著者:大阪狭山聖書集会代表者(月刊誌)
著者のコメント
神様を信じて歩んでいると、「本当に神様って生きておられる」と実感することが度々あります。 そんな喜びと感動を伝えたいと「福音」を書くようになりました。 生活の中に生きて働いてくださるイエスさまの愛と真実を読みとっていただけるなら、幸いです。 |
エビネ(黄) |
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内容・もくじ | ||
NO |
号数 |
小題 |
12 | 163 | 「光を信じて」「天を開いて・・・流星」「あなたに」 |
11 | 162 | 「神を信じて、祈り、復活の希望」 |
10 | 161 | 「良かった」「いつまでも残るもの」「導き」 |
9 | 160 | 従うこと |
8 | 159 | 本国は天にあり |
7 | 158 | 「神こそ、わが救い」「神に求めよ」 |
6 | 157 | 「キリストの言葉」「第28回キリスト教無教会四国集会」 |
5 | 156 | 山上の説教 |
4 | 155 | 主の平安真実 |
3 | 154 | 嘆きの中にも ガラテヤ書 |
2 | 153 | 救い・選び・愛 |
1 |
152 | 「悲しみ」「われに従え」「イエスがいるから」 |
内容・もくじへ戻る。 従うこと
イエス様の声を聞き、イエス様に従って行く。これがキリスト信仰であり、永遠の命である。大勢で一緒に従っているように見えても、一人一人が耳を澄ましてイエス様の御声を聞いている。イエス様の御声が心に届くと驚くべき喜びがあり、従う力が与えられる。 一人の人に届いたイエス様の御声、その喜びは共に従っている者をも勇気づける。そしてそこに新たなる神様の御業が始まる。 だが、どんな時も一人一人がイエス様の御声を聞こうとする姿勢は変わらない。一人一人が群の先頭に立って歩まれるイエス様をじっと見つめている。いつ自分の名が呼ばれても、「はい、私はここにおります」と答えることができるように、耳を澄ましている。それでいて、一人の喜びはみんなの喜び、一人の悲しみはみんなの悲しみ、そんな深い交わりの中に生かされている。 何とうるわしいことか、主にある歩み、 何と喜ばしいことか、主にある交わり。 *従うということ* イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモン(ペトロ)とシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。(マルコ1:17) これは、ペテロがイエス様に出会って最初にかけられた言葉である。 「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。(ヨハネ21:18~19) 「わたしについて来なさい」と呼びかけられたペテロは何もかも捨ててついていったが、イエス様の十字架を前に「イエスなど知らない」と心ならずも裏切ってしまう。だが、復活されたイエス様はペテロの深い悔い改めの心を知っておられ、再びペテロに「わたしに従いなさい」と言われた。 「わたしについて来なさい」とのイエス様の呼びかけに答えて始まったペテロの信仰の旅は、復活のイエス様から尚も「わたしに従いなさい」と言われ、死に至るまで従い続けた従順の旅であった。 「そうだった、私はイエス様に従っていけば良いんだ」と気付いたときの喜び。さまざまな人間関係、どのように対処すればいいんだろう、私は何をなすべきかと思い悩んでいる時、「わたしに従いなさい」とのイエス様の御言葉に、一瞬にして心は晴れる。「そうだった、私には従うべきお方がいる。このお方に従っていけば良いんだ。」と気付くと、真っ直ぐな道が見えてくる。どんな問題が起こっても、どのような状況になっても、イエス様に従って行きさえすれば良い。従い続ければ足りる。途中で倒れようが、死に至ろうが、心配はいらない。歩けなくなったなら、イエス様が背負ってくださるに違いない。 そんな喜びでいっぱいの朝、「従う」とはそれほど安易な道ではないのだと思い知らされる光景に出会った。 朝早く、いつもバイクで畑に通っている老人がいる。ゆっくりと、小さめの犬を繋いだひもを引っ張りながら。いくらゆっくりと言ってもバイクである。犬のひもはすぐにぴーんと張り、その度にバイクはスピードを落とす。立ち止まった犬の足はブルブルと震えている。ある日、その犬がびっこを引いてた。それでも、バイクに引かれて懸命に走っている。思わず、何てことをと腹が立ったが、私が文句を言う筋合いでもない。次の日、犬がいない。ふと見ると、バイクの前のカゴの中にちょこんと座っていた。足の先を白い包帯でくるくる巻かれて。ああ、良かった、と胸をなで下ろした。足も治り、それからもずっとバイクのご主人様との畑通いが続いていたが、今日、久しぶりに見た犬は驚くほどやせ衰えて、それこそ命がけで走っているのが分かる。ひもが張り、バイクは何度も何度も止まる。その度に犬も止まる。犬の足はブルブルをこえてガタガタ震えているように見える。それでも犬は座り込まない。立ったまま、バイクに合わせてまた走り出す。 「従う」喜びばかり思っていた私は、やせ衰えた犬の姿を見てショックだった。あれがご主人様に従っている姿だとしたら、従うとは何と辛く、苦しいことか。何でも安易に浅はかに考えてしまう私に、イエス様は一匹の犬を通して、従うことの厳しさを見せられたような気がした。 ルカによる福音書14章に「弟子の条件」という箇所がある。塔を建てようとする時には、建て始める前にまず費用の計算をすること、敵と戦うとき、勝てないと分かれば戦う前に和解をするという例を挙げて、イエス様は「自分の持ち物を一切捨てなければ、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」と言われた。その覚悟ありやと問われた。 確かに、イエス様に従うことと自分を守ることとは両立しない。あの犬のように自分の都合など何も言わないで、自分の全存在をご主人様に預けることが「従う」ということだろう。(もちろん、ひもで引っ張られている犬は「従っている」とは言えないけれど、あの犬の姿を見ていれば、たとえひもがなくても死ぬまでバイクと共に走り続けるに違いないと思えてくる) イエス様を見上げて従う喜びに胸をおどらせていると、今度は従う苦しみを見せられ、うつむいて考え込んでしまった。すると「明日のことまで思い悩むな」(マタイ6:34)とのイエス様の御言葉。 ああ、そうだった。いつか来るかもしれない苦しみを、今日担うことなど出来はしない。今日は今日の分従えば良い。明日の分はまた明日従えばよい。従えなくてたとえ道を踏み外しても、悔いる心を何よりも喜び、何度でも「私に従いなさい」と愛の御声をかけてくださる主がおられる。道にそれるたびに立ち帰り、一日に何度でもひざまずき、その度にイエス様めがけて一目散に走っていこう。めざすは御国。イエス様は両手を広げて待っていてくださる。 内容・もくじへ戻る。 本国は天にあり
ここまで書いたとき、電話のベルが鳴った。末期ガンで最期が近いと知らされていた方が、今ICUに入ったとのこと。「主よ」とひれ伏し主を仰ぎ、祈りの中でこんなにも十字架が大きく見えたことはない。人は、自分の真実や善行で救われるのではない。信仰が深くて立派な信仰生活を続けたから救われるのでもない。ただ、主の十字架の血によって、主の大いなる憐れみによってだけ救われる。 だから、すべての人に希望がある。救われる希望がある。最期の時まで希望がある。わたしたちが共に祈り続けるとき、希望の光はますます明るくなってくる。 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。(ピリピ3:18~20) イエス・キリストは私たちがこの世で楽しい日々を過ごすため、この世で受ける苦しみや痛みをすべて取り除くために来られたのではありません。イエス・キリストがこの世に来て下さったのは、私たちの罪を取り除き新しい命を与えるため、そして私たちを天の御国に導き入れてくださるためなのです。イエス・キリストを信じる者の本国は天にあると、何と希望に満ちた言葉でしょう。喜びあふれる言葉でしょう。この世での生活はいつか必ず終わります。遅かれ早かれ、この世との別れの日はやって来ます。でも、それは国籍のある天の御国に帰るため。慕わしい主イエス様のもとに帰るためなのです。 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。(エペソ1:17~19) ああ、私は神様の素晴らしさを万分の一も知らないのだと思います。どんなに神様を愛していると叫んでも、本来愛すべき愛の100万分の一も愛していないに違いありません。主イエス様を信じる者に用意されている御国のうるわしさ、その栄光の豊かさは想像することさえできません。 でも、神様の愛の片鱗でも知ったなら、この世のものが何もかも色あせるのは確かです。主と共にいることだけを慕い求める者となることも確かです。この世で日々主を求めつつ生き、そしていつか必ず御国で完全に主を知ることになるとしたら、私たちは確かに栄光から栄光へと進んでいるのです。 7月の末、機会を得て北海道の旭川にある「三浦綾子記念文学館」を訪ねた。見本林の緑があまりにも美しく、可愛い野花や飛び交う蝶に誘われて人気のない緑の中を歩いていくと美瑛川にでた。昨日の大雨のせいか激しい濁流を前に、三浦さんご夫妻はこの道を歩きながら、この川を眺めながら、どんなことを話されたのだろうかとふと思った。私は綾子さんの本をたくさん読んだわけでもないし、お二人の生活について多くは知らないのだけれど、それでもご夫妻がいろいろな人のことをほめながら、「あの人はいい人ね」「あの人には幸せになってほしいね」と語り合う声が聞こえそうな気がした。 他人の前では人の悪口を言うのをはばかっても、夫婦となれば心に思うこと感じることを何でも口にしてしまいやすい。夫婦で、親子で、ごく親しい者が一緒にいて、人の悪を思わず、語らず、人の良きことだけを話題にしているなら、それこそ主イエス様が共に居られる何よりの証拠だろう。 「愛は誇らず、高ぶらず、非礼を行わず、己の利を求めず、憤らず、人の悪を思わず」(1コリント13:4/5)とある。ああ、主よ、人の悪を思わず語らず、良きところを喜び感謝して、今日この一日を過ごさせてください。 内容・もくじへ戻る。 キリストの言葉 第28回キリスト教無教会四国集会 この頃の世の中、どこかおかしいよ。普通じゃないよ。誰もがそんな風に感じている。子供の通学路での事件が起きると、駆け込むことのできる家を募り目印を掲げ、学校の中で事件が起きると、校門にカメラを設置して何とか対策を練るけれど、家の中で虐待される子供が増え続けているとなれば、そんな表面的な対策ではどうにもならない。私たちは小さな子供を守ってやることさえできないのだと思うと、無力感でいっぱいになる。 相手が人間だけなら、知恵の限りを尽くして対策を練れば悪を防ぐことができるかも知れない。しかし、聖書はその人を悪へと突き動かすのは、背後にあるサタンの力だと告げる。一人を取り押さえても、また次の人をサタンは誘惑する。この頃の新聞を開くたびに、そのことを実感している人は多いのではないだろうか。 そんな中で、「命の大切さ」を力説しながら、人間の命を何よりも粗末にする戦争に加担するため、平和憲法を変えようとする動き。その闇の深さ、この世を取り巻くサタンの力は計り知れない。 神によって、神と共に歩むようにと造られた人間が、正義と愛の神に背き、無視し続ける時、こんなにまでサタンは猛威を奮うのだ。その現実の姿を目の当たりにして、聖書の言葉がいかに真理であるか、悟りの鈍い私でも疑うことができない。 イエス・キリストは世の終わりに再びこの世に来られると約束された。その終わりの時の徴をたずねた弟子たちにイエス様はお答えになった。
飢饉や地震が起こり、迫害が始まり、不法がはびこり、愛が冷える。この世がだんだん悪くなっていく様が克明に描かれている。だが、そのような闇の世にも、最後までキリストの福音が宣べ伝えられると言われる。それはどのような事態になっても、人間を救おうとする神様の愛によってこの世が導かれるということだ。 暗雲たれ込める現実の中に立ち、それでもまなざしを天に向ける。「神様」と一心に御名を呼び、キリストの言葉にじっと耳を傾ける。
「神様」と心を尽くして御名を呼んでいると、キリストの言葉が浮かび上がる。無から有が生じるように、闇に光がさすように、キリストの言葉がそこにある。 「わたしについて来なさい」 十字架の上に人間の罪を贖い、死と悪魔にうち勝って復活され、そして今も信じる者と共にいてくださる主イエス様。このイエス様が「わたしについて来なさい」と言ってくださる。
御言葉と祈り 祈りの中で御言葉を受ける。 御言葉を信じて祈る。 祈りと御言葉が一つとなるとき 力が注がれ、希望が生まれる 第28回 キリスト教無教会四国集会 6月16、17日、土佐の高知の桂浜で「祈り」をテーマにキリスト教無教会四国集会が開催された。高知の兄弟姉妹がどんな思いでこの日のために準備されたか、ひしひしと伝わってくるような温かい笑顔に迎えられて過ごした2日間。 主は、そこで語られた御言葉、聖書の説きあかし、信仰告白そのもののような讃美、信徒の交わりなどを通して、集められた一人一人にふさわしく語りかけてくださったに違いない。 「たとい、祈りがそのままの形で聞かれなくても、神様への愛と信頼を失ってはならないと思います。『しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください』こそ私たちの祈りの基本であります。」と語ってくださったように、イエス・キリストを与えて下さった父なる神の愛にどこまでも信頼し、これからも、集められた一人一人が、みこころを求めて祈りつつ、みこころのままに歩めますように。 その夜、手話を交えた楽しい語らいの後、暗い海を臨んで祈った。祈っていると心が燃えて、イエス様が告げてくださった。 「貧しいことを嘆かなくても良い。貧しいからこそわたしが満ち足らせよう。足りないことでがっかりしなくても良い。足りないからこそ、わたしが祝福でいっぱいにする。あなたたちが弱ければ弱いほど、小さければ小さいほど、わたしは大きく働こう。それがわたしの心だ」と。 「ほら見て、光の道。」友の声に目を開けば、暗い海に一筋の光の道。このままじっと主を見上げていれば、海の上を歩いて天にまで行けそうな光の道。でも、その道は花が咲き鳥が歌うのどかな道ではなかった。じっと見つめていると、心の中まで張りつめてくるような緊張の道だった。 どどーん。「海からと言うより、空からと言うより、主ご自身から聞こえてくるような波の音」、「この音を、この風を、この光の道を、あの人にもこの人にも届けたい」と友は言った。主は私たちの祈りを、確かに聞いていてくださった。 内容・もくじへ戻る。 神こそ、わが救い、神に求めよ わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。 神にわたしの救いはある。 神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。 わたしは決して動揺しない。 いろいろな問題が重なって、もうどうにもならないと心沈む時も、「神にわたしの救いはある」と気付けば、一瞬にして心は明るくなる。神様が助けてくださると信じる時、何がやってきても大丈夫だと思う。自力で頑張るのではない、真剣に祈るなら必ず、必ず神様が助けてくださる。 負わねばならない重荷なら、逃げないで負っていこう。今日一日を支えてくださる主が「明日を思い煩うな」と言われるから。 問題は、神様に祈り求めつつ歩むか、自力で頑張るか、二つに一つ。神様は寄り頼む者を決して捨てられない。助けてくださる主が居られる。 悔い改めるとは、神様にだけ頼ること。 悔い改めるとは、神様にだけ従うこと。 悔い改めるとは、キリストと共に苦しむこと。 悔い改めるなら、恐れは消え、 平和と希望が満ちてくる。 娘に「お母さんの座右の銘は何?」と聞かれて即答できず、「さて、何だろう」とぼんやり考えていた。座右の銘・・・常に心にとめて戒めとする格言。何日か経って「あっ、これだ」と思った。ずっと、ずっと以前から、これこそ人間のあるべき姿、真の幸い、そのように生きたいと思い続けてきた言葉。 求めるものは神に求めよ、それを人に求むるなかれ。 与えるものは人に与えよ、それを己に取るなかれ。(内村鑑三) 人に求めて失望し、人と共にいて安心するかと思えばかえって心騒ぎ、憂鬱になり、そんな自分が嫌になると、ついに生きているのも嫌になる。愚かな私はいつもそこまで来て、ハッと我に返る。神様にではなく人に求めていた過ちに気付いたその瞬間、「わたしに求めよ」と、主の御声が聞こえてくる。 神様より先に人に話し、人に求めて失望したことは数え切れないけれど、神様に求めて失望したことは一度もない。始めは何か個々のことを求めて祈っていても、祈りの中で神様が共にいてくださることを実感すれば、「もう何もいりません。あなたが共にいてくださるなら、それが私の幸いです。あの人にも、この人にも、この幸せを与えてください」と、思わず知らず歌っている。
朝日が昇る。森の向こうに赤い顔を出すと、見る見るうちに高く白く輝き始める。朝露も大空も光り、その光りの中を一羽のアオサギが悠々と横切る。ああまぶしい、と目を伏せれば、いつしか雲が広がり太陽は薄雲の向こうに優しくなった。白い雲がひとところ虹色に染まる。そこに二、三十羽の鳥が群をなして現れ、大空を舞い、ごま粒のように北の空に消えていった。鳥の群に見とれている間に、太陽は灰色の厚い雲に覆われ見えなくなったが、なおも頭上の空は限りなく青い。 何とも雄大な朝の空を見ていると、エリフの言葉を思い出した。 天を仰ぎ、よく見よ。 頭上高く行く雲を眺めよ。 あなたが過ちを犯したとしても 神にとってどれほどのことだろうか。 繰り返し背いたとしても 神にとってそれが何であろう。 あなたが正しくあっても それで神に何かを与えることになり 神があなたの手から、 何かを受け取ることになるだろうか。 あなたが逆らっても、それはあなたと同じ人間に あなたが正しくても それは人の子にかかわるだけなのだ。(ヨブ記35章) 人の為すどんな正しいことも、どんな悪いことも、それは人間の側に属することであって、人の業を持って神に与えることも神から奪うこともできはしない。そのことを知った日の喜びを思い出す。私が何を為そうと、為すまいと、神様の真実は変わらない。私の心がどんなに変わろうと、十字架の上に罪を負って死なれたキリストの愛は変わらない。そのことを思う度に、私はだんだん小さくなり、神様がだんだん大きくなる。
信仰は神様の賜物だから、人に強制することはできない。でも祈ることはできる。 どうかAさんが神様を信じることができますように。もう取り返しがつかないと思い込んでいる人生に、新しい命を注いでくださる主が居られることを知りますように。 あきらめだけで生きているというBさんに、神様の愛が届きますように。 病気になって入院して、始めて人間らしい生活が戻ってきたというCさんに、キリストだけが今日までの罪を赦してくださるお方だと、知らせてください。 「イエス・キリストだけが、あなたを救ってくださるお方」だと、AさんやBさんやCさんに伝えるために、どうか神様、あなたの愛と赦しを注いでください。私の中にはひとかけらの愛も真実もないのです。あなたの恵みを伝えるために、あなたの命に生かしてください。 内容・もくじへ戻る。 山上の説教
イエス様の言葉は、私たちの死んだ魂を生き返らせてくださる。無知な者にまことの賢さを与え、この世では得られぬ喜びを与えてくださる。イエス様の言葉によって、私たちは真実が見えるようなる。 朝露の光る公園で、神の御業としか言いようのない美しい空の下で、イエスさまのお心が知りたくて、山上の説教(マタイ5~7章)を読む。ここには「教え」以上のものがある。このキリストの言葉の中には、神の国がさやかに描かれている。キリストの命が脈々と流れている。
何と美しい言葉だろう。イエスさまが私たちに与えようとされるのは、いつも天的な喜びである。イエス様のお言葉にじっと耳を傾けているなら、この世の宝はみな色あせ、心は天に向かう。神様が慕わしくてたまらなくなる。
イエス様は悲しむ心を愛おしんでくださる。悲しみの深さを知っていてくださる。この世には、どうしようもない悲しみがある。人の力の及ばない悲しみがある。しかし、イエス様はその悲しみを取り除こうとは言われない。悲しむ者だけが神様の慰めを受けることができると言われる。
イエスさまの教えをこの世の道徳として学んでも、あまり役には立たないだろう。イエスさまの教えの焦点はこの世ではなく、天にある。人ではなく神にある。目に見えるものしか見ようとしない私たちのまなざしを、この世にだけに固着する人の心を、神様に向けさせ、天の喜びへと導いてくださる。天の父だけを慕い求めさせ、その一途さによって悪しき心を溶かし去る。それがイエス様のなさり方。
ここを読むと、イエス様だけをじっと見つめて水の上を歩いたペテロの姿が思われてくる。罪に染んだ人間にとって「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」とは、水の上を歩くようなものである。人の努力や精進では不可能なことである。しかし、その不可能なことがイエス様をじっと見つめているとき可能になる。私たちは水の上を歩き始める。イエス様を信じ、イエス様にすがり、イエス様に結ばれているなら、天から聖霊が注がれて、その聖霊によってだけ、私たちは神の子とされ、敵をも愛する者へと変えられていく。 「山上の説教」を読んでいると、天国のあることが疑えなくなる。」と言った人がいたけれど、なるほど天国を見て、その見たことを語っておられるからこそ、その言葉に権威があるのだ。私たちを天の国に導くために、その命さえ捨てる覚悟をもって語られたイエス様の御言葉。私たちの罪の罰を受けて十字架に釘付けされ、死の苦しみを通って復活され、今も信じる者と共にいてくださるイエス様の御言葉。
天国というと、人が死んだ後に行く世界だけを指すと思われやすいが、聖書で言う天国とは神様の御支配だとくり返し学んでいる。天国がある。今この時、神様の愛の御支配がある。なのに、この世に絶えず戦いがあり、人の世に悪がはびこるのは人々が神様の御支配を受けようとしないからである。神様の御支配を拒み、人間が思いのままにすべてを支配しようとするからである。 この世が完全に神様の御支配に服するのは、イエス様が再びこの世に来られる再臨の時だと聖書は告げる。私たちは「主よ、来てください」と待ちわびる。 しかし、私たち一人一人は今この時、直ちに神様の愛の御支配に入れていただける。イエス様が開いてくださったキリスト信仰の道。
狭い道もイエスさまが共にいてくださる。 決して捨てないと言ってくださる。 内容・もくじへ戻る。 主の平安・真実
何の役にも立たないのは百も承知で、それでも少しでも自分を広げて仲間になりたいと、精神障害をもつ人たちの作業所に通い始めて半年が過ぎた。メンバーさんと一緒に内職をするのだが、週に一回、午前中だけではなかなか親しくもなれない。でも、あせらないで続けていればきっと何かが見つかると、雨の日もカッパを着て通っていたが、先週はあまりにも悲しかった。極度に私を避けるメンバーさんがいるのだが、その日の作業は、その人と私の二人だけ。側を通るだけで怒りをあらわし、恐ろしい目でにらみつける。他の職員の人とは笑い合いながら、私を完全に無視する。黙ってうつむいて作業を続けたが、お昼になって外に出たとたん、自分でも思いがけず涙があふれて止まらない。その涙に、私の心はこんなにも傷ついているのかと改めて驚き、もう作業所に通うのは止めようと思った。 一週間が過ぎ、今日は作業所の日。「当分お休みします」と電話をするのはいとも簡単だけれど、先に「イエスさま」と御名を呼んでみた。「やめなさい」とは言われない。「わたしは今日も出かけていく」と言われる。「それなら私も」とあわててバイクに飛び乗って川沿いの道を急いだ。 私アレルギーの彼女はやはり顔をそむけたけれど、今日は新しいメンバーさんも加わって和やかな作業。入院中の苦労話や、狭いところが怖くて今も車に乗れない不安に耳を傾けながら、これからもこの人たちの仲間でありたいと心が熱くなった。 帰り道、バイクに乗ってさわやかな風を受けながら「あなたがたに平和があるように」と言われたイエスさまのお言葉を思っていた。復活のイエスさまが与えてくださる平和。イエスさまと共にある平和。 平和とはイエスさまの御心を生きること。
すごいなあ、神様って。すばらしいなあ、イエスさまの導きって。こういうことなんだなあ、主が生きて働いておられるって。 こうして書き始めると、一つ一つの真実が星のように光って見えてくる。Sさんのお家での祈祷会。肝心のSさんは、風邪で保育所を休んだお孫さんのお守りのため参加できず、だからこそ、その場に込められていた祈りの深さ、大きさは格別だった。祈りは時間も空間も越え、目に見える何ものよりも確かな力となることを実感し、お孫さんの風邪ひきさえ、主のご配慮の中にあったことを思う。どの人でもなく、誰の働きでもなく、主ご自身が生きて働いてくださることを、集められた一人一人が味わい知るために。 人の目から見れば欠けたることも、足らざることも、主の御前には何の不都合もない。ただ一つ、主への真実があれば足りる。主は憐れみ、顧みて、ご自身の満ちあふれる豊かさの中に私たちを導き入れてくださった。 「神は、神を第一としない人の心に住まうことができない。」ハッと息をのむほど厳しい言葉だけれど、この言葉はまた限りない憐れみに満ちている。 神は、神を第一とするなら誰の心にでも住んでくださる。 わたしが一番大事にしている偶像 それがなんであっても あなたの御座から引き下ろして ただあなたのみ拝ませてください。(バークレー聖書注解シリーズより) その人を憎みたい理由はいくつあっても その人を愛さねばならないもっと確かな理由がある。 主がその人を救うために命を捨てられた。 心が無気力になるとき、生きる力が萎えるとき 小さな事から始めてみよう。 一通の葉書を書くこと 病める友のために祈ること 神様は愛だから 愛を使うと、神様の命が流れてきて いつの間にか元気になる。 神様の愛の不思議。 御国に至る道がある。 聖書を読んで、イエスさまを知り、一歩一歩と従う道。 幼子が、お母さんに手を引かれ、ニコニコ付いていくように、委ねて歩む信頼の道。 うれしいことも悲しいことも、どうしたらよいかと迷う時も、 主イエス様に告げつつ歩む祈りの小道。 今この時、この場から御国に続く道がある。 悩みも痛みも苦しみも、すべてが祝福に変わる道。 内容・もくじへ戻る。 嘆きの中にも ガラテヤ書から
「真っ暗、希望なんてない、今までもそうだったし、これからも良いことなんて私には起こらない。優しい心、正しい心で生きようと努力して頑張っても、そんなことこの世の中では何の役にもたたない、何の力にもならなかった。もうきれい事は聞きたくないし、希望なんか持ちたくもない。」とぶつけるように嘆く友へ 大丈夫、あなたのその嘆きが、叫びが神様に届かないはずがない。イエス様は今、誰よりもあなたの近くにいてくださる。あなたのどうしようもない絶望感を、イエス様だけは分かってくださる。もう誰にも何にも話したくないというあなたの苦しみをイエス様だけは全部、全部知っていてくださる。この私でさえ、あなたの電話の声が今も耳に響いて涙があふれてくるのに、イエス様があなたを放っておかれるはずがない。あなたのその嘆きや苦しみに答えて下さらないはずがない。あなたの「きれい事は聞きたくない」という言葉は、真実な美しさを求めて止まない叫び、「希望なんか持ちたくもない」という言葉は真の希望を追い求めるあなたの一途さ。イエス様はあなたの言葉の奥にある、あなたの叫びを聞きとってくださる。 あなたも気遣ってくださったように、先日、義父がこの世の旅路を終えて天に召されました。結婚して25年、近くに住みながら心が通い合うほどの繋がりの持てないことを、どこか寂しく申し訳なく思って居ましたが、神様は最後に良い時を備えてくださいました。 義父はずっとキリスト教には好意的ではありませんでした。というより、新興宗教が起こす様々な事件を見て、宗教全体に警戒心を抱いているようでした。「もっと若いとき、頭が働く時に、本物の信仰について学ぶべきであった。だが今となっては遅すぎる」という言葉が義父の本心だったと思います。聖書を開いて御言葉を示しても「わからない、勉強してこなかったから。わからない」と苦しそうに言いました。でもその義父が末期癌で食事ものどを通らなくなり、自分の最期を目前にしたとき「もうどうにもならんのか、もう生きるすべはないのか」「助けてくれ」と叫んだのです。枕元で義母と一緒に讃美歌「主よみもとにちかづかん」をくり返し讃美しているときでした。「大丈夫、お義父さん。助けてくれと叫ぶ叫びを神様が聞いてくださらないはずがない。イエス様が助けてくださる。必ず救ってくださる」というと、その苦しそうな表情はいつしか消え幼子のように素直にうなずき、不思議なほどの平安に満たされたのでした。 主は私たちの叫びに必ず耳を傾けてくださる。 いいえ、今のあなたのように神様に向かうことができず、祈ることさえできない闇の中にいても、神様はあなたを見つめていてくださる。反抗し、背く者にさえ手を伸べてくださるイエス様。でも、どうか、どうかイエス様の御手を感じたときには拒むことがないように。ほんの一瞬でも愛の輝きを見たときに、あえて目を閉じることがないようにと祈ります。私たちを救うために命さえ惜しまず与えて下さったキリストの愛を拒むことがありませんように。 実は私も最近色々なことがあり、だからこそあなたの深い嘆き、絶望感がこんなにも胸を打つのかも知れません。普段はお互い穏やかにほほ笑んでいても、一つことが起こり利害関係が絡んだり、自尊心がひどく傷ついたりすれば、あっという間に燃え上がる怒り、憎しみ。いいえ、人のことばかりではありません。「平和をつくり出す人たちは幸いである」というイエス様のお言葉を知りながら、平和ではなく争いの種を蒔いている自分に気づいたときの驚き。ガラテヤ書に書かれている肉の業(自然のままの人間が持っている性質)の噴出する自分に打ちのめされる思いでした。 ともかくあわててガラテヤ書を開きました。どんな時にも救いの道が明確に書かれている聖書が与えられているとは、何という喜び。何という感謝。求めつつ読むガラテヤ書の御言葉はぐんぐん心に迫ってきました。 キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。(1:4) この悪の世から救ってくださるお方がいる。悪に支配され、悪に抵抗できない者を救い出してくださるお方がいる。自分の頑張りや努力で、悪に勝つのではないのです。自力で戦おうとすると悪の力は益々強くなり、打ちのめされてしまいます。悪に勝つことの出来るお方は唯一人。十字架の上で死なれ、三日目に復活されたイエス・キリストだけ。このお方だけが私たちに救い主。 人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。(2:16) 「人はその行いによらず、信仰によって義とされる(神様に正しいと認めていただける)」何度も何度も、キリスト教のエッセンスとして聞き続けてきたこの御言葉。信じるだけ、寄りすがるだけ。私たちはただ受けるだけ。 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。(3:26) こんな有り難い、恵みに満ちた世界が開かれているのに、どうして悪の世にうずくまっていて良いでしょう。神の子とされた喜びをかみしめて。 しかしまた、私たちの内には肉の思いと霊の導きと、その二つがあることも事実です。 霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。(5:16~17) 霊に導かれているとき、肉の思いは消え、心は愛、喜び、平和に満たされます。ところが肉の思いに捕らわれると、敵意、怒り、利己心などが出てくるのです。 しかし、求める者に聖霊を与えると約束してくださった主の御名はほむべきかな!悔い改めて祈り求めるなら、再び聖霊を豊かに注いでくださる。 わたしたちは、霊の導きに従って生きるなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。(5:25) 人間が本当に善くなる道はただ一つ。聖なる霊を受けること。 内容・もくじへ戻る。 救い・選び・愛
ああ、何という過ちを犯していたのだろう、この私は。主イエスを慕う私は、楽しみではなく悲しみを追い求めるべきだったのに。いったい何を聴いていたのだろう。目を閉じれば聴こえてくる呻き、声にもならない求めに耳を閉ざして、私はいったい何を聴こうとしていたのだろう。ベッドの上でこの手のぬくもりを待っている人を忘れて、私の手は、私の足は、どこへ行こうとしていたのだろう。 朝毎に聖書を読み祈り、日曜毎に礼拝を守り、事あるごとに「主よ、主よ」と御名を呼びながら、それでも主イエスの心を遠く離れてしまう私の心。死ぬべき者を神の子とするために、命さえ惜しまず与えて下さった主イエスの愛を忘れてしまう愚かしさ。 もし、悲しみをこの目で見ることがなかったら、もし、苦しみをこの耳で聴くことがなかったら、もし、痛みにこの手で触れることがなかったら、いくら聖書を読んでも、いくら祈っても、主イエスの心を知ることはないだろう。主イエスと共にいきることもないだろう。主イエスの愛に出会うこともないだろう。もし私が、涙の人を訪ねることをしないなら、いつか必ず主イエスとは何の関係もない者になってしまうに違いない。
先月の「福音」に私はイエス様の力を書きました。福音書を読んでいるとイエス様の力が迫ってきて、圧倒されて、このお方に出来ないことは何もないと有頂天になってしまったのです。そして、「この麻痺した左腕左足は二度と動かない、自分の足で歩くことはもう二度とないのだ」と言いながら、それでも諦めきれずに泣いているYさんを思い、身体が硬化して右にも左にも向けず、開けた口さえ閉じることの出来ないNさんを思い、「大丈夫、必ずいやされる」「いやしてくださるお方がいるから希望があるの。必ずいやされるから大丈夫」と思わず書いてしまったのです。 もちろん私の言いたかった最終のいやしとは復活であり、復活の朝NさんやYさんと手を取り合って喜び踊っている姿を想像しながら書いたのですが、あれでは、あくまでも人間の願いに焦点を当てた、人間中心の信仰であって、イエス様の深いお心を伝えているとは言えません。 あの力あるイエス様が、むざむざとこの世の権力に捕らえられ、「神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」と嘲られながら、苦しみもだえつつ十字架の上で息絶えられた。そのイエス様をわが主、わが神と信じるのです。死に至るまで、それも十字架の死に至るまで父なる神に従順に歩まれたイエス様、そのイエス様についていくのがキリスト信仰なのです。 いやしてくださるイエス様、パンを与えて下さるイエス様に従った人は多かった。でも捕らえられ、鞭で打たれ、十字架を背負いカルバリに向かうイエス様に従った人はいなかった。この私も逃げてしまうだろう。逃げて逃げて力尽きて、声の限りに泣き叫び、ふと上を見るとそこには必ずイエス様がいてくださる。慈しみに満ちたまなざしにで、私を迎えてくださるに違いない。福音書を読んでいると、そんなイエス様の愛と真実を疑うことはできなくなるのです。
イエスがいるから 明日は怖くない イエスがいるから 恐れは消え イエスがいるから 人生はすばらしい 彼にすべてを ゆだねた今は
何がどうなっているのか分からないけれど、こんな素晴らしい歌がパソコンで聴けるなんて感動です。Eメールの受信にあまりにも時間がかかるので、何が送られてきているんだろう・・・と怪しんでいたら、ピアノ伴奏に合わせた何とも美しいテナーの歌声。「イエスがいるから人生はすばらしい」との繰り返しに、思わず私も「イエスがいるから人生はすばらしい」と声をあげて歌います。 この世がどんなに混乱しても、暗雲に覆い尽くされても、悪魔がすべてを滅ぼそうと息巻いても、イエスはすでに「私たちの罪のために、十字架についてくださった」。悪魔が私たちを自由に操るためにどうしても必要な私たちの罪、その罪の根をイエス様はすでに十字架の上で断ち切ってくださった。
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。(コロサイ1-13)
この御言葉に出会って救いの確信が与えられました。それまでの私は神様を知り、イエス様の贖いを信じ、聖霊の喜びを味わいながらも、その喜びが消えてしまうと不安でした。救われているならいつもいつも喜びがあるはずではないか、生きる力に溢れているはずではないか、なのに心が萎えてしまうのは何故だろう、私は本当に救われているのだろうかと不安だったのです。 そんな時この御言葉に出会い、私の心が喜ぼうと、不安であろうと、苛立とうと、呻こうと、私はすでにイエス様の御手の中、イエス様の愛と赦しの中に入れられているのだと悟りました。私だけではない、この世が、全人類がすでに闇の力から救い出され イエス・キリストの支配下にあるのだと知らされたのです。 イエス・キリストの支配下にあるということは、すべての人の人生が神の愛によって導かれているということ。愛によって導かれる人生に、悪いことは何一つ起こらないということ。一見最悪と見えることの中にも、深い深い神様の愛とご計画が秘められているということ。
救い主は 今も生きている あなたへの愛を 満たすため |