真実をあなた方に言う。人は新たに生まれなければ、 神の国を見ることはできない。 |
・2011年9月 607号 内容・もくじ
最新のニュース
私たちはニュースは最新のものを求める。それに応えて、インターネット、テレビなども刻々と新しいニュースを報じている。
そして、それについてくわしく報道する価値がさほどないことであっても大々的に報道されることが多い。人の命を奪ったとか、その家とか場所とかを映し出したり、どこかで水の事故あった、○○大臣が余計なことを言ったとか…。
だが、いつも神の国からは、霊的な最新のニュースが報道されている。聖書を開いて心静めて聞き入るとき、これこそ最も新しいニュースでありながら、遠い昔から告げられてきたニュースでもあったのに気付かされる。
しかも、そのニュースは、時代を超えて、場所やあらゆる民族の違いなどを超えて、魂に届く内容と力を持っているのである。
福音とは、「良き知らせ(ニュース)」 という意味である。実際、英訳聖書にも、「良きニュース」というタイトルをもった、Good News Bibleというのがあり、ドイツ語訳の新約聖書にも、「良き知らせ」Die Gute Nachricht というタイトルの新約聖書も私の手許にある。
テレビや新聞などで常に新しいニュースを求めるほどの熱心さで、聖なる霊によっていつも告げられている霊的なニュースを聞き取るようでありたいと思う。
いろいろな出来事からも聖書からも、また日々に私たちに身近な自然の世界からも。
声なき声を聞き取ること
聖書は神の言葉だと言われる。そして言葉なら聞き取ることができるはずのものである。しかし、聖書を読んでいて、そこから神が自分に語りかけているのを聞き取った、という実感を持つ人は多くはないかも知れない。
私たちの目標は、単に読む、のでなく、そこに書かれてある言葉が神からの私たちへの生きた語りかけとして聞き取ることができるようになるということである。
静かなる細き声を聞き取るためには、静けさを要する。
周囲の自然を見ても何も神からの語りかけなど感じない、という人も多いだろう。
聖書も同様であって、とくに初めて聖書を手にしたとき、読んでも神の言葉などととても思えない、何を言っているのか分からないということも多いと思われる。
しかし、そこに耳をすませ、小さき細い声を聞き取ろうとする姿勢があるとき、そしてそれが持続されていくとき、確かにその文字を通して、個人的に語りかけをかすかではあるが実感するようになる。
聖書における預言者と言われる人たちは、それを明瞭に聞き取った。ときには轟く音のように聞き取ったことも記されている。(アモス書1の2など)
神の国に関することは、待つこと、心を集中すること、聞き取ろうとする姿勢、といったものが必要になる。
海や空、雲、星など一瞥しただけでは、とてもそこからの語りかけは感じないだろう。
聖書もさっと読んでも何も感じないということと同じである。
ドイツの詩人リルケの書いたもののなかに、石に耳を傾ける人としてミケランジェロのことが出てくる。聞き取った声に従い、大理石を刻んで死せるイエスを抱いたマリア像(ピエタ)を造り出したという話しである。
だが、そうした特別な芸術家の話しでなく、私たちは普通の生活において、周囲のさまざまのことを通して神が語りかけているということを信じ、聞き取るようでありたいと思う。
主イエスが、種まきや野の花や小鳥、あるいはぶどうの木とその実などどこにでもあるものをとおして神が語りかけた言葉を聞き取り、人々に教えられた。そしてその教えは書かれたものとなって2000年後の現在も私たちに語りかけている。
主イエスは、聖霊は、あなた方にすべてのことを教えると約束された。それは、聖霊が、主イエスがそうであったように、私たちの日常で出会う自然や出来事を通してその意味を語りかけてくるということでもある。
すでにこのことは、前の号で書いたように、旧約聖書のときから言われている。
…話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。(詩篇19の4~5)
たしかにこの世は、そうした声なき声で満ちているのである。
神の国に属するものの循環と永遠性
谷川に流れる水、長い間にわたって山の大地を深いところを通って出てくる。地下の深いところでは、1年経ってもせいぜい数百メートルほどしか移動しないと言われている。ゆっくりと目には見えない大地の深いところを通ってきた水は澄みきっている。
それが合わせられて谷川となる。その流れは清く山を歩いていた頃は、よくそのような水をそのまま飲んだものである。
土の中を通ってくるというとふつうは土は汚れたイメージがある。しかし、自然の仕組みはよくできたもので、そうした土を通過してきた水は清くそのまま飲める。
また、山野では草木の葉や、動物たちの死骸や排泄物など汚れたと思われているものもすべて細菌類のはたらきによって分解されて、土に帰り、肥料となって新たな草木の栄養となる。
二酸化炭素といえば現在では、温暖化を思いだす場合が圧倒的に多く、有害なもの、というイメージがある。しかし、空気中の二酸化炭素こそは、私たちの日々の食物の主成分をなす有機化合物を造りだすもとになっているのであって、きわめて重要な物質なのである。有機化合物とは炭素化合物であり、食物はみな炭素が主成分でありその炭素は空気中の二酸化炭素に由来する。
二酸化炭素も太陽の光のエネルギーによって地中から吸収した水と結びつけられて、ブドウ糖になり、それからタンパク質や脂質などさまざまの生物体に不可欠の有機物が造られていく。そして、動植物が死ぬとそれらの有機物は細菌類によって二酸化炭素その他の気体となって大気に戻り、一部は土中にとどまる。
そしてそのようにして大気中の二酸化炭素を取り込んで成長し、葉を繁らせ、そこで酸素を造り、大気中へと放出し、その酸素を取り入れることによって生物の命は支えられている。
このように、水も、目に見える動植物も、そして目に見えない二酸化炭素や酸素なども効果的に循環し、さまざまな命を支えている。
このように考えると、全体としてみるとき、科学技術の産物はこのような自然のよき循環を阻害し、人間や動物にとって有害なものを生み出していくという側面がある。
例えば、車一台を考えても、その車に使われている鉄や銅、亜鉛、アルミニウム…等々、様々の金属が用いられている。それらを生産するときにはその鉱山周辺に関して多大の自然破壊が生じる。
またアルミの製造にはとくに多大の電力を要するし、様々の科学技術を用いた工場、会社には大量の電気を要するから、火力、水力等さまざまの発電設備が必要となってくる。
それらはいずれも大気を汚染し、谷川、村落を破壊し、あるいは原発のように何十万年も放射能による環境汚染が続くようなものとなる。
自然のままでは、前述したように有害なものに見えてもみなそれは効果的に循環してよいものに変わっていくが、科学技術の産物というものは、その有害なものは生物体にたいていは有害なものであって、しかも蓄積していくのである。
環境問題に最初に強いメッセージを発した書として有名な、「沈黙の春」は、レーチェル・カーソンが人間の造り出したさまざまの有害物質、とくに塩素化合物であるDDT ディルドリン、エンドリンなどがじわじわと環境に蓄積し生物たちもその害を受けて死んでいく有り様が多数の資料によって記されている。
このように、人工的に造った物質は、それは非常に便利で有益なことにも使われる反面、環境を確実に破壊していく。
このように考えると、谷川の水一つとってもその清らかさ、途絶えることなく続く永遠性、それが動植物を支える命の水となっている有益性などが次々と思い起こされる。
このように、神の直接の被造物というのは、古びることなく、朽ちていくものも新たに再生する。
このことは、目に見えない霊的なことについても言える。
神の本質と結びついている神の言葉、それは無駄になることはない。人間が造る物のように、有害なものを生み出すということは決してなく、あるときは地下水のようにその存在が見えなくとも歴史の中を、また人々の魂を流れ、神のご意志にかなった働きをしている。
…雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。
それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。(イザヤ書 55の10~11)
イザヤ書の著者は、自然のごく普通のできごとが、神の言葉の永遠のはたらきを指し示すものとして示されたのである。このようなことは、エレミヤ書にも見られる。春が近いころ、身近に咲いている花、それが神がいつも目覚めてこの世を見つめていることを表すと記されている。
自然のさまざまの出来事は、聞く耳を持つ人、見る目を持つ人なら、みな何らかの意味で神の国に属することを象徴的に表しているのを感じ取ることができる。
神の言葉は、雨のようにその姿が見えなくなっても、どこかで何らかの生命を支えている。同様に、神の言葉もそれが何にも力を発揮せずに消えていくように見えても、どこかで誰かを支えているのである。
たしかにそのような不滅の力を持っているからこそ、神の言葉は、ありとあらゆるこの世の変動、迫害などにも関わらず、世界の日々をうるおしてきたのである。
主イエスは、訪れる家の人に対して次のように言われた。
…その家にはいったなら、平安を祈れ。
もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来る。
もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来る。(マタイ10の12~13)
これらのこと、それは神の国に属するもの、それはなくなることがないということである。神の言葉、それも神の国に属するものであるが、主イエスは、「天地は滅びる。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」(マタイ 24の35)と確言された。
私たちの存在そのものも、主イエスを信じて結びつくときには、やはり滅びることがない存在と変えられる。キリストと同じ栄光の姿となると約束されているからである。(ピリピ3の21)
種を蒔くということ
主イエスのいろいろなたとえのうち、何度か繰り返しあらわれるものに種まきのたとえがある。
福音という最も大切なことについて、だれでもが日常的に経験するごくふつうのこと―種まきということにその本質が表されているということがある。
それは、神の国は次のようであるという言葉から始まる。
…人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」(マルコ4の26~29)
種まきというごく身近な、子供から老人までだれでもよく知っている農業の仕事を用いて、この世界全体に起こっていくことをのべているのであって、イエスの深い洞察とどんな身近な出来事のなかにも永遠の真理を読みとっていくその霊的な力に驚かされる箇所である。
種まき―キリストの福音の種まきは世界になされていく。そして各地で成長していく。その深い秘密はだれも分からない。神がそのご意志に基づいてなされているからである。
そして実を結び、最終的に収穫のとき―世の終わりを迎える。…
ここには、キリスト教の伝道の出発点から、世の終わりまでの世界の進みゆく状況が言われようとしているのである。
種を蒔いた、そして芽を出し、葉として成長し、花を咲かせ実をつける。蒔いた人は毎日の生活をふつうにしているだけなのに、どんどんその植物は成長する。
蒔いた人もどうしてそのようになるのかまったく知らない。
山野には、無数の植物が生えている。それらは、人間が蒔いたものでない。花を咲かせたあと、風により、あるいは小鳥など動物に食べられ、また自然にその周辺に種を落とし、あるものはその付近で芽を出し、あるものは土に埋もれて雨水に流され遠いところにて発芽するものもあっただろう。
実にさまざまの方法で種は蒔かれて、意外なところで芽をだしていく。
福音の種もそうしたことと似ている。その種まきは、自然の事物でなく、人間が関わっている。キリストの真理を知らされた者が人に口頭で伝える、あるいはその人の行動によって、文書によってである。人間がいずれの場合にも関わっているが、使徒パウロのように、直接に神からの啓示により、光を受けてキリストの真理に目覚める場合もある。
だがその場合にも、すでにキリスト者と接して彼らの言動に接していた。それでも受けいれることなどなく、かえって迫害し殺すことにまで加担していた。そうしたことが準備となって神からの直接の光、啓示によって回心したのであった。
神は、植物の種を風や雨、水流、動物などいろいろなものを用いて各地に蒔かれる。福音の真理の種は、人間を用いる。
家族、友人、同僚、あるいは教師、そしてすでに亡くなっている人の書いた本なども用いる。
老若男女を問わず、健康な人だけでなく、病気や障がいをもった人、学識のある人、無学な人など、いっさいを問わない。あらゆる人を用いられる。
蒔かれたあとは、自然の世界においてもどれが芽を出すのか分からない。多くは芽を出さないままで終わる。栗など大きな木の実ではよくわかるが、たくさん山道で落ちていても、発芽するのはほとんどない。ほかの例えば、タカサゴユリやガガイモ、ウバユリなどはたくさんの種ができるが、それらのうち発芽するのはきわめて少数だ。
それらより桁違いに多い胞子をつくるキノコ類がある。キノコ類は花も咲かせることはなく、種はできないが、そのかわりに無数の胞子を作って散布する。これは、生のシイタケをとって、黒い紙のうえに置いておくと白い粉末のようなものが落ちているのに気付いた人もいるだろう。それはおびただしい数の胞子である。一個のシイタケから10億個にも及ぶ胞子が作られるといわれる。しかし、それらはほとんど発芽はしない。
昔、わが家ではクヌギやコナラの木にシイタケを少し作っていたが、それらから生じた胞子がほかの枯れたクヌギの木に発芽してきたなどということは全くなかった。ほかのキノコ類も同様でたくさんの胞子が出されてもほとんどはそのまま滅びてしまう。
福音の種まき、それもたくさん蒔いてもわずかしか芽が出ないのと似たところがある。そしてどうしてある種だけが発芽するのか―ある人だけが信仰を持つようになるのかはだれも分からない。そして成長していくのもどうしてか分からない。
それらすべては神がなされているからである。
…わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。
だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。(Ⅰコリント 3の6~7)
途中で枯れるもの、雑草のために成長ができなくなるもの、鳥によって食べられるものなどあり、せっかく芽を出しても成長しつづけるのは一部である。しかし、どんなことをも超えて成長するものは必ずある。
この世界全体がいろいろの妨げを経験しつつ、成長を続けていく。そして最終的に刈り入れのときが来る。世の終わりとも言われている。世の終わりというと何か不吉な悪いことのように思う人が多い。
しかしそうでなく、あらゆる悪そのものが滅ぼされて、最終的に神の御計画が成就し、神の力によって「新しい天と地」とされるするときのことであって、究極の幸いのときなのである。それゆえに、ローマ帝国の迫害の時代からキリスト者が日々待ち望んできたのはその日なのであり、聖書の最後の記述はその日を待ち望む祈りとなっている。(黙示録22)
消えていく灯、傷ついた葦を生かす力
この人を見よ!
これは、旧約聖書や新約聖書に現れる言葉であるが、この人とは何ものを指すだろうか。
この世は、つねに、政治やスポーツ、音楽や学問、娯楽等々で、優勝などした人や団体を、マスコミが一斉に、「この人を見よ!」とばかりに写真を大写しにして、ほめそやす言葉を連ねている。
そして、そのようなこの世の有名人の類はたちまち色あせる。政治にしても、首相や大臣になると日本全体が、いろいろな方法を駆使してこの人を見よ!と
一斉に言い始める。
それらのものの共通点は、すぐに消え去っていくはかないものだ、ということである。最も新聞やテレビで大きく取り扱われる出来事、大事件であってもまもなくそうした扱いは消える。 原発のような大事件、今後何十年も、否、その廃棄物は何十万年も日本が負担しなければならないという問題ですら、事故から半年を経て、多くのとくに西日本の人たちにはその関心は薄れ、済んだことのように思われている。
スポーツにしても、何かで優勝したとなると大々的に取り上げられるが、負けが続くと、たちまち見捨てられる。あるいは、別のスポーツの活躍する人に光があてられる。
このように、テレビや新聞、インターネットなど、それらが力を入れて取り上げるものの共通はみんな消えていく。そのようなことは、すでに聖書では今から数千年も昔から指摘をしてきた。
… 見よ!
彼らはすべて無に等しく、わざも空しい。
彼らの造った像はすべて、風のようにうつろだ。(イザヤ書41の29)
有名人も、事故、事件、あるいは政治なども、みな風のようにうつろだ。人々が造った偶像というべき有名人や権力者、それらもみなその影響力はまもなく衰え、最終的には消えていく。
それに対して、この箇所に続いて現れるもう一つの「見よ!」がある。
…見よ!
わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。
彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々に正義(*)を示す。
彼は叫ばず、声を挙げず、声を町々に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく、消えかかろうとする灯(ともしび)を消すことなく、正義を確立する。(イザヤ書42の1~3)
(*)正義と訳した原語は、ミシュパット。新共同訳、関根訳などでは、この語を「公義」という訳し、口語訳は、「道」、フランシスコ会訳は「正しい法」。英訳では、he will faithfully bring forth justice. (NRS) のように、justice(正義)と訳しているのが多い。 「公義」という訳語は、日本語としてほとんど使われてはいないと考えられる。新聞、雑誌、テレビなどで、この言葉を見たり、聞いたりした人はほとんどないはずである。現代国語辞典や、広辞苑にも収録されていないほどである。正義を表すほかの言葉があるために区別するためにこのような、日本語としては使われないような言葉を訳語として使っているが、やはり意味をあいまいにさせるところがある。
このミシュパット という語は、口語訳では「正義、公正、公義、定め、裁判、判決、道…」等々 40種類以上の訳語が使われていることから分るように、さまざまのニュアンスをもっている。しかし、その核にあるのは、神の正義ということである。口語訳が「道」と訳したのは、神の正義にかなった正しい道、という意味である。
何を見るべきか、ここに本当に人間が見るべきものが記されている。
神が特別に選び、そしてそのような存在を喜ばれているという。これは、500年以上後になって、この預言が実現した。
イエスが、その伝道の生涯の出発点にあたって、聖霊を受けたことが記されている。これは、このイザヤ書に記されていることがそのまま成就したことを示すものである。
そして、さらに、天からの声として「これは私の愛する子、私の心にかなう者」という言葉が聞こえたと記されている。(マタイ3の16~17)
このように、イザヤ書のこの箇所は、イエスを驚くほど正確に預言したものである。
そして、その特質として、国々(世界)に正義を、言い換えると正しい道を示す。イザヤ書の書かれた時代には、ユダヤ人は、遠いバビロン(現在のイラク地方)に捕囚となって奴隷のような生活を50年も強いられていた状況であった。
しかし、そのような滅びるかと思われるような捕虜となっている民に、数千年を通じて実現していく真理が示されたというのは驚くべきことである。現在でも多くの人は、旧約聖書というのはユダヤ人の民族的な宗教(ユダヤ教)の教典だと思っている。それは旧約聖書をきちんと読んでいないし理解していないからである。
この箇所のように、旧約聖書においても、すでに神が告げた真理は、世界に伝わっていくことが預言されている。
そしてそのような真理は時間や地域を超えた広大なものであるが、決して権力や軍事力による宣言、大々的に金を使っての宣伝といったようなことは全くなくて、叫ばず、声をあげず、町中や通りにその声を響かせることもない。静かに個人的にその真理を語り、また神の力を用いて行動する。真理は、静かであっても一人であっても、金や権力や軍事力などがなくとも、その力を発揮するからである。
真理でないものは、多額の金や権力を使って宣伝する。これは原発のことをみても分る。原発が危険きわまりないものであるが、それを絶対安全だと虚偽のことを信じ込ませるために莫大な金―東京電力では、毎年250億~300億円(1日平均では7000万~8000万円ほどにもなる)もの巨額の金を使って、マスコミや学者、政治家、地域、文化人など広範囲に偽りを宣伝し、彼らがそれを繰り返すように仕向けた。
キリストの真理、聖書の真理を私たちがしっかりと受けているかどうか、それだけが問題となる。真理を深く受けているほど、静かにやっていても、また著述や講演、マスコミなど広く知らせる活動にかかわる場合でも、主はそれを祝福される。
次に記されている救い主の特質こそは、キリストが世界に絶大な影響を与えるようになったことと深くかかわっている。この深いあり方は、決して人間が持つことができないものである。
それは、「傷ついた葦を折ることなく、消えかかった灯を消すことなく…」である。
人間はだれでも、傷ついており、また消えかかっている存在なのである。子供のときからしばしば両親、兄弟という家族からも傷つき、学校に行ってもそこでも新たな傷を受ける。そしてその傷が大きいときには学校にもいけなくなる。
成長したらまた別のいじめや差別、争い、攻撃などによって傷を受ける。
そして、なにが正しいのか、どう生きていくべきなのかが分からなくなって、魂の内なる光が消えかかっていく。日本では年間三万人を超える人たちが自らの命を断っている。13年連続でそのような状態なのである。
先進国の間ではトップの自殺率である。(*)
(*)日本は、世界で第6位の高い自殺率となっており、日本より上位にあるのは、ベラルーシ、リトアニア、ロシア、カザフスタン、ハンガリーの旧ソ連、東欧の5国であり、ドイツ36位、アメリカは43位、イギリス67位など日本よりずっと少ない。
消えかかっている灯がそのまま消えてしまう、あるいは傷ついた葦がそのまま傷が治らないでますます深くなっていく、という状況から死に至るのであろう。
しかし、そうした死に至らないまでも、人間はみな本質的にこうした弱い傷ついた者であり、消えていく存在なのである。このことは、いかなる人にも言えるのであって、例えば私たちの身体そのものをみても確実に老化し、その灯というべき活力は衰え、DNAなど体内の見えない部分に受けた傷はガンとなることもあり、さまざまの原因で肉体的にも精神的にも衰え、消えかかっていく。
そうでなくとも、人生のなかで突然の病気や事故、災害、仕事での失敗や人間関係のもつれ、家庭の問題等々において、私たちは疲れ、内的なエネルギーを失っていくことは実に多い。
若き日の情熱や生きがい、人生の目的、生きる喜びなどは確実に減退していく。
こうした老化、衰弱という大いなる波にのまれ、最終的には、死という大波に呑み込まれる。
このような必然的に私たちに訪れる弱さや傷に対して、まさにそこに来てくださるお方がいる、というのである。
疲れ、傷ついた者、消えかかろうとする人たちにあえて近づこうとする人はごく少ない。一般的にいって、世界選手権とかオリンピックといった試合で華々しい勝利を獲得したスポーツ選手、政治家、俳優、有名歌手、人気の芸術家、有名学者等々には人は群がる。しかし、そのようなはなやかなものを全く持たない死が近づく病人や傷ついて閉じこもった人に近づこうとするような人はごく少ない。
それは、そうした消えていこうとする人に近づくには力が必要だからである。内なる力なければ、そのような人に近づくことで自分の内に残っている力まで奪い取られるという気になるからである。
こうした人間の本質的弱さと傷つきやすさを鋭く見抜いて、そこに来てくださるというお方が現れる、というのがイザヤ書での言葉である。この書の著者は確かに、当時の世界で最も明確にこのようなお方がこの世に現れるということを啓示されたひとであったと言えるだろう。
そしてこのときから500年以上を経て実際にキリストが現れ、この通りの生き方をされた。この深遠な預言書の著者(第二イザヤと言われる)が示されたのは、学問があったからでも経験豊かであったからでもない。家柄でもない。そうしたことは一切言われていない。ただ、神からの一方的な啓示であった。
人間は最終的には死に至る。消えてしまう。しかし、その消えてしまったものであっても、そこに新たな命を与えられる。消えかかっていた灯に新たな力を与えて明るく燃えるようにするばかりでなく、消えてしまった灯すら新しい炎で燃え立たせる、しかも神の国で永遠に燃え続けるようにしてくださるのである。
確かに、このイザヤの預言のとおりに現れたキリストは、ハンセン病の人とか生まれつきの盲人、あるいは長い間歩けなかった人、死にかかった人、あるいは死んでしまった人など、消えてしまおうとしていた人たちに新たな神の国の炎を燃え立たせた。
汚れた女として見捨てられ、まともな人間扱いをされなかった人たちはどんなにか深い傷をその魂に受け来てたことであろう。しかし、そうした深い傷をもいやすことができたのがキリストであった。
新約聖書のヨハネ福音書で最初の部分にこの言葉が出てくる。
イエスのさきがけとして現れたバプテスマのヨハネは、イエスを見て次のように言った。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊!」(ヨハネ福音書1の29)
このひと言のなかに、私たちが真に見るべきはだれなのかが、言い尽くされている。
この世界の根本問題は、エネルギーの問題ではない。エネルギーを多用するほどにさまざまの点で便利にはなっていく。しかし、全体として自然破壊は進み、有毒物は増え、人間社会は分断されていくという側面を持っている。
根本問題は、神のエネルギー、神の力をいかに受けるかということである。物理的エネルギーは、人間の心の問題をどうすることもできない。どんなに原発でエネルギーを生み出そうとも心は何も豊かにはならない。かえって、莫大な金が周辺に流れて人間の心は寸断されていった。
神のエネルギー、力を受けるときには、私たちの心にある最も強力な力をもって巣くっている罪の力を壊してくれる。原子核は本来壊れないものであったが、原子核に人工的に中性子を打ち込むと、それが生命にとって有害な放射性元素に変質したり、原子核が壊れてそこからさまざまの有害物質、放射性物質が生み出される。
これは、原子核だけのことでなく、自然のままでは何ら害のない物質であっても、人間が熱や薬品を用いて、それらの物質をいろいろに化学変化させるとさまざまの有害物質が出てくるのである。原子核から有害物質がいろいろと出てくるようになるのは、それらの延長上にあるものであり、その有害性も数十万年から百万年も続くという桁違いのものとなる。
しかし、神のエネルギー、その力を受けるとき、私たちの魂の固い自我というものが壊される。
それまではいかにしても―勉強や研究、経験なども―砕くことのできなかった罪の力をも壊して、そこから新たなよきものが流れ出るようになる。
こうしたすべては、キリストがなされる。弱くてもう消えそうになっている灯、傷ついて枯れる寸前の葦、それらを再生させるということは、死にうち勝つエネルギーを持っているということである。
この世界の根本問題は、こうした神の国のエネルギーを受け取ることであり、それはキリストを信じることから始まる。
神の言葉の力―詩篇19篇(その2)
詩篇19篇は、前半においては、自然の世界における神の栄光を示し、そのことは夜も昼もたえず全世界にメッセージとして語り続けられているという、自然が語る神の言葉を記している。
自然は単に美しい、清いというだけでなく、物理的な声としては聞こえないのに、ある種の呼びかけ、響きともいうべきものによって世界中にメッセージを送っている。
5節は、はるか後に生じることの預言ともなっている。
キリストのメッセージというのは昼も夜も語られ、全く意外なところで話すことも、語ることも声が聞こえなくても伝わる。わたしも一冊の本を少し読んだだけでそのメッセージが伝わった。
このように旧約聖書はいろんな意味でイエス・キリストを指し示している。主イエスも次のように言われている。
…あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
(ヨハネ 5の39、なお、ここで言われている聖書とは、旧約聖書のことである。)
心臓は昼も夜も血液を送り続けている。そのようにキリストは、今も絶えず真理、メッセージをこの世界に送り続けている。
イエスのことは、人の予想を超えて伝わっていくということの一例として次の記事が思いだされる。
主イエスが十二人の弟子を遣わしたときに、異邦人でなく、イスラエルの失われた羊のところへ行け、サマリアなど、ユダヤ以外の地域には行くなと言われた。
主イエスが、福音を伝えはじめたガリラヤ湖付近からは直線距離でも100キロ以上ある異邦の地、カナンのフェニキアの方へ行ったことがある。
そこに住む女との会話のことがマタイの福音書十五・21にある。その女が、「ダビデの子よ。」と言った。これはイエスがダビデの子孫として現れるメシアだと信じているということを示している。この地方には、イエスも弟子たちもそれまで行ったことはなかった。
それゆえ、イエスがメシアであるとは、まだ誰もそのような異邦人には本来信じられていなかった、知らなかったはずである。それなのにひれ伏してまで主イエスにすがる信仰はどこから来たのだろうか。
主イエスから「わたしは、イスラエルの失われた羊のところにしか遣わされていない。」と言われてもひれ伏し、自分は小犬のような小さきものであっても、「小犬もパン屑はもらえるのです。」と答えた。それほど主イエスの絶対的な力を信じきっていた。主イエスからこぼれ落ちるパン屑―イエスの持つ小さな力を分けてもらえるだけでもいやされる、と言うほどであった。
それゆえに、イエスから、「あなたの信仰は立派だ(大きい)」と言われた。
ユダヤ人の指導者でもイエスをメシアと信じないどころか、殺そうとしたのに、こんなに遠くの関係のないところで、主イエスへの深い信仰が生まれたということは驚くべきことである。いったいどうしてこの女の人に伝わったかということは、聖書では何も記していない。
このようなことが、この詩篇で言われている、「話すこともなく、語ることもなく、その声もきこえなくとも」伝わっていく。 神というのはそのようなお方である。聖書は神様やキリストの非常な力を絶えずいろんな形で語っている。
このようにこの詩篇の前半は自然というものが、単に人間と関わりなく存在しているのでなく、神の言葉を送り続けているということをのべている。
そして自然の中で最も大いなる存在といえる太陽にとくに言及して、単に太陽の壮大さ、その力強さを述べるのでなく、太陽の動きは、花婿が部屋から出てくるように、また、力ある人が喜びながらその道を走るようだ、と書いている。
太陽はあらゆる民族、いついかなる時代であっても、自然物としては最大の関心を持たれてきたであろう。しかし、夜明けのときの太陽は、花婿のように、勇士のように力ある者が喜びつつ出て行くようだと書いているのは他に例を見ないのではないか。
太陽の出るとき、その動きに人格的なものと喜びを実感していたのである。そしてその強力な熱は、すべての人に恩恵を与えている。
このような太陽への特別な言及は、主イエスが、後に「父(神)は、悪人にも善人にも太陽を昇らせる」(マタイ5の45)を思い起こさせる。
このように太陽の動きを見るだけでも、神様の喜びをこの詩の作者は読み取っていたということである。あたかも生きているものが動いているかのように、自然の中にも動的なものを感じ取っていた。
8 主の律法は完全で、魂を生き返らせ
主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。
9 主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え
主の戒めは清らかで、目に光を与える。
10 主への畏れは清く、いつまでも続き
主の裁きはまことで、ことごとく正しい。
金にまさり、多くの純金にまさって望ましく
蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。
12 あなたの僕はそれらのことを熟慮し
それらを守って大きな報いを受けます。
13 知らずに犯した過ち、隠れた罪から
どうかわたしを清めてください。
14 あなたの僕を驕りから引き離し
支配されないようにしてください。
そうすれば、重い背きの罪から清められ
わたしは完全になるでしょう。
8節以降は大きく内容が変わる。しかし、7節までに言われていたこと―自然が神の栄光を表し、神のメッセージを送り続けているということ―と深く結びついている。
8節からはその神の言葉(律法)の本質がどのようなものであるかが言われ、さらにその神の言葉に対して自分がいかに罪深い存在であるかが言われている。
まず、神の言葉の性質が言われているが、その最初にあげられているのが、「主の律法は完全」ということである。この新共同訳の訳語は、「律法」(*)であるが、律法というと、何か私たちには関係のない昔のユダヤ人のもの、といったイメージがあるが、律法も神の言葉であり、現在の私たちには、「神の言葉、み言葉」と言い換えて読むほうがより明確に神からのメッセージとして受け取ることができる。
(*)新共同訳で「律法」と訳されているが、口語訳では「おきて」、新改訳、フランシスコ会訳では、「(み)教え」、文語訳では「法」などと訳されている。原語のトーラーは、教え、法、法を集めたものという意味からモーセ5書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)、さらには旧約聖書全体を意味するようにもなった。
なお、一つの原語(ヘブル語)に対する訳語は、訳者の受け止め方によって実にさまざまであるから、日本語に訳された言葉を絶対視する必要はない。例えば、新共同訳の訳が、ほかの訳ではどのように訳されているかを比較してみる。なお、新共同訳と他の訳とでは、節が一つずれている場合が多い。
・定め(8節)→証し(口語訳、新改訳)、証言(あかし、関根正雄訳)、諭し(フランシスコ会訳)、
・命令(9節)→さとし(口語訳)、いましめ(新改訳)、示し(関根正雄訳)、定め(フランシスコ会訳)
・戒め(9節)→命令(岩波書店発行の訳)このように、役者により、多くの訳語で表されている。 律法、諭し、戒め…これらすべては、「神の言葉」なのであるが、それを詩であるから同じ言葉、表現を使わないでさまざまの表現で表しているのである。
8節から11節では神の言葉の性質を簡潔に言っている。8節では神の言葉は完全であり、生き返らせる力を持っているとある。ここで生き返らせると訳された原語(*)は、もともとの意味は 方向転換する、というものであり、そこから、死へと向かっていた人の魂を生に向かって方向転換させてくれる、という意味があり、そこから、生き返らせる、という意味になる。
(*) ヘブル語では、シューブといい、預言書ではとくに重要な言葉であり、立ち返る、悔い改める といった意味で用いられている。英語では、return turn などと訳されることが多い。
私自身も、たしかに滅びの方向に向かっていたのが、神の言葉によって確かに方向転換することになり、生き返らせてもらったのであった。
私がはじめて精神の世界、目に見えない世界が確固として存在するということに目覚めたのは、山という自然の深さに触れたときであった。しかし、それは自分の本質を変えることにはならず、いろいろな悩みや問題は退かなかった。次いで、私は、一冊の本によってギリシャ哲学に触れることになり、そこで初めて、思想というもの、哲学的に考えるということが何であるのかを知らされた。
それによって永遠的なもの、目には見えない真理そのもの、善そのもの、美そのものがあるということに目が開かれた。それでも、なお自分の心の中の問題、弱さや醜さはどうにもならず、また最終的にこの世界はどうなるのか、太陽や地球も滅んでしまうのなら、正義や人間の独立などみな消滅してしまう、という未来世界については、ギリシャ哲学のプラトンも、輪廻ということをほのめかしているだけで、確固たるものを与えるなどは到底できなかった。
そうしたさまざまの探求と動揺のなかで、最終的に決定的なものが与えられたのは、神の言葉であった。
それまでに、学生運動の激しいさなかであったために、おびただしい人間の言葉―議論や相手を攻撃する言葉―がはんらんするなかであったが、そしてそれなりにいろいろな本を読んだが、そうした人間の言葉を読んだり聞いてもなおのこと混乱するばかりであった。
人間の言葉は不完全である。どんな思想家や哲学者でも不完全である。また人間の言葉は、人間そのものがいちじるしく不完全なものだから、その言葉も力がなく、本当の意味で「生き返らさせる」ことはできない。
生き返らせるどころか、混乱させ、あるいはしばしば致命的なものになって、ひどい言葉で相手の心を殺すこともある。実に対照的なことを最初に書いてある。今の首相や大統領が言った事も数年もしないうちにほとんどの人は忘れているだろう。
しかし聖書の言葉は、あらゆる時代や災害、あるいは悲劇的なことなど一切を超えて残ってきた。それは、み言葉が完全であり、生き返らせる力があるからである。
次に「神の言葉は真実だ」とある。人間の言葉には絶えず嘘があり、誇張があり、不十分である。 しかし、神の言葉は完全なのであるから、おのずと真実だということになる。完全とはあらゆるよいものを含んでいることだからである。そして、神ご自身の最も重要な本質が、真実ということであるゆえ、その神から出てくる言葉も当然真実そのものだということになる。
そして無知な人というのは、口語訳では無学な人、関根訳では愚かな人と訳されるが、神の言葉は、無学であっても、またいろいろの出来事に無知な人であっても、英知(叡智)を与える。英知とは、真理を認識する能力、洞察力を言う。 新共同訳で「知恵」と訳しているが、聖書の本来の意味は「知恵」とは相当違った意味である。「知恵」は、悪知恵とか、知恵をつけてやるとか、しばしば悪い、否定的な意味でも使われる。
しかし、ギリシャ語では「ソフィア」である。(*)
そしてこのソフィアを愛する(フィロ・ソフィア)、言い換えると、真理を愛する(フィレオー phileo)ことこそ、ソクラテスやプラトンが生涯を通じて追求し、ソクラテスはそのために死刑を甘んじて受けたのであった。そのような真理を愛する精神であるにも関わらず、それが、一般の人にはほとんど使われず意味がわかりにくい「哲」(聡いという意)と、学を結びつけ、「哲学」と訳されてしまったので、固い学問だ、と思い込まれることにもつながった。「…学」と「…愛」では全くことなるからである。
(*)英知とは、上から来るものでありその重要性ゆえに、大学の名前に、上智大学というのがある。(これを「知恵大学」などとすると、何かテレビの娯楽番組に出てきそうな名前になってしまうことからも、知恵と英知ということでは日本語のニュアンスが大きく異なるのがわかる。なお、この大学の英語名は、SOPHIA UNIVERSITY であり、ソフィアを、神に由来する叡智としている。)
このように無学な人にも、深く神のことを直感的に理解する洞察力が与えられる。神のことを深く知るということは、学問がなくても、大事なものを見抜き、本当に価値があると認識する能力を与える。神はこうした叡智に関しては、平等に人間を創っており、文字すら読めない人たちにも、英知は与えられてきた。
キリストの弟子の4~5人は漁師であって、学問もなく、文字も読めなかったのではないかと思われる。しかし、キリストに出逢い、聖なる霊を受けてからは、このような英知を与えられた。ヨハネ福音書など、その深遠な内容は、まさに学問でなく、経験でもなく、神からの直接の啓示が与えられたものだと感じさせられる。
9節では、神の言葉はまっすぐで清らかであり、喜びを与える。このように神の言葉と言うものは完全な力を持っているから、3,4,5節であったように、不思議な力が伝わっていく。一見前半は自然界のこと、後半は神の言葉のことに見えるが、実は奥ではつながっている。
私たちの目に光を与えるものは何か。目に見える世界では、それは太陽である。そして、霊の目、心の目に光を与えるものは、霊的な太陽というべき神であり、その神の言葉である。
太陽の光そのものがなくなればたちまち闇となって歩くこともできないし、気温も零下100度以下となって、凍りつく世界となる。
霊的な世界においても、神の光がないほど人の心は固くなり、よき働きができなくなる。真実な愛もなく、魂が冷えてくる。
… あなたのみ言葉は、
わが道の光
わたしの歩みを照らす灯。 (詩篇119の105)
12節からは内容が、大きく変わる。ここからは「わたし」という一人称の言葉が出てくる。11節までは個人的なこととははるかに離れた、永遠の真理や宇宙のことが言われていたが、ここからは個人的な語り方になっている。
大いなる神の宇宙の壮大な創造の力や、また神の言葉の非常に深い意味と比べて、その前に立たされた「わたし」は本当に小さなものである。
この作者が言おうとしているのは、罪の問題である。人間としては神の清い本質から、大きく外れてしまっているという認識である。知らずに犯した罪、隠れた罪、意図的な罪を12~14節で言っている。
知らずに犯した罪というのは、例えば日々出会う人や、ニュースなどで苦しみを受けた人々に対して祈らない、ということは、おそらく最も多く本人の気付かない罪と言えるだろう。あなたの隣人を愛せよ、といわれている。隣人とは、たまたま出会った人、学校や会社、近所などでいつも会っている人、町や電車などで出会う無数の人たち、そうした人はみな隣人であるがそうした人たちへの祈りをしない、ということは万人に注がれる神の愛に照らしてみるとき、それも罪ということになる。
なすべきこと、それはできることがいろいろあっても、怠け心や惰性に流されたり、この世のたのしみのために忘れているとかいくらでもある。しかし、それは多くの場合気付かれていない。
ここで言われている、「知らずに犯した過ち、隠れた罪」(13節)というのは、そのようなことを意味しているのであり、とくに他者への祈りと適切な対応ということについてはだれでも限りなくその罪が日常的にあると言えるだろう。
そうした隠れた罪以外に、知っていて犯していく罪もたくさんある。傲慢であってはいけない、自分のもっている財産、能力、何らかの才能などを誇ったり人間に頼るのはいけないと知っていてもつい、頼ったり誇ったりする。これらもまた日常的に起こっていることであり、知っていておかす罪である。
こうしたすべてのあるべき姿から遠く離れている現状において、この詩の作者は、そのような自分の心の現状が変えられることに対して深い願いを持っている。
… 私の言葉が、御旨にかない
心の思いが御前に置かれますように。(15節)
この二行はほぼ同じことを言い換えている。詩篇にはこうした書き方が多い。
私の思い、考えが神のご意志にかなうように、という願いである。この願い、祈りこそは、万人の願いであり、また私たちが死の迫るときまで続く祈りである。
それゆえに、主の祈りにも、この祈りが含まれている。
…御心が天に行われるとおり、地にも行われますように。…
ここで、御心と訳されているのは、意志という原語であり、神のご意志がこの地上でも行われますように、すなわち、愛に満ちた清いご意志、永遠に変わらない正しいご意志が行われるようにとの祈りである。
人間は、どうしてもこのような祈りと反対の自分の意志、自分の考えを通そうとする。そこからあらゆる怒りや憎しみ、妬み、また奪い合い、戦いなどが生じてくる。
そして死後のことにも、自分という人間の狭く小さな考えを中心にして死後などないのだ、と考えたり、この世は悪が勝つのだ、と思い込んだりしてしまう。これらはすべて、神のご意志より、自分の意志、考えを第一に置くところからくる。神のご意志は、神があらゆる悪に必ず勝利する、ということは明白なことであり、聖書全体にわたってそのことが至る所で記されていることだからである。
そしてこの詩の最後に神に向かって、「わが岩、わが贖(あがな)い主よ」との呼びかけでこの詩は終わっている。贖う、これは日本人はたいていこのような難しい漢字を使わないし、その意味も不明だという人が圧倒的に多いであろう。
「贖う」と訳された原語は、家屋を「買い戻す」(レビ記25の33)とも訳され、また、人々をエジプトの苦役から救いだすという意味で、贖う(出エジプト記6の6)とも言われている。
自分はさまざまの罪の中に閉じ込められた状態でそこから逃れることができない。ただ、神のみがそのような状態から救いだすことができるという作者の経験と信仰がある。
このようにこの詩は前半には自然と神の言葉、そして後半は人間と神の言葉に関する真理が記されている。それぞれ深いかかわりがあるということである。
宇宙全体において、神の言葉はたえず出されている。
そしてそのような宇宙的な力を持つ神の言葉は、また弱い一人一人の人間の罪深い本性にも語りかけられていて、その罪を赦し、そこから救いだすという力を持っている。
この詩の後半では人間全体の問題である罪を、自分の内なる経験として深く感じ取ったことを記している。
この詩において自然の世界、神の言葉、そして人間の問題がここに圧縮されている。
自然のことに関心がある人は前半に、神のことに関心のある人は真ん中に、罪の問題に悩んでいる人は最後のところからというように、どこの箇所からでもいろんなものが掘り出されるという非常に奥の深い詩である。
神曲・煉獄篇第33歌
煉獄篇の最後の歌である。ダンテは煉獄の最後の箇所に なにを、どんな目的で置いたのであろうか。
最初に、ある時は3人、あるときには4人となって現れる天女たちが現れる。そのうち4人は、キリスト教の世界以外では、特別に重んじられてきた人間のあるべき姿を表している。それは、正義、英知、勇気、節制である。このうち、英知は、なにが永遠的な真理であるかどうかを見抜く能力であり、勇気とは正義に向かう力であり、節制とは、ギリシャ哲学では、ソーフロシュネー
を日本語で節制と訳している。しかし、このギリシャ語は、理性的なこと、思慮のある状態を意味しているのであって、日本語の節制という語で連想するような、食事に節制をする、といった日常的具体的なことではない。万事において、理性的に判断できる力を意味している。
それゆえ、この4つの人間のあり方は、いずれも精神的な力が根底にある。正義も悪の満ちたこの世において、力なくしてはわずかでも実行できない。ソクラテスは、不正な現実の政治に対して勇気をもって正しいあり方を示したために、死刑になった。そのようなことをも恐れず覚悟して発言、行動することが正義であり、それは勇気と深くつながっている。
また、英知は、やはり何が価値あることなのかを見抜く力でもある。お金や長生き、安全のために正義を捨てることは英知的ではない。真の英知に生きる姿は、現実の悪に対して明確に否をあらわすことなのである。節制と訳されている言葉も、感情や欲望を理性的に支配していく力を意味している。
このように、ギリシャ哲学が最も人間のあり方として重要視していたのは、こうした理性的な力だということがわかる。
そうした4つのあるべき姿に対して、3つのキリスト教におけるあり方が新約聖書に示されている。これが3人の天女によって象徴的に表されている。
それが、信仰、希望、愛である。ギリシャ哲学におけるあり方がいずれも思索を伴う力であったのに対して、このキリスト教における究極的な人間の魂のあり方は、いずれも思索も力もないものにも与えられるものである。理性的な判断力がなくとも、また、病気の苦しみや罪の悩みにたちゆかないほどになっていてもなお持つことができるのが、このキリスト教における信仰、希望、愛なのである。力がないからこそ、信じて求める、自分は正義も力もないが、ただ信じて求めるだけで最善のものが与えられる、という希望、さらに自分には愛がない、しかしこれも心から求めるだけで与えられるのが愛である。
ギリシャ哲学での4つが人間の固有の力にあるのに対して、キリスト教の3つのものは、何もないところに神から与えられるものだという大きな違いがある。
こうした地上的、そして天上のあり方を指し示す天女たちが歌っていたのは、詩篇の賛美である。
… 神よ、異国の民があなたの民を襲い
あなたの聖なる神殿を汚し
エルサレムを瓦礫の山とした。… (詩篇79の1~)
なぜこの詩篇の賛美が歌われていたのか、それは、当時のキリスト教会がやはり様々の闇の勢力が入り込んだために荒らされ、危機に瀕していたからである。ローマ皇帝はローマ法王にいろいろと領地を寄進したり、またフランス王がローマ法王に圧力を加えてローマ法王の座が、70年もの間、ローマからフランスのアヴィニョンに移されていたほどであった。こうしたキリスト教世界の混乱を天女たちが悲しみつつ歌ったのである。
それと同じように、神の愛と真理を象徴するベアトリーチェは、嘆きとあわれみの表情をもってこの賛美に聞き入っていた。
そして十字架につけられようとするわが子イエスを見つめる母マリアのような深い悲しみをたたえた表情となった。
しかし、その後教会や政治の不正への聖なる憤りと、そうしたすべてにうち勝つ神の力と約束を確信し、赤く燃えるように見えるほどに表情が変化した。そして、この世の現実の荒廃を歌った先の天女たちに答えて、次のように言った。
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」(ヨハネ 16の16)
これは 最後の夕食のときに主イエスが言われたことである。イエスはまもなく十字架にて処刑される。そして地上にいなくなる。しかし、しばらくすると、聖霊というかたちで再び会うことができるということを予告したのであった。
そのことは、実に喜ばしいことであり、いかに現実の世界や教会が腐敗しようとも、必ず再生するという確信がここにある。ベアトリーチェが顔を炎のように赤くしつつ語ったのは、この現実が時至れば必ず裁かれ、再生することを洞察していたからであった。
真理は、不滅であり、どんなに衰退するように見えても、それは一時的である。このことは、永遠の神、正義と万能の神がおられるということから、おのずから出てくることである。
煉獄篇第32歌で記されていた不思議な出来事の意味をベアトリーチェが説明する。
その内容は、ローマ皇帝が、キリスト教会に寄進をしてみずからの力を誇示し、言うままに支配しようとした。またフランス王もローマ法王庁をローマからフランスのアヴィニオンに移してしまうなど、権力にまかせて真理を踏みにじっていた。
こうしたこの世の混乱は必ずその時が来て、神の正義が行われる。ベアトリーチェは次のように、これからおきることを予告する。
…蛇が壊した器はいまはない。(*1)
その罪を犯した者に
神は必ず罰を与える。
教会をあらわす車に羽を残した鷲は、(*2)
いつまでも世継ぎがないということはない。…
私の目には未来がはっきりと見えている。
いかなる妨げをも超えて、星が上ろうとしている。(*3)
(*1)蛇とはイスラム教とされ、イスラムがキリスト教会を壊したという意味。その教会(ローマ法王庁)が、フランス王によってローマからアヴィニオンに移され、ローマにはなくなったということを指している。
(*2)鷲は、ここではローマ皇帝。羽とは、ローマ皇帝が、教会に寄進した領地などを意味する。
(*3)ここで星が上るとは、神のご意志に沿った新たな皇帝が現れること。
現実がいかに腐敗し、キリスト教会が混乱していても、神は正しい皇帝を起こすという確信である。そうした確信はときに覆されることがある。現実に予想したことが生じないで、悪しきことが次々と起こるということがある。ダンテもそのことを経験することになる。
それでも、キリストの精神を受けたものは、いかに予想外のことが起ころうとも、内に住んで下さるキリスト、あるいは聖なる霊が、新たな希望を目覚めさせてくれるのである。
ベアトリーチェは、そのように予告したあと、以前に見た不思議な木について述べる。それは樹の下方には枝がなく、上にいくほどに枝が繁っているという特殊な形をしている。容易には登れないのである。しかも葉も実も一つもないという異例の木なのである。
この木は、律法とローマ皇帝をも象徴していると言われる。かつては、安易にその実を食べて大いなる罪を犯し、神の備えて下さった安息の地から放逐された。
これは、律法というものは、人間の背きによってよきものをもたらすことができなかったということを表している。言い換えると、葉も繁らず、実を結ぶこともなくなったということを象徴したものである。それが再び葉をつけ、実を結ぶようになったのは、キリストが来られることによってであった。
さらにこの木はローマ帝国あるいはローマ皇帝をも象徴していると考えらている。これらは神の都として、また神の僕として特別に神に選ばれたものであった。しかし、彼らが神の真理に背いたがゆえに、葉や実は何一つない枯れた木となってしまった。そうしたローマの現状をもこの特異な木が示している。
また、ローマ皇帝という地位も本来は、神から権力を与えられている神聖なる地位であるにもかかわらず、それを自分の欲望のためにその木の実を食べようとする者には、必ずさばきがある。
神が植えた木の神聖さをわからせるために、煉獄に置かれた木は、簡単には上れないようにされている。
ダンテは、ベアトリーチェがこのようなことについていろいろと解きあかしても理解することが困難であった。ダンテはベアトリーチェに問いかける。
…私が切実に待ち続けていたあなたの言葉は、
理解しようと努めれば努めるほど,遥かに高く翔って私の視界を超え、とらえようと目を凝らすほど、見失ってしまうのはなぜなのですか?
キリスト教の世界、聖書的な真理の世界は、ダンテがかつては熱心に学んでいたアリストテレスなどのギリシャ哲学をどんなに学んでも、理解に近づけない。キリスト教以外の世界においては最も権威あるアリストテレスの哲学ですら、聖書とキリストの真理にはどうしても達することはできないというダンテの経験がここに見られる。
このことは、現代においてもそのまま言える。 現代の科学技術とか哲学、学問、慣習、伝統などいかにそうしたものをもって究極的な真理を究めようとしても到達は決してできず、それらの学問などを追求してもなおさら真理は見失ってしまう。
このことは、二千前に主イエスが言われていたことである。
…するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた。
「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。(ルカ18の16)
ダンテが、理解できないとの疑問を聞いたベアトリーチェは、次のように言う。
…お前たちの道が 実は神の道から、ちょうど
最高天でまわる天が地球からへだたっているほど、
離れている…(87行~90行)
ダンテ自身は、彼の与えられた才能を十分に用いて真剣に思索し、学んできたアリストテレスなどの哲学であったが、それは、いわば地上の道であり、神の道とは相いれない。
ここに、哲学や科学的な思考、詩作、女性への愛…地上的なあらゆるものに関心を持って知的な探求と政治的な実践にも加わってきたダンテであったが、ようやくその限界を思い知らされたのである。神曲を読むと、じつにさまざまの地上のことが題材とされている。それほどこの世のことに深く関わってきたのがダンテであったが、そうしたことを通して、聖書の啓示がいかに深いものであるかを知らされていったのがうかがえる。
このことは、現代の私たちについてもそのままあてはまる。幼いときから学校教育を受ける。相当数の者が今日では大学まで進学する。それらはすべてダンテがその限界を深く悟ったこの世の道である。
日本においては、神の道というのがまったく教えられないばかりか、神そのものなどいない、というのが大多数の人間の気持ちである。それではどんなに大学で勉強を積んでも、企業や大学でいかに研究をしようとも、神の道には、いつまでたっても達することはあり得ない。
こうした応答を重ねているあいだに、一行は、二つの川が流れだしているところに近づいた。
一つの川の名前は、すでに煉獄篇28歌で出てきたレーテの川である。すべてを忘れる川、完全に忘れることができるのは、神の力による。
罪赦され、聖なる霊を受けなかったら、私たちは過去の悪しきこと、人から受けた不正、その人への反感、憎しみ、あるいは、自分への敵対行動によって苦しめられた等々の傷を忘れることができず、心に深く残ったままとなるだろう。
そうした傷が心のなかに満ちているという場合もあるだろう。
しかし、それらすべてを消え去るようにしてくださるお方、それがキリストなのであるが、レーテの川はそうしたことを暗示するものとなっている。
そして、もう一つの川、それはエウノエ(よい理性的な考え)という名であった。(*)
(*)エウとはギリシャ語で 良い という意味の接頭語、ノエは、ヌースに由来する言葉で、理性を表す。
この川の水を飲むことによってダンテは、良きものが思いだされるようになる。この世には悪しきものが満ちているから、よいことより悪しきこと―他人や自分の―が思いだされるということが多い。しかし、エウノエの水を飲むことによってよきものが限りなく浮んでくるように変えられる。それゆえにこの水はいくら飲んでも飲み飽きることがないと記されている。
これこそ、新しい命である。この水を飲んだときダンテはどのように変えられただろうか。
新緑の木の葉を新しくつけた若木のような清新なすがたとなった。
新緑、新しく、清新なというように、日本語訳でも新しくされるということが繰り返されているのがわかる。
エウノエの水を飲むことによって、このようにそれまでのあらゆる汚れや魂のなかの暗いものなどすべてが洗い流されていく。
私たちも、またこのダンテと同じように―たとえその程度は少しであっても―新しくされ、清新な緑、希望の色をまとわせていただくことができる。 キリストのような栄光に輝く姿とはまさにそのことである。
そのような清めを魂のうちに十分に受けたダンテは、星々をさして昇ろうとしていた。
煉獄篇もまた、星々(stelle)という言葉で終わっている。
私たちの日々も生涯のミニ版であり、もし真剣に神とキリストを見つめているときには、日々新しく、新緑のようにされて、星々―高みにおられる神、神の国―を目指す歩みを続けるものとなる。
水野源三の詩 から(*)
平和
住む国も
話す言葉も
考える事も
それぞれ異なる
何十億の人々が
父なる神さまの
みもとに立ち返るように
朝に祈り
夕に祈る
(*)水野源三(一九三九~一九八四)九歳のときに、赤痢にかかり、命はとりとめたが全身が動かなくなり、言葉も出なくなった。後にキリスト信仰に導かれ、まばたきをもって、母親が示す五十音図の単語を示して詩を作るようになった。この詩は、「み国をめざして
水野源三第四詩集」262頁より。
・祈りは個人的なこと、身近な人に向けられたものもあるが、他方、この詩のように、狭い部屋で寝たきりのようになっている状態にあっても世界の人たちが神のもとに立ち返るようにと祈ることができる。
主イエスが、「御国が来ますように、神のご意志が天に行われているように、地上でもおこなわれるように」と祈れと教えられた。その主イエスの祈りの精神は、この詩においても流れている。
私たちもまた、その祈りの心がいつも流れているようでありたいと願う。
秋
百舌は
秋の朝を喜び
赤とんぼは
秋の空を喜び
こすもすの花は
秋の陽差しを喜び
秋にやさしくやさしく
包まれている私は
神さまの
恵みを喜ぶ
・寝たきりの身ゆえに、窓から見える数少ない風物からではあるが、作者は秋の自然から喜びの声を聞き取った。多くのものに触れたからといってより多くの神からのメッセージを聞き取るということではない。どんなに小さくとも、狭い範囲であっても、神とともにある静けさがあり、聖なる霊が宿っているときには、取るに足らないような身近な自然、日常的な事物からも神による喜びを聞き取ることができる。
○芭蕉の俳句から
閑かさや 岩にしみ入る蝉の声
・この俳句は、すでに学校教育でも広く取り上げられているからだれでも知っていると思われる。
この俳句が作られたのは、芭蕉が、山形県の立石寺を訪ねたとき、夕刻であった。
「…岩に巖を重ねて山とし、松柏年ふり、土石老いて苔なめらかに…佳景寂莫として心澄みゆくのみ覚ゆ。」とある。
このような自然の深い静まりのただなかに蝉が鳴いており、それは付近一帯の岩にしみ入っていくのを実感したのであろう。
このような昔の詩人が作った俳句は現代の自分とは関わりあるものとは思われていないことが多い。
しかし、岩にしみ入るとは、そのような山中の特殊な場合だけでない。
私たちの心も岩のようなもので本来なかなか良きものが入っていかない。しかし、そこに主にある静けさがあるとき、岩のごとき魂にも周囲の自然から、また聖書のなかから、あるいはキリスト者の集まりの中からもさまざまのよきものがしみ入ってくる。
ことば
(347)若葉の一つ一つに
神は
復活の約束を
聖書のうちばかりでなく
春の若葉の一枚一枚に書き記しておられる。(マルチン・ルター)
・次のように言うこともできるだろう。
神は、夜空の星の一つ一つに永遠の光の存在と、罪清められたのちの姿をも書き記し、野草の花の一つ一つに救われた魂の姿を書き込んでいる…と。
自然の事物は、神のさまざまの思い、ご意志、その約束を書き込んだものであり、一種のバイブルなのである。
(348)神のために生きる
…魂のために、真理に従い、神の言葉に従って生きていると言った百姓の言葉を耳にすると同時に、おぼろげではあるが、意味深い考えが群れをなして、今まで閉じ込められていたところから、急に飛び出して来たかのようであった。
そしてそれらの考えは、みな一様に、一つの目的に向かって突進しながら、その輝きで彼の目をくらませつつ、彼の頭の中で渦巻きはじめた。…
百姓の言った言葉は、彼の心に、電気の火花のような作用を起こして、これまで一時も彼をはなれたことのない、断片的な地のない、ちりぢりばらばらのおびただしい考えを、突如として変形させ、ひとつのものに結合した。(「アンナ・カレーニナ」トルストイ著588頁 河出書房)
・これは、この著作の終末部に近いところで、主人公が次第に神への信仰に目覚めていくところである。長いあいだ、この主人公(レーヴィン)は、自分とは一体何であるのか、何のために生きているのか、ということがわからずに生きてきた。それが分からなかったら生きていくのは不可能である。ところが自分はそれを知らない、だから生きていくことはできないのだ…と考えていた。
そのような精神の暗闇でさまよっていたとき、ようやく光が射し込んだのである。生きていくとは、真理そのもの、神の言葉に従って生きていくことだ、そのために自分はこの世に存在しているのだ、ということがはっきりとわかってきたのである。
細かい字で三段組みで600頁を越すこの長編の目的は、この最後のところにある。この生きる目的を知らずに、あるいはそれに意図的に背を向け、自分の欲望や自分の意志によって生きていこうとしたとき、いかに深刻なさばきを受けていくか、それがアンナの生涯―最後は列車に飛び込む―で象徴的に示されていく。
この長編の最初の扉に書かれている言葉は、「復讐は我にあり、我これを報いん」(ローマの信徒への手紙12の19)である。神のために生きようとしないときには、必ず神によって裁きを受けるということなのである。
そういう裁きを受けることなく、ただ信じるだけで与えられる救いを皆が受けられるようにと、キリストは来られ、十字架にかかられたのであった。
休憩室
○木星
この頃、夜11時ころになると、東から澄んだ輝きの木星が現れてきます。これからかなりの期間、少しずつ見える時刻ははやくなっていきつつ、その光を私たちに見せてくれます。
その、私たちを見つめるような輝き、このところずっと台風などの影響のため、晴れる日がなく、見ることができなかったので、ずいぶん久しぶりに見たその木星の輝きはとくに心に入ってきたのです。
雨上がりの月のない夜、澄みきった東の空に、輝くその透明な光は、その単純さ、清らかさにおいて他のどんなものにもまさるという感じがします。
編集だより
来信より
・詩篇のCD(*)受領しました。創世記のCDは、家族で週に一回ずつ、ルカ伝のCDは、妻と二人で、ヨハネ伝はこども会の準備のときに、詩篇は、私一人で少しずつ。
聞く人にわかりやすくなるように、心がけておられるのがよく感じられます。
私も年に何回か、子供たちに話す機会がありますが、わかってもらえるように、と思いました。(関東地方の方)
(*)ここで言われている詩篇とか創世記CDというのは、徳島聖書キリスト集会から発行している、吉村孝雄による聖書講話CDです。不十分なものですが、み言葉のため、その学びのために用いられていることは感謝です。
・…「いのちの水」誌などは、聖書のみ言葉を学ぶだけでなく、社会状況の中での信仰のあり方なども学ぶことができますので、心より感謝しております。今回は、貝出姉の詩集や「集会だより」をも郵送くださり重ねてお礼申し上げます。今後も、「集会だより」をも送っていただければ幸いです。…
私はいまだに怒りを持ったまま生活をすることが折々にあるので、このような弱き信仰で大丈夫なのかと不安を覚えることが多々あります。
それゆえに少しでも多く学ぶことに努めておりますので、「集会だより」もその教材の一つとして読ませて頂きます。
私は以前より、無教会の方々の活動に大変興味をもっておりましたし、今でもその気持ちは全く変わりません。…
唯一の神様のもとにあれば、さまざまの方法での奉仕があるようですので、私のできる働きの道も絶対にあると信じております。…(四国の方)
・先の聖書集会にて、主イエスのゲツセマネの祈りのときに、弟子たちがみな眠っていたこと、それは「眠りこけている教会(集会)」の有り様を象徴しているとのご指摘に、共感させられています。
見るべきを見、語るべきことを語るため、主イエスからの聖霊の恵みを祈らずにはいられません。
このたびは、「光のかけら」(詩集)、「集会だより」をもお送りいただき、誠にありがとうございました。
また、「いのちの水」誌によっていつも新しく目を覚まされて、心から感謝いたしております。「集会だより」も今後ともお送りいただければ幸いです。(北海道の方)
・「放射能について無関心でいてはいけない」と皆に言いたく思います。万(よろず)の神々に手を合わせて何の疑問をも持たない人々が、真の生きて働く御神様に手を合わせることができますように願ってやみません。(東北地方の方)
・小出裕章著の「隠される原子力」など読んで、いろいろと知らないことが多くて、今までこんなにたくさんの事が知らされない間に原発が進められていたことを大変恐ろしく感じております。
今月「いのちの水」誌とともに同封されていた「電力不足は克服できる」という記事に勇気づけられました。何もできない私ですが、少しでも何かの力になりたいと祈り願っております。(関東の方)
・「いのちの水」誌に加えて集会だよりをお送りくださりありがとうございました。北海道の瀬棚は、現在では、第二世代に新しい入植者が加わって祝福を受けているようです。
1997~8年頃は、若者たちが結婚を前にして喜んでいましたが、現在では、今を背負う大人に成長し、一家をなしている様子は頼もしい限りです。 写真に写っている子供たち(集会だより8月号の)も第三世代へと成長するのがたのしみです。(関東の方)
・毎回、自然のすばらしさからいただく単純で美しい清らかさ、私も自然が大好きで、淡路島の見える明石海峡に沈む夕日から神様の愛と明日への希望をいただいております。
天国にいる主人とも会話できるひとときでもあります。 (関西の方)
お知らせ
○本の紹介
○10月9日(日)は、吉村孝雄は、神戸市の阪神エクレシア、大阪府高槻市の高槻聖書キリスト集会にて聖書講話を担当する予定です。
○前号でも書きましたが、「野の花」文集の原稿は、すでに送られてきていますが、10月末までにお送りください。
○詩篇の聖書講話などを聞くためのMP3対応 CDラジカセを求める方々が県内外でも続いて幾人かありました。これは、従来のCDラジカセと変わりなく操作できるので、パソコンを使用していない方々も、MP3対応のCDを聞くことができます。
大型電器店でもふつうのCDラジカセはたくさん置いていますが、MP3対応のものは、どこの店でもほとんど置いていないのです。それで、購入できない方々のために、ご希望の方には、私(吉村孝雄)からお送りできるようにしています。
価格は、8000円です。
また聖書全巻の朗読のCDはやはりMP3対応のものが、日本聖書協会から発行されていますので、聖書そのものを朗読で聞きたいという方は、MP3対応
CDラジカセがあれば、このMP3版 聖書CDを購入されると聞くことができます。新旧約聖書全体の専門家による朗読が、わずか6枚のCDに収録されています。
○新共同訳 録音聖書MP3版 本文テキスト表示つき
10,500円(税込)10,000円(本体)日本聖書協会発行。
徳島聖書キリスト集会案内
・場所は、徳島市南田宮一丁目一の47 徳島市バス東田宮下車徒歩四分。主日礼拝は毎週
(一)主日礼拝 毎日曜午前十時30分~(二)夕拝 毎火曜夜七時30分から。他に 各地で家庭集会。