いのちの水  2023年2月号   第744号

聖霊があなた方にすべてのことを教え、

また私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
私は平和(平安)をあなた方に残し、私の平和をあなた方に与える。

(ヨハネ福音書142627より)

目次

・キリストは世の光

平和への道

 ・韓国のプルム学校の方々の来訪

心に残った御言葉

・今日まで来たのは

「野の花」の原稿追加

この一年ー主にある平安を願いつつ、「アルプスの少女ハイジ」、あなたの重荷を主に
まもなくかなたの  病の中で

・お知らせ 瀬棚聖書集会

・集会案内

 

リストボタンキリストは世の光・命の光

 

 聖書は、全体として見ても、しばしばわずかなひと言が、あらゆる人間に、またいつ、どんな地域の人においてもあてはまるという驚くべき本質を持っている。

 例えば、聖書の最初にあることば―

…神は言われた、「光あれ!」 すると 光があった。

             (創世記1の3)

…神は愛なり。

          (Ⅰヨハネ4の8) これらは、あらゆる希望の源泉となる。どんなに闇深くとも、神のご意志によれば、ただちに光が存在するようになる。希望が見えてくるという約束であり、預言である。

 前途に闇が広がり、進むべき道のない絶望状態であっても、神が光あれ!と言われるなら、光が存在し、それによって道が見えてくる。どんな悪人とされている人でも、神が光あれ!と言われるなら、その人の心に光がともされることを信じることができる。

 このことは、私自身21歳の春まで、こうした光などまったく感じられず、そんなものがあるとも思いもよらなかったけれども、ある日一冊のキリスト教の本の立ち読みで永遠の光を知らされた。

 それは、主のご意志にかなった時が来て、私の心の深いところに、光あれ!と言われたゆえに、そのような光など、心に思うことも、考えたり他者から言われたこともまったくなかったのに、突然 神の光が心の深いところに射してきて、今日まで56年にわたってその光は消えることがなかった。

 一時的にその光が消えていくように感じても、それは少しの間であって、心の方向転換をして主に向って祈るとき、ふたたびその光を感じるようになるのだった。

 神は全能であり、無限の深い御計画をもってなされるゆえに、この御言葉の真理はだれにでもあてはまるのであって、神の全能と愛、真実を信じて求めて続けていくならば、不条理なことが自分や身近な人に、また仕事や人間関係で生じても、神は愛であるゆえに、きっと時至れば光を注いで最善にしてくださる、と信じることができる。

 そして神は愛であるゆえに、神が創造された自然もみな、木々の一つ一つ、その葉や花の色、形…等々、また幹の模様や樹形…等々も神の愛が込められていることになる。

 それゆえ、それらの姿そのものにおいても、神の愛のひとしずくがそこに落とされ、また神の息吹の愛の一吹きを感じることができるように導いてくださる。

 

 次の広く知られた短い一節も、現代の私たちへのメッセージである。

 

…わたしは世の光である。

わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、

命の光を持つ。(ヨハネ8の12

 

 キリストこそは、世の光だという。

 ヨハネ福音書とヨハネの手紙では、「世」という言葉がしばしば特別な意味で用いられている。それゆえに、ほかの福音書や書簡その他のなかでは、群を抜いて多く用いられ、百回を超えて使われている。(*

 

*)新約聖書において、「世」と訳されている原語(ギリシャ語の kosmos コスモス)の使われている回数

・ヨハネ福音書 78回 Ⅰヨハネ 23回(ヨハネ文書だけで101回)

Ⅰコリント21回 ロマ書、マタイ各9回、マルコ、ルカ各3回

 

 世と訳されるギリシャ語コスモスとは、「整然とした秩序」という意味を持っている。それで、目に見えるもので最も整然とした秩序を持っているのが、宇宙であるから、宇宙を意味するし、また花のコスモスもその花びらの様子が秩序ただしい美しさがあると感じられてこの名前が付けられた。また、cosmetic(コズメティック)は、美しくするものということで、化粧品という意味でも使われている。さらに、宇宙の広がりを意味することから、この世、地球も広大な広がりがあるので、「この世」の意味にも使われるようになった。

 

 新約聖書、とくにヨハネ福音書やその手紙においては、この「世」は特別な意味を持っている。

 次にあげるように、神を受け入れようとしない、サタン的な世、そして、闇(死)の力に支配されている人々を意味する。

 

・ 私が世に属していないように、彼ら(弟子)も世に属していない。

          (ヨハネ 1716

・世は、私を憎んでいる。私が世のおこないの悪いことを、あかししているからである。(ヨハネ7の7)

 

 「世」は、真実と光に満ちた神を受け入れない、イエスを受け入れない、死の力に支配されている闇である。そのただ中に主イエスが来られたのだということを強く示すために、ヨハネ福音書やヨハネの手紙では、とくに「世」という言葉が多く使われている。

 ヨハネ1章において「ことば」と訳された原語のロゴスとは、生まれる前のキリストを意味している。そのロゴスによって万物が創造された。そのロゴスの中に光があった。ヨハネ福音書1章に、とくにそのことが示されている。

 

…言(ロゴス)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

光は暗闇の中で輝いている。

闇は光に勝利しなかった。

その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。(ヨハネ1の49より)

 

  この世はキリストを受け入れない。闇のただ中、受け入れない中にあえてキリストは来られたのである。一人一人の自己中心という心の闇の中にキリストが来られた。また、この世も、知れば知るほど、闇がある。華やかなことの中に、その裏には闇が深くある。経済が成長していくほど、貧富の差は増大し、数々の公害、人口密集、田舎、田畑、山林などの荒廃、自然な素朴な生活が壊されていく。金銭は多く持つと人の心を蝕んでいく場合も多い。

「世の光」とは、この世界は、闇が全体を広く覆っているが、そうした闇に与えられる光である。

 イエスを信じて歩くとき、闇が一面に広がっているそのただ中に光があると実感できるようになる。

 モーセがエジプト軍にせまられた時、前は海、後ろは敵、そこに道ができて歩くことができた。このように闇のただ中を歩くことができる。

 また「命の光」とある。個人的、ひとりひとりに命を与える光である。

 はるかな昔から、今に至るまできた世の光、そして、その人間ひとりひとりの中の闇に来て下さる光。それが命の光である。

 それは、生物がみな持っている生物的な命でなく、神が持っておられる いのち であるから、どのように苦しいことがあっても、生きていくことができるような力である。

  いのちの光を受けたら、希望がなく死んでしまおうという気持ちが消えていく。

 私たちの心に闇の世界が迫るとき、それがひどくなると、生きていけなくなる。みずからの命を断つという人たちが、以前からいわれているように日本人は世界的に見てもトップクラスとなっているのも、そうした生きていけない闇に輝く命の光を知ることがなかったゆえなのである。

 しかし、この世界の闇にあって聖書に記されている神様、そしてその神がこの世界に光として送ってこられたイエスを信じて仰ぐとき、ひとりひとりの生きていけないほどの闇の中に、いのちの光が与えられる。キリストの真理はたったひとりの苦しむ人をも見捨てない。

 残念なことに、この「いのちの光」については日本では新聞、テレビ等々でも報道もされない。教育でもまったく触れることがない。

 長い歴史の中で、ありとあらゆる悲劇―戦争、飢饉、ペストなどの世界的流行、災害、そして権力による迫害…等々、社会的に、どのようなことが何が起こりどうなっても、イエスを信じて歩くときには闇の中ではなく光の中を歩んでいった人々の証しが残されている。

 それが確かな永遠の光、いかなる世界の動乱や個人的な苦しみにもかかわらず、与える光が真実なものであるからこそ、旧約聖書の時代から含めるなら数千年という歳月、聖書はこの世界にあって無数の人たちに光を与え続けてきたし、だからこそ現在も世界で最も多く読まれ続けている書となっている。

 その神の光、命を与えられるためには、ただ、心を幼な子のようにして、主を仰ぎ、「主よ、助けてください、憐れんでください」 と心から祈り願うだけでよい。 必ず何らかの助けが与えられる。それは目に見えない力であり、たとえ殺されることがあっても、その人はその神の力によって復活し、神のみもとで永遠の命を与えられるという究極の救いを与えられると約束されている。

 そうした愛なる神の光、力と、きわめて対照的な光は、人工的な光の最大のものである原爆や水爆などの爆発時の光、エネルギーである。それはあらゆるものを破壊してしまう。核のエネルギーは、原発の廃棄物においては数十万年先までも、命をおびやかすものとなる。

 そのような命を奪う命と正反対の光が神の命の光であり、その光を受け取ると、目が見えない人にも魂のうちに輝く光が与えられる。

 世界は暗闇だ、と思った時にはイエスを仰ぐ。十字架を仰ぎ見よ、あなたの罪を赦したと主イエスは言って下さる。

 この一言を深く受けとるときに、新たな命を与えられる。うちひしがれていても、倒れて立ち上がれないようなときでも、その新たな命の光を見ることによって心にしっかりと受け取っていきたい。

 どんな人にも闇は襲ってくる。しかし、命を与える光は、いつも太陽のように、すべての人に注がれている。

 私たちは、共に祈りつつ、世の光、命の光を日々うけつつ、それを少しでも他者に知らせ、伝えるものでありたい。

(2023年25日(日) 主日礼拝 講話)参加者 会場6名 オンライン 51名)

 


 

リストボタン平和への道

 

 今日は現在の状況を考えて特に平和について聖書ではどのように言っているか、その一部ですが、それを三つの聖書箇所をあげて短くお話したいと思います。

 ①主の平和  ②主の平和が与えられたときの状態  ③その平和のための戦いの武具とは何か。

 

 聖書において平和(平安)ということでイエスご自身がこれから十字架にかけられるという前日に弟子たちに残した言葉というのは特に重要だといえます。

 それは次のような言葉です。

 

①主の平和

…私は平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。

私はこれをこの世が与えるように与えるのではない。

心を騒がせるな。恐れるな。(ヨハネ1427

 

 平和に関して、こにあげたような言葉は、一般的には全く言われることはありません。

 平和と言うと、まず普通は「戦争がない状態」ということをまず思い出します。平和憲法も、「…戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」 と記しています。

 トルストイの代表作ともいわれる作品にも「戦争と平和」という大作があります。そのような題名にも現れているように、平和とは戦争がない状態だということは、だれもが思っていることです。

 しかし、キリストは、そうした目に見える武力を使う戦争、紛争といったものの根源にある心の問題を見据えています。

 すなわち、人間の中にある動物的な本能的ともいえる本質は、自分中心ということです。自分を守ろうとし、自分が認められたい、ほめられたい、あるいは、自分の欲望を満たすために相手から何かを奪い取ろうとする、弱いものを餌食にする、自分の力を増やしてさらに支配を強めようとする…等々。

 キリストは、「私は平和をあなたがたに残す。私の平和を与える。私はこれをこの世が与えるように与えるのではない」と言っています。

 「平和」という言葉、この原語は、エイレーネーというギリシャ語です。そしてそのギリシャ語の背後にあるのが、ユダヤ人の言語であるヘブル語(*)です。

 

*)旧約聖書はほとんどがヘブル語で書かれてあり、それを当時の世界語ともいえる状況になっていたギリシャ語に訳されたものが70人訳というギリシャ語聖書。エジプト王の命令でヘブル語の旧約聖書をギリシア語に翻訳した聖書。紀元前3世紀中頃から前1世紀にかけて、徐々に翻訳されていった。新約聖書に現れる旧約聖書の引用もこのギリシャ語訳の旧約聖書であった。それゆえ、新約聖書において、そのもとになる原語はギリシャ語であっても、さらにその元には、ヘブル語があるので、例えば、信仰、真実、愛等々の重要な言葉については、ギリシャ語とヘブル語の双方について調べることで、そうした言葉に込められた意味がより正しく理解できる。 なお、ローマ皇帝のマルクス・アウレリウスは、ローマ人であったが、その著作をローマ帝国の言語であるラテン語でなく、ギリシャ語で書いたほどであった。

 

 ヘブライ語では、平和のことを シャーローム(*)と言いますが、この言葉は「戦争がない」という意味よりずっと幅広い豊かな意味を持っています。

 

*)世界的に知られてきた ヘブル語辞典(Brown Driver Briggs HEBREW AND ENGLISH LEXIKON」)では、シャーロームについて次のように記述されている。 completeness(完全な、完成した、成就された)、 soundness(健全な、完全な)、 welfare(幸福、福利、繁栄、福祉)、 peace(平和)

 

 シャーロームの動詞の形は「完成する、満たす」という意味を持っています。単に「戦争がない状態」というのとは相当異なっています。このことは聖書においてこの 平和(平安)シャーローム を考える時にとても重要なことです。

 現在、私たちにとって重要なのは、「キリストの平和(平安)」を、まずキリストから豊かに与えられることです。そして、そのキリストによる平安がどのような内容であるかは、すでに旧約聖書においても麗しく記されています。

 それは、いろいろな聖書箇所で見られますが特により美しい表現で簡潔に記されているのが次の詩です。

 

② 主の平和とは

…主はわが羊飼い、私には何も欠けることがない。

主は私を緑の野に休ませ、憩のみぎわに伴い

魂を生き返らせてくださる。

死の陰の谷を行くときも私は災いを恐れない。

あなたが私と共にいてくださるゆえに。

私の敵を前にしても、あなたは私に食卓を整え、

私の頭に香油を注ぎ、わが杯は溢れる。

命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。(詩篇23より)

 

 主の平和とはどういう状態なのか、この詩はそれをいまから三千年ほども昔に生き生きと美しく記しています。

 「主は、わが牧者」であれば私は乏しいことがないから、他の人を奪ったり傷つけたり侵略したりするなどという行動が生じなくなるのです。

 私たちが本当に魂が満たされているー完全に満たされている、そのことをより具体的にかつ象徴的にあらわしているのが、あとに続くことばです。

 緑の牧場にて、草を食べ、水際に伴ってくださるーこれは、豊かにいのちのパンである神のことばを与えられ、活ける水を与えられるーすなわち聖霊を豊かに与えられることを指し示しています。

 人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つのことばで生きる、と主イエスはいわれています。

 そして、命の水これはイエス様から与えられるとその魂の深いところから泉となってさらに、外に、他者へと流れていくと記されています。(ヨハネ7の38

 主が私たちの羊飼いー私たちの魂を導いてくださるときには、魂を生き返らせるほどの力を与えられるゆえに、たとえ死の影の谷を歩むとも恐れない。それは主が共にいてくださるからだと。

 全能かつ完全な愛の主が共にいてくださるときには、死にたくなる絶望的な状況に置かれても不思議とそこに光がその闇の中にかすかに見えていて、その光を見つめて祈り続けていくときには、次第にその光の輝きは強くなり、歩む力を与えられる。

 こうした心の状態が、主がわが牧者であるときには与えられる。それは魂の平和であり、そのような心の世界であるならば、敵対する者の前であっても豊かに霊的な食物を整えて与えてくださるといわれています。

 霊的に主が生きて働いてくださるとき、そこから、敵対する者に対しての祈りが生まれます。

 それが、主イエスがいわれたこと、「敵を愛し、迫害するもののために祈れ」ということで、この愛するとは通常の意味とは異なり、敵対者の心がよくなるようにと祈ることです。

  そのような主の平和を与えられた者にとっての戦いとは何か。それが重要なことになります。

 キリスト者の武器とは、目に見える砲弾や戦闘機、戦艦、ドローンなどではありません。

私たちの武力とは、何かについては、聖書にはつぎのように記されています。

 

③私たちの戦い

…私たちの戦いは血肉に対するものでなく、悪の霊との戦いである。

 それゆえに、神の武具を身に着けなさい。

 腰に締める帯は真理、からだを守る胸当てとは神の正義であり、履物は、平和の福音を告げる心の準備をつねにしておくこと、悪の火のような攻撃から守る盾は信仰であり、頭部を守る兜とは、救われた確信。

 そして、攻撃のための私たちの剣とは、霊的な剣であり、それは神の言葉である。

 (主イエスも、伝道のはじめにあたって、サタンから攻撃されたとき、神の言葉をもって撃退された。ーマタイ福音書4の111

 さらに、聖霊に助けられての祈り、何があっても止めない粘り強い祈りをもって他のキリスト者たちのために祈り続け、共同の霊的戦いにそなえていく。(エフェソ書6の1018を参照)

 

  私たちは、戦いと言えば、すぐに武力による戦いを思い出しますが、武力ではじまった戦争を、武力で止めようとすれば、相手はさらに武力で反撃を強め、互いに殺し合い、破壊し合うということで、多数の人たちが命を奪われ、家庭が破壊され、命は助かっても生涯、後遺症や障がい者となって苦しみつつ生きていかねばならないという人たちが数知れず生じていきます。

 こうした、目には目、歯には歯という武力による復讐という手段によって、戦争、武力闘争が世界各地でなされてきて、弱い立場の人たちを苦しめてきたのです。

 そうした果てしない悲劇、苦しみを防ぐために、キリストは本質的に異なる道をそなえられたのでした。戦争ももとはといえば、人間の権力欲、支配欲、物欲があります。それは目に見えない悪の力(悪の霊)から生じています。

 それゆえに、それに対抗してうち勝つためには、霊的な武器がぜひとも必要になります。それゆえに、キリスト者の武器とは目に見えない霊的な武器であり、それこそが本当の戦いなのです。

 目に見えない霊的な悪の力は、鉄砲や大砲、戦闘機、爆弾等々でも全くなくすることはできないのです。かえって、それらによってさらなる憎しみや敵対心という闇の力が増大していくのです。

 ただ、全能にして正義と愛に満ちている神のみが、そうした悪の霊的な力にうち勝つことができます。

 その力をうけるために、だれでもできるのは、そのような神を信じて祈り続けるということです。聖書のことばにしたがうとき、私たちはどんな状況にあっても、つねに平和への道が開けているのを知らされるし、だれでもがー病気であれ、障がいを持っている身であっても、また高齢であれ、また寝たきりのような人であっても、そのような弱い立場にいる人であっも、否、そうした弱い立場にいるほどに、この神の与えてくださる武器ー聖霊、神の言葉、祈りーということがいっそう大切なもの、有効なものとして見えてくるように主が導いてくださる。

 そして、そのような神から与えられる霊的な武具によって、平和のために闘うことができるようになっています。

 私たちもそれぞれの場において、キリスト者ゆえにとくに与えられた平和のための神の武具を生かし、平和のための霊的な戦いに導かれたいと願っています。
 


リストボタン 韓国プルム学校関係の方々の来訪

県内の福祉、農業関係施設、また新たにできた神山町の私立高専などの視察に来日され、その最後の日程で、 2月2日、韓国のプルム学校関係の6名の方々が徳島聖書集会場に来訪されました。午前9時過ぎより12時過ぎまでの3時間ほどの礼拝と交流集会でした。

 はじめにの礼拝では、「平和」について聖書が記していることを短くお話しさせていただきました。(今月号に掲載) 


 参加者は、朴 垸理事長夫妻と、朴賢美校長他4名と(後列)、徳島聖書キリスト集会から7名。


  三時間という時間でしたが、日本語ができる方も何人かおられ、通訳は朴 垸氏にお願いして貴重な交流の時間が与えられて感謝でした。


 コロナのためと平日の午前中であったので、集会からは少数の人しか参加できなかったのが残念でしたが、今後とも主が私たちの双方を導いてくださいますようにと祈りました。
 


 

リストボタン心に残っている御言葉

 

   Y.K.(徳島)

「恐れるな。

私はあなたと共にいる神。

たじろぐな。

私はあなたの神。

 力を与えてあなたを助け、 私の救いの右の手をもってあなたを支える。」

(イザヤ書41章の10節)

 

 この中で、いつも私はあなたと共にいる。おじけることはなく、恐れることもない、私に任せなさいという思いを起こされます。

 自分では何もできない。思ったとおりにもならないけれども、どんな時でも神様が最も善いように私を導き、支えてくださったってことを、いままでの信仰、神様を知ってから、ずっとそう思わされました。

 でも初めはそういう思いもなく、そんなことも分からなかったけれども、でもだんだん分かってきて、本当にあの時、神様が助けてくださった。神様が人を私のところに遣わせてくださった。という思いを一つ一つ思い出されます。

 以前、交通事故で全身マヒとなった主人が数年の入院生活を経て退院する時に、私は車に乗れないし、主人が怪我や重病になったらどうしようとか。それからまず、徳島聖書キリスト集会の礼拝に行く時に、私一人で主人を置いて行くという時に、どうしよう。

 でも、まず祈っていけばいいと思って、それでベッドでいる主人を一人置いて。家の鍵はしなかったんですけど、ずっと置いて行って。礼拝に参加しました。

 でも神様は、長い歳月を、私が礼拝に参加している間の時間をずっと守ってくださって、何もなくて無事にずっと居れたし、様々なことを神様に任せば、さまざまなことが最も善いようにして下さってるし、それに神様はその時その時に善いものを与えてくださっている。

 想像もしなかったことが次々与えられているということを今までのことを思って、思わされました。

 これからも主人がいなくても、私は神様と共に歩んでいければ、それだけで死の床につくまで、大丈夫。さまざまなことを「心配ない?」とか人に言われても、でも神様が共にいてくだされば、何も心配はいらない。ということをいつも思って生きています。それだけです。

*)編者注 戸川さんのご夫君は、交通事故で、全身麻痺の重度障害者になって寝たきりになり、起き上がることも、食事その他のことも自分ではできなくなっていました。 戸川さんはそのご夫君を介護し、はじめの数年は大学病院で、そのごの数十年間はずっと在宅介護でした。そのご夫君は6年前に召されました。

 戸川さんは、その事故を通してキリスト教信仰を与えられ、自宅にご夫君が戻ったときから、家庭集会も始められ、現在まで続けられています。。現在は、コロナのためにオンライン集会となっています。毎月第四火曜日月曜日の午後1時~。

 


 

リストボタン今日まで来たのは 

          Y.T.(徳島)

  私の心に残ったみ言葉は、詩編23編6節と、それをもとにした賛美で新聖歌331番「今日まで来たのは」という詩(歌詞)です。

 吉村先生の以前の主日礼拝のときのお話に、賛美歌は単なる歌じゃなくて、主のみ言葉に深く結びついた内容で、み恵みをいただいた私たちが感謝し、賛美し、主をたたえる歌であると教えていただきました。

 この「今日まで来たのは」という讃美は、今年の1月24日、北島集会で歌ったものです。

 今日まで来たのは 

  主の恵みなり

 尽きせぬ主の愛 

  言い尽くし得ぬ

 夜昼 主の御手 

  日々守り給う

 すべては主により 

  なさしめ給う

 

 わが身は弱くも 

  御力 受けて

 満ちあふるる主の 

  恵みは足れり

 愛なき巷や   

  谷間を行くも   

 主の御手すがりて 

  賛美しつ歩まん

 

 主に見ゆる日は 

  間近に迫る

 重荷を降ろして 

  主に預ける日

 わがため備えし 

  御国に帰り

 父の御胸にて 

  永遠にぞ住まわん 

 

 この讃美歌は、次の詩編が関連聖句となっています。

 

…命のある限り、

 恵みと慈しみは

 いつも私を追う。

 主の家に私は帰り、

 生涯そこにとどまる。 

         (詩篇23の6)

 私はイエス様にめぐり会うまでは、人を恨んだりとか、自分の不運を嘆いたりとか、そのようなことのある紆余曲折な道を通ってきました。

 だけど、今思えば、その道すがらは、イエス様に出会うための道であったのでした。

 いま、私は最晩年におきまして、穏やかな幸せな日々を送っております。感謝です。感謝しかありません。

  神様に出会えなかったら今の平安はないのだと思えば、感謝のお祈りしかありません私です。

 もう一度、お読みします。「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまる。」

 感謝いたします。ありがとうございました。

 


 

リストボタン「野の花」への追加原稿

(今年1月発行の「野の花」文集に、編集作業のミスで、掲載されなかった投稿です。)

 

この一年ー主にある平安を願いつつ

         I.M.(徳島)

 コロナ禍でこの一年もスカイプでの集会に参加させて頂きました。

 集会を支えて下さった方々にも感謝します。県外の方とも交わりを持つことができました。世界の平和、身辺の平和を共に祈り合えたこともよかったです。

 私自身はこの一年間は職場で家庭でと心乱される日々が続きました。

〝主による平安〟を願っても罪な言葉や思いが波のように押し寄せてきます。でも神さまは試練と同時に逃れの道も備えていて下さる、御心を信じて前へと進めたらと思います。

 「あなたの耳は背後から語られた言葉を聞く。

『これが行くべき道だ。

ここを歩け。 右に行け、

左に行け。』と。」

            (イザヤ3021

 

 

「アルプスの少女ハイジ」  より

         T.T.(徳島)

神様にゆだねましょう。

神様は賢い君主。あなたを驚かせるようなこともなさるでしょう。

神様にふさわしく不思議な方法でみわざを行い、あなたを悩ませることもあるでしょう。

しかし、あなたが神様に信頼することをやめないでいるなら、思ってもみなかったときにあなたを持ち上げ、あなたの心を重荷から救ってくださいます。

 

 

あなたの重荷を主に              O.C.

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主がささえてくださる。」     (詩篇55の23)

2019年から心気症で苦しい私を励ましてくれる御言葉のひとつです。

 神様に頼り、神様を仰ぎ過ごしています。

 

 

まもなくかなたの      (新聖歌475)    U.N.(徳島)

この賛美歌を聴くと、幼い頃、神山(*)の田舎の小川で、無邪気に遊んでいた、のどかな風景を思い出します。そして、神様の創られた小川のほとりで、また、みんなとお話したいですね。

 

 まもなくかなたの

 流れのそばで

 楽しく会いましょう 

  また友だちと

(折り返し)

 神様のそばの 

  きれいな  きれいな川で

 みんなで集まる日の 

  ああなつかしや

 

 水晶より透き通る 

   流れ のそばで

 主をさんびしましょう    み使いたちと

 

 神様のそばの 

  きれいなきれいな川で

 みんなで集まる日の 

  ああなつかしや

 

 銀のように光る 

   流れのそばで

 お目にかかりましょう    救いの君に

 神様のそばの 

  きれいなきれいな川で

 みんなで集まる日の 

  ああなつかしや

 よいことを励み 

   流れのそばで

 お受けいたしましょう    玉の冠

 神様のそばの 

  きれいなきれいな川で

 みんなで集まる日の 

   ああなつかしや

*)徳島県

 

 

病の中で             I,M.

 今年一年は持病のパーキンソン病が進んで、色々な治療を試み病院通いの日々が続きました。常に頭の重さと倦怠感に襲われ、体が休まる事が少ない日々でした。

 様々な機能が低下していくのもよく解り、改めて神様が与えてくれていた〝あたり前〟と思えていた身体能力などの恵みを知りました。

 「命より大切なものを知った時から生きている力を与えられた」という星野富弘さんの事が思わされます。

 病を得て自分の弱さを感じます。星野さんのように神様を知っていることで強く生きられたらと思う今頃です。

(徳島市) 

 


リストボタンお知らせ

 

 〇第49

  北海道瀬棚聖書集会

  *)前月号のお知らせで、日程が一部ちがっていました。訂正版を掲載します。(傍線部分が訂正部分です)

 

   今年の主題

 「互いに愛しあいなさい」

主催 : 瀬棚聖書集会  協賛 : 日本キリスト教団利別教会 、 キリスト教独立伝道会

 

・今年の主題

「互いに愛し合いなさい」

・日時… 2023年2月22日(水)~24日(金)

 

22日(水)…開会は 2000分(準備があるので19時半から接続開始となります)  23日(木、休日)1015分開会~15時)

24日(金)1030分~1200

〇方法…インターネットの Skypeを利用したネット集会

〇主な内容

1日目(2月22日)(水) 開会礼拝  2000分 ~ 2100分(礼拝の後 自己紹介)

 

・2日目(23日休日)

 聖書講話、特別講話の講師ははいずれも 吉村孝雄

1

1015分 ~ 1130

  昼食後

 2 1240分 ~ 1340分 

休憩後 証の時間 

1350分 ~ 1430

 参加者による証

感話  1440分 ~ 1530

 

・3日目  特別講話

1030分 ~ 1200

・昼食後 感話

 1300分 ~ 1430

閉会礼拝 1435分~ 15

 

〇会費…不要

〇申し込み、問い合わせ先  

〇締切… 210日までにメール、またはファックスにて。

お名前、住所、電話番号、連絡可能な時間帯(Skypeの事前練習を行うために連絡をさせていただくことがございます)メールアドレスを記入の上お申し込みください。

 

〇若井克子著の「東大教授、若年性アルツハイマーになる」、また「野の花」、「いのちの水」誌などバックナンバーあります。また、 礼拝、夕拝の全部の内容を録音したCDも希望者にお送りできます。毎月の始めに送付。一カ月分五百円(送料込)

 


 

リストボタン集会案内

 

①主日礼拝…毎日曜午前1030分から。徳島市南田宮の集会場とオンラインの併用。

②夕拝…毎月、第1、第3火曜日の夜730?9

(オンライン集会)

③家庭集会…北島集会、天宝堂集会、海陽集会などがあります。問い合わせは吉村まで。

 

 〇 http://pistis.jp (「徳島聖書キリスト集会」で検索)