福音 №397  20216

「富める者」

主よ、私共の愛する主よ。

あなたは私共に、待ちまた急ぐように命じられます。世界の中で、また私共人間の中で、またあなたの教会の中で、また私共の心の中で、また私共の生活の中でも、あなたが完全に現れ、あなたの救いが示される、あの大いなる日に目を注ぎつつ、待ちまた急ぐように命じられます。・・・

あなたがおいでになることは、今すでに確かなことなのですから、どのようにして私共がお迎えすべきなのか、正しく思いめぐらし考え吟味することを助け許してください

 

という祈りをもって始まる、バーゼル刑務所でのバルトの説教は、

〔主は〕飢えた人を良い物で満たし、

富める者を空腹のままで追い返されます。ルカ1:53

との聖句に光をあてて、飢えた人、富める者について解き明かし、

 

あなたは、私共を、あるがままの姿で受け入れ迎え入れようとされます。そして、実際にそうしてくださるでしょう。そして、もし私共が飢えた者たちでありさえすれば、そして富める者であろうとしないならば、私共に「然り」と言ってくださるでしょう。

という終りの祈りで結ばれている。

 

「私共が飢えた者たちでありさえすれば」

「富める者であろうとしないならば」

 

先月は「飢えた人」について、今月は後半「富める者」について、抜き書き、要約します。

 

「富める者」とは誰だろうか。

たくさんの株券を持ち、大きな銀行口座を持っている人々、本物の絵が壁にかかった美しい家を持ち、高級車や、とびきり高価なさまざまなものを持っている人々。それらのものを捜し求め所有し楽しむことに、もし彼らが本当に満足しているのであれば、またそれによって自分が慰められ守られていると考えるのであれば、またそれを人生の意義だと考えるのであれば、その場合には、彼らは確かに「富める者」に属している。

 しかし、ここでの「富める者」とは、実際には彼らだけではない。銀行口座その他を持っているかどうかは別にして、自分の知恵と力によって人生を支配できると考えるすべての人、今日の言い方で言えば人生を「掌握」していると考えるすべての人が「富める者」である。自分自身を賢明だと考え「すてきな奴」だと考え、「自分は正しい人だとうぬぼれて」いるすべての人、自分がそこいらの悪党のような者ではないことを感謝し、神も人間も自分のことを、それで十分なのだと言ってくれるべきだと主張しながら、走りまわるすべての人が、ここで言われている「富める者」なのである。

 ところがそのような「富める者」について主は「空腹のままで追い返されます」と言われている。主は、彼らに、悪意あることをされたのではない。主は、彼らの富の中から、何かを取り除かれたのでもなく、ただ追い返された。主には、彼らは興味のない存在であり、主は、彼ら(この憐れな富める者たちに)語るべきもの、与えるべきものを、何も持っていられなかったのである。

 

しかし、さらに注意すべき点に心を留めていただきたい。

第一に)外見上飢えたすべての者が、本当に飢えた者なのではない。人は、最大の不幸の中にあっても、また重病人であっても、また牢獄の中にあっても、「ひそかに満ち足りた者」であり得る。死の縁にあっても、また自分が陥った非常に深い穴の中でも、自分自身に極めて満足し快活に自信を持っている人々がいる。そのような状況の中でも、自分が義であるという自信を持った人々が、十分にいる。さらに悪質なことも起こる。人が自分の悲惨さを見せびらかせ、自分は憐れな失われた罪人だということを、ほとんど楽しそうに告白し公言することが起こる。彼らがどれほど痛ましげなふりをしても、彼らが実際にはどれほど幸せであるにしても、神は、彼らを、もうとうの昔に追い返されている。

第二に)あらゆる種類の貧しい者たちは、本当は極めて貧しいのに富める者であるかのように行動し、そうすることによって、彼らは、自分自身と神と他の人々に、真実でないことを語り聞かせている。なぜかと言えば、どんな人間でも、彼自身の存在や所有によっては(それが彼の銀行口座であれ、彼の誠実さや敬虔深さであれ)満足してはいないからである。誰も本当は、彼自身の支配者ではなく、自分の幸福を築く者ではなく、誰も自分の救い手ではない。彼は、あたかも自分がそのような者であるかのように振舞うかぎり、神に見過ごされ、「空腹のまま追い返され」た者である。

 第三に)したがって、追い返されたあらゆる種類の富める者たちにとっても、一つの希望がある。貧しい富める者は、自分は飢えた者ではないかのように、振舞うべきではない。彼は、自分も賢明な者ではなく「すてき」でもなくて、むしろ極めて不快で無用で惨めな被造物なのだということを、認め告白しなければならない。彼は、やがて救い主も立たれる罪人の側に立ち、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」という、そのことだけを知りまた認めようとすべきである。そうしたならば、すべてのことはたちまち変わるであろう。変わっているであろう。彼はもはや貧しい富める者ではなく、富める貧しい者であり、福音書で「貧しい人々は、幸いである」と言われている人々の一人として、彼もまた「良い物で満た」されるであろう。

 

非常に不十分な紹介文ですが、「あなた方は、あるがままの者として、すなわち真に飢えた者として来たれ。飢えた者でないかのように振舞うな」という主の呼びかけを、かすかにでもお届けできたら幸いです。

 

☆ある人が自分の偽りから解放されて真に飢えた人であり、それゆえに「良い物で満た」された人であることの確かな標識(目印)とは。そのような人は、あらゆる種類の他の飢えた者たちに対しての心と手を持っているであろう。あの地、この地に、パンやスープや米に欠乏した数百万の人々がいるという事実に対して、いささかの関心というのではなく、直接の関心を持つだろう。それらの人々の問題は、彼自身の問題であるだろう。彼は、それらの人々の中に、自分の兄弟姉妹を認め、それにふさわしく行動するだろう。12P127