福 音
|
著者のコメント
神様を信じて歩んでいると、「本当に神様って生きておられる」と実感することが度々あります。 |
福音 №151 2000年12月
、「イエスの力」、「導き」
イエス様を書いてある「福音書」を読みます。
読み始めて、まず驚くのはイエス様の力です。汚れた霊に取りつかれた男の人がいて、イエス様が「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出ていきます。熱を出して寝ている人がいて「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去った」のです。誰の目にも絶望的だったライ病人も「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまちライ病は去り、その人は清く」なりました。寝たきりの中風の人に罪の赦しを宣言し、その人は自分の寝ていた床を担いで帰っていきました。手の萎えた人をいやし、鎖を用いてさえつなぎとめておくことのできなかった狂人を正気にし、死んでしまった少女を生き返らせました。その少女の家に行く途中、12年間も出血の止まらなかった女の人は、イエス様の服に触れただけで完全にいやされました。耳が聞こえず舌の回らない人の耳を開き、舌のもつれを解き、盲人の目を見えるようにし、てんかんの子供をいやされました。
これらはマルコによる福音書に記されているいやしの記事ですが、その他にも大勢の病気の人をいやし、悪霊を追い出したと、くり返し書かれています。
私は嬉しいのです。このように完全にいやす力のある方がおられる、それだけで嬉しいのです。希望があるのです。イエス様はいやすべき時には必ずいやしてくださる。イエス様にはすべての病をいやす力があるのですから、いやす力のある方が、今あえていやされないのは深い意味があるに違いありません。こんなちっぽけな頭では分からない深い深い愛のご計画があるに違いありません。ともかく、完全にいやす力のある方がおられるのですから、希望があります。イエス様を信じる者は皆、いつか必ず、復活という完全ないやしを与えられるのです。
わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。(ロマ書8:24~25)
彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって わたしたちはいやされた。(イザヤ書53:5)
夜空の星の光のように、清くありたい、美しくありたいと願いつつ、気が付けば心ない言葉を発し、平気で人の心を踏みにじっている。こんな私が赦されて、生きることができるのは、わたしの代わりに罰を受けてくださった方がいるから。
彼とわたしたち、それはイエス様と信じる人たち。 これほどの深い交わりは他になく、これほどの堅い繋がりも他にはない。
「主よ、赦してくださいと」とひれ伏しつつ、赦されて生きる喜びをあなたにも。 もし、イエス様を知らなかったら、 わたしの心はどのようであったろう
夕べに光る金星も 夜明けに仰ぐシリウスも わたしの友ではなかっただろう 重荷を負って苦しむ人と 共に涙することもなかっただろう 遠く離れてまだ見ぬ人と
祈り合うこともなかっただろう もし、イエス様を知らなかったら わたしの心は干からびて 死んでしまっていただろう 導き 導かれて歩む日々 導かれてきた過ぎ来し方
導かれていくこれからの時 何という確かさ わたしのことを 誰よりも良く知っていてくださる主が 導いてくださるのだ 何の恐れることがあろう ただ主の御声に聞き入って
かそけき御声に聞き入って 導きのままに歩む日々。
内容・もくじへ戻る。
福音 №150 2000年11月
S.Mさん お元気ですか?今日の日曜礼拝はどうでしたか?
主は集会の場に豊かに臨んでくださいましたか?
今日の私の学びの個所はエレミヤ書29章11節でした。
私はあなたたちのために立てた計画を、よく心に留めていると主は言われる。
それは平和の計画であって災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。
人の目からは災いとしか見えない状況の中で、主と繋がって豊かな人生を生きることを主は望んでおられること。
日ごとの御言葉を日ごとのゴールとして生き、いつも主イエス様と共にある平安をいただくために、
多く祈りが必要なことなどを教えられました。
御言葉はほんとうに美味しいです。今日も命とパワーを与えられました。
S.Mさん、朝の公園はとても寒いですか?明けの明星など見ることはあるのですか?
見 えたらどんなに素敵かしらと想像しています。
私も一度天気の良い日に兄貴が「みとこ荘」の展望台へ星を見に行こうと誘ってくれているので行ってこようと思っています。
も ちろん私には見えないけれど雰囲気だけでも味わってきます。
いつも自分かってなことば かり書いてご免なさいね。
S.Mさんがいつも主にあって平安と幸福で満たされますように。
*********************************************
Hさん、あなたは何とタイムリーなメールをくださることか!
5日の日曜日、私は東京での(キリスト教)無教会全国集会に参加していたのです。
4日の朝出発したのですが、その早朝、いつものように公園に祈りにいくと、星の光があ まりにも美しく輝いていました。
頭上には、「はこ舟」に書いてくれてあったのですぐ分か りましたが、木星と土星とアルデバランの三角形。
とてもこの世の光とは思えませんでし た。
そして、いつもの所に座って、前を見ると、ちょうど目の高さに一つの星がキラキラ と瞬いています。
それは頭上のどの星とも違って、キラッ、キラッと点滅をくり返してい るのです。
その星は右に左に踊っているようでもあり、一瞬、飛行機ではないかと思った ほどです。
その時、私は気付きました。あっ、イエスさまが語っておられる、と。
遠くから、主はわたしに現れた。
わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、
変わることなく慈しみを注ぐ。 (エレミヤ書31章3節)
実は今回、全国集会で私にも発題があたっていて、どうにかしてイエスさまの為してく ださったことを伝えたいと思いつつ、上手く話すことができるだろうかと不安な私に、イ
エスさまは星の光をもって「わたしがいる。」と告げてくださったのです。
Hさん、こんなにまで励ましたくださるイエスさまに、何とも拙い発題だったけれど、 でも、あとで一人の姉妹が「私も自分で集会を始めてみます」と言ってくださったことは、
何よりも大きな慰めでした。
どんなに拙い話しでも、それによって、たった一人でもイエ スさまに近づいてくださったら、それほど嬉しいとはありませんものね。
今年の全国集会のためには、何人もの方から「祈っています」というお便りをいただき ました。私は聖書や讃美歌と一緒にそれらの手紙や葉書を持って、東京に行きました。そ
れらの祈りの言葉に、決して言葉だけではない、お一人お一人の深い愛を実感したからで す。
Hさん、あなたには全国集会のことは話していなかったけれど、あなたが私のためにい つも祈っていてくださることは知っています。私も日曜日の朝、一人で礼拝をするあなたのために祈りました。
たとえ場所は違っていても、主にあって一つ。エレミヤ書と星の光。 あなたからのメールがそのことを教えてくれました。
東京に向かう新幹線の中で、私は「殉教者たちの祈り」という本を読みました。ある姉 妹からの紹介でぜひ読んでみたいと思っていたのですが、 1ページ、1ページ、開くごと
に身も心も引き込まれていきました。
とこしえの御国が、かなたに見えます。
滅びることのない御国が。
主イエス・キリストよ、
私たちはキリスト者、あなたのしもべです。
あなたこそが、私たちの望み
、 すべてのキリスト者の望みです。(アビティネのテリカ)
投獄され、拷問を受けながら、滅びることのないとこしえの御国を見て喜び、何者も奪 うことのできない希望をもって殉教していった人たち。
人にはこのように生きることが許 されているのだという深い驚きに時が止まりました。
人は喜びや安らぎを得るためにだけ、キリストを求めるわけではありません。
あの榎本 保郎牧師がクリスチャンになろうと決心したのは、殉教の記録を読んだときでした。
生き る意味を失った榎本牧師にとって、迫害を受けながら、いっさいを神にささげてきって死 んでいくキリスタンの姿こそ、
闇の中に輝く大きな光となったのです。
「これだ、これだ、ここにこそ自分のいのちをささげるものがある。
何度もなんど も泣きながらそれを読むうちに、私は久しぶりに平静をとり戻し、はじめて心のなかが明るくなるのをおぼえた。
喜びは爆発した。」ちいろは10P
私だって、いのちを賭けるものがほしい!
誰だってみんな、いのちを賭けるほどのもの に出会いたいと願っている。
何かに燃えたい、燃え尽くしてこの生涯を終えたいと、願っ ているに違いない。
「殉教者たちの祈り」の中に、私のめざすものが見つかりました。
今の日本の状況がい つまで続くか分からないけれど、世の中がどのように変わっても変わることのないキリス トの道を、
主よ歩み続けることを得させてくださいと祈っていると、そこは東京駅でした。
Hさん、少し長くなるけれど、私の得たその答え、書いておきますね。
あなたも、きっ とアーメンと祈りを合わせてくださることを信じています。
もし殉教が神を告白することにあるのならば、神を知る知識において純粋に身を 処し
主の戒めを守ろうとする人は、すべてその生活とことばにおいて殉教者である。
魂がからだを離れる去りかたがいかようであろうと、生涯においてまたいまわの際 にも、信仰を血潮のように注ぎ出すからである。
これこそ主が福音書でいっておら れることであり、「福音のために、またわたしの名のために自分の父、母、兄、弟、妻 や土地を捨てる者」、
このような者は、祝福を受けるのである。
それは、福音の定め に従い主に対する愛によって生活し、また振る舞うことによって、自分自身の内に、
通常の殉教のみではなく、殉教に対する真の知識を成就したからである。
真の知識 とは、御名を知り福音を理解することだからである。
(アレキサンドリアのクレメンス)
内容・もくじへ戻る。
「喜び」「痛める友へ」「十字架」「心のケアを考える」
福音 149号 2000年10月
「メールありがとう。今年もホトトギスの花が咲いたんだって。ホトトギスは青紫だった?赤紫だった?」と電話の声。「赤紫だよ」って答えると「確か花びらに濃い斑点があるんだよね。・・・今年もホトトギスの花が咲いたんだね、嬉しい!」
Hさんの明るい声に思わず涙ぐんでしまう。お腹の調子が悪くて、今夜も食パンを一枚だけと言いながら、私の家の庭に咲いた花を共に喜んでくれるHさん。目が見えなければ何にも見えないなんてとんでもない。Hさんは生まれたときから目が見えないけれど、遠く離れたわが家の庭に咲いたホトトギスの花まで見えるんだ。ものは目で見るものじゃない、心で見るんだと胸が熱くなる。
いろいろ話して、最後には「それにしても、イエスさまによって繋がってるって、嬉しいよね。置かれた場も違い、与えられた働きも違うけれど、お互いにとって一番大切なものが同じって、本当に嬉しいよね。イエスさまが共にいてくださるなら、もう何にもいらない・・・、こんな喜びを分かり合えるなんて最高だね。」と満たされて受話器を置く。ほんの10分ほどの間に、目には見えない永遠の世界の喜びをお互いに満喫する。
Hさんのことを多く知っているわけではないけれど、イエスさまが信じられないと苦しんでいた期間が長かったことは知っている。もう離れてしまうかも知れないと呻いていたことも知っている。しかし、Hさんの思いがどんなに変わろうと、神様の愛は変わらなかった。「イエスさまなんて嫌い」と叫ぶ時も、イエスさまはHさんの手を取って、決して離さなかった。そして、そんなHさんのために祈り続けている人がいた。 いつしか、Hさんはイエスさまのみ声を聞き分けるようになっていた。
|
自分の心の声でもなく、人々の声でもなく、主イエスさまの御声に耳を傾けて、滅びることのない永遠の道を、あなたも共に歩んでみませんか。
**********************************************
生きていたくないと思うほど、悲しいという。
心の中にやっと咲いた小さな花が、
無惨にも踏みつけられ
そんなもの、何の価値もないと嘲られ、
精一杯、生きようとすると
あなたのようでは駄目だといわれるから、
もう、生きていたくないという。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
美しいものを求めれば求めるほど傷つき
清く生きようとすればするほど
自分の醜さがわかるから
もう、生きていたくないという。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こんな現実の中で
なおも真実を求めて生きる。
そんな勇気はないとあなたはいうけれど、
それでも、わたしはあなたのために祈ります。
どこまでも、より高きをめざして歩むように。
清くありたい、正しくありたい、
真実に生きたいと願い続けるように。
「人間にはできないことも、神にはできる」との御言葉を信じて
どこまでも、どこまでも
自分にではなく、神様に希望をおいて歩むようにと。
*********************************************
心がグチャグチャになって、どうして良いか分からないときは、十字架を見上げます。「あなたのために、命を捨てて惜しくない」と言ってくださる、主の御声に聞き入ります。十字架の主を思っていると、心を縛っていた様々な思いはいつしか消えて、自由な明るさの中に、新たな力を受けるのです。
ほんの小さな事にもつぶやき、心騒ぐのはイエスさまの十字架の苦しみを忘れていたから、私たちが新しい命に生きるために払われた代価の大きさを、忘れてしまっていたからだと、気付かされるのです。
十字架のもとで解決しない問題はなく
十字架のもとに持っていけない問題はない。
十字架に贖い得ない罪はなく
十字架は誰をも拒まない。
*********************************************
市の広報に「こころのケアを考える」と題して精神保健福祉ボランティア講座の案内が載っていました。人間について少しでも理解を深めたい、少しでも心病む人の苦しみを知ることができるならと、出席しましたが、思いに優る良い学びができたように思います。まだ、作業所の実習などが残っていますが、今回までで特に心に残ったのは、精神障害を持っておられる当事者の方のお話でした。
幻聴、幻覚など特異な状況の中で生きる苦しさ。薬で正常な生活が送れるようになっても、仕事に就くことの困難さ。何度就職をしても続けられないという悩みの中で、自分にとっては、精神障害という苦しみを抱えて生きることが仕事なんだと気付いたと言います。生きることが仕事なら、自分は起きていても眠っていても、24時間仕事をしているんだ、仕事なんだからしんどいのは当然だ。自分はこの仕事を生かされる限り為し続けようと。わたしは心の中でその方の生きる姿勢に拍手喝采をしました。
人は、一人一人違うのです。病を抱えて、生きるだけで苦しい人は、その苦しみを担うことが神様のみ前に大きな仕事に違いありません。神様は人の数だけ個性を造られた。一人一人に、その人でなければ歩み得ない道がある。人と人を比べるのでなく、どれがよいとか悪いとか自分の価値判断をくだすことなく、一人一人の人生をかけがえのないものとして愛おしんでいきたいと思います。主、イエスさまが誰をも排斥なさることなく、黙ってすべての人の罪を負ってくださったように。
内容・もくじへ戻る。
福音 №148 2000年9月
クリスチャンは皆、宝箱を持っている。
いつでも、どんな時でも、必要なものはみんな詰まっている宝箱。
夢も希望も、今日を生きる力も、蓋を開けると漲ってくる。
萎えた心もいつしか晴れて、清い喜びに満たされる。
そんな不思議な宝箱を、あなたはお持ちですか。
今月は、私の宝箱をひっくり返してお見せします。
ひっくり返してびっくり仰天。これも、あれも、こんな素晴らしいものを押し込めたまにしておいたなんて。一つ一つ拾い上げると、込み上げてくる慕わしさ。
ひときわ輝く白い石。そこには金色で「常に御顔を求めよ」と書かれています。
この石を宝箱に納めたのは18年ほど前のこと。神様を信じているのに、何か物足りない。
これで良いんだという実感がない。
そんな渇きを覚えていた時、一通の手紙が届き、最後に一言「常に御顔を求めよ」(詩編105:4)と、書かれていたのです。
ああ、そうだった。私は確かに神様を信じていた。だが、常に御顔を求めてはいなかった。常に、常に、常にが大事なんだと感動して、朝の祈りを始めました。
でも、今朝はあまりの空の美しさに、お祈りができませんでした。
あのことも、このことも祈ろうと、はりきって公園に向かったのに、薄暗い東の空に細い橙色の雲が浮かび上がり、それが金色に輝き始め、見とれているうちに空は水色に、雲は真綿のように薄くコスモス色に。手押し車におばあさんを乗せて散歩なさる方に「おはようございます」と声をかけられ、我に返ったという有様です。
そうそう、「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」(詩編19)と濃紺で書かれた空色の美しいカードもあります。確かに大空を見上げていると、神様のお心が伝わってくるようです。
手紙に添えて届けられた御言葉で、宝箱に納めた忘れられないものがもう一つ。確か、20数年前のこと。
行き倒れの人を収容する病院にお見舞いに行って、何ともひどい状態と、付添婦の恐ろしい光景を見て、為すすべもなく嘆いていた時、ちょうど届いた手紙に「主の手は短かろうか」(民数記11:23)と、書かれていたのです。
目から鱗が落ちるとはこういうことを言うのでしょうか。
・・・そうだった。神様の御手が届かない所なんてどこにもない。
祈りつつ、できることをしているなら、神様は必ず生きて働いてくださる。
・・・それからは、困難な問題に出会う度に「主の手は短かろうか」との御言葉を宝箱から取り出して、新たな勇気を受けるのです。
白いハンカチに赤い刺繍糸で美しくかがられた言葉。
この御言葉を私の宝箱に入れたのは、自分でもどうすることも出来ない重い心を抱えて「主よ、主よ」と御名を呼び続け、イエスさまによって打ち砕いていただいた時。
彼はわたし(神)を愛して離れないゆえに、
わたしは彼を助けよう。
彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。
彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。
わたしは彼の悩みのときに、共にいて
彼を救い、彼に栄光を与えよう。(詩編91:14-15)
「愛して離れない」と言うところに、「意志的なもの、固着すること」と書き込みがあります。この御言葉を実感しながら「わたしは神様を離れない、何があっても離れない、神様を愛すること、それがわたしの一生の仕事」と心に刻みました。
でも、心に刻んだだけではいつしか薄れてしまいます。やはり折々に、この白いハンカチを宝箱から取り出して、赤くかがられた神様の約束を深く味わい、感謝と賛美を捧げます。
なつかしい桜貝に印されたイエスさまのお心。この御言葉に救われない人は一人もないと確信します。
暗い海を照らす灯台の光のように、心の闇に泣くすべての人を照らす一条の光。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:13)この御言葉がある限り、私たちは生きていけます。
弱さや愚かさ、罪深さの故に捨てられることは決してなく、「わたしにすがれ」とイエスさまご自身が言ってくださるのです。
さて、次は宝箱について。私の宝箱は水晶のように透き通っています。
これを、私はサマリアの女の人から受け取りました。
水を汲もうと井戸に行ったサマリアの人は、そこでイエスさまに出会い、再び渇くことのないいのちの水があることを知ったのです。
5人も夫を取り替えても満足できず、ますます心渇くばかりだったサマリアの人に、イエスさまの一言は決定的でした。
この水を飲む者はだれでもまた渇く。
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。
わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。
サマリアの女は答えました。
主よ、その水をください。
イエスさまこそ、いのちの水の源だと知ったサマリアの人は、今も水晶のように輝く宝箱を、人々に配って歩いているのです。若き日を罪の内に渇き苦しんだサマリアの人は、渇く人のために宝箱を配らずにはおられないと言います。
でもみんなが、サマリアの人から宝箱を受け取るわけではありません。
パウロから受け取った人もいれば、ペテロから受け取った人もいます。
マグダラのマリアから、また、イエスさまの母マリアから、ザアカイからもらっと言う人もいます。あなたが聖書を読んでいて、一番心ひかれる人から宝箱を受け取ることになります。誰からだってかまいません。
その宝箱の中に、あなたが出会った素晴らしい御言葉を、一つ、一つと納めて、あなただけの宝箱を造るのです。
えっ、イエスさまご自身からいただきたいって?ええ、確かにイエスさまご自身から宝箱を受け取った人もいます。でも、その宝箱には「私の名のために苦しむ、選ばれた人へ」(使徒9:16)と書かれているそうです。
殉教の血を流した多くの人は皆、イエスさまご自身からの宝箱を受け取っていたに違いありません。
宝箱をひっくり返してお見せしたいと書き始めたけれど、わたしの筆力ではその素晴らしさの100万分の一も書き表すことはできません。
この上は、どうぞ聖書の中からご自分で一つ一つ御言葉を掘り起こし、その偉大なる力を味わってください。
ただ、真実な心で!信仰とは真実です!不真実な心は、人には隠せても、神様はすべてお見通し。
私も、自分の宝箱なのに、不真実ないい加減な気持ちで開けようとすると、開かない時があるのです。
閉じられたまま、立ち尽くすことも度々です。
宝箱の鍵はただ一つ、真実な心です。
内容・もくじへ戻る。
福音 №147 2000年8月
見よ、兄弟が共に座っている。
なんという恵み、なんという喜び。 詩133
八月十六日から十八日までの三日間、京都で「日本キリスト者医科連盟(JCMA)学生部会総会」があった。一ヶ月ほど前「学生ばかりの集まりなので、誰か見守ってくださる方がいたらいいな、と思って」との電話をもらって「行く、行く」と即答してしまった。ともかく若い人たちの話が聞ける、それもキリストを信じて医療に携わろうとしている人たちである。その人たちが何を考え、何を求め、具体的にどのようなことに取り組んでいるのか、その片鱗でも知ることができるならと、自分の都合だけで参加させていただいた。医療のことなど何も知らない私が、その場に相応しいかどうかを真剣に考え始めると、とても参加する勇気はなくなるだろうから、ただ神様の導きとだけ単純に信じることにした。
今、三日間を振り返って、いろいろな意味で、もっとふさわしい見守り役がおられただろうにと心痛むが、ともかく参加できたことの中に神様の導きを信じぬこう。若い人たちとの交わりを通して、自分の未熟さを再認識できただけでも、私にとっては十分な恵みであったが、他にも多くのことを教えられ、考えさせられた。
今回のテーマは「滞日外国人の(医療)問題の現状から」という、日頃考えたこともないものだった。今日本には、(以前からずっと日本に住んでいる在日外国人の他に)約百万人の滞日外国人がおり、その他にも二十七万人の不法労働者が滞在しているという。その人たちと実際に関わって活動しているアプトという市民ボランティアグループの方から現状をお聞きし、その人たちが日本で事故や病気になった時、医療従事者としていったい何ができるのか、何をなすべきなのか、様々な状況を取り上げて話し合った。 また、二日目にはお二人の滞日外国人女性ご本人の口から具体的な問題をうかがうことができた。日本での滞在資格や社会保障制度の問題の他に、言葉の壁、文化習慣の違いなど、さまざまな悩みを抱えておられるのがよく分かったが、それらの問題を本気で考えようとしている若者たちの誠実な姿が私にはとても新鮮だった。
医学部、看護学部、保健学科、PT科などで学ぶ大学生の他に、島の保健センターで、すでに働いている人も合わせて十四名の参加者。その内十二人がクリスチャン、他の二人もキリスト信仰に心ひかれている様子だったが、朝目覚めて早天礼拝の始まる前に、また夕拝を終えて床につく前に、一人静かに聖書を読んでいる何人かの姿が今も心に残っている。クリスチャンの老齢化が心配される中で、このような若者がいることが奇跡のようにさえ思われた。確かに神様は、ご自身の必要のために必ず人を残される。時代がどんなに変わろうと、世の中がどんなに腐敗しようと、そのただ中で神様はご自身を信ずる新しい人を起こされる。神様の御業を信じないで、いたずらに現状を嘆いてはならないのだ。
その人たちの神様への素直な姿に心打たれると共に、「共に考える」ことの大切さを今回ほど教えられたことはないように思う。一つの問題を、集められた一人一人が真剣に考える。考えたことを正直に話し、次には、相手の考えにじっと耳を傾ける。そのことを繰り返すうちに、一人一人が考えを深めていく。様々な意見があっても、決して相手を否定したり、攻撃したりしない。誰が正しいのでもなく、みんなで少しでも良い方向を見出そうと心を合わせているのが分かる。
もちろん物事は何でもそうだが、深く考えれば考えるほど問題も深くなっていく。日本に子供の移植手術に来て費用が足りなくて困っている人のために、募金活動を始め大成功を納めた実例も聞いが、手術のために来日できる人は現地でもよほど裕福な人に限られると知れば、今度は、手術どころか治療も受けないで死んでいく子供たちのことを考えねばならない。そのあたりから段々と無力感が強くなる。キリスト信仰を持たない医療学生の集まりに参加している人が「だからいつも最後は、どうしようもないな、で終わっちゃうんです」と話してくれた。
しかし、ここに集まった人たちは祈ることを知っていた。この世界が全能の神の御手の中にあることを知っていた。だから、どうしようもない問題が山積みする中でも、必ず光のあることを信じて、前に進むことができた。夕べの祈りの中で一人一人の口から出た「用いてください」「導いてください」という言葉に、どうか主が豊かに豊かに答えてくださいますように。
また、この若い人たちに接して、私ももっと交わりを広げていくべきだと教えられた。「日本に住む外国人」についての学びのレジメの最後に
【同化でも排斥でもなく、社会的統合へ・・・「共生」の現実は日本社会を豊かにする】とあったが、これは外国人問題だけでなく日本人社会にあっても、信仰者にとっても大切なことなのだ。私たちの主イエスさまこそ、世界中の誰をも排斥なさることなく世界中のすべての人を生かすために、ご自身の命を捧げられたお方なのだから。
三日間の学びの中で、私が一番心に残ったのは滞日外国人(フィリッピン人)の「私の目をじっと見て!私の訴えから目を反らさないで!」という、叫びだった。具合が悪くなって病院に行く。ところが医者は言葉が十分話せないせいか、まともに顔を見てくれない。書いたものを渡されて、それでも大体のことは分かるが、病気の時は今の苦しみを見てほしい、不安を知ってほしいのである。「たとえ言葉が上手く話せなくても、目を見るだけでいい、逃げないでほしい。」
「人に対して逃げない」という言葉を聞いたとき、私はあの「良きサマリア人」(ルカによる福音書10:25~37)の話を思った。傷つき倒れている人を見て、神様に仕えているはずの祭司やレビ人は見て見ぬ振りをして通り過ぎた。それは逃げたということだ。いつか聞いた「愛とは、共に、とどまること」という言葉が胸に響く。
ああ、そうだった。かつて私が一番苦しかった時、誰にも理解されたいとさえ願わなかった時、そっと近づいて支えてくださったお方がいた。そして「わたしが共にいる」と言ってくっださった。そのお方が「行って、あなたも同じようにしなさい。」と言われるから、私もまた「用いてください」「導いてください」と祈りつつ、歩みを続けよう。
せっかく誘ってくださったのに、私の方が教えられることばかりで申し訳ない思いでいっぱいだけれど、このような機会を与えてくださった神様に心から感謝して、いつかは若い人たちのお役に立てるようにと、学びを、祈りを深めていきたい。主よ、導いてください。
内容・もくじへ戻る。
福音 NO.146 2000年7月
ハレルヤ。
わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく
神への賛美はいかに美しく快いことか。 詩編147:1
一日に一度でも、心から神様を賛美する日は、素晴らしい一日。
一日に一度も、神様を賛美することのない日は、つまらない一日。
きょうとあすが賛美によってつながり、
あすとあさってが賛美によってつながり、
生きる全ての日々が神様への賛美によってつながっているなら、
何と何と素晴らしい生涯。
あなたとわたしが賛美によってつながり
遠くに住む人も、病の床にある人も
みんなみんな神様への賛美によってつながっているなら、
何と何とすばらしい仲間。
紫陽花の花があせると、クチナシが香り、クチナシの花が少なくなるとムクゲの花がいっせいに咲き、今日も田んぼのあぜ道を歩けば、ほんの小さなアゼナの花や可愛いミゾカクシ、露草の青さが目に染みて。空を見上げれば白い雲の輝きは天国の喜び。そこに青サギやシラサギが舞う。
神様は私たちを喜ばせようと、何と多くを備えていてくださることか。花の数だけ恵みを与え、鳥の数だけ自由を与え、星の数だけ希望を与え、何と、何と私たちを愛していてくださることか。
こんな素晴らしい神様を、もし賛美しない日があるなら、わたしの心は病んでいるに違いない。心の目や耳が、閉ざされているに違いない。
ああ、そうだったのかと気付きました。
ルカによる福音書を読んでいて、イエスさまによって病気を治してもらった人や、目を開いてもらった人が、いやされるとすぐ「神様を賛美した」と書かれているのが不思議だったのです。いやしてくれたイエスさまに感謝するのならよく分かるけれど、なぜ、まず「神様を賛美した」と書かれているのだろうと、何となく不思議な気がしていたのです。
十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。
ルカによる福音書13:10~13
他にも、中風をいやされた人も、ライ病のいやされた人も、目が見えるようになった人も、いやされた時、まず「神様を賛美した」と書かれています。本人だけでなく、それを見た民衆もみな「神様を賛美した」と。
本当に病がいされるなら、人は必ず神様を賛美するでしょう。心の目が開かれるなら、神様への賛美があふれてくるでしょう。もし、私たちの心に神様への賛美がないなら、いくら健康ですと叫んでもやはりどこかが病んでいるに違いありません。たとえ体は病んだままでも、心から神様を讃美することができるなら、その人こそ真に健康な人。神様への賛美は、私たちの健康のバロメーター。
どのような問題のただ中にあっても、自分の弱さや罪過ちに悩むときも、私たちのためにイエスさまを与えてくださった神様の無限の愛と赦しを思うなら、賛美は溢れてくるでしょう。
喜びの日は、喜びのゆえに主に賛美
悩みの日には、引き上げてくださる主に賛美
すべての国よ、主を賛美せよ。
すべての民よ、主をほめたたえよ。
主の慈しみとまことはとこしえに
わたしたちを超えて力強い。
ハレルヤ。 詩編117
日々の生活の中から
御言葉と祈りに支えられて
困難なことが起こる。逃げたいなあと思う。でも、聖書を開くと
キリストの愛は人の知識をはるかに超える、と書いてある。
神様はわたしたちが求めたり、思ったりすることをすべて、
はるかに超えてかなえることがおできになる。(エフェソ3:16~20)と書いてある。
だから逃げないで、このままで、静かに、祈って、待っていよう。
人生に何も残らなくても
神様を信じ抜いたと、それだけ残ればいい
そのためにだけ、生きていこう。
嫌なことがある、心が揺れる、腹が立つ。こんな時、もし祈ることを知らなかったら、何時間も、何日も、ことによると何ヶ月も嫌な思いのまま過ごさなくてはならないだろう。いつ、いかなる時にも、まず祈るすべを覚えたことは、何という恵み、何という喜び。
嫌な思いでいっぱいの心を、それでもともかく神様に向ける。「イエスさま」と御名を呼ぶ。「回りの人の声に振り回されるのでなく、自分の思いに従うのでもなく、主よ、あなたの御言葉に従わせてください」と祈る。自分の醜い思いになど従いたくない。風のように変わる人の言葉に振り回されたくもない。「御言葉を、御言葉をください
」と、主に祈る。祈っていると、神様への熱い思いが溢れてくる。永遠に変わることのない真実なお方。こんな者を赦し愛し祝福で満たしてくださるお方。主よ、あなたにだけ従わせてください。あなたの御言葉に従うことこそ、私の喜びですと、感謝と賛美が溢れてくる。
内容・もくじへ戻る。
福音 NO.145.低さ、私はあなたと共にいる。
低くされたわたしたちを
御心に留めた方に感謝せよ。
慈しみはとこしえに。(詩編136:23)
人は低さの中で 主に出会う。
低くされた心 涙にじむ心に 主は語られる。
低さのない信仰など 異臭を放つばかり
主にふさわしい たった一つの心 低さ
信仰を持つことによって もし私の心が高ぶるなら、
主よ、そのような信仰は
すみやかに打ち砕いてください。
もし、私に注がれた主の憐れみを忘れて
人を見下すようなことがあるなら
自分の罪を いやと言うほど見せてください。
高ぶりほど醜い罪はないことを
呻くほどに思い知らせてください。主よ
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28:20)
「中学校になるとクラブに入るから、日曜日は来られなくなるかも知れない」と言っていた二人の男の子が今日も日曜学校にやって来た。たった30分、あまりにも不十分な内容で心痛めることばかりなのに、幼い日からずっと日曜になるとやって来る数人の子供たち。この子たちのことを思うと、自分の教えることの下手さや手際の悪さに申し訳なさでいっぱいになるが、今日も「これからの人生、何が起ころうとイエスさまだけはあなたたちの身方。病院の個室にも監獄の中にも、イエスさまだけは共にいて下さる」とだけ、力を込めて話した。「だから、大丈夫、恐れることはない」と。
子供集会の後、大人の礼拝。創世記第1章から人間が神にかたどって創造された様を学び、その存在の意味と、キリストによって新しく造り変えられる希望を学んだ。
午後、礼拝の喜びに満たされつつ、緑のあまりの美しさに「ササユリが咲いているかも知れない」と山に出かけた。山道を歩きながら「ホタルブクロもまだ蕾が固いし、ササユリはもう少し先だね」と話していたのに、ふと気づくと夫がいない。蝶の写真を撮ることに夢中になっている夫を残して、一人どんどん歩き続けた山道は深い杉木立にさしかかっていた。日の光の届かない薄暗さの中で、私は「怖い」と感じた。山の中で一人でいることを恐ろしいと思った。と同時に、今朝子供たちに話した自分の言葉を思い出した。「大丈夫、イエスさまが共にいてくださるから、何も怖いことはないの。恐れることはないの」そのように話しながら、今の自分の心はどうしたことだろう。私はイエスさまが今も共にいてくださることを信じていないのだろうか。自分でも信じられないことを、子供たちに確信ありげに話したのだろうか。
いったい私は何を怖がっているのだろう、と思ったとき、
体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。(マタイ10:28)
というイエスさまの言葉が心に聞こえた。そうだった、やはり私は目に見える力を恐れている。私の体を傷つけたり、殺したりすることのできる力を恐れている。だが、どんな悪の力も、私の魂まで傷つけたり殺したりすることはできないのだ。
この世がいかに悪に支配されているか、それはキリストの十字架がはっきりと示している。また、悪への恐れは人の心を臆病にし、卑怯にする。それはイエスさまを見捨てて逃げた弟子たちの姿がはっきりと示している。また、人は悪に対していかに鈍感であることか。それはイエスさまの十字架の苦しみを見ながら、平気で通り過ぎていった多くの群衆の姿がはっきりと示している。
ああ、しかし、主の御名はほむべきかな!
十字架の上でその悪を飲み尽くして死なれたイエスさまは、3日後によみがえられた。そして、神の愛は決して滅びないことを、目に見えるこの世の背後に、目には見えない永遠の世界があることをはっきりと見せてくださった。
キリストを信じるとは、この世の悪に十字架の死をもって勝利し、復活されたイエス・キリストを信じることである。どんなに悪の力が蔓延っているように見えるときも、善の力、愛の勝利を信じ抜くことである。打たれても、殴られても、殺されても、悪を恐れずキリストを否まなかった多くの聖徒たちを思う。その姿こそイエスさまが共にいてくださる姿なのだ。
ごく平凡に見える人生にも突然何が起こるか分からない。個人的にも社会的にも、考えもしなかったことが起こる可能性はいくらでもある。世界には飢えている国がたくさんあるのに、この日本の贅沢がいつまでも続くはずもない。憲法を変えようとする動きも大きくなり、ぼんやりしている内にとんでもないことが起こりそうな気もする。世の中のことだけでなく、個人的にも「こんなことが私の人生に起こるなんて、信じられない」という言葉も、何度も聞いた。いつ何が起こるか分からない人生。イエスさまが共にいてくださるとは、そのような突然が生じないことでもなければ、ことが願い通りに運ぶことでもない。どのような思いがけない困難が起こっても、希望を失わず、悪の意のままにならず、神様の愛を信じつづけることができる、それがイエスさまが共にいて下さるということなのだ。
それだけではない。共にいてくださるイエスさまは、この世の何ものにも優るうるわしいお方、慈しみに満ちたお方。香しいササユリに心ひかれるのはイエスさまの清さを感じるから。一人ではやはり不安だけれど、深い山の中で味わう自由と平和はイエスさまのお心、この世の背後に広がる永遠の世界を告げてくれる。
イエスさまが共にいて下さるということは、目に見える夫が側にいるので山道でも安心というようなこととはどうも質が違う。安心していても心が罪に染むことはいくらでもあるが、イエスさまが共にいてくださるなら、心が罪や汚れに敏感になり、悪の力から守られる。
このことを言葉で上手く伝えることは出来ないけれど、子供たちもいつの日か、人生のさまざまな試練のただ中で、イエスさまが共にいてくださることの深い意味を味わい知ることができますように。あまりにも不十分なことしかできない私は、せめてその時まで、一人一人の子供たちを覚えて祈り続けることができますように。主よ、憐れんでください。
残雪を踏みしめながら信州の山を歩く。雪のあい間から顔を出した可愛い蕗の薹に「おはよう」と声をかけ振り向けば、朝日を浴びて野尻湖が銀色に光っている。こんな美しい世界を主は創られた。
芽吹き始めたブナの木をぬって、小鳥たちが飛び交う。その鳴き声にしばし耳を澄ますと、時が止まった。こんな美しい世界を主は創られた。
再び急坂を登りながら、振り返るたび眼下に広がる新たなる光景。朝靄が晴れてはるか遠く、くっきりと姿をあらわした残雪の青い山々。こんな美しい世界を主は創られた。
実に、キリストはわたしたちの平和であります。(エフェソ2:14)
この美しい大自然の中で味わう平和も、キリストなしにはあり得なかった。キリストによって、神様と和解させていただいたのだという実感に、エフェソ書を読みたいと思った。
こんな満ち足りた中にあって、なおも御言葉(聖書に書かれた言葉)への渇きを覚える不思議。自然も聖書も歴史も、すべて神様の書かれたものに違いないけれど、御言葉は「金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、密よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」と詩人が歌っているように、聖書によってだけ開かれる真理がある。
山を降りてエフェソ書を読む。
わたしたちの主イエス・キリストの父である神はほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。(1:3)
私たちはキリストにおいて祝福され、キリストにおいて選ばれ、キリストによって神の子にされ、、御子(キリスト)によって贖われ罪を赦され、キリストによって約束されたものの相続者とされ、・・・・・どこまで読んでもすべてはキリストによるのだという。読めば読むほどキリストというお方が大きくなる。
神様のもとには無限の祝福がある、
キリストを通してすべての祝福が流れてくる。
私たちは神の子にしていただける、
キリストがすべての罪を清めてくださる。
私たちは一つになることができる、
キリストがあらゆる敵意を滅ぼされた。
私たちには為すべき努めがある、
キリストの体の部分として、
体の成長のための愛の労苦がある。
キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。(4:16)
エフェソ書を読みながら、キリストの体の一部とされたこの驚くべき恵みに答えて、与えられた部分としての働きに精魂を傾けたいと心を燃やされる。
あなたがたは以前には「キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」(2:12)
この美しい世界を創られた神様を、かつて私は知らなかった。感動しても、うれしくても「神様、ありがとう」と言うすべを知らなかった。受けた恵みに感謝を捧げて、はじめてその恵みは実りあるものとなる。恵みを受けても神様に感謝することを知らないわたしはいつも虚しかった。生きることに手応えがなかった。
それにも増して、わたしの内に罪があり、その罪を誰かに取り除いてもらわなければ滅びてしまう存在だなどとは、夢にも思わなかった。罪の結果である苛立ちや虚しさ、自分の内に生じるさまざまな悪しき思いには気づいていても、それが神様と関係があるなどとは、思いも寄らなかった。
あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。 (エフェソ2:1~3)
この言葉は本当だ。神様を知らなかった頃、結局は自分のことしか考えていなかった。いつも渇いている自分がいて、その渇きのために、人のことを思いやるどころではなかった。満たされたいと、愛されたいと、ともかく自分のことばかり考えていた。
人は自分自身が渇いている限り、他の人を愛することなどできない。渇き、その闇の力こそ、アダムとエバが神に背き神から離れてしまった故に人間が負わねばならなくなった原罪でないかと、ふと思う。
そんな惨めな人間のために
憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし・・・あなたがたの救われたのは恵みによるのです・・・キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせて下さいました。 2:4~6
このような驚くべき事実を、私は聖書によって知った。そして、自分ではどうすることもできなかった渇きがイエスさまによって癒され、これほどまでに神様に愛されていることを実感したとき、この聖書の言葉は単なる言葉ではないと知った。聖書の言葉はすべて真実であり、聖書を通してしか知り得ないことがあるのを知った。
心を静めて考えてみると、確かに人間には二つに一つしかない。生か死か、死ぬか生きるかである。生きているか死んでいるかに比べたら、他のどんなことも大した問題ではない。
聖書では、神様に背を向けることを死という。体は生きていても、心が神様に背いている限りその人は死んでいるという。反対に、体は死んでも心が神様と結びついた者は生きるという。今神様を求めている者、今キリストによって救われたいと願っている者、今神様を見上げて労苦している者、今キリストのために耐えている者、そのような者こそ本当の意味で生きているのだという。
たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 (マタイ16:26)
と言われるイエスさまの言葉が聞こえてくる。
わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ
と言われる神様の言葉が聞こえてくる。
もう少しするとこの世の人はもはやわたしを見ることができなくなるが、あなた達は間もなくわたしを見ることができる。わたしは死んでもまた生き、それによってあなた達も生きるからである。(塚本訳・ヨハネ福音書14:19)
「わたしは死んでもまた生き、それによってあなた達も生きる」と、イエスさまは言われた。イエスさまの復活がこんなにも嬉しいのは、「それによってあなた達も生きる」と言われたように、信じる私たちにも復活の命が与えられたからである。
イエスさまの復活を祝う復活祭は、信じる私たちの復活祭でもある。永遠の命、復活の希望なくして、人は真に生きることはできない。
復活祭を兄弟姉妹と共に喜び祝った、その日の午後、夫の両親を訪ねた。義父の87歳の誕生日を祝うために。
心身の衰えの中で検査のための入院を待つ日々でありながら、笑顔で迎えてくれた義父に、「私たちがまだ聞いていないことを話して欲しい」とお願いした。普段、自分からはあまり話すことのない義父も、戦争の時、衛生兵として船でビルマ、シンガポール、台湾、上海などを回っていた頃のこと、多くの船は撃沈されて、生き残っているのが不思議であること、また敗戦の後、会社復興のためにどれほど骨身を惜しまず働いたことなど、生き生きと話してくれた。横に座った義母の、戦争に行った義父をどんな思いで待っていたかという話は、そんな義父の存在の大きさを物語っていた。
その義父が、「もう、わたしの人生は終わった」と言うのである。「長く生きすぎたようだ」と。そんなことがあって良いはずがない。国のため、妻子のため、会社のため、と苦労に苦労を重ねて来た人生の集結が、「死」という一言で終わってしまうなんて、そんなことがあっていいはずがない。
言葉ではなかなか伝えられない思いを込めて、87歳のお祝いにと「杣友豊市文集」を贈った。永遠の命を綴った杣友さんの文を通して、ただ信じるだけで今日までの全ての罪を赦し、永遠の命を与えて下さるという喜ばしい訪れが、どうか両親の心に届きますように。
**祈り**
主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。(ピリピ4:5~7)
「午後三時 祈の友」誌が届いた。会友召天記から会友相互通信、地区集会報告など豊富な内容にはまだ十分目を通していないけれど、とりあえず「重症者及び、特に祈って頂きたい方々」のページを開く。北海道から沖縄まで、お名前も知らない人ばかりだけれど、その書かれた病状を読みながら、ベッドに伏しておられる様子、車椅子に座っておられる様子などを思い浮かべながら、一日に五名ずつ祈ることにした。
下半身不随、完全失聴、リウマチ、排泄障害、中途失明、脳性麻痺、筋萎縮硬化症、脳梗塞、カリエス、ハンセン病後遺症・・・等々、このように重荷を負うて生きておられる方と、たとえ祈りの上だけでも、ほんの一時でも、心を合わせることの許される幸いをまず、感謝して。
今健康な私には到底量り知ることの出来ないできない病苦の重さを思えば、とても心を合わせることなど出来ないはずなのに、不思議と、共に祈ることが許されているのを感じる。その祈りがどんなに不十分であっても「御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである」。(ロマ8:26)
「戦前から60年もの長い間、病床で、生活の場で毎日、主が十字架で息絶えられた午後3時を覚えて、所を隔てて同時に何百人もが、苦しむ人のために、世の人々の救いのために祈り続けてきた私達の「午後3時の祈り」にこそ、まさに御霊が共に呻いて下さっていたのではないでしょうか。この御霊の執り成しある故に祈り続けられました。これからも!」(祈の友主幹、稲葉満氏)
今は健康な人も、いつ思わぬ病気や事故にあって不自由な生活をしいられるようになるかも知れない。死ぬ日まで元気いっぱいなどという人はほとんどいない。しかし、現実の状況がどんなに厳しく、人の目には何の希望もないようになっても、共に祈り合う喜びがあるのだと、祈りによって支えられ、人は祈りによって真に生きることができるのだと、「祈の友」の人たちは教えてくれる。
人間には心や身体のさまざまな弱さが与えられ、一人だけでは決して耐えることのできない試練がある。だが、だからこそ人間は、人間らしく生きることができるのだ。弱さの中でだけ、人は神様に叫ぶことを覚え、互いに愛し合い、共に生きる喜びを知る。
拙い、小さな祈りだけれど、午後3時にリンが鳴るように次男がセットしてくれた腕時計を手放すことなく、生かされる限り「午後3時の祈り」を続けたいと切に思う。
この私にもできること
人を大切に思うこと
その人が、よりよい人になるように
心を込めて祈ること
この私にもできること
イエスさまがおられると告げること
人には言えない苦しみも
イエスさまだけはご存知だと告げること
この私にもできること
愛のない自分を悔やむこと
悔やんだらすぐに目を上げて
十字架の主を仰ぐこと
今年になって、近しい人が3人亡くなった。亡くなると分かっていたらもう一度お会いして、
心ゆくまで話したかった、精一杯の優しさをさしあげたかったと、それぞれに悔いが残る。
目を閉じてお一人お一人を思い起こせば、自分の不真実があざやかに見えてくる。
この世の中でたいしたことは何もできないのだから、せめて人に対して誠実でありたいと願いながら、
その願いとは裏腹に何ともいい加減な自分の姿が悲しくなる。
赦していただくより他はない。赦されなければ今日の日を、とても心晴れやかには生きられないと、
改めて思う。
主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら
主よ、誰が耐え得ましょう。
しかし、赦しはあなたのもとにあり
人はあなたを畏れ敬うのです。(詩編130:4.5)
90才を越えて、眠るがごとくに召された方、苦しみの中で叫びつつ召された方、
天国を待ち望みつつ「あっ」と小さな声を残して召された方。
その生涯の幸や不幸を問うことはすまい。それぞれにかけがえのない人生であった。それでいい。
誰にも分かってもらえない苦しみも、一つや二つはきっとあったことだろう。
しかし、神様はすべて知っていて下さった。それでいい。すべてを知っておられる神様が、
その人の流した涙に、豊かに豊かに報いて下さる。それでいい。
さあ、私も残された日々をもう一度、目を高く上げ歩み始めよう。
明けやらぬ空に輝く一つの星を、じっと見つめていると、その星と私が一直線につながれているのがわかる。
その喜びをうちに秘めて、今日までの不誠実を詫びつつ、もう一度新しい歩みを始めよう。
与えられた今日という日を、無為に過ごすことなく、神様のご真実に精一杯応えていこう。
主よ、導いて下さい。
弔いの家に行くのは
酒宴の家に行くのにまさる。
そこには人皆の終わりがある。
命あるものよ、心せよ。(コヘレトの言葉7:2)
人が死ぬと言うこと。自分にも終わりの日が来ると言うこと。その日に焦点を当てると、今の生き方が見えてくる。
人生には記念すべき喜ばしい日が、人それぞれいろいろとあるだろう。
しかし、そのどの日でもなく、死ぬ日こそ最高の喜びの日でありたい。
そんなふうに今日という日を生きていきたい。
〈復活〉
神に背き罪に汚れた人間は、朽ち果てるよりなかったのだ。「塵にすぎないお前は塵に返る」(創世記3-19)と言われているように
。顔に汗を流してパンを得、土に返るよりほかなかったのだ。
「人間にとって最も良いのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること。」(コヘレト2:24)
それ以外の確かな希望はどこにもなかったのだ。
しかし、神にかたどって創造された人間が、そのような運命に満足できるはずがない。
おのが罪に深く嘆き悲しむ人の声、永遠を慕って苦しみ呻く人の姿を神は憐れみて、
その独り子イエス・キリストを与えて下さった。死ぬべき者を生かすために。
私たちを永遠の御国に迎えんがために。
わたし(イエス)が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、
わたしをお遣わしになった方(神)の御心を行うためである。
わたしをお遣わしになった方(神)の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、
終わりの日に復活させることである。
わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、
わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。(ヨハネ6:38-40)
イエスさまのお言葉を注意深く一つ、一つ読む。
イエスさまが2000年前この世に来られたのは、神様のお心を行うためであったという。
その神様のお心とは、イエスさまを信じる者が皆、永遠の命(神様のもっておられる命)を得ることだという。
そして、その人を終わりの日に復活させることだという。
イエスさまを信じるとは、その御言葉を信じることである。信じて自分のすべてをその御言葉に賭けることである。
「信じる者は永遠の命を得ている」(47)とイエスさまは言われる。
永遠の命を得ている者は、終わりの日(イエスさまがこの世に再び来られる日)に復活すると言われる。
神のにすがたに創られた人間は、この命をいただかなければ、深く満たされることは決してできない。
この世にわたしたちが生まれてきたのは、神の命に生きる復活にあずかるために違いない。
何億、何兆の人がいようと、全く同じ人は一人もいないという。
それほどに神様が心をこめて造られた人間ならば、一人一人かけがえのない人間ならば、
何としても皆が、この復活の命にあずからねばならない。
マンションの4階が火事になった。真夜中、中庭まで立ちこめる煙、吹き上げる炎。
その恐ろしさに、人間に対する神の裁きを思った。聖書には神の救いと共に裁きも書かれている。
イエスさまは「わたしにつながっていない人がいれば、
外に投げ捨てられ、火に投げ入れられ焼かれてしまう」(ヨハネ15-6)と言われた。だが、
そのように厳しい聖句は、その深い意味が分からないからと、故意に読み飛ばしている。
そんなことを本気で信じたら、ほとんどの人がキリストを信じないこの日本で、
のんびり暮らしていることなど出来なくなる。このままでは天から火が降って滅ぼされると、
天の都を目ざして旅に出たクリスチャン(ジョン・バニヤン作、天路歴程より)を思う。
はやる心を静めて祈っていると、そんな恐怖のただ中に
火の中を歩いても焼かれず、
炎はあなたに燃えつかない。(イザヤ書43:2)
との、信じる者への約束の言葉が聞こえてきた。
ひとすじの道を
ひとすじの道を淡々と
ひとすじの道をひたむきに
ひとすじの道を
召される日まで歩み続けよう。
『われは道なり、真理なり、生命なり』と
主イエスさまが言われるから。
この世では、富める者が幸いだという、
しかしイエスさまは、貧しき者こそ幸いだといわれる。
この世では、強さを誇りとする。
しかしイエスさまは、弱いところにこそ神の力が現れるといわれる。
この世では、生きて行くには多くのものが必要だという。
しかしイエスさまは、無くてならぬものはただ一つだと言われる。
キリスト信仰に生きるとは、方向転換をすることだ。それまで欲しくてたまらなかったものがどうでもいいようになり、今まで目にも留まらなかったものに、強く心を引かれるようになる。この世のものは有限だから、手に入れるには競争がつきものだけれど、神様は無限だから、求めるすべての人を満ち足らせてくださる。
この世では、目に見えるもので人を量る。
しかしイエスさまは、見えない心こそ大切だと言われる。
この世では、いつも大勢を問題にする。
しかしイエスさまは、たった一人を見つめられる。
この世では、一度大罪を犯したらもうお終いだという。
しかしイエスさまは、そこから新しい人生が始まるのだと言われる。
ともかく、この世に疲れたら、この世に希望が持てなくなったら、回れ右をして神様の方を向いてみよう。イエスさまの言葉に賭けてみよう。その時、こんなにも自由な、こんなにも満ち足りる世界があったのかと、驚きの声を上げるに違いない。
〈 弱いときにこそ 〉
主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。(神の)力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(1コリント12:9)
お風呂の取り替え工事で、パンフレットを持って来られた方が、わたしの家に聖書や内村鑑三の本があるのを見て、話してくださった。
「わたしの両親も、熱心なクリスチャンでした。祖父は牧師でした。私たち5人の子供も中学を卒業するまで、強制的に日曜学校に行かされました。父は聖書や内村の本を実に良く読んでいました。母も事ある毎に祈りました。・・・父は、とても病弱でした。母はその父を支えるのに一生懸命でした。父も母も神様にすがらないでは生きられなかったのでしょう。弱いがゆえに、必死にすがって生きている両親の姿はりっぱでした。子供たちは皆そんな両親を尊敬していました。私たちは強すぎるのですなあ・・・、まだ、どこかで自分の力で生きられると思っている。」
三浦綾子さんの追悼号で三浦光世さんの談話を読んだ。綾子さんを支え続けた光世さんの信仰、その源泉は弱さであると感じた。弱いからこそ神様を信じ、神様に寄りすがり、神様に望みをおいて生きてきたのだと知った。
弱いからこそ祈らずにはおられない。弱いからこそすがらなければ生きられない。「わたしは信仰を持っています」、などと威張るものではないのだと教えられた。
人は皆、草のようで、その華やかさはすべて草の花のようだ。(1ペテロ1:24)
足一本無くなれば、自分では歩けなくなる弱い存在。
鼻と口が塞がれれば、何分かで死んでしまうような弱い存在。
元気に守られているのが奇跡のような存在。
主イエスさま、もっともっと自分の弱さを知らせてください。
あなたの憐れみによってだけ、生かされていることを悟らせてください。
あなたのお支えと、お守りがなければ、今すぐにでも息絶えてしまう弱い存在であることを、深く深く悟らせてください。そして、弱さのただ中で、あなたの御言葉を信じ抜く強さを与えてください。
草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。(1ペテロ1:25)
かつて四国集会で読書会をした、ボンヘファーの「共に生きる生活」の中に、忘れられない一節がある。つぶやきや不満が出てくる時、この言葉を思い起こして「ああ、そうだった」と立ち返ることが度々ある。
われわれは、大きなものが与えられるようにと祈りながら、日ごとの、小さな(それは本当は決して小さくはない!)賜物に感謝することを忘れている。しかし、小さなものをも感謝して神のみ手から受けようとしない者に、神はどうして大きなものを委託することができるだろうか。(P・18)
これはキリスト者の交わりに対して書かれた文章であるが、交わりだけでなく、すべてのことに当てはまるのを思う。今与えられているものに不満ばかりを訴えているなら、その心が神様からの祝福を妨げることになる。
何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。(新共同訳)
すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。(口語訳)ピリピ2:14
なるほど、このパウロの言葉は神様からの祝福を受ける秘訣だったのだ。
小さなことに心を込めて、
小さなことに感謝を込めて、
小さなことを喜びとして、
これからも備えられた一筋の道を歩んでいこう。
主イエスさま
この新しい年も、あなたに寄り頼みます。
あなたを見上げて生きてゆきます。
主イエスさま、
この新しい年も、あなたの素晴らしさを語らせてください。
あなたの愛はすべての人に注がれているのだということを。