい」フィリピ2:3
という聖句がどのページにも香っていた。
人はよく「年は取りたくない」と言う。それは年を取るという現実の体と心の苦しみや悲しみを目の当たりにするとき、自然にでてくる言葉なのだろう。
しくじり
しくじりのおもらしが、はじめて起きた時の気まずさはどんなにつらいことでしょう。
あわてずに、さわがずに、暖かい気持ちで手早く始末することは、なかなか年季のいることでございます。
現実を直視し、いや見るだけでなく自らその現実に寄り添い、その苦しみや悲しみの背後にある美しいものを見出していく力。たとえば、涙一つにしても、
涙のプリズム
お年寄りの涙に光をあててみました。
涙がプリズムになって、7色に光ります。
苦しみ 悲しみ 忍従 犠牲 ゆるし
ああ ― まだございます。希望と感謝が・・・
それは、まるで宝石のように輝いています。
人生の最終楽章
お年寄りは、長い人生を生きてきました。
豊かな経験と知恵と、善良さと忍耐をもって、その上、最も美しい老人の冠ともいうべき愛とやさしさを備えて・・・・・
このすばらしいテーマは交響曲となって、荘厳な終末の共鳴音へと高められていきます。この終りの楽章が、最も美しくまとめ上げられるためには、指揮棒をふる寮母の手が必要なのでしょう。
お年寄りの食事介助やおむつ交換などをしながら、心は、その人の最終楽章を美しくまとめ上げたいと高く清かに願っている。忙しく立ち働くマルタの手と、神の言葉に聴き入るマリアの心に生きる人の姿を見る思いがする。
こられすべてを支えているのは、土田セイさんに与えられたキリスト信仰なのだと思う。人は希望なしにすべてを美しく見ることなど、とうていできないのだから。
足を洗う
母は、よく私の足を洗ってくれました。今日は遠足という朝、母は靴の紐までむすんでくれました。
むかしイエスさまは、お弟子ひとりひとりの足を洗われました。
もう丘をかけ上がることもないお年寄りの足、せめて暖かいお湯で、ていねいに洗って差しあげたいものです。
移行
老いるとは脱皮することです。
苦悩を通り抜けて成長することです。
物質的な世界、自己中心的な世界からぬけ出して、宇宙の中に移行することなのです。待っておられる神さまのところに飛び立つことなのです。
そこでは死は終わりではなく、新しい出発なのです。
お年寄りに「物質的な世界、自己中心的な世界からぬけ出して、宇宙の中に移行すること」を言葉で伝えることは難しいかも知れない。でも、「神の国は言葉ではなく、力にあるのです」(1コリント4:20)と、その人を受容し大切にお世話するとき、イエスさまの愛が働いて、御業をなしてくださるのだと、絵日記の一ページが教えてくれた。
藤井のおじいさま
藤井のおじいさまは、おくさまと四人のお子さんがいると言っていましたが、一度も面会に来たことがありません。下半身が麻痺で、ずいぶん不自由な体でしたが読書家でした。無口で虚無的な表情のせいか、ちょっと近寄れない人でした。とつ然、心筋梗塞で重態におちいったその夜、酸素吸入の苦しい呼吸の中で「俺でも天国に行けるか?」と言われました。その一言に、神さまとの和解を感じました。
ゼカリヤ書14章。
主は全地の王となる!「その日」、
ひとたび地上に来られ、十字架の救いと復活の命を啓示された主イエスが天に上げられたオリーブ山に再び立たれる「その日」、
御国が来ますように!主イエスよ、来てください!と世界中の人の祈りが成る「その日」、宇宙万物人生完成の「その日」の暗示されたゼカリヤ書14章を学んで、私たちはこの「キリストの日」に向かって生きているのだと、心も思いも高く引き上げられた。
わが神、主が来られる。
すべての聖なる者たちも主と共に来る。
その日になると、光がなく 寒さも霜もない。
それはただ一日であり、主に知られている。
昼もなければ夜もない。
その日になると、エルサレムから命の水が流れ
夏も冬も流れ続ける。
主はすべての地の王となられる。
その日には、主はただひとり
その名もただ一つとなる。
一つの泉によって罪と汚れを洗い清められ(13:1)、「彼こそわたしの民」と呼ばれ「主こそわたしの神」と答える人たち(13:9)の住まう宇宙の完成。その日に向かって歩むなら、確かに「夕べになっても光がある」