福音№400 2021年9月
「見えるものではなく見えないものに」
わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。
見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
コリントの信徒への手紙Ⅱ4章18節
見えるものと見えないもの、その代表は人間と神さまだろう。人間にも見える外見と見えない心、肉体と精神があるが、その二つとも永遠に存続するものではないから、ここで言う見えないものには入らない。やはり人間は見える存在だからどうも気になってしようがない。言われなくても、あの人この人の顔色を見て、あれこれ思ってしまう。
だがパウロはここではっきりと「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」と宣言する。絶えず移り変わるこの世、この世を動かしている人間ではなく、永遠の神さまに目を向けているという。
そうなのだ、
なぜ聖書があるのか、神様がおられるから。
なぜ人間がいるのか、神様が望まれたから。
なぜ宇宙があるのか、神様が創造されたから。
なぜの向こうはみな神様で、神様を抜きにしてはすべて混沌、すべて過ぎ去る虚無の世界にすぎない。
先週の礼拝はヨブ記3章だった。
1~2章では、神様から「ヨブほど正しい者はいまい」とまで言われる義人ヨブが、「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」とのサタンの一言で、その信仰をためされることになる。「いくらヨブだって、財産も家族もすべて奪い、不治の病で苦しめるなら、神を畏れ敬うどころか神を呪うようになるだろう」というのがサタンのもくろみであり、ヨブはある日突然、何が何だか分からない火のような試練の中に投げ込まれてしまう。
しかし、どんな苦しみにあってもヨブは、
「わたしは裸で母の胎を出た。
裸でそこに帰ろう。
主は与え、主は奪う。
主の御名はほめたたえられよ。」
と、神を非難することなく、
「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」
と、神を呪うことはしなかった。
ここまで(1,2章)はヨブの日々を外面から記しているが、3章からはそのヨブの内面の燃えるような苦悩が記される。
耐えがたい苦しみの中で、「わたしの生まれた日は消え失せよ」と自分の存在が抹消されることを願い、死を待っているが死は来ない。ついにヨブは「なぜこれほど嘆き苦しむ者を生かしておかれるのか」と神に問わざるを得なくなる。
人の存在理由を人に問うても、満足な答えなどあろうはずがない。人が人に生きる意味を与えることなどできはしない。自分がなぜここに存在するのか、それは人の問題ではなく神の問題なのだから、何よりも真剣に神に問うべきなのだ。
私たちのヨブ記の学びは始まったばかりだけれど、4章からの友人との議論もヨブの心を激化させるばかりで、ヨブの神への問いかけはますます深められていき、ついに最終章で
「あなたのことを、耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。」
と、ヨブは神を見る(生ける神に出会う)ことになるのだと、私たちは知っている。
最後には最高の喜び、真理があるのだから、それまでの道がたとえ遠くても、難解な箇所があってもめげないで、一章一章根気強く学んでいこうと私たちは真剣だ。
ヨブのような義人でなくても、人が見えない神様を求めるようになるのは、何らかの問題で、見えるこの世だけでは生きられないと、大げさな言い方をすればこの世の壁にぶつかった時だろう。その時人は、この世の彼方に広がる神の世界を求めるようにと導かれる。
私もまた、「求めよ、さらば与えられん」というキリストの言葉だけを頼りに歩み始め、今日まできたように思う。「何を求めて」と問われれば、やはり「神を求めて」としか言いようがない。
だが、その「神を求めて」というのが良かったのだと心底思う。神様以外の何かを願い求めていたのなら、与えられたら感謝、与えられなければやっぱり無理かと諦めてお終いということになっていたかも知れない。
神様はあまりに高く深く広く大きいお方だから、一瞬「わかった」と思うことがあっても大海の一滴、砂浜の砂粒。ところがその一滴、一粒でもこの世の何にも勝る喜びと感動があるのだから、神様を求めることは止められない。
新約聖書に入り、「わたしを見た者は、父(神)を見たのだ」なんて言う聖句に出会うと、さあ福音書を1ページから一字一句とばさないで読み返そうと、たまらなく嬉しくなる。
以前読んだスポルジョンの祈りの本に、
「神のみ心や方策が、あなたの考えと同じであると思わないように気をつけなさい。けちな嘆願やしみったれた願い事を神の前に持ち出して、『主よ、これこれのとおりにしてください』と言ってはなりません。むしろ天が地よりも高いように、神のみこころや方策があなたの考えを上回っていることを心に止めなさい。そして、神にふさわしい偉大な物事を願い求めなさい。」
とあったが、神様に比べれば、他のどんなものもけちな、しみったれたものに過ぎない。「神様、あなたをください」と求めたら、キリストを与えてくださった。
見えるものではなく見えないものに目を注いだ時、この世の混沌と闇を突きぬけて、キリストの十字架が見えてくる。私たちはみなすでにキリストの愛の支配下にあるのだと信じることができる。
この「福音」を始めたのも、見えるこの世がすべてではない、見えない神がおられるのだと、私たちには、この世のどんな喜びにも勝る、イエスさまと共に生きる喜びがあるのだと、どうしても書きたかったのだ。