イエスが来て真ん中に立ち、 |
2011年7月 605号 内容・もくじ
不安にうち勝つ力
福島原発による放射能のため、200キロほども離れた千葉県柏市などで高い放射能レベルを観測した。住民の不安は高まり、とくに幼児がいる家庭では、食事、遊びなどに日々心を配らねばならないようになっている。
こうした不安は、政府とか学者の一部がいくら安全だと言っても信頼できないゆえに、消えることがない。
不安―平安でいられないということのなかにある方々は今後も増大し続けるであろう。放射能は消すことができないし、自然ゆたかな山野にかえって放射能が高い。家でいるとき、道路を通学などで歩くとき、戸外での活動、何をとってもこの不安がつきまとう。
そして遠くに避難しても不安は消えない。こんどは、避難した親族や地域との関わり、あるいは避難先での費用がかさむこと、仕事などでの新たな悩み…等々、どこまでいっても心からの安心を持つことが難しい。
そうした不安になるのが当然の状況にあっても、なお安心を与えるものは、政府発表や科学者のコメント、あるいは測定器の精度といったものでもない。
真の平安―不安克服の道は、そうした人間からでなく、神から来る。
きびしい迫害を受けている時代にあって、キリスト者たちは、つぎの主イエスの言葉によって支えられていた。
…あなた方はこの世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は世に勝利しているのだから。(ヨハネ16の33)
この主イエスの言葉は、「この世で生きるかぎり、決して苦難そのものをなくすることができない。しかし、そうした苦難にうち勝つ力が与えられる」ということなのである。主イエスがいっさいの悪しき力に勝利されているのなら、そのイエスに結びつく者もまた、この世にうち勝つ力を与えられるということである。言い換えると、不安にうち勝つ力が与えられる。
さまざまの困難に直面し、人生の岐路に立っている方々も多数おられる。
そうしていかにすべきか判断に迷い、苦しんでいる方もおられるだろう。
そうしたすべての方々が、たとえ現状を変えられなくとも、自分の魂の世界に、そうした現状に負けないでうち勝つ道を知ることがとても重要なことになる。
そのような力を与えられてはじめて、直面する困難に冷静に、しかも希望をもって対することができる。
このことは、原発や災害の苦しみに遭っていない人たちの苦しみにある人たちにもあてはまる。
今、どのように平和な生活を送っている人であっても必ず襲ってくる不安、それは老年になり、死が近づいてくるときの不安である。そして死そのものは決して変えることはできない。
けれども、こうした死への不安、それ以前の病気やその他の問題への不安にうち勝つ道もまた主イエスによって与えられる。
「私の平安をあなた方に残していく」(ヨハネ14の27)
この言葉は真実であり、生きて働く主ご自身から私たちは平和を与えられることを信じ、また祈り願いつつ歩みたい。
エネルギーの源
原子力発電は、莫大なエネルギーの源だという宣伝によって多くの人たちはそれがよいものだと信じ込まされていった。原爆で何十万という人たちが死んだ国は世界では日本だけだ。
そのような恐るべきものだが絶大なエネルギーを平和的に使えるのだ、とくにいっさいの産業や日常生活、電車など交通機関などにも不可欠な電気エネルギーになるのだという宣伝、さらには温暖化の原因である二酸化炭素を出さないクリーンエネルギーだ、しかも絶対事故は起こらないという偽りの宣伝で広く深く日本人には、原発はよいものだという考え方が浸透していった。
たしかに、相当のエネルギーを生み出した。しかし、それは数知れない素朴な田舎の人たちの心を金の力によって分断していくという多大の悪をも同時に生み出していった。
本来、きわめて危険なものであるゆえに、原子力に関することは厚いベールで覆っていこうとする傾向がつきまとっている。
その原子力のエネルギーは、原爆というかたちで莫大な人たちの命を奪い、またソ連ではチェルノブイリ原発事故以前にも、大規模な原子力災害が起きている。これも長い間秘密にされていた。
1957年ウラル核惨事として知られている。放射性物質である廃棄物を大量貯蔵していたものが冷却不能となり、大爆発をおこしたものである。
そして、地元の人たちは、深刻な放射能被害を受けている。自分たちのながく住んでいた村や町を追われ、家族にも亀裂が入り、人生そのものが変わってしまった人も数知れない。
さらに、チェルノブイリ事故以来、25年を経ても、大人の甲状腺ガンが増え続けている。
このように、原子力のエネルギーは、人間の心の平安を壊し、体の健康をむしばみ、村や町をも壊し、また付近の河川の清流をも破壊して死の川となしていった。
原発のエネルギーが及ぶところ、次々とこのように破壊が生じていった。
これに対して、神とキリストのエネルギー、言い換えると聖なる霊のエネルギーというのは、一つ一つが原子力のエネルギーとは逆である。
聖なる霊のエネルギーは、無数の人たちを結びつけてきた。聖なる霊こそは、敵対する人、悪をなした人に対しても恨まず、敵対しないで祈りをもってするという、天からのエネルギーを受けてきたからである。このような敵をも愛し、そのために祈る力、相手の重い罪をすら赦すことのできるエネルギー、それはいかなる人間も持っていない。
水は上から下に流れる。 下から上に流そうと思えば、エネルギーを使って押し上げる必要がある。
同様に、自分を侮辱、中傷したり、大切なもの(お金、財産、家族の命等々)を奪ったり、自分の身近な人を離反させたような人に対しては、そのような人を嫌い、あるいは見下すとか、憎むのが自然の成り行きである。会いたくもないし、思いだしたくもない、という激しい嫌悪感すら生じるだろう。
それゆえ、そのような悪しき相手がよくなるように、と心から願い、祈るというようなことは、到底人間にはできない。
そのようなことは、水を下から上に引き上げるような、強力なエネルギーを要するからである。
おびただしい水を高い山の上まで持ち上げて下に流すというのは、ただ太陽という途方もない巨大なエネルギーの塊の力があってはじめてなされる。
同様に、私たちが敵対してくる人たちのために心からの愛をもって祈る、ということは、霊的な太陽といえる神のエネルギーをいただかなければ到底できないことである。
そして、主イエスは、そのことが可能だと言われた。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」この言葉は、いかなる力を神が人間に与えることができるか、ということを意味しているのである。
「すべて」が良きに」
この世ではすべてが良きになる、などということは到底考えられない。そんなことは考えたこともない、という人が圧倒的に多いだろう。
しかし、聖書においては、この一般的には、非常識なようなことが、しばしば記されている。
それは、すでに聖書の一番最初の創世記から見られる。
兄弟たちに殺されそうになり、遠いエジプトに売られてしまったヨセフについてかなり詳しく記されている。そのような悲運に遭っても絶望することなく生きていたが、その過程においても無実の罪で牢獄に入れられたりいろいろと苦難が襲ってきた。
もうそのまま暗い牢獄で病気になり、衰えて死んでしまうかもしれないと思ったかもしれないが、そのような状況に神が働いて下さり、神の与えた能力を使って、王のふしぎな夢の意味を解きあかし、それによってエジプトは厳しい飢饉を逃れることができた。
さまざまのことが生じて、自分をかつて憎んだ兄弟たちが食料の購入のためにエジプトまでやってくるという機会を通して、ヨセフはかつての兄弟たちだと分かり、兄弟たちも自分たちが殺そうとした弟だと分かって非常に驚いた。
そのような状況にあったが、ヨセフは、彼らをゆるし「あなた方は、わたしに悪をたくらんだが、神はそれを良きことに変えて、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださった。」(創世記50の20)
このように、創世記という重要な書物の最後に、神が悪の力を変えて、善となすことが記されている。
聖なる霊を最も豊かに受けた使徒パウロは、その最も重要な書物において、次のように言っている。
「神を愛する者たち、その御計画に従って召された者たちには、すべての事が益となるように共に働くということを私たちは知っている」(ローマの信徒への手紙8の28)
神を信じ、愛するというだけで、病気や事故、人間関係の壊れること、仕事がうまくいかないこと等々あらゆる悪しきことがふりかかってきてもなお、それらが共に働いて益となっていく、このようなことが事実ならば、いっさいのこの世の問題の解決がなされるということになる。
さらに、これに続く箇所において、つぎのような「すべて」ということばが出てくる。
…私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方(神)は、御子と一緒にすべてのものを私たちに下さらないはずがありましょうか。…(同32節)
神はキリストを人類すべてのために十字架にかけてまで、罪を担わせて赦しを人間に与えようとされた。そして、「すべてのもの」を私たちにくださるという。
このようなことは、何を意味しているのだろうか。大多数の日本人はこのような箇所を目にしてもほとんど素通りしてしまうのではないか。すべてのものが与えられるなど、考えられないと思われるからである。ただキリストを信じるだけで、すべてのもの、例えば健康や家族、お金、家、社会的地位、仕事上の成功…等々が与えられるなど、到底信じがたいからである。
しかし、これは聖書独特の表現なのである。本当に必要なもの、一番大切なものすべて、ということである。お金や健康、家…というのは、人間が本当に必要なもの、一番大切なものとは言い難い。それがあっても、人間の本当の魂の平和や喜びは与えられないからである。
一番大切なもの、それは信仰と希望と愛、あるいは、神からくる喜び、平安、力、真実…等々である。そうしたすべてが与えられるということなのである。
言い換えると、神の御手のうちにあるよきもの、神の御支配のうちにあるものであり、「神の国」ということもできる。
神の国が与えられたら、それはすべてのものが与えられたと、実感できるであろうから。
それゆえ、主イエスは、新約聖書の最初の部分に記されている山上の説教の冒頭に、
「ああ、幸いだ、心貧しき人たち! その人たちに神の国が与えられるからだ」
と言われたのである。
このような、「すべて」は、ほかにも見られる。
…いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。 (一テサロニケ5の16~18)
いつも喜べ、とは、すべての時に喜べということであり、絶えず祈れも、すべてのときに祈れ、を意味する。喜べないときにも、祈れないときにも、また感謝できないようなときにも…。
このような一般の常識では考えられないようなことがなぜ言われているのか。それは可能なのだろうか。
主がともにいるときには、可能となる。だからパウロは、繰り返し「主にあって」(*)という言葉を使っている。
主にあって、とは主の内にあること、霊である主のうちに留まっていることであり、主とともにいることにほかならない。
(*)「主にあって」あるいは、「キリストにあって」という表現は、パウロ書簡において164回も使われている。アドルフ・ダイスマンの「パウロの研究」199頁、なお著者はドイツの著名な神学者。)
主は私たちの内に入ってきて下さり、力を与え、喜びや平安を与えてくださる。また私たちは、世界に霊的に存在しておられる主のうちに生きている。
このことは、ちょうど空気と我々の関係のようである。私たちは空気を取り入れその空気に含まれる酸素によって食物を体内で燃焼させて力を得ている。他方私たちは空気のなかに生きている。
いつも喜ぶことができるためには、人間的なこと、思ったとおりになるとか、欲しいものが手に入るといったことを考えているとそのようなことはあり得ない。
…これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。(ヨハネ 15の11)
ここで言われているように、「わたしの喜び」、すなわちキリストがもっておられる喜びで私たちが満たされるとき、初めてこのようにいつも喜び、いつも感謝できるようになる。
パウロは、「古い自分は死んで、キリストが活きておられる」とも言っている。
主イエスご自身も「私のうちに留まっているならば、私もあなた方の内に留まる。そしてあなた方は豊かに実を結ぶ」と言われた。
実を結ぶ、これはすなわち、敵をすら愛し祈る心であり、困難のときにも必ず主がよきにしてくださるという希望であり、信頼の心である。また、いつも神と結びついていようとすること―絶えず祈りの状態にある心であり、よきことも悪しきこともみな良いことに変えられるという確信ゆえの感謝できる心である。
こうした「すべて」について、私たちは次の箇所も関連して思い起こす。
…愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。(Ⅰコリント13の7)
ここでいう愛とは言うまでもなく、人間の愛でなく、神の愛である。そのような愛は、神に由来するがゆえに、あらゆることをも希望をもって、神が必ず良きになされるという信仰をもって受けいれ、耐える。
あきらめでも、空想でもない。悪しきことが生じてもその背後に必ず神の大いなる御計画がある、悪の力は必ず最終的には滅ぼされる、人間のうちに宿る悪は、時至れば必ず、神によって裁かれる。世の終わりにはこの世界から悪そのものが一掃される、という確信―それこそはすべてが良きに変えられると信じるということであり、そのゆえに、すべてに耐える。
詩篇において、「主はわが牧者。私には乏しいことがない。」(詩篇23の1)と言われている。これは驚くべきことである。主が私を導いてくださるお方だと確信し、じっさいに導かれているときには、乏しいことがない、言い換えると、すべてが満たされるということだからである。
それをさらに詳しく詩的に表現したのがこれに続くことばである。
…主は私を緑の牧場に休ませ、憩いのみぎわに導かれる。
死のかげの谷を行くときもおそれることがない。…
これはたしかに、魂が本当に必要なもの、大切なものすべてに満たされている状態を示すものである。
この詩は三千年ほども昔に作られたと考えられるが、この三千年という間、愛と真実の神に導かれることこそ、究極的な幸いであるという真理は変ることがなかった。
聖書の巻頭のことば、はじめは、すべてが闇と混沌だったという。しかし、そのなかに神のことばによって光が創造された。それによってすべてが変わった。
現代の私たちにおいても、まさしく闇と混沌がいたるところに満ちている。それを根本的に変革するのは、まさに神の言葉である。光あれ! との神のひと言である。
それを受けるとき、私たちはすべてに満たされるからである。
原発、その放射能ゆえに、それはすべてのよきことを破壊していく。そして今後も、何十年という間、地元福島の人たちを中心として重い荷物となり続けるであろう。
そのような闇と混沌にあるゆえいっそう、原発とは逆に、すべてを良きにしていくキリストの真理が日本人に知らされるようにと願い続ける。
主だ!
復活したキリストが現れたのは3度であったとヨハネ福音書には記されている。わざわざ3度と言っていること、この記述にはある特別な意味が込められていると言える。
最初は、マグダラのマリアに現れた。彼女は、「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア…」(ルカ 8の2)と記されている。7つの悪霊とはどういうものであっただろうか。霊とは目に見えないものであるから、本来数えることもできないのであるから、この7つの悪霊というのも、絶望的なほどに重い霊的な病気であったということを暗示している。
そのような女は、仕事も、結婚することもできず、従って当時は現代以上にとくに重要とされた子供を生むこともできなくなるため、社会的にも見捨てられた存在であっただろう。
イエスの復活という世界史での最大の出来事は、このように最も社会的に、また個人的にも暗黒の淵に置かれていた人に現れた。このことは、神の愛がどのようなところに注がれるかということを示すものである。
当時、社会的にも重んじられていた律法学者、長老、議員といった人たちには現れなかった。
二度目に復活のキリストが現れたのは、弟子たちがとらえられるのではないかと恐れて部屋に閉じこもり、内側から鍵をかけていたという不安で希望のない状態、やはり先の見えない暗い状況のときであった。
そのような時に、弟子たちはイエスの助けを求めることもできなかった。復活など信じられなかったからである。しかし、そうした不安と闇のなかにいる弟子たちの集まりのただ中に、復活のキリストは現れた。そして、平安あれ! と言われた。
これは、主イエスが最後の夕食をとるときに、「私の平安をあなた方に残していく」と約束されたことであった。
このように、二度目は、信じる人たちの集まりのなかに現れたのであり、ここにも信徒の集まりの重要性が示されている。少し後になって、聖霊が歴史上、最も豊かに注がれた(ペンテコステ)のも、やはり信徒たちが祈り、待ち望んでいたときであった。
主イエスが二人三人、私の名によって集まるところには私がいる、といわれたことを思いださせる。
逆戻りしようとすること
そして、三度目、それは働いているときであった。ペテロたち7人の弟子たちは、復活のキリストに出会ったにもかかわらず、もとの職業であった漁師の仕事へと赴こうとしていた。
イエスに従った期間はわずか3年であったが、ペテロたち漁師はおそらくもう子供のときから、親についてともに漁師をしていたであろうから、何十年もなじんできた職業だったと考えられる。
復活のキリストに出会ったにもかかわらず、その復活を告げ知らせようという強い決意や力は与えられていなかったのがわかる。
前進できずに、元の道に帰ろうとすること、それはペテロたちだけでなく、私たちはしばしばそのような状態になる。個人的にも、また組織や、国家も同様である。
例えば、太平洋戦争という日本が引き起こした戦争によって、東南アジア一帯で数千万という人々が、傷つき死んでいった。日本でも大都市の空襲や原爆によってわずか一晩、あるいは一瞬にして、10万、20万人という膨大な人たちが死んでいった。
そのような目にあった人たちの家族もまた平和な家庭を破壊され、生き残った重い怪我や障がいを負った人たちも数知れない。その人たちの苦しみは計り知れないものがあっただろう。
それほどの苦しみを受けたのちに、無条件降伏となったが、そのときには、昔の敗戦国が聖書にも記されているイスラエルのように、国そのものを滅ぼされて、消えてしまったりすることなく、日本の領土―北海道や九州などを奪われるということなく、天皇を中心とする観念を変えて民主主義とし、軍備も持たないという重大な変更をする後押しをすることになった。
一部の地主が土地を持って多くの農民が小作人として苦しんでいた状態をもアメリカの強力な指導によって、農地解放され、かつての小作人として貧しい生活を強いられていた人たちも農地を与えられ、独立した農民として歩むこともできるようになった。
そのような大きな変革の一貫としてとくに憲法9条も生まれた。憲法の前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」とある。
しかし、そのような理想に向かう方向は、まもなく、後退し始めて軍事力による防衛という考えかたが入り込み、徐々にその力を増大させていった。
このように、この世には、つねに個人的なことでも社会的なことでも、後退させようとする力が働いている。
聖書においてもそのことは、創世記から記されている。
例えば、創世記においてノアの箱船で知られているノアは、当時の人たちがその罪ゆえに滅ぼされていったなかで、わずかに残されたほどの神に忠実な人であった。そして神の命令にしたがって、乾燥地帯であったにもかかわらず、巨大な船を造った。その後、大雨が降り続き、1年ほども、箱船での生活を終えて外に出たとき、まず行ったのは、祈りであった。
このようなノアであったが、生活が安定してぶどう酒を飲んで裸で寝てしまい、醜態をさらすということも聖書に記されている。
また、キリスト教だけでなく、ユダヤ教、イスラム教にとっても最重要人物の一人といえるアブラハムは、神からの語りかけに従い、生まれ故郷を捨てて、神の示す地へと旅立った。住み慣れた場所、友人親族も多くいて安定した生活ができるところをあえて離れて、まったく未知の遠い地域―1500キロも離れたところへと旅立った。それは大胆で勇気ある行動であった。行ったことのないところへと旅立つ、ただ神への信仰のゆえであった。途中の危険や困難もすべて神に委ねての決断である。
そして、長い旅路を守られ、導かれて目的地へと到達した。そのとき、アブラハムが行ったのは、神への祭壇を造って祈りを捧げることであった。
このような、アブラハムであったが、まもなく、その地に飢饉がおこって生きていくことが困難と判断し、エジプトにて生きようとした。エジプトに着こうとするとき、妻に言ったのが、「あなたが美しいから私の妻だというと、私が殺されるかもしれない。それで、妹と言ってほしい。そうすれば助かるだろう」ということであった。異母妹であるから全くの偽りではなかったが、ここには、未知の土地に向かってただ神だけを頼り、神の言葉にすがって歩んできた勇気はみられない。
自分を守るために、妻をエジプト王に差し出すということであるから、信仰者とは思えないような行動である。
当時は現代と異なり、数千年も昔だから、奴隷として雇っていた女であっても、正妻に子供が生まれなかったらその奴隷をも妻のようにして、子供を生ませ、その子供を自分の子供とするようなことがごく当たり前であったのが、やはり創世記の記述でうかがえる。
しかし、そういう状況であったにしても、妻の生活が全面的にそこなわれるかも知れないということをも、あえてした。ここには、信仰の人の面影はない。
このようにアブラハムのような信仰の父として旧約聖書でも最も重要な人物の一人として描かれているような人であっても、その弱点、心ならずも陥った罪をも明確に記している。
聖書の民にとって最も重要な歴史的事実は、出エジプトということであった。エジプトで奴隷状態となって滅ぼされていく状況にあったとき、神の人モーセによって驚くべき力が発揮され、民は救い出された。
長い奴隷状態からようやく解放されたにもかかわらず、人々は荒野の旅においてしばしばモーセに敵対し、あるときには殺そうとまでした。
…人々は、モーセに向かって非難した。「なぜ我々をエジプトから導き出したのか。私も子供たちも、渇きで殺すためか。」
モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、私を石で打ち殺そうとしている」…(出エジプト記 17の3~4より)
このように、人々は、エジプトで長い間奴隷状態で苦しんでいたことも忘れたかのように、せっかく解放されたのに 以前の古い奴隷状態がよかったかのように考えるようになった姿が鋭く記されている。
また、食物が十分にないときには、次のようにモーセに向かって強い不満をぶちまけた。
…「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。
あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。
あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、私たちを飢え死にさせようとしている。(出エジプト記16の3)
あるときに、神を信じて歩む道を知らされ、じっさいに人生の決定的な転機を与えられて、その道を歩み始めてもそこで終わったのではない。そこから新たな試練が始まる。 ひとたび知らされた道を、困難と直面してもなお、歩き通せるかどうかということである。
また、キリストより3000年ほども昔のダビデ王は、その生き方、命の危険に直面しつつ信仰に生きた姿は私たちの心を強く動かすものがある。あるいはそうした困難のなかで生み出された数々の詩によって讃美歌の源流ともなった重要な人物であった。
しかし、そのようにまっすぐに神に向かって歩んでいたその人が、そうした困難を通ったのちに周囲の国々を平定した。
自分のところから危険も去り、国家も安泰な状況となったそのときに取返しのつかない重い罪を犯すことになった。
しかもその罪を1年ほども気付かず、預言者に指摘されて初めてその重大さに目を覚ますというゆるんだ状態となっていた。
このように、後ろに引き戻そうとする力は、旧約聖書の最初からさまざまのところで記されている。
そのことは、新約聖書にも見られる。ユダはその典型的な例である。キリストによって呼び出され、すべてを捨てて従ったはずであった。だが、彼はお金に目がくらみ、闇の力に引き戻されて、キリストに敵対するようにまでなってしまった。
金はこのユダの例でわかるように、強い力によって人間を正しい道から引き戻そうとすることが多い。
現在の日本の最大の難問となっている福島原発の大事故、これもやはりあるべき道を金の力で強引にゆがめ、学者や地元の人々、マスコミ関係の人たち、そして一般の日本人などを次々と惑わし、その本体はきわめて危険であるにもかかわらず、絶対安全だということを巨額の宣伝費―東京電力だけみても、年に250億~300億円ともいう金を投入し、偽りを日本人全体に宣伝し続けたのであった。
それによって、静かな自然は破壊され、田舎の素朴な人間関係は親族であっても引き裂かれ、農業や漁業なども失われて、原発からの多額の金によって不要な施設、あるいは必要以上にぜいたくな施設が次々と造られ、金によってその地域やそれにかかわる人々が不正な道へと引きずり込まれていった。
人間の前進を阻み、逆戻りさせようとする力は、新約聖書でも随所に述べられている。
それは、イエスの受けた誘惑、試練ということで、その生涯の最初に出てくる。
ここでも、やはりサタンが、私に頭を下げたら、この世の栄華(金や地上の権力、名声等々)を与える、という誘惑をしかけてくるのが記されている。
それに対して、主イエスは、「退け、サタン! ―あなたの神である主を拝し、ただ神に仕えよ―と書いてある。」として、神の言葉をもってサタンの誘惑を退けられた。
神の国のために、職業も家族も、それまでの平和な生活などすべてを捨てたはずの弟子たちであったが、イエスが十字架にかけられるという重大なことをイエスから知らされてもなお、弟子たちのうちで誰が一番大きい存在であるかとか、イエスが王となったときには、自分を重要な地位において欲しいとか願う状態であった。
職業とか捨てても、内なる自分を捨てることはできなかったのである。
その内なる自分が、引き戻そうとする。
それゆえに、真に新しい生活になるということは、この自分でも気付かないほどに深く根付いている自分というものから離れることが不可欠になる。そのためにも、キリストは来てくださった。キリストと共に古い自分は死んだ。そして聖霊によって新しく生まれ変わる、ということが新約聖書において強調されている。
主だ!
このように、古い生活に逆戻りするということは、聖書そのものに多く記されている。ペテロたちもまたそのような力によってもとの漁師としての生活へと戻ろうとしたのがうかがえる。
ペテロたち漁師は一晩漁をした。それでも何もとれなかった。疲れ果てて岸辺に帰って来たとき、陸地に人が見えた。それは復活したイエスであった。しかし、弟子たちは誰だかはわからなかった。その人が、「魚はとれたか。(食べるための魚はあるか)」(*)と尋ねた。
(*)新共同訳は「食べる物」と訳しているが、 原語の プロスファギオン pros-phagion (phagionは、食べるという意味の語)「魚」とも訳される言葉であり、この箇所の場合は、漁をしてきた漁師に尋ねた言葉であるから、単なる食べ物でなく、魚と訳するのが前後の文脈からよりスムーズに理解できる。 英語訳の代表的なものもそのように訳している。haven't you any fish?(NIV) あるいは、「何か(魚が)とれたか」 Haven't you caught anything? (NJB)
弟子たちは、ない、と答えた。するとその人は、もう一度網を打ってみよ、とれるはずだ、と言われた。するとたちまちたくさんの魚がとれた。
一人の弟子が、「主だ!」と言った。すると、ペテロは 「主だ」という一人の弟子のひと言でただちに、それがキリストだとわかった。ペテロ自身がまず気付いたのではなかった。別の弟子がさきにイエスであることを示されたのである。その弟子の受けた啓示をペテロもただちに受け取って霊の目が開かれたのであった。
私たちの霊的な目が開かれるためには、多くのことは必要でない。このように、ほんのひと言でも十分なのである。それに神の力、聖なる霊の力が働くときには、目が開かれる。
そして、もう岸辺までわずか90メートルほどであったにもかかわらず、ペテロはただちに湖に飛び込んでイエスのもとに向かった。
岸はすぐ近くであるし、船は岸に間近に近づきつつあった。飛び込まなくとも、すぐに岸に着く。それでも、ペテロは飛び込んだ。
日常の生活のなかで、ここに主が働いておられる…とはっきりと実感したとき、あるいは、二つの道があっていずれを選んだらいいか分からないようなとき、祈りのなかで、はっきりとこちらを取れと言われていると感じたとき、言い換えると、この道を選ぶように導かれるのは、主だ! とはっきりわかったときには、ほかのことをいっさい考えないで、まっすぐに主に向かっていく、というその決断の重要性がここでは示されている。
ここに、人間を転換させるものは何か、その力はどこから来るのかがはっきりと示されている。逆戻りしようとする、あるいは古い生活に戻ってしまった人間に決定的な力を与えるものは、人間的な決意や周囲の人間の言葉でない。それは、生きたキリストの言葉なのである。
使徒パウロも、ユダヤ教の指導者として、キリスト教徒を迫害して殺すことまで加担していたし、国外までその迫害の手を伸ばしていた。そのようなかたくなな人間を根本的に変えたのは、だれかの説得でも自分の判断でもなかった。それは、このときのペテロが、別の弟子のひと言で目が開かれたように、復活のイエスそのものである光と、主のひと言で目が開かれたのである。
ひとたび目が開かれたとき、ただちにペテロはイエスに向かって飛び込んだ。
神の風が吹きつけたとき、人は周囲の状況にかかわらず、イエスに向かっていわば飛び込むようにまっすぐと進みはじめる。
現代の私たちも、日常の生活や礼拝集会などにおいて、仕事や、読書、祈り、自然との交わり、また散歩や賛美 …といった中において、霊的に目を覚ましているきときには、そのただなかに、そこに主が働いておられること、「主だ!」と感じることがある。
弟子たちが夜通し漁をしたにもかかわらず、何もとれなくて疲れ果てていた。そのようなときに主が働いてくださった。
人間的な努力によっては何もよいことが生まれなかった。しかし、そこに主からの呼びかけがあり、主が近づいてくださる。そして私たちは、その貧しさや悲しみのなかに、主だ!と実感することができるようになる。
そして、そのとき初めて、主に向かって飛び込む新しい生活へと変えられていく。
そして弟子たちは、岸辺に着いて驚いた。なんとイエスが炭火をおこし、魚が上にのせられ、パンもあった。そしてイエスは、「さあ、来て食事を」とすすめた。
そして、イエスご自身が魚とパンを弟子たちに与えたという。
ここにイエスの愛が表されている。仕事に疲れ果て、何の結果も出せなくて帰って来た、そのような者に語りかけ、みずから食事を用意して弟子たちに与えたという。
こんなにまで至れり尽くせりのこと、それはイエスの弟子たちへの愛を示すものであった。
イエスに向かって飛び込むときには、イエスの愛に出会うのである。
このヨハネ福音書が書かれたのは、ローマ帝国による迫害の時代がもう三十年以上も続いてきた時代である。そこで福音を伝えようとして働いても何のよきことも生まれないということもあっただろう。よき働き人が殺されたり捕らわれてしまうということもあったと考えられる。この21章は、そのような厳しい状況のなかで疲れ果てている弟子たちへの励ましでもある。
主に向かって飛び込むことがなかなかできない場合もある。しかし、それぞれの置かれたところで、小さな一歩を踏み出すことはできる。
そうすれば、私たちは弟子たちにわざわざ炭火をおこし、魚を焼き、パンまで用意してくれる主イエスの愛に出会うのである。食事をつくりそれをくださるイエス、現代の私たちもそうした愛をもってかかわってくださるお方を必要としている。現実の生活のきびしさ、自分の罪の深さ、まわりの状況の闇や混乱…そうしたことにかかわるだけでは、疲れ果てて戻ってくることになりかねない。
しかし、そこにもおられるキリストに出逢い、キリストからの霊のパンをいただくとき、私たちの魂はフレッシュにされ、力づけられて新たな一歩を踏み出すことができる。
私の灯を輝かし、闇を照らす神―詩篇18の後半
ここでは、詩篇18篇の後半部を取り上げるが、その前に前半の部分をも少し述べておこう。
…主はわたしの岩、砦、逃れ場
わたしの神、大岩、避けどころ …
主をわたしは呼び求め
敵から救われる。
死の縄がからみつき
奈落の激流がわたしをおののかせ
陰府の縄がめぐり(詩篇18の2~6より)
わたしたちの神に対するイメージが、この詩の作者とはずいぶん違うことが2節から分かる。現代のキリスト者は神を岩としては思い浮かべることはあまりないと思われる。
日本のように、山野はいつも緑に覆われている風土と異なり、聖書の民の住んでいた地域は、緑のしげるところは少なく、砂漠のような大地が多く、露出する岩に接することが多い地域であったゆえに、この詩の作者は、不動の存在である神を岩とよんだのであろう。
神を、いかなることがあっても壊れない岩というものと結びつけて思い浮かべていたのである。
この詩の作者のおかれていた状況は、5~7節に「死」という言葉が二回も書かれているように、生きるか死ぬかという非常に追い詰められた苦しい状態にあった。そのただ中からあきらめることなく、必死に神を岩として叫んでいる。
そこから、8節以降で、祈りに答えてくださる神の力が、躍動的な表現で書かれている。
この詩の作者に襲いかかろうとする悪の力に対して、神は天から降り、すべてをあげて救いのために降ってきてくださった。非常に力強い助けを経験したから、このように劇的な表現で言っている。
ケルブというのは天使のように翼のある不思議な動物のような、超人間的な力をもった存在の象徴であり、どこへでも行くことができる神の自由自在な本質を象徴的に表している。
そして稲妻や雹など、ありとあらゆるものを制御する力を持って、悪の力に対抗してくださると言おうとしている。
このようにこの詩の前半は、いかに神が悪の力に対して、勝利する力を持っておられるかということを作者が、霊的にリアルに体験し、また啓示されたことが書かれてある。
このような神の力の大きさ―目にみえる世界においても、また目に見えない霊的な世界にいても―を、もともと人間はごくわずかしか知らない。とくに、悪にうち勝つような力がこの世に存在するのだ、といったことももともと全く知らないのである。
だからこそ聖書を読む必要がある。聖書は一貫して、神の定めた時が来たら、悪の力を滅ぼされるということを述べている書物なのである。
具体的に神の大いなる力について16節までで書かれており、神がそのような力を持って、まさに飲み込まれようとしていたわたしを助けてくださった。敵には強力な力はあったが、神のほうがはるかに大きな力によって私を顧みて下さり、広いところへ導いてくださったのだ。
この世で悪がはびこるように見えても、その背後では神が悪の力を粉砕される。そのことをわたしたちはいつも確信しておく必要がある。
…主はわたしの正しさに報いてくださる。
わたしの手の清さに応じて返してくださる。
わたしは主の裁きをすべて前に置き
主の掟を遠ざけない。
主はわたしの正しさに応じて返してくださる。
御目に対してわたしの手は清い。(詩篇18の21~25より)
これらの経験を基にして、作者は、神の御性質を記す。神は自分が真剣に信じて歩もうとしたら、その正しさにおいて報いてくださる。私たち自身が精一杯、清くあろうとすれば、神もそのようにしてくださるということである。
神はどういう本質であるか、それは、わたしたちの姿勢で非常に大きく変わって見えてくる。
この世においては、正しく歩んだからといって職場や周囲の社会がそれを認めてふさわしい待遇をするなどというようなことはなかなか見られない。
現在大きな問題となっている原子力発電のことにしても、それがいかに危険であるか、何十万年でも管理の必要がある放射性廃棄物の処理の方法がない、大事故のときには広大な領域に人たちが住めなくなり、生活も仕事も農地などもすべて失われていくこと、などなどをはっきりと述べるなら、企業や大学、その他の研究所からも相手にされない。
京大の原子炉実験所において原発に対してもはっきりとその危険性、問題点を指摘する研究者が少数残ってきた。しかし、彼らは何十年も助手(現在は助教という呼称)のままの地位に据え置かれた。京都大学は歴史的に自由な精神が流れてきたゆえに、彼らが、外部の原発訴訟に加わって、政治的、社会的な運動にも加わったりしても、なお大学の研究者という地位は奪われることはなかったのである。
正しい道を最も明確に歩んだのは主イエスであった。イエスは、周囲が認めるどころかこの世から葬り去ろうとする勢力によって最終的に処刑されてしまった。
このように、正しい生き方にこの世で報いられる、ということはこの世では基本的には保証されるとはかぎらない。それどころか逆に憎まれ、捨てられることもしばしばある。
しかし、神こそはそのような濁ったこの世において、唯一本当に頼ることのできるお方であり、私たちが正しく歩むときには、必ずよき報いをくださる、という真理をこの作者は体得していた。
よい報い、それはじっさいに当時としては、羊や山羊、牛といった財産をふやしてくれることもある。しかしそれ以上に、詩篇23篇で記されているように、乏しいことがない、神の目に見えない賜物によって満たされる、ということなのである。
しかし、問う人がいるだろう。私たちは本当に「正しい道」を歩けるのか? と。
歩けない、だからこそ、キリストが来てくださって、私たちのそうした弱さ、醜さを担って死んでくださった。ただそれだけを信じるだけで「正しい道」を歩んでいる者とみなしてくださるというのである。
それゆえ、幼な子のような心をもってキリストの十字架を仰ぐと、だれでもが正しい道にあるとみなされ、この詩篇で言われているように、その正しさに報いてくださる。その報いとは、聖なる霊をくださり、神の国をくださるということである。
一般の人はもちろん、キリスト者であっても、旧約聖書にある不可解な表現や古い時代の出来事や人名、国名などがよく出てくるので、これはもう古い時代のことで、我々とは関係がないものだと考えてその背後にある深い流れ、キリストに通じている霊的な真理に気付かないで読み過ごしてしまうことがよくある。
この詩においても、ひとつひとつの言葉の奥にある真理に耳を傾けるとき、新約聖書の時代に流れているものと同じものがあるのを感じ取ることができる。
私たちの神に向き合う姿勢に必ず答えてくださるのが、詩篇の作者が実感していた神であった。そのことを、さらに表現を変えて述べているのが次の言葉である。
… あなたの慈しみに生きる人に
あなたは慈しみを示し(*)
全き者には、全くあられ、
清い人には清くふるまい
心の曲がった者には背を向けられる。
あなたは貧しい民を救い上げ
高ぶる目を引き下ろされる。(26~28節より)
(*)「慈しみに生きる人」 原語のヘブル語では、ハーシード。ヘセド(慈しみ)という言葉と語源的に同じなので、新共同訳では「慈しみに生きる人」と訳している。
しかし、この言葉は、忠実な、真実な、という意味を持っているので、英訳では、To the faithful you show yourself faithful(NIV)、あるいは With the loyal you show yourself loyal(NRS)のように、「(神に)真実、あるいは忠実な者には、神はご自身が真実であることを示す」などと訳しているのが多い。
また、「全き者」の原語は、ターミームで、「欠点のない、完全な、献身的な」、英語では、perfect、blameless、 wholehearted などと訳される。 口語訳では「欠けたところのない」、関根訳や新改訳は、「全き」と訳している。 新共同訳ではこの語を「無垢な」と訳されているが、この訳語は、現代の人々にとってはほとんど使われない言葉である上、「(神が)無垢に(ふるまう)」というような表現は一般にはまず使われない表現である。
ここで作者が自分の受けた霊的経験を語っている。この箇所はしばしば取り上げられるが、実はこれらは21節からつながっている。全き人には全き神に見えてくる。私たちは全き人、完全な人などにはなり得ないが、英語訳にあるように、神に対して真実であろうとするときには、神ご自身もその真実な姿を表してくださるということである。
さらに、清い人には清い神としてうつってくる。心の曲がった人には、曲がったものとして見えてくる。
このようにわたしたちのほうでの心の姿勢が悪いなら、神も悪いもの、曲がったものとして見えてくると言われている。
これは、人間や、周囲の自然に対しても言えることである。私たちが、誰かとかかわるとき、その人から何らかの利益を得ようという曲がった考えを持って接するとき、相手の人が、自分の思うままにならない曲がった人のように見えてくるだろう。
周囲の自然について私たちが幼な子のような心で愛をもって見つめるなら、毎日見る空や雲、青い空なども私たちへの愛をもって語りかけてくるように感じる。
神はたしかに私たちの考えとか気持ちとか関係のないところから働きかける。
私自身、キリスト教にまったく関心のないところに、神のほうから働きかけてくださった。しかし、ひとたび神がそのように近づいてくださったあとは、私たちのほうから常に神に向かおう、神を仰ぎ臨む、主に結びついていよう、とすることが重要となってくる。
主イエスも、求めよ、そうすれば与えられる。門をたたけ、そうすれば開かれる、と人間の側からのはたらきかけの重要性を言われた。
さらに、最後の夕食のときの長い教えの際にも、主イエスも、「私につながっていなさい。そうすれば私もあなた方につながっている」(ヨハネ15の4)と言われた。
このように、私たちがどのように神を見つめるか、神のことを信頼するか、愛するか、といったことによって、神はその本質を表してくださる。まっすぐ神を見れば、神もまっすぐ見てくださる。私たちが神を愛しようとするとき、神も私たちを愛してくださっているのが分かってくる。
主イエスも、まず神の国と神の義を求めよと言われたし、一番大切なことは、神を愛すること、それと隣人を愛することだと言われた。まず神の国を求め、神を愛しようとするときには、必ず神が答えてくださる。その神の国を与えてくださるし、神が私たちを愛してくださっているというのが実感できるようになる。
だから神はいない、神など信じても何もならないと思っている人には、神はその本当の姿を示してくださらない。歪んだ神しか見えないのだ。
これは人間同士でもある程度同じことが言える。わたしたちの心がねたみや憎しみなどの感情があれば、誰を見てもそうなる。
だから、神は真実なお方だと信じようとしない者には、運命が自分を迫害しているんだとか、万事が悪く見えてくる。
このようにわたしたちの心のあり方で、周囲のものの見え方がずいぶん違ってくる。だから主イエスが言われたように、幼子のような心でなければ、神の国に入れない。
この幼子のような心というのは、まっすぐに見よということで、まっすぐというのは、清いということでもある。幼子のような心とは、努力などでは持つことができないのであって、ヨハネによる福音書では新しく生まれ変わらなければ、神の国は見えないと言われている。
また人間だけでなく、自然に対しても言えることで、わたしたちの心が澄んでいれば、自然もいっそうわたしたちに入ってくるが、汚れた心であれば、いくらきれいな花が咲いていても、星が輝いていても何にも入ってこない。このように26節からは、わたしたちの心のあり方と神が関わっているんだと言おうとしているわけである。
このように、人間や社会、あるいは歴史、それから自然を見るときにも、私たちの魂の状態がまず根本的に重要だということになる。このことを、主イエスは次のように言われた。
…目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。(マタイ6の22)
外からの(神からの)光を受けるために、目が霊的に澄んでいるなら、神からの光は十分に入ってくる。しかし、濁った目をしているなら、神の光は入ってこない。人間はもともと光を持っていないから、澄んだ目を通して入ってくる神の光がなかったら、人間の魂は闇となる。
そして、ここで言われている「澄んだ」目(*)とは、原語のギリシャ語では、「単純な」目である。
(*)澄んだ、と訳されている原語(ギリシャ語)は、ハプルース haplous。この語は英語の simple と語源的には共通である。ha-が強調されると、si-のように、 s に代わることがある。例、 halas(塩)→salt。
単純な目とは、神だけにまっすぐ向かう目である。ほかの利益や他人の思い、自分の欲などを見る複雑な目でなく、幼な子がまっすぐに母親を信頼して見るような目である。主イエスも、幼な子のような心の重要性を言われたのも同じである。
…主よ、あなたはわたしの灯を輝かし
神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。
わたしはあなたによって敵軍を打ち破り、わが神によって城壁をとび越えることができる。
神の道は完全
主の仰せは火で練り清められている。
すべて御もとに身を寄せる人に主は盾となってくださる。(29~31節)
人間の魂には小さくとも灯(ともしび)のように燃えているものがある。何かをどこまでもやり抜こうとする気持ちや、何か良いことを思っているというのは、大なり小なり子どものときから、何か良きものが燃えているということが誰にでもある。
だから人のために良いことをしたら、なんとなく嬉しいとか、悪いことをしたりうそをついたら何か心が穏やかでないとか、誰でも本来感じる。小さい灯のようなものは誰の心の中にもあるが、それは多くの場合成長するとともに消えていく。
しかし、神を信じ、神からの力を受けるときには、その小さい灯を燃やし続けてくださる。いよいよそれが明らかになるようにもしてくださる。この内なる灯がいつも燃えているか、それとは別の火が燃えているかが大事である。神によって燃やされる火、人間の心には神が灯を輝かせてくださるのだが、それが消えてしまうと今度は良くないものが燃え出すことがある。
そのような火によって、まちがったことに情熱を注ぐようになったり、してはいけないことに関わったりするようになる。
良きともし火、それは自分が考えたり努力したり、その火を作ろうとするのでなく、神が与えてくださる。だからこそわたしたちは神の光を待ち望むのである。
神によって私たちの内なる光を強めていただくとき、周囲にある敵軍(現在の私たちにとっては、目に見えない悪の力)を打ち破ることができる。主イエスは、「私はこの世に勝利している」と言われたが、その勝利を私たちも受けることができる。
神の道こそが完全であって、「主の仰せ」というのは神の言葉のことであって、それは火で練り清められているとある。人間の言葉は良くないものが混じっていて、真実というのはなかなかありえないが、神の言葉は清められて、あらゆる不純物を含んでいないということを金属の精錬にたとえて言っている。
…主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。
わたしの足を鹿のように速くし、高い所に立たせ…
あなたは救いの盾をわたしに授け/右の御手で支えてくださる。
あなたは、自ら降り/わたしを強い者としてくださる
そして再び最初にあったように神こそは岩だ、力と言っている。そして具体的に足を鹿のように速くして高いところに立たせてくれるとある。戦いとは悪との戦いであり、そのときに力をくださる。
…主は命の神。
わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの神をあがめよ。(47)
とくに、命の神と言われているのは、この詩のはじめの部分に書かれてあった「死の縄がからみつき、陰府の縄がめぐり、死の網がしかけられている」(5~6節)と関連している。まさに死ぬと思われるほどの苦難に直面していた人に、命を与えてくださったと言っている。
岩なる神、この詩の終わりの部分にも、ふたたび神がわが岩であるという表現がある。初めから最後まで、何度もこの言葉が出てくる。
いかなる困難にあっても命を与える神であるゆえに、詩の最後に、そういう岩なる神をたたえよ、国々の中で感謝をささげ賛美をしますとある。
このように18編全体は、この人自身が非常に苦しいところに追い詰められたところから必死で叫ぶことにより、神の力をまざまざと啓示され、しかも体験したということである。このわたしたちすべての人に当てはまる霊的な経験を、このようにしてはっきりと示され、それを詩という形でみんなが共有できるようにしたという構成になっている。
いつの時代でも、わたしたちにも何らかの悪によって、しばしば苦しめられたり攻撃されたり、つぶされそうになったりする。
そんなときにこの詩人のようにわが力、わが岩なる神と叫び求めることで、例え死の縄がからみついてもそこから救い出してくださる。そういう経験をわたしたちも与えられるのだということをこの詩から知ることができる。
詩篇が分かりにくいというひとつの理由は、私たちがそこまで追いつめられていないからである。死の縄がからみつき…と、本当に死にそうだというくらい苦しいときに立って初めて、この詩の世界がようやく少し実感できてくるのであろう。
そういう意味で詩篇というのは、深い祈りと体験の書物だということが分かる。
苦しみによって魂が耕されていくほどに詩篇の内容が実感されてくる。
詩篇が書かれたのは、二五〇〇年から、三千年ほども前になるが、そうした長い時間を超えて、現代の私たちの心に響いてくるものがあり、深い共感と力を与えられる。
ふたつの太陽
福島原発の大事故以来、自然エネルギーの重要性がますます浮かびあがっている。その中で、最も世界的に今後とも重要なのが、太陽エネルギーだといえよう。
風力は、風の弱い、あるいはほとんど吹かないような地方では使えない。水力発電は、山がない平坦な国や雨量の少ないパレスチナのようなところでは難しい。地熱発電は火山や温泉のない地域では可能性が少ない。波の力を用いる発電は海がない国ではできない。
しかし、太陽のあたらない国はない。
太陽エネルギーの利用というと、太陽電池のように直接に電気に変えることや、太陽熱温水器で直接に熱に変えるようなことをすぐに思い出すことが多い。
また、核反応を用いるエネルギーというと、原発とただちに連想する。
しかし、実は、はるかな遠い昔から、人間は、核反応から生じるエネルギーを用い、また太陽エネルギーを貯えたものによって生きてきた。
それは、今の生活がなされているのは、みな太陽エネルギーによるからである。太陽がなかったら、たちまち冷えて氷点下の世界となる。(月の世界では大気がないから、太陽のあたらない裏側ではマイナス170度という凍りつく世界である。)
その太陽は、核融合(原子力発電は核分裂)という反応によって生じる莫大なエネルギーを放出しているのであって、それゆえに、人間も地上の生物たちもみな太陽の核反応のエネルギーによって生きているということになる。
それだけではない。私たちが日々食べている食物、米や野菜、肉、魚といったあらゆる食物は実は、太陽エネルギーが貯えられたものなのである。
今後、太陽エネルギーの利用が急激に増えていくにつれ、その他の分野も含め、ますます蓄電池の重要性が増大する。
だが、食物こそは太陽エネルギーが、実に効果的に貯えられたものなのである。
光合成ということはきわめて重要な化学反応であり、学校の理科教育で必ず教えられる。光のエネルギーを用いて、大気の二酸化炭素と地中から取り入れた水を結びつけてブドウ糖とする化学反応である。そのブドウ糖を数十万個も結びつけたものがデンプンである。また、そのブドウ糖をもとにして、地中から取り入れたさまざまのミネラルなどをも使い、タンパク質や、脂質などさまざまのからだを構成する物質を作っている。
私たちが米やパン、あるいは肉や脂肪などを食べると元気がでるのは、それらに埋め込まれている太陽エネルギーを用いているからである。
食事をしているとき、太陽エネルギーをからだに取り込んでいるのだ、体を動かしているとき、じっとしているときでも、心臓や肺、血液の流れなど多くのエネルギーを使っているが、それらはすべてもとをただせば、食物からきており、その食物に含まれるエネルギーは太陽エネルギーなのである。
このように、毎日の生活は、じつはあらゆる人間―ほかの生物も含め―太陽のエネルギーによって生きているということになる。
自然エネルギーの利用ということで、従来の大きなダムによる水力発電とは別に山の小さな川に水車を取り付けて発電する小規模な水力発電などもが注目されている。
こうした水力発電もじつは、太陽エネルギーを用いていることになる。なぜかというと、谷川の水が落下するエネルギーを使うのが水力発電である。その水を、何が高いところまで引き上げたかというと、それは太陽エネルギーだからである。
太陽の熱によって地上の水が蒸発し、大空まで引き上げられる。それが冷やされて雨となって降ったのが谷川の水だからである。
このように、原発の大事故によって一段と脚光を浴びるようになったが、太陽エネルギーそのものは、人間の生活と不可分に結びついてきたのである。
こうした科学的な意味での太陽の重要性は、その光がなくなったらたちまち生活できないということは子供でもわかるほどの明白なことであり、その存在はきわめて大きいのは、古代からすでに熟知されていた。それゆえ、世界のたいていの国々で、太陽を神のようにあがめるということが行われてきた。日本も天照大神というのは、太陽を神としたものである。
しかし、聖書ではそれほどに重要な太陽すら、さらに重要なもののしもべのようなものとなっている。
それは聖書の最初の創世記にすでに記されている。
…はじめに神は天と地とを創造された
地は混沌であり、やみが淵のおもてにあり、神の風が水面を吹きつのっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。
神はまた言われた、「天に光があって昼と夜とを分け、地を照らす光となれ」。そのようになった。(創世記1の1~15より)
ここで意外なのは、まず闇と混沌なただなかに、「光そのもの」が創造され、ついで植物がその光によって育つように創造された。そして太陽の創造は、その後なのである。このように、聖書においては、明確に太陽は、神秘的な神々などでなく、植物のような被造物の一つにすぎないとされている。
ここには、目に見える太陽そのものがいかに絶大なはたらきをしているとしても、それにもかかわらず、その大いなる太陽にその光や熱を与える存在こそ、根源なのだ、という明確な認識がある。
言い換えれば、肉眼では見えない霊的な光こそが重要であり、その光を創造した神こそが究極的な存在だということを示している。
太陽は目に見える世界を照らし、熱を与え、あらゆる植物や生物のいのちを支え、成長させている。
それと同様に、目に見えない光、霊的な太陽というべきものがあるのをこの聖書の最初の記述は暗示しているのである。
聖書の重要な内容のなかに、預言書がある。それらの言葉を神から直接に受け取ったのが預言者である。時代の大多数の人たちが混乱し、なにが本当に重要なのかわからなくなって、隣国エジプトという大国の軍事力に頼ったり、近辺の国と同盟したり、真の神ではない、人間の造り上げた神々に頼ったりという混沌と闇にあって、神の光と言葉をはっきりと受け取り、人々に命がけで語り続けた人たちである。
彼らは、通常の人間よりはるかに深く、明確に神の言葉を聞き取った。それゆえに、だれもが不動のもの、永遠のものと思い、周囲の国々もまた神々と思っていた太陽すらも、変質し、限界があることを知らされていた。
目に見える世界の絶大な力の根源である太陽、そのようなはたらきを目に見えない世界に持っている存在こそは、霊的な太陽である神なのだ、ということを預言者は神から示されていた。
…昼は、もはや太陽があなたの光とならず、夜も月が輝いてあなたを照さず、
主はとこしえにあなたの光となり、あなたの神はあなたの栄えとなられる。
あなたの太陽は再び没せず、あなたの月はかけることがない。
主がとこしえにあなたの光となり、あなたの悲しみの日が終るからである。(イザヤ書60の19~20)
ちょうど、目に見える太陽が、あらゆるものを支え、生かし成長させていくように、霊的な太陽たる神は、私たちのいっさいを支え、成長させるものなのである。
そしてその霊的な太陽が人間のすがたをとってこの世界にきてくださるということもまた、預言書に記されている。
…しかしわが名を恐れるあなたがたには、正義の太陽がのぼり…その翼には、いやす力がある。(マラキ書 4の2)
主の名(主ご自身)を敬意をもっておそれる者には、正義の太陽たるキリストが来られる。キリストが注ぐ聖なる霊は太陽の光が四方に瞬時に届くように、翼のごとく、自由にあらゆる方面に行き渡る―それゆえにその光を翼と表現している。その光はいやしの力、罪からのいやし、病のいやしの力を持っているという。
光を翼とたとえているのは聖書のなかではこの一カ所である。それほど、この旧約聖書の最後の書の著者である預言者マラキは、キリストからの光がつばさのように世界をかけめぐるのが啓示されたのであろう。
そしてこの預言者から、450年ほど後に、じっさいにキリストが現れた。
そして、主イエスは、「私はいのちの光である」と言われたが、それはまさに霊的な太陽であることを宣言されたということができる。
私たちの体は、太陽エネルギーの貯えられた食物によって支えられ、また霊的な部分、魂といったものは、目に見えない太陽といえる神とキリストによって支えられているのである。
そして、揺れ動く地上のエネルギー政策や原発から生み出される数々の問題に巻き込まれることなく、いかなる動揺も混乱も闘争もない永遠的な存在たる太陽―神とキリストこそ、私たちの究極的な希望と力の源なのである。
買収される学者、中学3年の原発への思い
原発の危険性、その廃棄物の重大な問題点などについて、科学者はごく一部の例外を除いてほとんど触れてこなかった。
有名科学者として断然影響力のある、ノーベル賞学者はどうか。10人あまりの現在も活動している学者たちのうち、明確な原発に関する反対意見を表明しているのは、わずかに化学賞を2010年に受賞した根岸英一氏だけである。
根岸氏は、現在アメリカの大学教授であり、50年以上もアメリカでの生活をしているゆえに、こうした姿勢をとることができているのだと言えよう。
しかし、朝日、毎日など日本の新聞ではこのことは全く報道されていない。ノーベル賞学者のような権威ある科学者が、原発をやめるべきだ、などといわれると、影響力が大きいから報道が抑制されているとしか考えられない。
根岸は次のように述べている。
「…原発に頼ることを、この先はやめるべきです。…放射性物質漏れのようなことがあった場合に、私たちがしなければならない心配事が多すぎます。しかも原発がある限りそれから逃れることができない。それだけ人を悩ませる原発に頼るのはおかしい。…
今より原発をふやすことは絶対に反対します。結果的に何十年かかるかわかりませんが、原発は減らしていくべきでしょう。… 原子力を使うときの一番の問題は、大きなリスクがあるということ。いままでは、これといった産業がない町の住民が言いくるめられて、原発の建設を容認させられてきました…。電力会社は、1回、2回は説得に失敗しても、3回目には認めさせて原発を作ってきたのではないか。…
原発ではどう処理しても高レベル放射性廃棄物が残ってしまう。にもかかわらずそのまま動かし続けていることもおかしい。」
このように、はっきりと原発の問題点を指摘して、原発をやめるべきを明言している。それだけではない。以下のように、東京大学の原子力関係の学者のあり方にも厳しい批判を浴びせている。
「東大の教授は、東京電力に買収されています。そうすると公平にものを言えなくなる。だから、絶対に買収されてはいけません。私は買収されていないから、どこでも何に対しても自由に発言できるのです。」(講談社「週刊現代」5月21日号)
このように、「買収」という言葉までつかって東大の原子力研究者を批判しているのはそれだけ明白な事実をつかんでいるからである。
原発の爆発当時、NHKによく現れていた東大の教授が所属する東大大学院工学系研究科には「寄付講座」名目で約10年間に東電から計5億円の金が渡されていたことが報道されている。
年間平均で、5千万円である。さらに、5760万円が「受託研究費」の名目で日本原子力研究開発機構からも出ていたという。
大学側から本来の研究費が出るのとは別にこのような、巨額の金を受けているとなれば、その発言はまさに、根岸英一氏が言うように、「買収」されたゆえの発言である。
こうした事実がありながら、NHKはいかにも最も信頼できる学者であるかのように、頻繁に解説させていたのである。
このように、原発宣伝の道具として利用されてきた東大などの学者たちとは異なり、科学の知識も原子力の歴史などもおそらくほとんど知らないであろう中学生が、原発を公然と公衆のまえで語ったという意外な事実がある。
ニュース週刊誌「アエラ」(朝日新聞出版)の6月13日号に、中学3年生の女子(グラビアアイドルという)の原発への率直な気持ちが紹介されていた。芸能人・有名人たちが原発の危険性や問題点をはっきりと表明することはタブーとなっているから、福島原発の大事故以来、4カ月になるが、有名俳優や歌手、ピアニスト、野球やサッカー、大相撲などのプロスポーツ選手などが、原発の危険性についてはっきり表明したというのは全国紙でも読んだこともないし、耳にしたこともない。
私はその名も知らなかった山本太郎という俳優が、原発反対デモに加わったことが原因となって、所属事務所をやめることになったという記事は目にしたことがある。
芸能人、有名人たちは原発に反対するどころか、原発の安全を宣伝することに利用されてきたのであった。
そのような実態だからこそ、この中学生の意見を長くなるが、引用しておきたい。
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… ところで
汚染が広がっているようですね。 折角育ててきた野菜を捨てなければならなくなった農家のみなさん
テレビで見ていて、それぞれ本当に大変な状況だなと思います。 一体汚染はどこまで広がるのでしょうか。そして、いつまで続くのでしょうか。 テレビでは、やたらと「安全性」ばかり強調しています。「風評被害」に惑わされないで、「冷静」に対応してと。
汚染された野菜を食べ続けても安心です。 汚染された水を飲み続けても安心です。
個別の数値は低くても、ただちに健康を害することはない? 量だったとしても、
微量とはいえ空気中の放射性物質を吸い続け、微量とはいえ、汚染された野菜を食べ続け、微量とはいえ、汚染された水を採り続ければ 微量+微量+微量 イコール→ しかも、そういう生活が1週間続くのか、1カ月なのか、1年なのか3年なのか 計算私あまり得意じゃないけど 影響があることくらい、バカな私でも分かるのに!!
テレビは「冷静に対応してください」しか言わない。
挙句の果てには、少量の放射線なら体に良い?(笑)とか、
「想定外」の1000年に一度の大津波に、これだけ原発は耐えたのだから、やはり日本の原発はすばらしい???
とか、意味不明の原発絶賛???
訳の分からないコメントを言う専門家とかww 想定外だった、想定外だったって みんな口をそろえて言うけど、原発は、事故った時 甚大な被害がでるから、「想定外」はあってはならないと思うんですケド…
私言ってること間違ってますかね。
しかも、最近は、原発の危険性を言う人は、危険をあおっていると、世の中は叩く傾向にあるようで、これは何かおかしい流れだと思うのは私だけでしょうか?
実際は大したことないのに、大げさに報道する
→風評被害を生む報道
実際は大変深刻なのに、大丈夫なように軽く報道する
→ これは何て言うんですか
私は冷静ですよ。危険をあおっているわけでもありません。
テレビはこんだけ安全大丈夫って言い続けているのでそのうち、「放射能を跳ね返す!! スーパー健康法」とか
「放射能にも負けない!! 体質改善げんき体力づくり」特集とかやりだすんじゃないでスカ???
そんなの、いくら頑張っても跳ね返したり、勝ったり出来ませんから。なんてったって、相手は放射能ですからね。
今の現状、私が思うのはテレビが言う、安全大丈夫ではなく、やっぱり「危険」なのだとおもいます。
どーんと爆発したり、急に明日何万人何十万人が死ぬということはないかもしれないけど、
5年、10年の歳月を経て、じわじわ私たちを蝕むとおもいます。原発のリスクとリターンを考えたら、あきらかに、リスクが高すぎる。原発のデメリットに比べたら火力や水力のデメリットなんて可愛いもんだと思う。
でも、日本ではいまだに、原発見直しの声はそれほど上がってこない。むしろ、よく聞かれるのは「原発はやっぱり必要」という声。おとなしい国民性なんでしょうか。それとも。
前回の記事で、私が原発について否定的なことを書いたら、コメントメールだけでなく、事務所にまで抗議意見のメールがきました。
どんだけ、原発をかばうんだよぉ。
どんだけ、日本て、平和なんだよぉ。
どんだけ、日本て、良い人(人が良い)が多いんだよぉ。
まだ自分自身が被害に遭ってなくて、直接危険が迫ってないから
そんなことが言えるのかな??
私なんて、こんな現状を見ると、もう、これっぽっちも信用できないけど。
じゃあ、原発廃止したら、足らない分の電力はどうするんだって、言うけど、それの答えは簡単。
今の原子力に頼らない電力の生活に社会全体のシステムを変えればいいのです。
変えれますよ。
電力を絞れば、変わらざる得なくなる。初めは不便でも、やがて人間はそれに順応していく。そんなことで、経済が落ち込んだりしても、生活水準が下がっても、全然OK!! 原子力の事故で世の中がごちゃごちゃになるより はるかに、リーズナブルで経済的。
私の家の近くに、数年前、大きな病院が出来たんです。駐車場少なくて、いつも満車だったので、駐車場の「混雑解消」のために、更に、駐車場増やしたんですよ。そしたら、どうなったとおもいますか?
駐車場不足が解消したのはほんの数カ月だけで、駐車場が増えたら、その分、みんな車で来る人の数が増えた!! 結局、駐車場増やしたのに、駐車場不足は今も、全然解消されていない。 電力もこれと似ていると思う。ただ単に、容量増やせば、良いんじゃない。人間の欲望ははてしないから。
なんで、東京の電源を遠く離れた福島県につくるのか?
東京という大都会の電力を支えるために、犠牲になった福島県。 住み慣れたふるさとを、先祖代々受け継いだ、家や田畑や牧場を、放射能で汚されて、福島県のみなさん本当にかわいそうだと思います。
これだけの状態になって、それでも、原子力が必要だって言ってる人は、失礼かもしれないけど、ある意味もう、麻薬中毒みたいなもんだと思う。 あと、自分の意見だと思い込んでいるだけで、実は、原子力は世の中に必要なんだというだれかのPR 刷り込みだということを気がついてないんじゃない?
よく麻薬中毒だった人が、インタビューとかで、少量の麻薬なら、自分の仕事の効率上げるためには必要悪なんだみたいな風に、自分に言い訳していた。とか言ってたの思い出します。
自分がどんどん蝕まれているのにまったく気がつかない。
いや、気づいているんだけど、やめられない。やり始めた以上、やめたら、禁断症状でて、もう、後には戻れないwwみたいなww しょーもない、B級アイドルの私が偉そうなこと言えた立場ではないことは、よくわかってる。
電力関係原発推進関係に携わっている人も多いから、アイドルとしての立場の私は、賛成か反対かはあまり明確にしない方が、本当は良いのかも知れない。
ラブ&ピース がんばろう日本!
みたいなことだけ言ってた方が、アイドルとしては活動しやすいのかもしれない。
こういうこと書くと、ファン減るかもね。でも、減ってもいいや。私は中途半端なことは言いたくない。
人にどう言われようが、叩かれようが、はっきりと、自分はこう思っているんだって言うことを言いたい。その結果、ファンが減っても、私は仕方ないと思ってます。
原子力、それはまさにパンドラの箱です。檻から解き放たれた 猛獣。 いつ襲いかかるか分からない猛獣と同居出来るほど 私は神経太くない。 あなたはそれでも、便利と引き換えにこれからも、パンドラの箱を開きつづけますか???
今、日本は、色んな面で考え直さないといけない時に来てるんじゃないですか? ( 藤波 心さんのブログより)
長野、山梨、八王子、静岡などでの集会
5月28日~6月1日まで、み言葉を語るために、各地へと訪れる機会が与えられました。
まず、岐阜では「祈の友」の尾浴さん宅を訪ね、その教友の方とともに短い時間でしたがともに祈りと交流、賛美のときを与えられました。その後、夕方から夜9時半ころまで、長野県下伊那の松下さん宅での家庭集会。初参加の方、とくに130キロ以上も離れた千曲市からご夫妻での参加もあり、み言葉の不思議な力のゆえだと思われました。
日曜日は、上伊那の有賀進さんが責任者である上伊那聖書集会での主日礼拝。去年の那須野宅での集会のあとで、集会場として新たに作った部屋があること、ふだん参加していない者が参加してみ言葉に触れるためにと、日曜日に来てほしいとの希望が言われていいたので、訪問を決めたのでした。
一階は製材会社の事務所でその二階が集会場となっていて、新しい木造の柱が新鮮な感じを与えてくれ、周囲の緑も見えるところでの礼拝集会となりました。初参加の方、またふだんは参加していない方々も加わり、20名ほどの集まりでした。ここにも主の働きを感じたことです。
午後は、原発のことについての話しを希望されていたので、そのことについて数時間をとって語りました。午前の礼拝に続いて、午後4時半ころまでという長時間の集会でしたが、一人帰っただけでみなさんが最後まで残られ、原発問題への関心の高さを感じたことです。
翌日の月曜日の午前は、山梨県の山口清三さん宅での集会で、いつもは加茂悦爾兄宅での南アルプス聖書集会としてなされていますが、今回は都合で、山口宅での集会となりました。ここでも、そこから20キロ近く離れた野辺山という地域で農業に親子で従事されているご夫妻が参加されたり、ふだんいろいろな状況で参加されてなかった方、初めての人も加わり、標高700メートル余りの高原で、さわやかな五月の風と庭の草花、窓の前方には、ハリエンジュの大きな木が白い花が咲かせているというなかでの集会でした。タイトルは、「荒れ地に水の流れるとき」、現代の日本のさまざまの意味における荒廃のただなかに、神の国からの水が流れるようであって欲しいと願ってのことです。なお、賛美の伴奏は、山口ご夫妻がリコーダーでなされるということでいっそう賛美にもうるおいが伴ったと感じました。
午後は、八王子市の永井宅での集会で、多摩集会ほかいくつかの集会に参加している方々も集められ、永井ご夫妻はじめ、御夫婦やきょうだいでの参加も何組かありました。ここでのテーマは「預言書における信仰・希望・愛」。信・望・愛は、新約聖書のコリント書13章がとくに知られていますが、今回は、あまり言われない預言書での信・望・愛について語らせていただきました。
この三つの重要なことは、すでに預言者においてもいきいきと働いていたこと、それは現代に最も必要なものであることを感じています。
翌日は、静岡県の清水聖書集会での集会。平日でしたが、集会の責任者である西澤さんがそのためにとくに休暇をとってご夫妻で参加され、お家を集会場としてくださり、いつもの集会の方々が集められて感謝でした。ここでは、「主とともに生きるため」
(Ⅰテサロニケ5の10~11)というタイトルでお話しさせていただきました。
その後、午後は「祈の友」の足立さんご夫妻宅を訪ねて短い時間でしたが、祈りと交流のときを与えられました。「祈の友」会員として半世紀にわたって祈りを続けられてきたその祈りは、きっとさまざまのところに働いてきたことを信じ得て感謝でした。
その後、静岡市の石川昌治さん宅での集会では、「あなたのみ言葉は、わが道の光」というタイトル。主催者の石川さんは、ご病気があって、ふだんは自宅での集会にも長い時間は参加できない状態とのことでしたが、今回は2時間の集会にも参加でき、支えられたことを感謝でした。ここでの集まりもずっと参加できていなかった方も参加できた方あり、また仕事中の時間をさいて参加された方もあって、み言葉がそうした参加者に深く宿って働きますようにと願ったことです。
その夜は、浜松市の武井陽一さんの診療所を訪問、そこでの宿泊と交流が与えられました。武井さんからは、近くのデンマーク牧場と、こひつじ診療所での宿泊のお招きをいただいていたので、今回はそのご厚意を受けさせていただくことができ、精神科医として、また、その診療所が置かれている福祉施設へのいろいろな関わりなどお話しをうかがい、羊や乳牛たちのいる牧場が福祉会に所属するというふつうにはみられない形での証しとなっている施設の実態に触れ、ここでもキリストのはたらきを実感させていただきました。
翌日は、去年の徳島での四国集会に参加されていた、浜松市の相原さん宅での家庭集会。ここでは少数の集まりでしたのでみ言葉の学びとともに、いろいろな賛美などをしながら、特別集会のときなどにはできない主にある交流のときを与えられて感謝でした。相原さんは全盲の方で、いまは天に召された溝口正さんが盲学校在職時代に、同じ盲学校教員であり、そのときキリスト者となったこと、私たちのキリスト集会にも視覚障がい者の方々が多いこともあり、以前から「いのちの水」誌などを通しての関わりはありましたが、去年の四国集会に初めて参加されてよりいっそう主にあるつながりが深められたことを思います。
今回の長野方面を主とした旅においても、主によって守られ、大雨が降り続く日もありましたが交通も守られて、み言葉の力、その真理の一端をも語ることが許されたこと、それは徳島の集会の方々、そして訪問地の方々の絶えざる祈りのおかげだと感じています。今回も、神の言葉を語るための旅であったので、主が不十分なところを補い、参加者一人一人を覚えて下さって、集会に加わった方々に今後ともみ言葉が深くとどまり、そのみ言葉の力がそれぞれの方々に生きてはたらきますようにと願っています。
お知らせ
○瀬棚聖書集会… 7月21日(木)の夜から7月24日(日)の午後まで。
・テーマ…「主の御心のままに―試練と信頼」
・講師…相良展子(日本キリスト教団利別教会牧師)、
吉村孝雄
・場所…北海道久遠郡せたな町瀬棚区共和 農村青少年研修会館
・会費…1万5千円、学生1万円。(宿泊費、食費など含む)
・申込先…野中信成 電話 0137-84-6335
瀬棚集会以後に予定している集会は、次のとおりです。
○苫小牧での集会…7月21日(木)13時~15時
○札幌での集会…7月25日(月)午前10時~。連絡先 大塚寿雄 電話 011- 598ー6383
○仙台での集会…7月26日(火)13時30分~15時30分 連絡先
田嶋誠 電話 022-394-6128
○山形での集会…7月26日(火)18時30分~20時30分
連絡先…生亀知侑(いけがめ ともゆき)電話023-631-7420
なお、今年は、近畿無教会集会が、7月30日(土)~8月1日(日)との計画されていたために日程が詰まっていることと、車なので、途中のフェリーなど適当な便がないなど交通機関の制約もあり、去年のように、各地への訪問は難しくなり、右のように東北の一部の集会でみ言葉を語らせていただくことになりました。
○近畿無教会集会
・7月30日(土)~7月31日(日)京都桂坂にて。問い合わせは、宮田咲子 電話 0723-67-1624
○本の紹介
・小出裕章著「原発のウソ」この本は、発売前から、予約が殺到し、6月2日の発売とともにたちまち売り切れたということで、6月下旬の本のベストセラー順位では、総合で第四位、新書では、一位という状態となっています。原発問題の書など、3月以前にはほとんどの人は見向きもしなかった状況から驚くべき変化ぶりです。それほど、原発問題は深刻な問題だという意識、そして真に信頼できる著者は誰かということが浸透していきつつあるからと思われます。
近くに書店などないかたでこの本を希望の方は吉村まで。価格は740円。なお、この本は3月11日以降に書き下ろされたもの。