祝 クリスマス


私はふたたびあなた方と会い、あなた方は心から喜ぶ。
その喜びをあなた方から奪い去る者はいない。


(ヨハネ福音書1622


201112 610号 内容・もくじ

リストボタンキリストは何のために来られたか

リストボタン敵意の間を通って

リストボタン大地の恵み

リストボタン神の力に支えられる重要性―詩篇 21

リストボタン眠ることと目覚め

リストボタン九州と中国地方の集会

リストボタン詩の世界から

リストボタンお知らせ

リストボタン編集だよ



リストボタンキリストは何のために来られたのか

クリスマス(*)、それはキリストへの特別な礼拝のときである。
それは、キリストがこの世に来られたことの意味をあらためて思い起こし、記念し、感謝を新たにし、さらになおいっそうの力を与えられることである。
世界にひろがったキリストとその言動の記された新約聖書、その誕生を記念するクリスマス、その復活を喜び記念するイースターなど、キリストにかかわることは全世界に見られる。

*Christmassは、Christ mass からなる語で、キリストのミサという意味であり、キリストへの礼拝を表す。

そのキリストは何のために来られたのか、ここでは、旧約聖書に預言され、主イエスご自身もそのことを取り上げて、まさにその言葉の成就がなされたと言われた言葉を次に記す。

…「主の霊がわたしの上におられる。(*
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。」…
イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
(ルカ福音書4の18~21より)

 ここに、キリストは何のために来られたかが示されている。
この箇所で、主イエスは、旧約聖書の重要な預言書であるイザヤ書61章に記されていることが、まさに自分によって成就したと言われる。
それはまず、神の霊がイエスの上におられることである。神の霊が上に、という表現は私たちにはなじみにくいが、神の霊、すなわち聖霊は人格的存在であり、神と同一の本性をもつゆえにこのような表現がなされている。神が私の上におられる、というのと同じである。
特別なはたらきをするためには、つねに神の霊、聖霊が私たちのうえに、とどまっていてくださることが必要である。あるいはその聖霊は、とどまるだけでなく、私たちの内に入ってくださるということでもある。

*)口語訳は、「主の御霊がわたしに宿っている」と訳している。言語は、epi であるから、~の上 というニュアンスがあり、英語の uponと語源的に共通である。)

主の霊、聖霊の重要性はこのように、キリストの本性と深く結びついている。キリストの伝道のその出発点においても、聖霊がはとのように降ってきたと記されているし、キリストが十字架で処刑されたのち、自分たちも捕らえられるのではないかと恐れていた12人の弟子たちが新たに驚くべき力を与えられて、福音伝道にいのちがけで邁進するようになったのも、それは彼らの意志や決断、あるいは勇気でも組織の命令でもなく、聖霊が注がれたからであった。
そして、キリストが来られた目的、それは貧しい人に福音を伝えることが最初に置かれている。このことは、山上の教えにおいて、最初に、「ああ、心の貧しい人たちは! 天の国はその人たちのものである。」と言われたことを思いださせる。
ルカ福音書では、「貧しい人たちは、幸いだ」とあるように、キリストは物質的に貧しい人、そして心に誇りや自慢、自己中心の心などを持たない人という意味での心の貧しい人の双方のために来てくださった。そのことが、すでにキリスト以前、数百年も昔から預言されていた。
キリストは何のために来られるのか、そのことは、イザヤ書ですでにあげた箇所以外にもいろいろと記されている。

…一つの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。
英知と識別の霊
思慮と勇気の霊
主を知り、おそれ敬う霊。
弱き人のために正当な裁きを行い
貧しい人を公平に弁護する。(イザヤ書11章より)

ここでも、のちに現れるメシア(キリスト)の特質は、神の霊がとどまっている人であり、その神の霊のゆえに、英知あり、真実であり、弱き人を助けるというのである。

さらにもう一カ所をあげる。

…見よ、私の僕、私のささえる者を。
彼の上に私の霊は置かれ
彼は国々に正義を示す。(*
傷ついた葦を折ることなく
暗くなっていく灯心を消すことなく
正義を示し、たしかなものとする。(イザヤ書42章より)

*)新共同訳では、「裁きを導き出す」と訳されているが、言語は、ミシュパットであり、この語は、正義、公正、公平、公義、裁きなどいろいろに訳される。英語訳では、justice と訳されることが多い。口語訳では、「道を示す」、新改訳では「公義をもたらす」と訳されているが、公義 という言葉は辞書にも掲載されていないほどで、一般には使われていない言葉である。

ここでも、メシアとは、まず神の霊が置かれているということが示され、メシアの持っている正義や弱き人をささえ、助けるという特質もその神の霊からくるということが記されている。
以上のように、来るべきメシア(キリスト、救い主)は何のために来られるのか、それは弱き者、傷ついた者、消えていこうとするような者を顧みて、新たな命を与え、不正に満ちたこの世に正義を、正しい道を(口語訳)を示すためなのである。
そしてそのためにこそ、神はメシアに神の霊を豊かに注がれた。
人間の生まれつきの性質では、このような弱き者への愛や、消えていこうとする者に命を与えるなとどいうことができない。わずかにできたとしても、それは必ず一時的であり、また相手が自分に対してのお返しがなければ続かない。よきことをした相手が恩知らずのような態度をみせるととたんに嫌悪感や落胆あるいは軽蔑などに変わったりしてしまう。
メシアとは、そうしたいかなる人間的感情を越えて、人間を助け、救いだそうとして下さるお方である。それは神の霊の力なくしてはできない。
メシアに対する、このイザヤ書に繰り返し記されている神の霊、聖なる霊の重要性は、そのまま、新約聖書にも受け継がれている。
キリストは何のために来られたのか、それは罪の赦しを与え、さらに、聖霊を与えるためである。
このことは、最後の夕食のときに語られた言葉として、ヨハネ福音書で繰り返し記されている。

…父は、助け主を遣わして、永遠にあなた方と共にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。…
父が私の名によって遣わされる聖霊があなた方にすべてのことを教え、ことごとく思い起こさせる。(ヨハネ福音書14章、16章など)

そして、実際にこのイエスの予告は、のちに実現される。イエスが十字架で死んだあと、復活し、さらに、約束された聖霊を祈って待ち続けるようにと命じられた弟子たちが仲間の人たちとともに熱心に日々祈りをもって待ち続けていたとき、突然与えられるときが来た。そして、そのときから弟子たちも別人のようになって新たな力にあふれて命をかけて福音を伝えるようになっていき、そこから火の燃えるようにキリストの福音が世界に伝わっていった。
キリストは何のために来られたのか、それは自らが十字架で死ぬことにより、人間の根本問題である罪の赦しを人類に与え、さらに聖なる霊(神の霊、キリストの霊)を与えて、新たに生まれ変わらせ、力を与えてその聖霊に導かれて生きるようになるためなのである。



リストボタン敵意の間を通って

真理は人々を生かし、受けいれられる。他方、真理は人々の憎しみを受ける。このような両面のことが生じていく。
 イエスが、初めて真理の言葉を人々に語ったとき、それはユダヤ人の会堂であり、そこで開かれた聖書には、次のように記されていた。

…主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。
わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
 打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。(イザヤ書61の1)

このような預言が今、成就したと言われ、それにもかかわらず、ユダヤ人がそのメシアを受けいれないことを厳しく指摘された。その指摘を聞いて、ユダヤ人はその直前までイエスをたたえていた人が多かったのに、たちまち激しい敵意を燃やした。
そして、会堂内にいた人々は、みな怒り始め、総立ちになってイエスを町の外へと追いだし、近くの崖まで連れて行き、そこから突き落とそうとした。
しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。(ルカ福音書4章より)

多くの人たちが寄ってたかってイエスを崖から突き落とそうとしたのに、なぜイエスは突き落とされなかったのか、どうしてそのような敵意のただなかを通り抜けていくことができたのだろうか。
ここには、主イエスの驚くべき力が示されている。イエスは必要ならば、このように敵意のうずまく中であっても、道を開いて行かれる。
 イエスが生まれたときも同様であった。へロデという悪名高い王のもとで生まれ、生まれたらすぐ殺されそうになった。そして御使いの知らせによってエジプトへと逃れていくことができた。
 ステファノも、周囲の人たちが敵意に満ちて大声で叫びながら、ステファノを石で撃ち殺そうとしていた。そのような殺気だった状況のなかで、ステファノにとって人生で最大の啓示がなされたのであった。天が開けてイエスが神の右に座しておられるのを見るという賜物が与えられたのである。
 ここにも、神の力、キリストの力は、危険な道のただなかを不思議と通っていかせるということが示されている。
 キリスト教自体、ローマ帝国の300年ちかくにもわたる長期の迫害、世界の各地でなされた数々のきびしい迫害―日本のキリシタンも激しく弾圧された―それらすべてを通ってキリストは、今日の人間にも到達することができている。
私たちは、必ずさまざまの悪意や敵意、あるいは闇の力に出会っていく。ときにはそれらが取り巻き、そのようなまちがったことをばかりいろいろ広めることがある。
そのようなとき、私たちが主イエスにしっかりと結びついているとき、不思議な方法で道が作られ、そこを通って逃れていくことを示すものである。
最大の力である、死というものをも、神の力はすべてを呑み込む死の群れのなかを通って、私たちのところへと来てくださった。主イエスのうちにあるならば、私たちはどのような妨げや困難をも、そのなかを通って広いところへと導かれていくという希望を持つことができる。



リストボタン大地の恵み

都会ではわからなくなっているが、田舎、山野の道を歩くときに、大地の大いなる恵み、その力を感じさせられる。そこからありとあらゆる植物が芽生え、育っていく。
山野に自然に生えている植物は、肥料をやらずとも、また消毒しなくとも、自然のままで、枯れた植物がそのまま肥料となり、虫が食ってもそれにうち勝って繁殖するたくましさを持っている。そのような植物を生み出していく。
土だけを手に取っても、その力は分からない。そのままでは食べることもできないし、土塊は汚れたものにすぎず何の役にも立たない。それどころか、土が衣服に着いたりすれば払い落とさねばならないいやなものにすぎない。
しかし、その土は驚くべき能力を秘めている。
土のなかからありとあらゆる植物が成長していくからである。自然の里山を見ても、ほとんど同じような場所の土から、実にさまざまの植物が芽生え、成長していく。湿ったところには、苔のような原始的なものがあり、シダ類のようなやはり原始的植物もあり、またリンドウやツリガネニンジンのような美しい花を咲かせる植物も生えるし、同じところから杉や松、クスノキなど数十メートルにもなる樹木も生えている。
あるいは、寄生植物であるキノコも地中から生えるのも多い。このように、土は、ありとあらゆる植物をそこから生み出すことができ、さらに成長させていくことができる驚くべき力を持っている。
さらに、それらの植物が枯れたときその落葉や樹木は、土の中にいる細菌、カビなどの微生物によって分解され、ミネラルは地中に帰り、植物体内に含まれていた水や炭素、イオウ、窒素などの成分は、空気中に帰っていくものも多い。
土は、1グラムの中に、1億もの細菌やカビ類などの微生物を含んでいるという。そのようなおびただしい微生物をも内に秘めているのである。
その微生物が、枯れた植物や動物、昆虫などの死骸をも肥料という有益なものにたえず変換しつつある。一般にバイ菌というと、毛嫌いされ、悪いものの代表のような感じを持っている人が多い。
しかし、それらの微生物こそは、植物の世界を生かし、成長させるもとになっている。それらがなかったら、植物が育って枯れても葉は積み重なるだけで、土はやせ、また積み重なる枯れ葉のために芽も出せなくなっていくであろう。
さらに、土は、そこに水を保つことによって植物の根に水を提供している。砂漠地帯でほとんど雨が降らないようなところにも、一部の植物は根を深く降ろし、毛細根からきわめてわずかの水分を吸収して生命の維持に用いている。
また、土を通った地下を流れる水は、集まって谷川となるが、汚れたイメージのある大地の土を通っていった谷川の水はとても清い水である。そのように浄化するはたらきも他方では持っている。
このような土、大地から生じた植物は、動物の食物となり、またその動物を食べるほかの動物たちの食糧をも提供することになっていく。
このように、大地はあらゆるものを生み出すゆえに、古代の哲人たちは、その神秘な力を深く知らされて、土をこの世界の根本元素とみなしたのであった。
ギリシャでは、エンペドクレス(紀元前490頃~430頃)が、この世界を4つの根本的なものによって構成されていると考えたが、その中に、土が、火、空気(風)、水などとともに4大元素として含まれていたし、少し後に出たプラトンなどもほぼ同じように考えた。火は一切を変化させるエネルギーにあたるものであるし、水はいっさいの生命を維持し、さまざまのものを溶かし、天にも地にもある、という点で根源的とされた。空気は目には見えないが大きな力を持っているものがあるというのを知っていたゆえであろう。
中国にも、5行思想があり、万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなると考えられた。これは日本の曜日の名前にもなってきわめて日常的に使われているが、そこに、世界を構成する根本的なもの(元素)の考え方が用いられているとは気づいていないようである。インドにも似た考え方があり、やはり土も5つの基本的なものに含まれている。
土のはたらきはこのように古代の卓越した思想家たちにも注目され、すべてを生み出す驚くべき力を持っているという点で根本的なもの(元素)だと考えられたのである。
土、大地の持つ力がこのように古くから知られていて、その特質は、神を信じる者にとっては、神が与えたものに他ならない。そして、そこから、そのような性質をあたえた神ご自身が、そうした本質をすべて持っておられるということが分る。
あらゆるものが、そこから生まれる。まさに、神こそ、地上のものだけでなく、宇宙のいっさいをも生み出したお方であり、莫大なエネルギーを放出させ続ける無数の星、地球の生命にとって不可欠な太陽を創造し、地上には、きわめて小さな微生物から巨大な樹木、そしてありとあらゆる種類の植物や動物を生み出してきた。
そして、それらいっさいを成長させていく。土のなかを通って水が流れていき、谷川となり、また地下水となって地上の動植物をうるおし、生かしていく。
神もまた、この世のあらゆる出来事、歴史の奥深くを流れ、あらゆる世紀の人たちをうるおし、また生かしてこられた。そして土に住む無数の微生物たちがあらゆるものを分解し、また再利用できるものにしていくように、神はいっさいのものを良きに変えていく。(ローマ828
古代の天才的思想家、哲学者、宗教家たちが考えた根源的なもの、それは現代からみても、深い考え方であった。しかし、いかにそうした深遠な思想家たちであっても、到達できなかったのが、唯一の愛なる神であり、その神こそ、万物の根源だということである。
大地が万物を生み出すと見えるゆえに、母なる大地と言われる。とすれば、神こそは、さらにそうしたいっさいを生み出す大いなる母であり、それらを支配される父でもあると言えよう。
私たちも、その母なる霊的大地といえる神に根付くとき、その養分を受けて成長していくことができる。そしてさまざまの不要なもの、汚れたものもその大地が良きものに変換し、あるいは清めていくように、神によって悪しきものが新たにつくりなおされ、清められていく。
主イエスが、私に結びついているときには、あなた方は豊かに実を結ぶ、と言われたとおりである。主イエスこそは、いっさいを生み出し、清め、成長させる大いなる大地、霊的な母でもあるからだ。



リストボタン神の力に支えられる重要性―詩篇21

この詩には「王」という言葉が出てくる。日本における天皇は一種の王であるが実生活において、天皇という王もわたしたちにほとんど関係がないので、現代の我々にはあまり関係のないと思われやすい。この詩は、まえがきにダビデによって書かれたとあるが、ダビデは今から三千年も前の人である。ダビデのものでなくとも、少なくとも2500年以上も昔に書かれたものである。そのような古い時代は、日本を考えると、記録も何もなかった時代である。日本では、文字に書かれた書物(古事記)が初めてできたのが、今から千三百年ほど前でしかない。
非常に古い時代のことでギャップを感じるのは当然だが、全く関係なさそうに見えても、その詩が現代の我々に何を伝えようとしているのかを考えてみたい。
 ここで言う「王」はわたしたちの考える「王」と非常に違うことが分かる。普通は、戦争に勝った、領土を拡張した、兵隊がたくさんできた、またたくさんの金銀を見つけたとかということを王は喜ぶ。ところがこの詩では、最初にでてくる「あなた」とは神のことであり、王は神の力を喜び祝って、そして神が人々や自分にも与える救いのゆえに大いなる喜びを持つのである。

主よ、王は、あなたの力を喜び、
あなたの救いによっていかに喜ぶことか。(2節)

The king shall joy in thy strength, O LORD; and in thy salvation how greatly shall he rejoice! (KJV)
(新共同訳では、「喜び躍る」と訳されているが、原文には「躍る」という言葉はない。日本語の他の訳も同様である。原文のニュアンスはこの英訳がよく表している。)

この詩の冒頭に記されているのは、神の力とその救いを何よりも喜ぶ王の姿である。
この点で普通一般の王とは違う。人々に与える救いというのは勝利という意味にもつながるが、それこそが一番の喜びの源である。このことは王でなくてもわたしたちにもできることである。
わたしたちの場合でも、自分の考え通りになったとか、人によいことができた、あるいは他人からほめられたとか、お金が儲かった、どこか遊びあるいは飲食で楽しかった、あるいは何かの賞をもらったとかで喜ぶことが多い。
それらは、何らかの点で自分が中心にある。
しかしこの詩にあるように、神の力を喜ぶ、その万能の力によって与えてくださった魂の救いを一番の喜びとするということは、どれほどあるだろうか。
三千年前の王がこのような喜びを持ったとあるが、わたしたちにおいても、このような喜びこそ、本当の喜び、一番深い喜びだということは今も共通している。聖書は一見今のわたしたちとは全く関係のないことが書かれていると思われがちだが、落ち着いて見てみると、今のわたしたちにも深い関係があることである。
何を喜ぶかというのは、その人間がどういう人間かという本質をよく表す。例えば人をいじめたり、他人が困っているのを見て喜ぶというのは一番悪いことである。
人間が持つ喜び、楽しみにはさまざまの段階があって、最も深く高い段階の喜びとは、真実の神ご自身を喜ぶということである。
神を喜ぶ、というようなことは、一般的にはまったく言われない。日本では神というと不気味なもの、得体の知れないもの、何か人間の力より大きいものなど―巨木、死者、ヘビ、ネコ、きつね、タヌキ、山、実にさまざまのものを神というから、そのような神を喜ぶということは考えられない。むしろそうした不可解な神々を恐れたり、人間に害悪を及ぼさないようになだめる、その怒りを鎮めるといったことが行われてきた。
神を喜ぶとは、神の本質である真実や力、美しさ、清さ…等々を喜ぶことであるから、そのように言い換えるとき、誰にも身近なことになる。例えば、草花を喜ぶのは、神の創造の無限の多様性や美を喜ぶことであり、星の神秘的な輝きや大空の雄大なひろがりを見て喜ぶのも、神の無限の力や英知、あるいは清さ、その永遠を喜ぶことである。また小鳥のさえずりを喜ぶのも、神の創造された小鳥に与えられたその清さ、美しさを喜ぶことである。
こうした目に見え、耳で聞こえるようなことから、さらにそうしたものがなくても、神を直接的に喜ぶことができるように導かれる。それが、祈りのとき、主を仰ぐだけで与えられる喜びや平安である。

…あなたは王の心の望みをかなえ
唇の願い求めるところを拒まず
彼を迎えて豊かな祝福を与え
黄金の冠をその頭におかれた。
願いを聞き入れて命を得させ 生涯の日々を世々限りなく加えられた。(3~5節)

 王の心の望みをかなえてくれるとあるが、まず正義の神のことを第一に考え、神を喜ぼうとする心があるからこそ、神が王の心の望みをかなえてくれるのである。このように何を喜ぶかによって神から与えられる祝福が変わってくる。例えば先に書いたように、人が困っているところを喜ぶ人は神様から良いものをもらえない。そのあとに続く神からの祝福は、すべて2節の「主を喜ぶ」ということから、さまざまなものが与えられた。
神は王の心の望みをかなえ、また願い求めることをも与え、豊かな祝福を与え、黄金の冠をも与えた。さらに、その願いを聞き入れて、命を与え、生涯の日々も長く生きるように恵みを与えた。
神から与えられる一番良いものとは、5節にあるように命である。(このことは、はるか後の新約聖書の時代になって、単なる長生きでなく、神の命、すなわち永遠の命が与えられるという約束となった。)
 そして王は恵みを与えられたからといって、傲慢にならずにいっそう神様に依り頼んだ。普通の王は権力ができたり栄えてきたら、だんだん民衆を圧迫し、ますます搾取をする。しかしこの王は武力や権力によって支えられるのではなく、神様の慈しみに支えられる。
神に依り頼み、神を喜ぶ―真理そのものを喜ぶ―ことの恵みは、さらに悪そのものが滅びるという確信を与えられるということである。神ご自身が敵のすべての悪の力を打ち砕いてくださる。その神の力はいかに強力であるかということを、9節以降で言っている。

…あなたの御手は敵のすべてに及び 右の御手はあなたを憎む者に及ぶ。
主よ、あなたが怒りを表されるとき 彼らは燃える炉に投げ込まれた者となり 怒りに呑み込まれ、炎になめ尽くされ
その子らは地から 子孫は人の子らの中から断たれる。
彼らはあなたに向かって悪事をたくらみ 陰謀をめぐらすが、決して成功しない。
かえって、あなたは彼らを引き倒し 彼らに向かって弓を引き絞られる。
御力を表される主をあがめよ。力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう。(9~14節)

このような表現は違和感を強く感じるという人も多いかも知れない。詩篇がとても心に響くものがある反面、何となく自分の心にすんなりと入ってこない、という方々は、こうした詩篇の表現が原因である場合もある。
これらの表現はあまりにも敵対する者への感情が激しく、主イエスの敵を愛せよ、という心とは一致しないと感じるからである。
しかし、ここに記された「炉に投げ込まれ」とか「炎になめ尽くされ」といった表現はそのままの意味でなく、象徴的に言っているのであって、個々の言葉にとらわれたら、本当に言おうとしていること、今日のわたしたちにまで通じることが分からなくなる。このことは旧約聖書を読むときに非常に大事なこととなる。
こうした現代の私たちには厳しすぎる表現と見えることは、新約聖書とは関係がないのか、従って現代のキリスト者には不要なものなのであろうか。
決してそうではない。ここで言われている「敵」という言葉を、悪そのものに対する言葉だとして受け取るときには、新約聖書の精神とまったく一致してくるのである。そして私たちにも重要な真理として浮かびあがってくる。
この詩の9節以降を現代の私たちに通じる表現で言いなおすと次のようになる。

…あなたの御手は、悪のすべてにその支配を及ぼし
右の手は、真理を憎む者に及ぶ。
主よ、あなたが怒りを表されるとき
悪は、燃える炉に投げ込まれる。
炎に焼かれ
悪の力は、この世界から断たれる。
悪しき者は、真実なる神に対抗しようとする。
しかし、決してそれはできない。…

このように読むとき、これは新約聖書にある主イエスの表現と同じようなものとなる。
主イエスも、次のように言われた。

…人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。
人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。(ヨハネ 156

主イエスにつながっていない、主イエスの内にとどまろうとしないなら、投げ捨てられ、そして火に焼かれてしまうという。これは、ぶどうの木とか美しい色彩の果実、その美味な味わい、あるいは発酵させると生じるぶどう酒といった見てよく、食べてよい、というやさしいイメージとは全くことなる厳しさがここに含まれている。
そしてこのことは、決して理解できないことでなく、私たちの周囲にいくらでも見ることができることである。主イエスにつながっていない、すなわち主イエスの持っておられたような弱き者、小さき者への限りない愛、そしていかなる権威にも屈しない正義に関する力、勇気、いっさいの汚れのない清いものに背を向けること、それらを踏みつけるならば、たしかにそうした主イエスの本質に背くことである。そのようなことをしていたら、その人の魂は汚れ、真実な喜びや平安は根底から失われていく。それは肉体は元気であっても、その人間の本質(魂)は火で焼かれるという事態になる。
あるいは、次のようなたとえも同様である。

…そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。
さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」
彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」(マタイ213341のぶどう園のたとえより)

神は人々の腐敗ぶりを見て、それを警告するために、いろいろな預言者を送った。それが、ぶどう園の主人が、繰り返し僕をぶどう園に送ったということの意味である。
しかし、人々はその預言者たちを繰り返し迫害し、殺してしまった。ぶどう園の主人は、自分の息子なら彼らは、それまでの歩みを悔い改めるだろうと思った。しかし、人々は、そのぶどう園の主人の一人息子まで殺してしまった。
これは、神がキリストをこの世に送り出したが、そのキリストまで、人々は敬うことをせずに殺してしまったということであり、そのような意図的な悪を行って悔い改めることのない魂は必ず裁かれてしまうという、この世界の法則というべきことを話された。
神は愛である。だからといって悪を繰り返し意図的に行って止めようとしない人間に対しては、厳しい裁きが下される。その人の良き部分が壊れてしまう。清い喜びや真実な愛といったものはすべて失われていく。
実際、私たちが他人をいじめたり、不正なことにかかわったり、正しいことに背を向けているなら、私たちの心から、さわやかな喜び、清い喜びは必ず失われる。そこに裁きがあるのであって、死後になってはじめて裁かれるのではない。生きている内から、真理そのものに意図的に逆らうものは、その人の内部からも壊れていくのである。
また、次のようにも言われた。

…この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとした。(マタイ 21の4446

このたとえにおいても、石とは、キリストのことであり、キリストの本性である真実や愛に意図的に背き続け、それを踏みつけようとするような者に対しては、キリストの力がそうした悪の上に働き、悪の力は粉砕されるとうことである。
これは、決して聞きたいと思うような言葉でも甘い言葉でもない。
しかし、神の愛とは、まさに人間を苦しめ、滅ぼしていく悪の力を排除し、最終的にそれを滅ぼすことと不可分に結びついている。罪というのも、私たちの魂のうちにはたらく悪の力にほかならない。その悪を根本的に滅ぼすためにこそ、キリストは十字架にかかって死なれるほどの重い戦いをされたのである。
このように、悪の力を滅ぼすということこそ、愛の別の側面なのである。敵を愛し、迫害するもののために祈れ、と主イエスは言われた。それは、敵対する人の内にある悪の力を追いだすために、最も力あるのは、神ご自身である愛を注ぐことだからである。
主の祈りにある、御国がきますように、ということも、神の王としての支配がなされますように、という意味であり、それはその支配によって悪の力が除かれますように、という意味を持っているのである。
このように、詩篇において厳しい表現で悪への裁きが記されているのは、その霊的な意味を探るときには、深く新約聖書に流れている精神と共通しているのである。
 現代のわたしたちも、本当に祝福された状態に至るためには、いかに神様の力を信じるかということにかかっている。誰かの悪意もある言動に憎んだりやり返したりしても双方に何も良いことは起こらない。しかしそんなときに神に依り頼むと、神が最善にしてくださると信じるように導かれるし、あるいは相手の悪い心を除いてくださいと、神に祈る気持ちであれば、神ご自身が悪の力を滅ぼしてくださる。それを、悪の力を徹底的に滅ぼすということで、「炎で焼いてしまう」といった表現で表している。
火の力で燃やす、それによって跡形もなくなるほど、火の力は強い。打ってもたたいてもそのような根本的な破壊はできないが、火のエネルギーはそれをなすことができる。
このように、悪の力を根本的に破壊し、なくすること、そのためにキリストは来られたのである。そういう点から考えるとき、このような表現は決して私たちに無縁のものとか古い時代のものということはなく、現代においても最も切実な問題なのである。

 そしてこの詩の最後に次のように記されている。

…御力を表される主をあがめよ。
力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう。

悪の力、闇の力が滅ぼされ、真実な力が勝利するという確信を与えられたゆえに、そのような神をあがめるということが自然に導かれる。単に、何となく賛美をうたうことが好きだとか楽しいから賛美するのではなく、神の悪に対する力が発揮されて、幼子のような心で信頼するものを救ってくださるということへの大いなる感謝と喜び、そこに本当の賛美の源がある。
このことは、聖書において最初に神への賛美がうたわれた箇所が何であるかということを思いださせる。それは、エジプトから解放されたのち、背後から追跡してきたエジプト軍が間近に迫り、前は海であるという絶体絶命のとき、驚くべき神の力によって救いだされたのちのことであった。闇の力をあらわすエジプトの軍が、何も武器を持たないイスラエルの民を滅ぼすことができず、逆に神のわざによって滅んでいった。
ここに人間の最も深い喜びの源がある。
十字架のキリストによって罪という闇の力が滅ぼされたことを知らされた人の喜びもこのことと同じ本質を持っているゆえに、それは何よりも深く、そこから世界に広がっていったのである。

 このようにこの詩は3つに分かれる。まずは神の力を信じてそれを喜ぶということから祝福が注がれ、それに神は応えてくださって、そしてそこから神の力を深く啓示されたゆえに、おのずから賛美へと導かれたということである。わたしたちもこの詩のような信仰を身につけたいし、このような祝福をいただきたいと願うものである。
神様に信頼するということは、新約聖書でも言うまでもなく、至るところで記されている。新約聖書の最初にある広く知られた箇所、マタイによる福音書五章にある、山上の教えにも見られるのはこの神への信頼の重要性である。
「心の貧しい人は幸いだ、天の国はその人たちに与えられる。」
これは一見、神への信頼という意味はないように見える。
心の貧しいというのは、自分の意志や力、あるいは富、武力や権力など、何らかの自分が持っている力に頼らない心である。このような人は天の国―王の持つような支配の力、神の力が自然に与えられる。このようにイエスの最初の教えは、この詩篇の箇所とは一見関係がなさそうに見えるが、実は深いところで同じものが流れている。
あるいは、「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。復讐はわたしのすること、わたしが報復すると主は言われる。」(ローマの信徒への手紙12の19)
人間が憎しみの力や武力、権力でしても一切祝福はない。相手が悪人であるなら、その人に対しての最大のなすべきことは、善をなすことであり、それこそが悪の力に対しての打撃を与えることになる。
「そうすれば、燃える火を彼の頭に積むことになる。」善の力―神の力こそが、悪を火で焼く、つまり根絶やしすることににつながる。このように根本の流れは旧約聖書から変わらないで続いている。

 


リストボタン偽りのない愛を

ローマの信徒への手紙は、福音の根本を明確に記しているということで比類のない重要性を持っている。私自身も、この手紙の3章のわずかの箇所の説明を読んでキリスト教信仰に導かれた。
「福音」という言葉は、もともと中国語であり、現在も中国語の聖書に使われている。この意味は、喜びの音ずれであり、喜ばしい知らせという意味である。人間の根本問題の解決の道を示すものだからである。その根本問題こそ、救いはいかになされるかであり、そのことがこの手紙に明確に記されている。(3章~5章)
それとともに、重要なのは、12章からは、救いを与えられた者の歩むべき道が記されているということである。
そして、現在も世界の重要問題であり続けているイスラエル問題の究極的な解決の道も9章から11章にかけて記されている。
救われた者の歩むべき道ということで、その最初に記されていることは、真の礼拝とは何かである。
それは、私たちの心身を主にささげていくこと、日々の生活を聖霊の導きに従って生きることだと記している。
また、キリスト者とは、キリストに結ばれたひとつのからだであり、それぞれがからだの部分として、自分に与えられた賜物を用いて、具体的にできることをなしていくこと、それが真の礼拝につながることを述べている。
さらに、すべての人に対してあてはまる最も大切なこと、愛について述べている。
それは、まず、次のような言葉である。原文を直訳すると次のようになる。

愛は、偽善的でないようにせよ。 (*
悪を憎み、善に結びついていなさい。(ローマの信徒への手紙129

*)この文は、新共同訳では、「愛には偽りがあってはなりません。」と訳されている。偽りがあってはならない、という語の原語は、アニュポクリトス anypokritos であって、これは、否定の接頭語 a に ヒュポクリノマイ hupokrinomai 見せかける、偽る という動詞から作られた言葉で、偽りのない、という意味になる。なお、ヒュポクリノマイから、ヒュポクリテース 偽善者 という言葉が生まれ、これはそのまま英語に入って hypocrite 偽善者、hypocrisy 偽善 という言葉になっている。
主イエスは、律法学者やファリサイ人たちに対して、偽善者たちよ! と繰り返し厳しくその偽善性を指摘している。(マタイ23章)


 このように、愛し合え、というより先に、愛が偽善的でないように(偽りのない愛であるように)、といういましめをのべている。
他の箇所でも、パウロは、「私たちは、大いなる忍耐をもって、苦難、労苦…親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉…などによって」神に仕えていると述べている。(Ⅱコリント6の6)
さらに、「あなた方は、真理に従うことによって、偽りのない愛を抱くに至った…」 (Ⅰペテロ1の22)というように、ペテロの手紙でも、この言葉が用いられ、偽りのない愛ということが強調されている。
なぜこのようにとくに言われているのか、それは、愛が偽りを伴っている、言い換えれば愛らしく見せかけるが実は、愛ではないということがあまりにも多いからである。
この世で愛と思われているものは、実は、真の愛ではない。そこには何からの自分中心がいつも入り込んでいるという意味で偽りの愛だと言える。なぜかと言えば、真実の愛とは、無差別的で、主イエスが言われたように、太陽や雨が誰にでも降り注いでいるように、特定の人だけに及ぶということでない。たとえ無に等しいような者でも、汚れた者、あるいは敵対するような者でもまた、死に瀕しているような人に対しても同じ様に働く。
しかし、この世の愛は親子、兄弟、あるいは男女の愛など、みな極めて限定的である。自分の子どもなど家族、あるいは特定の異性とかにしか働かないからである。そうした愛は、いつも自分の家族、自分が好きだ、といったように、愛の動機に自分というのがその根底にある。
また、この世の愛は、すぐに消えたり変質する。最も激しい男女の愛は、また一方の者のちょっとしたひと言や自分中心の行動でもたちまち冷えていくようなはかないものである。
これに対して真の愛は、神に根ざしているゆえに永遠であり、相手がどのように変質しようとも、あるいは悪くなろうともなお注がれるような本質をもっている。
このように、真の愛にくらべるとき、この世の一般に言われる愛はみな、きわめて限定的であり、一時的である。それは、愛のように見えるだけで、実は自分の願いや欲望の変化したものにすぎないという意味で偽りの愛ということにある。それゆえに、新約聖書では家族同士の愛や男女の愛などはまったく触れてもいない。
その点では、旧約聖書に記されている愛には、相当このようなこの世の愛が含まれている。アブラハムがサラを愛したとか、ヤコブが妻となったレアより、もう一人の妻のラケルを愛した、などそれは神の愛とは関係のないふつうの人間の愛であるのはすぐにわかる。
パウロはその偽りのない愛を、兄弟愛という言葉で表している。人間は父なる神から生まれたという点では、みな兄弟である。とくにキリストを信じる者同士は霊的にあらたに父なる神から生まれたゆえに、兄弟姉妹である。それは対等であり、父なる神からうながされての愛である。それは血縁とか人間的な好き嫌いの感情ゆえの愛でない。ともに神を見つめ合う者としての愛である。
偽りのない愛が目標であるゆえに、主イエスは、私のうちにとどまれ、わが愛のうちにとどまれ、と言われた。そうでなければ、実を結ぶことができないと言われた。実、その最大のものは愛である。
そのような愛を受けるならば、私たちは、他者をも敬い、また悪人に対しても、忍耐と希望をもって祈り続けることができるし、祈りに力を注ぐことができる。
偽りのない愛を注ぐために、主イエスは来られた。命まで注ぐというところにそれがまったく偽りのない愛だとわかる。
偽りの愛は、子どもでも悪人でも、利己主義でかたまっている人にもある。お金をくれる人を愛するといった愛、
自分の仲間や愛人を愛するというような愛である。
そこから、自分の罪を深く知るとき、かつ神の愛を受けるときには、ほかの人をも敬うということになる。
旧約聖書においては、アブラハムやヤコブの愛は人間的である。ヤコブなど、自分の好意をありのままに表している。このように、 旧約聖書では、無差別的な愛はまだごく一部にしか見られない。
のちになって預言書には、頭が涙がいっぱいになるほどに、同胞のために悲しむ心、愛の心がみられる。

…私の頭が水の源となり
私の目が涙の源となればよいのに。
そうすれば、昼も夜も私は泣こう
娘なるわが民の倒れた者のために。(エレミヤ書8の23)

これは、使徒パウロが、次のように書いた心に通じるものがある。

…喜ぶ人と共に喜び、
泣く人と共に泣きなさい。(ローマの信徒への手紙12の15)

最も偽りのない愛、それはキリストによってこの世に示された。人間の最も奥深いところにある問題に対して、人々に捨てられ、しかも木に釘付けされるというきわめて残酷な、耐えがたい苦しみをも甘んじてうけ、みずからの命まで捨てられた。そのようなことによって初めて愛を知ったと、ヨハネは書いている。

…愛は神から出る。
神は、独り子(キリスト)を世に遣わされた。ここに、神の愛がわたしたちの内に示された。(Ⅰヨハネ479より)

この世は偽りに満ちている。そのただ中において、そうした偽りにまどわされず、真実な愛を知ること、その愛を知ってはじめて、私たちが本当に生きることはなんであるかが示されてくる。

 


リストボタン眠ることと目覚め

睡眠が十分にとれないとき、体調はすぐに悪くなる。食物や水、新鮮な空気がいくらあっても、眠ることができなかったら、食事もできなくなり、心身ともにもうろうとしてくる。そして生きていけなくなる。
当たり前のように思われている睡眠はきわめて重要なことはすぐにわかる。
ネズミの実験では、睡眠を取らせないと、食物を与えないよりもはやく、1~2週間で死に至るという。食物を取らなくても、自分の体は一種の蓄電池のようなものであり、体を構成しているタンパク質や脂肪などを分解して生きるエネルギーに変換させることができるが、睡眠はそうした貯えがきかない。
人間には身体のように目に見える部分とともに、目に見えないもの、すなわち心、精神、あるいは魂といった目に見えないものがその根源にある。
体に睡眠が不可欠であるが、目に見えない精神、魂には睡眠に相当するものは何だろうか。
人の平均的な睡眠時間7~8時間といえば、一日の3分の1程度にもなる長い時間が必要であるのは意外なことである。
それに対して、精神的(霊的)な方面においては、「たえず目を覚ましていなさい」という言葉が聖書には繰り返し現れる。

…しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子(キリスト)の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。(ルカ 2136


…身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。(Ⅰペテロ 58)

…従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。(Ⅰテサロニケ 56

このように、眠ることの重要性とはまったく逆に、常に目覚めておれ、ということが重要なこととして言われている。
体は、眠ることが必要である。しかし、霊的な世界では、いつも眠ってはいけないのであって、常に目覚めていることが重要となる。
夜中に花婿たるイエスが来られて、すぐに迎えることのできる人たちは幸いだ、と言われていて、その締めくくりとして、だからいつも目覚めていなさい、と言われている。
この「目覚めている」ことの重要性のゆえに、そのギリシャ語のグレーゴレオー(*)が人名にも多く用いられてローマ教皇にも、多くのグレゴリオという名前の人がいるほどである。

*)「目覚めている」 gregoreo グレーゴレオー。この名をもったローマ教皇は多いが、とくに知られているのが、グレゴリウス1世(540頃~604年)である。貴族の生まれで政治家であったが、示されるところあって修道院に入った。のちに、ローマ教皇となり、聖歌を編さんし、グレゴリオ聖歌となったと伝えられている。また、現在の暦のもとになったグレゴリオ暦は、教皇グレゴリウス13世の改革によるのでその名がついている。1582年からつかわれるようになった。

それなら、いつ霊的に休むことができるのだろうか。それこそ、主の安息、主の平和ということなのである。私はあなた方に私の平安を残していく、と主イエスは自分の死が近いときに、約束して言われた。
私たちの魂は、この主の平安を与えられているとき、肉体における睡眠によって休みが与えられ、脳や心身がリフレッシュされるように、私たちの魂がリフレッシュされるのである。
詩篇23篇に、主が私の牧者であり、主は私を緑の牧場に伴い、憩いのみぎわに伴う。魂を生き返らせてくださる」とある。この生き返らせるということは、英語では、 refresh という訳語を用いている聖書もある。魂をリフレッシュするのである。
眠ることなく、たえず目覚めてはたらいている、そのようなことは、人間にはできないことである。人間は、肉体は夜の眠りによって、また霊においては、主の平和をいただき、昼間は霊的に目覚めて働く―それがあるべき姿である。
そして、そのような人間をすべての時間において眠ることなく見守って下さっているのが神である。経済的に余裕のある人は、自分の家に何重もの警備設備などをして、外部の人間が侵入できないようにしている。
しかし、魂というものには、いかなるそうした警備も空しい。私たちの心の世界、精神の世界に対する最大の警備は、私たち自身が目覚めていることであるが、いかに目覚めにつとめてもなお人間の弱さがあり、かつて、主イエスが死を目前にしたとき、弟子たちに眠らないで祈っておれ、と命じたにもかかわらず、弟子たちはみな眠り込んでしまったことがある。
そのような弟子たちを、繰り返し起こしに来たのが、イエスであった。
現在の私たちも同様である。弱い意志と肉体を持っているゆえに、心ならずも眠ってしまう。しかし、いかなるときにも眠ることなく私たちを見守っていて下さるお方がおられる。

…見よ、イスラエルを守る者はまどろむこともなく、眠ることもない。
主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。
主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。
今からとこしえに至るまで…(詩篇121より)

このような見守り、守ってくださる神を信じ、主のうちにとどまり続けること、そこに私たちの魂の安息があり、また絶えざる目覚めもある。



リストボタン九州と中国地方への訪問

11月10日~17日まで、九州、中国地方の各地の集会での聖書講話、そして「祈の友」の一部の教友たちを訪ねました。
10日の夜は大分市の梅木さん宅での集会。梅木さんは、はり治療院を経営されているかたわら、自宅を増改造されて、独立ケアセンターという介護施設を起こされ、その責任者であり、全盲でありながら、いろいろな困難ななかを、施設運営につとめておられる珍しい方です。その治療室で、落ち着いた雰囲気のなかでの集会が与えられました。
 その翌日は11日。2011年の11月11日という、1が6回も現れる特異日でしたが、私にとっても初めての鹿児島訪問でとくに記念すべき日となりました。
 この日は、初めて鹿児島までいくことになっていましたが、大分から鹿児島までは相当に遠く、しかも初めての道でもあるので、時間通りに鹿児島市に到着できるかどうかと思いましたが、途中で宮崎県の西都市の「いのちの水」誌の読者のHさんをも訪問することができました。味噌を製造販売されている方で、若きときからの無教会のキリスト者でした。このような山野の広がる田園地帯、農家もところどころにあるという広々とした地域で、キリスト者はほとんどいないだろうと思われるような田舎ですが、若き日に福音の種を蒔かれたゆえに、周囲がまったくキリスト教とは無縁の地域であってもなおその信仰を持ち続けることができていることを知らされ、若き日に種蒔かれることの重要性を感じたことです。
なお、その途中で、石井十次(*)の記念館があるのがわかり(宮崎県西都市 茶臼原)、短い時間だけれども、立ち寄り、最近見た映画の一部の場面がそのまま残されていて、改めて孤児のために生涯を尽くしたキリスト者のことを思い起こすことができました。

*)宮崎県生まれ。(18651914)医者になるために岡山に移住。日本で最初に孤児院を創設した人物。「児童福祉の父」と言われ、留岡幸助、山室軍平らとともに岡山にゆかりある重要な働きをしたキリスト者として知られる。

医者になる道を捨てて、世間で顧みられない孤児を集めてその世話をする、当時は自分の子どもも十分に育てられない人も多かった時代、そのような道をとることは至難のわざであったけれど、キリストが石井を導いて道のないところに道を開かれたのだと感じ、残された施設の背後にキリストの大いなる御手があったのを思ったのです。そしてその御手は今もその聖なる業を世界の各地でなし続けていることも。
夜7時まえに鹿児島市の会場に無事着くことができ、初めての方々ばかりでした。そこには、東京からはるばるこの集会に親族の方が参加するようにと願って参加されたMさんがおられ、その主にある熱心に驚かされました。また、妻の40数年前からの大学時代の友人が鹿児島市にいるので参加を呼びかけたところ、キリスト者ではないけれども、初めて参加していたことも感謝。
また、今年3月下旬に、春風学寮での小さな集りに集っていた登戸学寮の学生であるMさんのご両親も参加されていたことにも驚かされ、感謝でした。
その翌日は、熊本の集会。熊本にいくようになってもう10年を越えています。
その集会には、全盲の方が、4人、そのうち一人は、ハンセン病の療養所からの参加です。その方々の闇の世界にも、主イエスが光を与えてくださっているのを実感させていただいています。熊本から小郡におられる「祈の友」会員を訪問し、ご夫妻との懇談と祈りのひとときが与えられました。
翌日の日曜日は、福岡キリスト教会館での主日礼拝。聖書における再生、復興ということで語らせていただきました。今回は、とくに私の希望を入れて下さり、主日礼拝と同じ会場で昼食、そして懇談会をすることができて感謝でした。
その集会で二回目の参加という方、ほかにも新しく参加しはじめた方もいました。
こうした初めてキリスト教に触れ始めた方々が、とくに主の導きを受けますようにと願われます。
その後、福岡県内の「祈の友」会員二人を訪ね、主にある交流を与えられました。高齢ながら、信仰によってささえられているのがよくわかりました。
その翌日は、徳島を出発する直前に知らされた交通事故でのKさんご夫妻の入院の病室を訪ねました。別々の病室におられ、それぞれ重傷のようでしたが、お二人とも、こうした事故によって、自分たちがまわりの人たちの愛と祈りをいかにたくさん受けているかを深く知らされて、感謝にあふれますと涙ぐんで話されたのが心に残りました。
 キリスト者でなかったら、到底このようなときに、心からの感謝をあらわすなどはできないことで、Kさんご夫妻のその姿に接して、背後に主がおられるのを感じたことです。 主のみわざがそこになされているのがわかりました。
 そのあと、出雲から20数キロ、松江からでは40キロほど山間部に入った奥出雲地方にある土曜会館にての集会に向かい、そこで1年ぶりの方々とともにみ言葉を学びました。 数十年の昔、加藤歓一郎という教育者、伝道者によって導かれ、長い信仰の歩みをされてきた方々で、私はこれで3回目の訪問で、そのたびに主にある交流を深めていただいているのを感じて感謝です。
 その翌日は、鳥取に向かい、砂丘を前にした会場での集りでした。少数の集りですが、岡山の香西さんからの紹介を受けて、訪問するようになったことで、このことも主がそのように導かれたと感じています。
その翌日、その香西さんが責任者である岡山聖書集会での集会が与えられ、さらに翌日は、香川県で関わりある教友をたずねて無事帰宅することができました。
今回も、主の守りと多くの方々の祈りによって支えられ、今回は出発前から体調が十分ではなかったこともあり、全行程をこなせるかどうか、という状態でしたが予定通り果たすことができて感謝でした。み言葉と聖霊による集りが与えられ、主が各地の集会におられることを改めて知らされ、今後とも各地の集りがいっそう主の霊を受けて、キリストの福音が伝えられますようにと願っています。

 


リストボタン詩の世界から

秋のこころ 八木重吉

水の音がきこえる
水の音のあたりに胸をひたしてゆくと
ながされてゆくと
うつくしい世界がうっとりと明るんでくる

・小さな谷川のほとり、水の音に耳をすませると、水のふしぎな働きがここに記されている。
ただ流れているだけ、同じような音をたてて流れている、昨日も今日も、そして明日も同じような流れ、同じ音をたてて流れている。けれども、人の心に生き生きとしたものを与えてくれる。その水の流れと水音が人の心を清め、あらたにしてくれる。これは私自身、近くの谷川で繰り返し与えられている経験である。
作者は、この水の音によって秋の心を感じた。ふつう秋は、紅葉や秋の花や大気のすがすがしさによって感じることが多い。水音もまた、開かれた心には、秋の心を感じさせるのである。
そしてキリスト者にとってそれは、神の心をも反映していると感じられる。

雨 八木重吉

雨の音がきこえる
雨が降っていたのだ
あのおとのようにそっと世のためにはたらいていよう
雨があがるようにしずかに死んでいこう

・降る雨のすがたとその静かな音に耳をすませるとき、それは人のあり方を指し示すものとして感じられる。生き方、そして死に向うときの願いをも表していると感じている。
このように、主によって目覚めている魂にとっては、水の音も、雨の音も、そして吹く風の音もみな深い主のみわざのあらわれであり、メッセージなのである。



リストボタン報告とお知らせ

○米津ツル子姉、召される。
11月21日 米津ツル子姉が召されました。22日前夜式、23日(水)の休日に葬儀が、いずれもキリスト教式(司式 吉村孝雄)によって行われました。米津さんは、徳島聖書キリスト集会の最も古くからの信徒でした。今から40数年前、徳島市から17キロほど北の鳴門市にも、かつて結核で療養していた方々が何人かおられることを知らされ、定期的に、月に一度程度訪問することになりました。そのときに、家を訪ねて出会ったのが最初ですが、もうかなりの年月を集会などにはまったく参加しておらず、信仰もあまり関心がないような状況でした。その後は、そうしたゆるやかな交わりが続きましたが、信仰的にはなかなか前進しなかったのです。しかし、それから10年以上を経て、無教会の四国合同集会が、眉山の山頂の建物を会場として開催されたとき、米津さんはそれまで徳島の日曜日の集会にもほとんど参加していなかったのに、突然参加され、それ以来、信仰がよみがえり、熱心に鳴門からバスに乗って集会に参加されるようになりました。
私の父も初めて無教会のこうしたキリスト教集会に参加した集会だったので、記憶にはっきりと残っています。
ふだんの日曜日の礼拝集会をもとに、開催される特別集会はとくに祈りをあわせ、みんなで心をあわせて準備することもあって、主の霊がふだんとは別なかたちで働くのだと強く心に残っています。
そのようなこともあって、四国集会や全国集会、あるいは、近畿無教会集会、さらに偶数月や夏や秋に各地の無教会のキリスト教集会にて聖書講話をするときには、聖なる霊の風がとくに吹いてくださいますようにと祈り願っています。

1218日(日)主日礼拝終了後1230分から、集会場にて1年前に召された岩野 梅子さんの記念会が行われます。その後、クリスマス集会の準備、その後に読書会もあります。

1225日(日)クリスマス集会 午前10時~午後2時。会費 500円。(昼食代金)

・2012年1月1日(日)午前630分~8時 元旦礼拝
引き続いて、午前10時半~ 主日礼拝。今年は、元日が日曜日となっていますから、いつもの主日礼拝は引き続いて行われますが、早朝の毎年の元旦礼拝も従来通り行います。可能な方は、参加して、1年の早朝をともに祈りと御言葉、そして賛美をもってはじめましょう。
・1月7日(土)~9日(月)まで、吉村孝雄は、静岡県伊豆での、冬季聖書集会にて、聖書講話の予定です。「太陽は、いつも雲の上に」というテーマです。
122日(日)主日礼拝終了後、1121日に召された米津ツル子姉の納骨式が午後1時半から眉山のキリスト教霊園でなされます。
なお、つゆ草集会は、その納骨式の後になりますので、いつもより1時間ほど遅く、 2時半からの開始となります。



リストボタン編集だより

来信より
「原子力発電と平和」の本に関して
・ある方から、 これ読んでまわして、と手渡されたのが、「原子力発電と平和」でした。
ほんとうに、よくお知らせ下さり、知らないことだらけでした。
キリスト者にとっては初めであり、終わりである神のみ言葉の一つ一つは実現していくのですが、 人間の側で神などいない、として生きていくとき、(どのようなことが生じるのか、今回の原発の事故は)その結果を刈り取る時が来ているのでしょう。
何をなすべきか、毎日問われていますが、時がよくても悪くても福音を宣べ伝えよ、のみ言葉に従えない弱さを差し出すのみです。
この本をクリスマスプレゼントに入れようと思いますので、同封した金額で本代と送料にしてください。(関西の方)

・「原子力発電と平和」10冊をありがとうございます。心ある方々にお送りして読んでいただきます。
私自身、原発については無知、無関心であったことを恥ずかしく思います。 発起して原発関係の本を読んだり、テレビの関連番組を観ておりますが、視座が定まらずにおりました。このたびの冊子の副題(キリスト者の視点から)を大事に学んでまいります。(関東の方)

・「原子力発電と平和」の本を、同じ集会の方々や、キリスト者ではないけれどキリスト教や憲法9条、原発問題に深い関心を持っておられる元の職場の方などにも届けさせていただきました。
最後に収録されている「平和への道」以外は、ほとんど「いのちの水」誌で読んで学んだはずなのですが、こうして一つの書にまとめられると、新たな感銘と多くの気付き、示しを受けます。
・また「地震と神の愛」、「平和への道」とを併せて学ばせていただく中で、どんなに暗く、苦しい事態の中にも、神様の愛の御心が秘められていることを固く信じて待つことの大切さをあらためて学ばせていただきました。(関西の方)
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○「原子力発電と平和」の本。第二刷を出したあとも、申込が続いていますので価格、送料などを書いておきます。
10冊セットで購入される方が多いですが、ある方は20冊注文し、さらにまたしばらくして20冊、その後さらに40冊を申込されてきた方もおられます。原子力のことだけでなく、キリスト教の真理にも言及しているので、原発問題と福音伝道の双方の点から用いてくださる方が多くいます。
価格は、1冊500円。 送料は100円。3~5冊までの送料は300円。10冊セットで購入の場合は、価格は、3000円、送料は500円とします。

1211日(日)の午後からの大阪府高槻聖書キリスト集会での、主日礼拝では、兵庫県三田市の河野正道さん(関西学院大学経済学部教授)が、関西学院大学に半年ほど講義に来られているスイスのリーネマン夫妻たちを同行して参加されました
夫君のウォルフガングさんはベルン大学で倫理学を、奥さんのクリスティーネさんも、バーゼル大学でエキュメニカルな宣教に関することに関することを教えておられるとのことで、その専門の関係から、無教会のことにも関心があるいうことで参加されたのでした。
礼拝集会のあとの懇談で、クリスティーネさんが話されるには、ご夫妻とも、原子力発電は明確に廃止すべきだという考えを推進しているとのことでした。原発問題など話しはじめたら、すぐにクリスティーネさんが、私に「あなたは原発を廃止すべきと考えていますか、それとも継続すべきという考えですか」と単刀直入に言われました。私はずっと以前から原発の問題には廃止すべきだと考えている旨を伝えました。すると、彼女は、日本ではキリスト者が原発に反対するということを、公のテレビ、新聞などのマスコミでその意見を述べていますか…などの問いかけがありました。残念なことに日本ではキリスト者はわずか1%ほどで、テレビや一般の新聞ではキリスト者の原発に関する意見などはまったく取り上げられてはいない現状を話すと、残念そうでした。
なお、この方々とともに、関西学院大学神学部の準教授の岩野祐介さんという内村鑑三や無教会に関心をもっておられる方も同行されました。

○聖書講話CD
引き続いて、吉村孝雄の聖書講話CDも、申込があります。
ヨハネ福音書CD5巻、詩篇CD12巻、創世記CD3巻、ルカ福音書CDなどが発売中です。
MP3対応の機器、またはパソコンによってきくことができます。それぞれ、2000円~3500円ほどの価格です。
MP3対応 ビクター製のCDラジカセも在庫あります。1台価格は8000円です。
このヨハネ福音書や詩篇を、個人の家庭礼拝や、集会でも用いておられる方々もいます。また、福音ラジオのように聞いておられるという方もいます。

○クリスマスには、主が一人一人のところに来られ、その心の内に新たに生まれてくださいますよう、また、来るべき新しい年には、主が新たに聖霊を注ぎ、み言葉を賜ってくださいますようにと祈ります。