兄弟愛をもって互いに愛し、…希望をもって喜び、 苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。 |
・2012年10月620号 内容・もくじ
秋、それは澄んだ大空、植物としてはコスモス、そしてヤマシロギク(山白菊)やノコンギク(野紺菊)などのさまざまの野菊、庭に咲く園芸種の菊、穀物や果物などの実りを思いだす。
それとともに、夜の虫の音が秋と深く結びついている。
夜、急な山道を少し登ったところにあるわが家には、虫たちの讃美が響く。
その澄んだ響き、とくにマツムシやエンマコオロギたちの歌声は、あの薄い羽からいかにしてあのような美しい音楽が生まれるのかと不思議さと驚きを呼び覚ましてくれる。あの羽をとってこすり合わせても、人間がどんなにこすり合わせようともあのような大きな音を出すのはできないからである。
こうした不思議は自然界にはいたるところに見られる。
鳥たちが空を飛ぶということも、柔らかな羽を前後左右、上下などに動かすだけで、例えばツバメは時速50キロから最高で200キロほどもの速さで飛ぶというが、ロケットのように気体を噴射するのでもないのに、翼の上下左右などの運動をすることによって空気を押す力の反作用で、あの重さの体で飛ぶことができるのか、実に不思議なことである。
身近なバッタにしても重い体をあのおりたたんだ羽をつかってどうして飛ぶことができるのか、またチョウも、アオスジアゲハやイシガケチョウのように、スピードを出してさっと飛ぶチョウもいる。あの大きな羽をいかにしてあのような速さを生み出すことができるのか…単に上下左右にばたばたと動かすだけでは空気抵抗のために飛び上がることすらできないし、水平方向に進むなども到底できない。それを効果的に上昇や自由自在に飛翔するためには、きわめて精密な羽の動きがなければならない等々、身近な生き物たちは、じつは無限の神秘に包まれて生きているのである。
次のような話がある。
…昆虫が飛ぶその姿に接して、一人の昆虫学者は、その仕組みを知ろうと研究する。しかし、研究すればするほど不思議な事に、その昆虫は羽と胴体の大きさの比率、羽の振動数など物理的な数値から判断すると、その昆虫は飛べるはずがないという結論に達してしまう。けれど、その昆虫はみな自由に空を飛んでいる。その学者は、それでも考えて、こう結論付ける。昆虫は飛べる事に少しの疑いを持っていない、もし、少しでも疑えば、即座に飛べなくなってしまうだろうと…。
こんな話があるくらい、虫が飛ぶということだけでも実に不思議な不可解なことなのである。
それゆえに、人間が飛ぶことをまねようとして造り出したものは、航空機のような巨大なものでしかなく、チョウや鳥たちのような翼は造り出すことができないのである。
秋の虫たちのコーラス、それは夜の空間に響いているだけでなく、じっと聞き入るときには、私たちの魂にもしみ通ってくる。そこにも不思議がある。あのような澄んだ歌声は虫たちの生存や繁殖にかかわっていることはあろうが、それとはまったく別に、人間の魂に対して、神の国の響きの一端を知らせるために造られているのである。
夜更けに、大きな川のほとりを、集会からの帰りに歩くことがある。河川敷の草むら一帯に響くさまざまの虫たちのコーラス、それはその清い美しさという点では、人間の交響楽団の演奏よりはるかに勝る。
交響楽団なら、ひとたびその人間的側面を思い見るとき、その構成員はさまざまの悩み、願いもあり、また能力などの点でそこに入れなかった人の悲しみや不満、選曲や演奏会場に関する問題、経営の費用その他、また演奏者や指揮者の人間的なものもそこに混在してくるが、虫たちには何らのそうした人間的なものはなく、そのコーラスの指揮者は神ご自身であり、その響きは、神の国から漏れ出てくる光のようなものである。
私たちは、文字で書かれたものとしては聖書を読むことによって、生涯、神の国からのメッセージを聞き取ることができる。
他方、大空や星、そして動植物たち―そうしたさまざまの自然は泉のように、神の直接の被造物であるゆえに、神のわざを指し示し、また神の国に属する力やいのちの水を注ぎだしているのである。
聖書において、白髪と言えば、次の詩を思い浮かべる人は多い。
…わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。
わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。(イザヤ 46の4)
ここには、老年となって体も弱くなり、仕事もできなくなってだれも相手にしてくれなくなったときであっても、神は私を愛し、導いてくださる。神はいかなることがあろうとも、私たちを造られたゆえに最後まで担ってくださる。この確信が込められた言葉である。
原文には、「私が」という言葉が、5回も繰り返し使われているのであって(*)、わずか1節にこのように強調され繰り返し言われている箇所は、聖書にはここだけである。
(* )日本語訳聖書では、「私」という語は、2回しか現れていないが、英訳聖書などでは、原文の1人称が繰り返された表現がよく表れている。次の英訳では原文の調子がはっきりと現れるように、「私」をさらに1回増やして訳しており6回使われている。
… Even to your old age and gray hairs I am he, I am he who will sustain you. I have made you and I will carry you; I will sustain you and
I will rescue you. ( NIV)
このように異例の強調表現をしたほどに、神が必ず私があなたを担って、支えて白髪になるまで導き続ける―ということを預言者イザヤは疑うことのできない明確さで啓示されたのであった。
神は愛であり、それゆえに弱さを顧みてくださる神であるからこそ、このような確信が記されている。
このような白髪まで支え、救うという神の愛への全面的な信頼の心に対して、神を知らない人の場合には、どうなるか。その一端が、次の有名な中国の詩に表れている。
白髪三千丈、
縁愁似箇長。
不知明鏡裏、
何処得秋霜。
・読み方
〔白髪三千丈、愁いに縁りて箇くの似く長し。知らず明鏡の裏、何れの処よりか秋霜を得たる。〕
・意味
白髪の長さは三千丈、憂いのためにこんなにも長くなったのだ、明るく澄んだ水面にうつる、この真っ白な秋の霜(白髪)はいったいどこから降ってきたのか。
この詩は、李白の詩として有名だが、一般的には最初の一行だけがよく知られ、中国的な誇張された表現ということでしか受け取られていないことが多い。
しかし、もともとの意味は、長年の憂いのために頭髪が白くなり、伸び放題になったことであり、心配や悲しみが積ることを表している。
これは、老年とは過去の憂いが積もり重なり、さらにその憂いが今後も続いていくことが予見され、そのために頭髪を短く切ることさえ忘れるほど…というのである。
そして、これは若くて元気なときにはまったく分からないことである。老人になったら…と想像はしても老年のわびしさや足腰が弱り、視力や聴力、理解力等々すべてが衰えていき、病気が次々に生じる不安や孤独、これからの生活の苦しみなどは実感することができない。
この白髪三千丈ということは、単なる誇張でなく、憂いの長さ―人間の憂いや悲しみというのが消えることなく続いてきたし、これからも続いていくという不安、希望なき前途が背後に感じられる言葉なのである。
人間がもし愛の神を知らないなら、だれでもが魂の奥深くで感じる不安をこのような形で浮かびあがらせたということになる。
心配や不安、憂いがそれほどまでに積み重なっても、除いてくれるものがないのがこの世なのである。この世を見つめても見つめてもさらにそれは積み重なるからである。
天を仰ぎ、私たちの憂いの根源となる私たちの罪を除いてくださるお方を仰いで初めて、その長く積み重なった憂いや悲しみが取り去られるのである。
詩篇23篇にある次のような魂の世界と、この憂いの積み重なる世界と、いかに異なっていることだろう。
主はわが牧者、
そのゆえに私には乏しいことがない。
主は私を緑の牧場に伏させ
憩いの水際に伴いたもう。
たとい死の影の谷を歩むとも、
災いを恐れない。…
命あるかぎり
恵みと慈しみはいつも私を追ってくる。
主の家に私はとどまり、
生涯、そこにとどまる。
私たちは、憂いの積み重なる老年でなく、この詩篇23にあるように、命あるかぎり老年にあっても恵みと慈しみが追ってくるような世界へと、一人でも多くの人たちが招かれるようにと願うものである。
一人の高齢の集会の参加者Kさんが召された。80歳だった。
その奥様であったM姉は、今から15 年近く前に、初めて徳島聖書キリスト集会に参加された。そのとき、エホバの証人に入って、彼等の布教活動に加わろうとしていたとき、その娘さんが、徳島から100キロもある遠隔地(香川県善通寺市)から車でわたし共の徳島聖書キリスト集会に同伴してこられた。私はその娘さんとは面識もなく全く知らない方であった。
私は、いかなる点が、エホバの証人の誤りであるか、キリスト教の真理とどこが根本的にちがっているのかを説明した。その後、まもなく意外なほどすみやかにM姉は、エホバの証人から脱会し、真のキリスト教へと導かれたのは、主の恵み深い御手のはたらきだと感じさせられた。
そのようなことから始まった私たちの徳島聖書キリスト集会との関わりが、いろいろな経過を経て次第に多くなっていった。さらに、香川県から徳島に転居されると、キリスト教とは無縁であり、関心もなかったご夫君とも、私どものキリスト集会でなされていたクリスマスイブのキャロリングの参加などから関わりが生まれてきた。
そして最晩年になって、県外のキリスト教の集会にもご夫妻で参加されることもあった。
それは、本人が行きたい、連れていってほしいと希望されたからであった。
そして老人施設に移られた後は、M姉が交通の不便なところであるにもかかわらず、時間をかけてバスに乗せて集会に連れてこられるようになった。
キリスト教を見向きもしなかった人が、このように、ガンと診断されて7年、8年も経ってだんだん心身が弱っている高齢者となったとき、奥さんに連れられて遠くまで不便なところを参加される―それは、なかなか一般には見ることのできない姿だった。
そこには、奥さんのM姉の主にうながされた熱意と愛があったのを誰しも感じた。そしてそのM姉をそのように支え、動かしたのは生きて働くキリストだった。キリストは、そのような不思議な力をもって人間を動かし、ご自分の方へと引き寄せられる。
ご夫君を昔から知っていた方々は、そもそもあんなにキリスト教嫌いであり、真言宗だと言っていた人が、どうしてキリスト教にかかわるようになったのか、ことに亡くなる2週間ほど前まで、キリスト教の集会に参加していたのか、と不思議に思われるのではないだろうか。
M兄は、ときにはよろよろしつつ歩くほどであり、ガンをずっとわずらっていたし、到底遠くまでバスに乗ったりして行けるような状態とは思えないほどだった。
しかも、召される直前に、「ありがとうございました」を繰り返し言っておられたという。この世の命の最後のときに、不満や怒り、あるいは絶望とか病気による無意識状態となって、この世を去っていくのでなく、「ありがとうございました」との言葉を残して死んでいくのは、ここにも不思議な神の御手が働いていたのを感じるのである。
そして、そこには、M姉の変ることなき、神への信仰とそこから生まれたご夫君への愛があった。
最晩年に、周囲の人がまったく予想しない人が、その家族の信仰とそこから生まれる祈りによって、キリストに引き寄せられる―それは以前にも集会の別の方々のことで経験させられたことだった。
最も身近な人の強い祈り、願いが時至って現実に聞かれる、かたくなな心も主によって変えられるということをこうした実例によって私も経験させていただいたことであった。
長い歴史の中で、数知れない人たちにこうしたことが生じてきた。
そしてこのようなことは、現在も各地で起きている。
どんなに神様やキリストに誤解を持って信じないといっている人であっても―私自身もそうであったが―神の霊の一吹きで変えられる。神の御手でしっかりと一人の人間の魂を捕らえられたとき、その人は根本から変えられていく。
歴史とは偶然や悪が支配しているのでなく、目に見えないけれど大きな御手で、その揺るがぬご意志でこの世界を動かしておられるのである。
私たちもそのことを信じて、周囲の身近なことから日本全体のこと、世界のことを祈り、御国を来らせてください、と祈りを続けていきたいと思う。
イエスが十字架で処刑されたときの状況は次のようであった。
…昼の12時に、全地は暗くなり、それが3時まで続いた。 (マタイ27の45)
それは、太陽の光が何らかの原因で実際に暗くなったということも含んでいるであろうが、霊的な意味において、神と同質なイエスというお方、その生涯は愛と真実に貫かれ、弱き人々を救い、癒し、導いてこられたにもかかわらず、最も重大な罪を犯した犯罪人として、十字架で釘を打ち込まれて死んでいく、という考えられないような不当な罰を受けて死んでいった状況を表していると考えられる。
善き人が殺される、迫害されるということ、それこそは、暗黒である。「真昼の暗黒」というタイトルの映画があったが、まさに、キリストの処刑は、真昼の暗黒であった。
十字架にかかる前に、さんざん侮辱され、つばをはきかけられる、茨の冠をかぶせられて王なのかとあざけられ、さらに鞭打たれた。
完全な人、その生きたすべてが愛と真実であった人にこのような残酷なこと、悪の極みのようなことがなされること、そこにこの世の暗黒が示されている。
しかし、聖書が言おうとしていることは、そのような暗黒がすべてを支配しているのでなく、その暗黒のただなかを、神の御計画が進行していくということなのである。
ローマの百人隊長が、イエスの死の状況をまのあたりにして、「この人こそは、神の子だ!」(* )と確信したのは、まさに啓示である。
(*)「神の子」とは、聖書においては、神と等しい本質をもったお方、という意味で用いられている。単に、神が造った人、ということではない。イエスが神の子だというだけで、当時の祭司長や聖書学者たちは、神を汚した、冒涜したと最も重い罪を犯したとされたほどである。(ヨハネ10の33~36 )日本語では、一部の宗教で言われているように「神の子」と言えば人間だれでも神の子というように受け取られることが多いが、聖書では、そのような意味では用いられておらず、神とキリストを信じ、聖霊を与えられて初めて神の子どもとしていただける。そうして初めて、神をお父様と呼ぶことができるようになる。
12弟子の一人、ユダがイエスを裏切って最後の夕食の席を立ったとき、とくに記されているのは、「時は夜だった」(ヨハネ13の30)ということである。
ヨハネによる福音書では、ほかの福音書とちがって、さまざまの言葉や表現がしばしば深い霊的な意味をその内に秘めている。ここでも、「夜であった」というひと言は、サタンのはたらきが迫っていて、イエスを激しい苦しみに襲わせ、かつそれが3年間も身近で過ごしてきた弟子の一人が、イエスを金で売り渡すということをしようとしている。それはまさに深い闇。そしてユダ自身の心も闇であった。
すでに主イエスはこの直前に、次のように言われていた。
…イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの中にある。暗闇に襲われないように(*)、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。(ヨハネ 12の35)
(* )新共同訳は、暗闇に追いつかれないように…と訳されているが、原語のカタランバノーは、ランバノー(取る、つかむ、捕らえる)の強調形で、捕らえる、掴む、襲う、うち勝つ、強く心に受け取る(理解する)といった意味に用いられている。
…わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。 ( ピリピ2の12)
ユダが、この言葉で言われているように、闇に襲われ、悪の力に捕らえられたのであった。
現代の私たちも、つねに闇が迫っているのであり、うっかりするとその闇に捕らえられてしまう。そして神などいない、また祈っても何にもならない…などと考えるようになる。
イエスが処刑されたとき、全地が暗くなったといわれているほどに、闇の力が大きく迫ってきたのであった。
私たちの周囲にもそのような闇の力が迫り、良きものなどない、悪の力こそが支配しているのだ…と思わせることが生じることがある。とくに一人一人の心の中に、そして人間の集りのなかに、さらには国や民族といった大きな集団自体のなかに大きな闇が迫り、襲いかかることがある。
そうして、過去にさまざまの戦争が起こり、多くの人たちが殺され、傷つき、その後も長い間の苦しみをもたらすものとなっている。
原子力発電のことも、深い闇を内蔵しているものであるにもかかわらず、まったく光と希望に満ちた新世代へのエネルギーだ、平和の推進力だといった偽りの情報が莫大な金とそれに伴う権力によって広められ、今もなお、そして今後も何十年どころか何十万年という長い歳月を災いをもたらすものとしてとどまり続けるものになってしまった。
闇が襲いかかり、日本人全体がほとんどそのために原発の危険性について見えなくされてしまったのである。
そしてなお、あれほどのことがあって現在もたくさんの人たちが苦しんでいるにもかかわらず、将来の危険性や困難な問題に目をふさぎ、経済という名の金の力に捕らわれたり、自分の地位や利益を保持したいがゆえに、原発をやめずにできるだけ長く温存して使い続けていこうという勢力が随所で見られる。
自民党の新しい安倍新総裁は、ほかの候補であった人たちと同様に、憲法9条を変えようとしている。このことも、やはり戦前に深い闇が日本全体を覆って、日本人だけでも三百万人を超える人がいのちを失い、アジアとくに中国を中心として千万人を超えるおびただしい死者を生み出したゆえに、二度とそのようなことにならないようにと戦争には決して加わらないと決めたにもかかわらず、ふたたび、そうした闇の力が迫ってこようとしている。そしてこの平和憲法を変えて軍事力を戦争に用いることができるようにしようとしている。
だが、こうした闇のただなかにあっても、神の御計画は進んでいく。
ちょうど、深い闇が覆ったと思われ、完全な愛のお方が無惨にもさんざん侮辱されたあげくに最も重い犯罪人として処刑されたにもかかわらず、すでに述べたように、すぐにそこから、ローマの百人隊長がイエスを神の子だと信じるようになったこともそれを表している。
さらに、そのとき神殿の幕が真っ二つに裂けた、ということも、まったく新しい時代の到来を象徴する出来事だった。それまでは、神殿には年に一度大祭司だけがその幕を通って入って行くことができて、罪のあがないをしていたが、一般の人たちは決して幕の内側には入れなかった。
しかし、イエスが十字架で処刑されるという悲劇のさなかに、神の至近距離のところにだれでもが行けるようにと神殿の幕が裂けたのであった。人間を神の近くへと引き寄せる妨げとなっていた幕が裂けたこと―それは、だれでもがただ信じることによって神との間にあった超えることのできなかった壁が取り払われ、神のところに行き、親しく神と交わり、そこから力を、聖なる霊を与えられるという全く新しい時代になったことを示す出来事であった。
それは、いかに暗闇が襲ってこようとも、神の御計画は着々と進行していくということを示す出来事であって、私たちはまずその神の万能の御手の働きを信じることが求められている。
この世の問題をいくら詳しく知ってもこうした希望は生まれない。その闇を希望をもって歩む力は与えられない。
ただ信仰によって義とされるということ、それはまた信仰によってのみ、こうした闇に襲われ捕らえられない道を歩むことができるということを示している。そしてそこに希望があり、神の愛の世界、神の国に入ることができるのである。
この世で生きるときに、何らかの重荷を感じない人はいないだろう。現在何も重荷などないという人もいるかもしれないが、そのような人は、突然の事故や病気などによっていっそう重荷を痛切に感じるようになる。
私たちはだれでも、病気、お金、友人関係、体の障害、人間関係、また、前途の不安、最終的には死が襲うという不安…等々の重荷を負っている。
医者は、手術し、投薬し指導することでいやすことができる場合があり、その場合には積年にわたる病気の重荷から解放されることがある。
数々の重荷は、それぞれの人が、人間に相談したり、医者やお金の力で解決しようとする。そして、確かに一時的にはそうした重荷は軽くされ、あるいはなくなる場合もある。
しかし、生きていけないと思うほどの重荷を日々心に感じている人も―実際にいのちを断ってしまう人だけで3万人以上もいるのだから、未遂とかそのような気持にさいなまれている人になると、おびただしい人があるだろう。
私たちの心で重荷と感じるのは、すでに述べたようなさまざまのことがあるが、それら―病気などがいやされてもなお、重荷は残る。それは、何か罪を犯したとき、だれかによくないことをしてしまったとき、心に重いものを感じる。そうした心の重荷こそが、最も深い重荷であると言えよう。
それゆえに、聖書では、私たちの心が罪をおかさないよう、人間の欲望や利己的な意志でなく、神のご意志に生きることが繰り返し記されている。それこそが、最も深い意味で、魂の重荷を取り去る道なのである。
…もし、きょう、わたしがあなたがたに命じるあなたがたの神、主の命令に聞き従うならば、祝福を受ける。
もしあなたがたの神、主の命令に聞き従わず、わたしが、きょう、あなたがたに命じる道を離れ、あなたがたの知らなかった他の神々に従うならば、のろいを受ける。(申命記11の26~28)
しかし、人々は、どうしても神の言葉に従うことができず、まちがったもの、正義でも愛でもなく、生きて働いてもいない偶像に従ってしまう。それゆえに祝福を受けられず、ついに人々の心から平和は去り、国も滅びに至った。
こうした不信の歴史を経てきた後に、キリストの出現よりも500数十年ほど昔、特に神が選び出された人が現れた。そして、み言葉に従えない、どうしても悪しきことをしてしまう人間の罪そのものをなくするために、まったく新たなことが記されるに至った。
それは、…せよと命じ続けるだけでなく、またそうしなければ滅びる、裁きがくだされる、と裁かれたときの苦しみを思い起こさせることでもなかった。それは、人々の罪そのものを、身代わりに担うということだった。
このようなことは、すでにモーセによって部分的になされていた。民の度重なる背信行為を責めるだけでなく、滅びに至る民のために、神にとりなしをしたのであった。
…モーセは主のもとに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。
今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば…。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」(出エジプト記32の31~32)
このように、モーセは民が罰せられるかわりに、自分が神から罰せられて滅びてもよいとまで言った。
この記述でわかるように重荷を代わって担うということは、すでに古い時代からその萌芽というべきものがあったが、それがはっきりと啓示として示されたのが、次の箇所である。
…彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている。…
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた。
神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。…
わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。
(この神の僕は)多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。…
多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。(イザヤ書53章より)
この一つの章でこのように繰り返し、私たちの罪を担った、負ったということが言われている。
単によい教えを話す、あるいは預言者エリヤのように、干ばつに雨をふらせるとか、病人をいやすなど奇跡的な行いをする、というのでもない。そのようなことも神はその選んだ僕に与えたが、いかによい教えを聞いても奇蹟を体験しても、一人一人の人間そのもののうちに宿る罪深い本性は変わらない。
それゆえに、そうしたこととは全くことなる道を神は備えられたのである。
それが、人々の罪を身代わりに担うということであった。そのことは、その僕が徹底的に人からさげすまれ、見捨てられ、苦しめられ、そして深い悲しみを知るような道を通っていくことが不可欠であった。
そうしたいっさいの不当な仕打ちをただ黙して受けるというのがその僕のなすべきこととして課せられたのである。
しかも、そのように極限にいたるまでも低くされ侮られたしもべが、それまでかつてだれも引き上げられたことのない高みへと挙げられたというのを、預言者ははっきりと啓示によって見たのである。
そしてこの重要な僕のすがたが高く比類のないところまであげられたことをまず最初に記している。
…見よ、私の僕は栄える。
はるかに高く挙げられ、あがめられる。(*)
(* )この一行には、「高く上げる」という意味の3種のヘブル語(ルーム、ナーサー、ガーバハ)が使われていて、さらに最後に、「非常に」という副詞が置かれている。この原文のニュアンスは、英訳聖書などでは、日本語訳よりもよく表されている。He will be raised and lifted up and highly exalted. (NIV)
このように三つの異なる言葉をもって高く上げられたことを強調している特異な表現は聖書全体でもほかには見られないことであり、それほどこの著者は、この僕が限りなく高く上げられたのをありありと啓示によって見ることが与えられたのである。
それがこのようなそれ以上はないと思われるような強調表現になっている。
そして、その比類なき高さこそ、キリストの高さを指し示すものであった。この僕とはまさにこの預言が記されてから五百五十年前後もあとに現れたキリストを示している。
キリストは確かに神と同じ高さ、本質をもって来られたのであり、それゆえに、死をも克服して復活され、天に帰られていまも神と一つとなって世界を導いておられる。
限りない高さ、人間として耐えられないほどの侮辱や苦しみに遇わされるほどの低くされた姿の二つを併せ持っているお方がこの僕なのである。
このようなことは、全く聞いたことも見たこともないことであったから、次のように言われている。
…彼(その僕)を見て、王たちも口を閉ざす。
だれも物語らなかったことを見、一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。
私たちが聞いたことを、だれが信じえようか…(イザヤ書52の15~53の1より)
このように、キリスト以前から、最も人間のあり方として高く深いのは、単に神の言葉を教えたり、与えられた力で国民を動かし兵力を支配すること、奇蹟的な行動を見せることでなく、無数の人間の罪をみずから身代わりに負って苦しむことだとされたのであった。
人は、病気や戦争による悲惨な傷あと、飢饉や飢えなどさまざまのことで重荷を負っている。そうした重荷は、医者やお金、物品によって、軽くされたりすべていやされることもある。
しかし、いかに病気が治り、その重荷がなくなっても、またゆたかな物品によって貧しさの重荷が取り払われても、あるいは、自分に重荷を負わせていた悪しき人がいなくなっても、なお続くのは―そして少しも減少することなく続くのは、それは魂自体に宿っている重荷、すなわち罪深い本性という重荷である。
それゆえに、主イエスは、中風で寝たきりという当時は車もないときであり、そのような状態ではどこへも行けずどうにもならない絶望的状況の人をその友人たちがイエスのもとに連れてきたとき、あなたの病気の重荷を軽くしてあげる、といわれず、「あなたの罪は赦された」と言われたのだった。
それは、本人も周囲の人たちもみな驚きであった。自分の病気の重さ、苦しさはその中風ということだけから来ていると思っていたのに、それが本人も気付かないほど深いところでの重荷となっていたのは、その奥にある人間の罪だと指摘されたからであった。
罪の重荷こそ最も深い重荷なのだということ、それは聖書では一貫して言われている。
周囲の人たちに、純粋な愛の心をもって対すること、正しいことができない、自分が受けたよくない仕打ちを忘れられない、ねたみや憎しみ、また怒りが湧いてくるといった心の問題…それが罪であり、そうしたものがあるかぎり、私たちの心は軽くならない。重い石の重りが魂を沈めているようだからである。
そのような重荷を軽くするため、主イエスは来てくださった。キリスト教のシンボルとなった十字架は、よい教えとか奇蹟的なわざの象徴ではない。それは、だれもが持っている魂の重荷を軽くする象徴なのである。
このことは、無数の人の魂の経験であるが、そのことをイギリスのキリスト教著作家バンヤン(*)も「天路歴程」という著作で記している。
(*)1628年~1688年。この「天路歴程」は、プロテスタント世界では、最もよく読まれたキリスト教書といわれ、200を超える言語に訳されているという。これは、バンヤンが許可なくして説教したということで刑務所に入れられ、そこで書き始めたという特別な作品でもある。
…重荷を負ったキリスト者がその重荷に苦しみながら、進んで行った。ある所から上り坂となり、その所に十字架が立っていた。キリスト者がその十字架のところにたどりついたちょうどその時、彼が背負っていた重荷が背中から落ちて転げていき、その下にあった石の棺へと落ち込んで影も形も見えなくなった。
そこでキリスト者は喜ばしく、晴れやかになって言った。「彼は、その悲しみによって私に平安を与えてくださり、その死によって命をくださったのだ」と。
そしてしばらく立ち止まり、じっと十字架を見つめ、不思議なことと思った、十字架を仰ぐということがこのように重荷をとって楽にするというのは、極めて驚くべきことであったから。(「天路歴程」岩波文庫版97~98頁より)
主イエスは、すでに生前から、重荷を背負うものは私のもとに来なさい、と言ってくださっている。
…疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしの軛(くびき)(*)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイ 11の28)
イエスは重荷を全部取り除くと言われず、あえて共に担うことを言われた。それが、くびきである。イエスと共に担うときには、軽くなる。
(*)牛、馬、ろばなどの首に付けて、鋤、車を引かせるために使用する木製の道具。
共に歩んでくださると共に、私たちの最も重い荷物である罪そのものを身代わりに担って十字架で死なれたゆえに、その罪の力を打ち砕いてくださったというのである。
十字架を担うというとき、もう一つ、次のような主イエスの言葉がある。
…群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。…」(マルコ8の34)
イエスは、重い罪人が死刑にされるときに背負わされる十字架を担って歩かされるが、そのようなたとえによって、イエスに従う人を表した。このようなたとえは私たちの自然の気持では受けいれるのは困難だろう。そもそも自分は死刑になったりすることはない。そんな悪いことなどしていない、というのが大抵の人の実感だと思われるからだ。
しかし、イエスは、弟子たちにそのような厳しい道をたどるべきことを示された。そして実際に、ステファノという弟子は、神を汚したとして石打ちで殺された。また、ペテロも、新約聖書の続編(外典)とされている古い書物(ペテロの言行録)に、逆さ十字架にて処刑せられたことが記されている。(*)
(*葉)「クォ・ヴァディス(どこへ行かれるのか)」という、文学作品で有名なこのペテロの言もこのペテロの言行録(ペテロ行伝)35 に出てくる言葉である。このペテロの言行録は、紀元180~190年頃という古い時期に成立したとされる。ポーランドの作家シェンケヴィッチはこの小説によって、1905年のノーベル文学賞を受賞した。
この主イエスの言葉は、そうしたローマや日本の江戸時代、あるいは世界の各地で実際に生じたキリスト教徒への激しい迫害によって現実に重い罪あるものとして歩ませられ、処刑されるという厳しい事態が生じることになるのを予告するものとなった。
しかし、この言葉は、そのような死へと赴くことを含む厳しいものであるが、それとともに、すでにあげた「私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私の軛(くびき)は軽い。」と言われたキリストの言葉がつねに伴っていた。
死をも甘んじて受けるなどということは、通常では考えられない耐えがたいことであり、そうした困難をすら超えさせる力が、イエスから与えられ、イエスによってその非常な重荷が担われたからこそ、福音のため、神の国のためにそのような十字架を背負って死へと歩むことすら可能となったのであった。
この十字架を背負って歩むということと、主が重荷を担ってくださるということは、そうした厳しい迫害の時代だけにあてはまることでなく、キリスト以後の二千年の間、無数の人たちの困難とそれを乗り越える力をも与えてきた。
十字架刑にて殺されるというような厳しい時期でなくとも、ふだんの日常生活において私たちがキリスト教信仰をはっきりと表すときには、何らかの圧迫を受けることがある。
そうしたとき、その重荷を背負ってイエスに従うとき、たしかにその重荷をともに主イエスが負って歩んでくださっていると実感することができる。
重荷に関しては、イエスがともに負ってくださるというだけでなく、私たち信じる者同士も互いに重荷を負うようにと言われている。
…互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うする。(ガラテヤ6の2)
最後の夕食のとき、主イエスが弟子たちの足を洗われた。弟子のペテロはそれを見て、足を洗うなどは奴隷のすることだからやめてください、と言ったが、イエスは「私があなた方の足を洗わなかったらあなた方は私とは関係がなくなる」と言われた。
互いに足を洗うとは、互いにその罪を裁きあうのでなく、その罪が赦されるように、清められるようにと祈りをもって生きるということを意味している。それは言い換えると、相手の罪の重荷をみずからも共に担おうとすることである。
このように、すでにキリスト以前550年ほども昔から、私たちの背負う重荷―とくに心の深いところにある罪の重荷を身代わりに負ってくださるということが予告され、それがじっさいにキリストが十字架で死ぬことによって実現され、以後2000年という長期間にわたって、人間はその最も深くて重い荷を取り除いてもらってきた。このことこそが、福音―喜びの知らせ―の中心となっている。
そしてこのようにしてさまざまの意味における重荷を軽くされた人は、今後とも世の終りまで、生まれ続けるであろうし、そうした新しく生まれた人が、いかなるこの世の移り変わりにもかかわらず、地の塩となり続けていくであろう。
このタイトルのような言葉は、福島原発の大事故以来、新聞、雑誌、週刊誌、テレビなどで、おびただしい記事やコメントがなされていったが、このタイトルのような言葉は聞いたことがないとか、ごくわずかしか見たり聞いたりしただけという人が圧倒的に多いだろう。
倫理という言葉は、大多数の日本人にとってなじみにくい、堅苦しいイメージがあるのではないか。高校の倫理・社会という教科は、私にとってもとても退屈な時間で―それはそれを教えた教師自身が情熱のない単調な教え方であったこともあるが、日本の社会科教育では、太平洋戦争前後のことがほとんど教えられていないことと同様、多数の日本人にとって記憶の乏しい教科となっているように思われる。
倫理とは何か、それは、人間の踏み行うべき道のことで、道徳とも言われる。そして道徳という言葉もまた、たいていの人、ことに若い世代にとって聖書ではすべての日本語訳聖書では、全く用いられていない。それはなぜなのか。
人間のあり方、それは究極的な真理である神に従うこと、それに尽きる。神こそは、正義と真実、しかも愛に満ちている存在であるから、その神に従うことによって愛の神であるから、神の正義や真実、愛を受けることができる。
それが、人間としてあるべき姿に導いてくれるものとなる。
それゆえに、倫理(道徳)というのは、神あるいは神の言葉に従うというごく単純なことになる。
人間が真実で愛や正義にかなう生き方をしていくかぎり、原発はいかなる問題を持っていると考えられるか、ということになる。
ドイツが原発を推進していくという路線から、福島原発の大事故からわずか数カ月ではやくもその方向を転じて、脱原発に大きく舵を切った。そうした決断をなさしめたのは何だったのか。
その大きな原動力の一つとなったのは、ドイツの倫理委員会であった。日本ではこのような委員会は全くない。
この倫理委員会―人間の正しいあり方に合致しているかどうかを研究、議論し合う委員会と言えよう。
その委員会のメンバーとして、キリスト教の牧師など聖職者、哲学者、化学メーカー社長、危機管理専門家、環境学者、経済学者など17人が選ばれた。そして意外なことに、原子力の専門家は加わっておらず、原発の賛成派も反対派も含まれていた。
その17名のうちに、キリスト教の指導者(聖職者)が3 名含まれていた。そうした委員によってなされた委員会の議論はテレビ中継され、100万人以上がそれを見たという。
原発が、将来の人類に対するどのような悪影響をもたらしうるか、そうしたことは、原子力の専門家でなくとも、発言できる。むしろ、原子力の専門家は、自分たちがやっていることを否定的に見ることをしようとしないことが多く、将来技術が進歩すれば解決できる、といった主張をしがちである。
キリスト教信仰、その基盤にある聖書はつねに、広く深い視野を、そして長期にわたる視野を提供する。
それは、聖書そのものが、この宇宙の創造から、現在までの歴史と最終的な未来を記している、しかも長い人類の歴史で無数の証言があるように、それは真理そのものである。
それゆえに、人間の正しいあり方という視点から見るときには、10万年~100万年もの管理が必要とされる原発は、永遠の重荷を将来の世代に課することであって、それは許されないということは自然な結論となる。
過去、現在、そして未来を視野に収めて考えるとき、聖書の視点があるかどうかは実に大きな分かれ道となる。
福島原発の事故のすぐ後に、ドイツのメルケル首相は、2010年の秋に決めたばかりの原発を延長して使用するという法律を3カ月間凍結し、7基の古い原発を停止させた。さらに、原子炉安全委員会が、国内のすべての原発の安全性を検証した。
福島原発事故からわずか2カ月あまりという早い時期、5月17日に、まず原子炉安全委員会が、安全性の再検証の結果を公表した。
そして、すでに述べたキリスト教の牧師や哲学者、会社経営者などからなる倫理委員会も、それから2週間ほどで報告書を提出した。
そして、ドイツは地震がほとんど起こらない国であり、津波も起こらないような国であるにもかかわらず、原発の大事故が現実に起こり得ること、核廃棄物の処理と管理には10万年を超える期間が必要だということ、また、原発に代わる技術があること、さらには、地震や津波が起こらなくとも、テロによる原発の破壊という大事故が起こり得ること―そうしたことから、わずか10年以内に、脱原発を段階的に行っていくことを提言した。
それをメルケル首相は受けいれ、二つの議会も最終的に7月8日には脱原発の法律が成立したのである。
福島第一原発の事故からわずか4カ月という短期間で、脱原発の政治的決定が行われた。
このように、遠い日本で、しかも巨大地震と大津波という原因で生じた原発事故であるにもかかわらず、このようにドイツが短期間で脱原発を決定したということは、驚くべきことである。
現在の日本は、あれほどの恐るべき被害を受け、現在もその悲劇が進行中であるにもかかわらず、そして巨大地震が近いうちにまた日本を襲うことが想定されているにもかかわらず、原発を再稼働しようとしているばかりか、山口県の上関原発を新たに着工しようとさえしている。
この大きな違いはいったいどうして生じるのであろうか。
これはドイツの多くの人たちが、聖書、キリスト教の教えを精神の基盤として持っているから、そのキリスト教の指導者たちが、原発を単に経済やエネルギー、科学技術の問題としてでなく、神が創造されたこの地球、世界は、人間はどうあるべきか、という神中心の視点を持っていたからだと考えられる。
日本の場合は、まず経済を考え、エネルギー問題を考えていくという姿勢がある。そこから金(カネ)の問題が第一となり、そのために科学技術が万能であるかのような考え方が広められていく。科学技術は、経済問題、エネルギー問題の協力な支えとなるからである。今から40年以上昔に言われた、日本人はエコノミックアニマルだという批判―経済的利益ばかりを求める傾向―が、今回の原発事故にもその背景として存在している。
去年の12月、スイスのリーネマン夫妻―ご夫妻ともに、それぞれベルン大学の倫理学とバーゼル大学のキリスト教関係の学者であったが、大阪府の那須宅での高槻集会でお会いして、話をうかがう機会が与えられた。
そのとき、原発のことに関して、お二人が私に言われたことは、日本ではキリスト教の観点からの考え、意見を政治の場に反映させているか、といことであった。スイスでは、2034年までの「脱原発」を宣言しているが、そうした判断にキリスト教世界からの意見、考えが反映されていると言われたのである。
残念ながら、日本では、そうしたことがほとんどなされない。それはマスコミもキリスト教や聖書からの観点といったものをほとんど取り上げない状況である。
原発だけでなく、日本や世界の前途にかかわる大きな問題については、聖書の広大かつ深遠な視野から見ることが不可欠である。
現在の日本は憲法を変えて、自衛隊を軍隊とするという考えが自民党などを中心としてよく言われるようになった。しかし、武力をもって対処するとき、必ず武力、とくにテロにおびえなければならなくなり、今日のように核兵器や原発という恐るべきものが存在する状況においては、核兵器が使用され、あるいは原発へのテロ攻撃などによって、最終的にはそのような武力ゆえに破滅へと向うであろう。主イエスが、剣をもってするものは、剣で滅びると言われたとおりである。
敵をも愛せよ、迫害するもののために祈れ、という主イエスの精神、そしてその精神によってイエスも使徒のヤコブやペテロ、あるいはパウロやステファノたちも殉教したと伝えられている。それは、自分が攻撃されるから、相手も殺すということとは反対のことである。
キリスト教の純粋な精神が最もよく見られる新約聖書の使徒たちの言行録において、悪いことをされたから、個人的に武力で攻撃仕返すということはまったく見られないし、キリスト者たちが集団でそうした敵対者を攻撃するということも記されていない。
憲法9条の非暴力、非武装は、その淵源は、はるか2700年ほども昔に書かれた、旧約聖書のイザヤ書の2章にある。
このように、旧約聖書というと古いユダヤ人の書物というように考えられがちだが、実はその内容は、随所に驚くべき深さをたたえているのであって、現在に至るまで、その真理は脈々と世界を流れているのである。
このような点からみても、これからいっそう混沌の度合いが深刻になり、だれも予測できない事態が生じると考えられるこの日本や世界において、いかなるそうした状況の変化にも影響されず、大空のかなたの太陽のごとく、また夜空の星のごとくに輝き続けている神の真理―聖書の真理こそ、これからの人類の究極的な精神的な基礎となるであろう。
国を守るものとは何か
今回の自民党総裁選挙で、5人が立候補したが全員が、「集団的自衛権」を行使するべきと主張していた。
集団的自衛権―こう言えば、これは自衛、すなわち自分の国を他国と協同して守るというイメージがあり、他国を武力で侵略する戦争とは異なるのだ、と思いがちである。
しかし、例えば、イラク戦争をはじめたアメリカを最初に日本の小泉元首相が支持した。そしてその後、ブッシュ大統領は、その戦争の理由となった大量破壊兵器を持っていないにもかかわらず、戦争をはじめたことの非を認めた。
あのとき、集団的自衛権が行使できる状況にあれば、アメリカととにもイラクへの爆撃に参加して多くの人たちを殺害したであろう。
それが、そうした直接的な爆撃とかでなく、アメリカなどの艦船に燃料を補給するとか、兵士を飛行機で運ぶとかの後方支援的なはたらきに何とかとどまったのは、憲法9条があったからである。
ベトナム戦争のときでも、憲法9条の平和主義があったからこそ、集団的自衛権のを行使するということもなく、アメリカがはじめた戦争に直接加担してベトナムに日本が武力攻撃をするということにはならなかった。
歴史的に見れば、集団的自衛権は多くの大規模の戦争の原因となった。
第一次世界大戦において、死者を合計すれば2600万人もに及ぶ多数の人たちの命が4年と数カ月で失われた。(*)
(*)それまでの最大の戦争は、30年戦争とナポレオン戦争であったが、それらは500万人に満たなかったし、その二つの戦争以外では、100数十万人の死者であったから、第一次世界大戦が桁違いの犠牲者を出したのがわかる。
そのきっかけは、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子が殺害されたという小さな事件であった。それを話し合いで解決しようとせず、武力で解決しようとしたことにある。そして集団的自衛権の行使が連鎖的に起こり、大国が次々と戦争に加わり、ついにヨーロッパだけでなく、地球の反対側の本来そうした局地的な殺害事件とは何の関係もなかったアメリカや日本まで巻き込む世界戦争にと拡大してしまったのである。
これを見てもいかに集団的自衛権の行使ということが、重大な結果を生むことにつながるかが分る。
第二次世界大戦においても、その全世界への拡大は、やはりこの集団的自衛権が次々と行使されていったことにある。
こうした危険性を深く思い知らされたからこそ、日本は憲法9条において、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」ということを規定したのであった。
これは、戦争によって甚大な被害を自国民と周辺の国々に与え、初めて原爆の恐ろしい被害を受けた国であるからこそ、世界にその本当のあり方を示すための規範としての意味があった。
そしてこの憲法9条の平和主義は、その淵源をたどれば新約聖書のキリストのあり方―武力を用いないで神の真実と正義に従う―、そしてさらにそれは旧約聖書のイザヤ書2章4節に記されている武器をいっさいなくした状況がはるか未来の預言として記されていることにある。
そのような日本の前途にとって重大な問題となることであり、歴史的に深い意味のあることを、今回の自民党の5人の総裁候補者はいとも簡単に投げ捨てようとしている。みなが一様に、集団的自衛権の行使を中国、韓国との領土問題の関心が高くなっている時期であるために、一つには票集めということをもねらって主張したと考えられる。
そうした集団的自衛権によって、アメリカがはじめた戦争、とくにテロの多いイスラム国との戦争に加担するということになると、どういうことが予想されてくるのか、本当にそのことを真剣に考えているのであろうか。
日本に、原発54基が大量の燃料と、放射線廃棄物をかかえたまま存在していること、さらに莫大な放射能をもって核廃棄物が大量にたまっている状況に、外国から、ミサイルがそのような原発や燃料を保管している六ヶ所村などの施設に打ち込まれたらどんなことが生じるのか、本気で考えているのであろうか。
そうなれば、福島の原発事故どころでない。大量の燃料が保管されて大地震で崩壊しかねない状況にある4号基にミサイルが打ち込まれたら、それが爆発あるいは燃えだしたならばその大量の放射能によって関東全域と東北まで広範な地域が人の住めない状況になる。それは日本の崩壊となるだろう。
今回の福島大事故によって、世界にこうした日本の根本的な弱点をさらけだしたことになる。みずからの命を捨てることをも英雄視するテロリストにとって、最も効果的なテロはどうすることなのかを白日のもとにさらけだしたことになったのである。
このような事態になってしまえば、自衛軍など到底どうすることもできない。自衛軍などといっていかにも国を守るということを連想させるようなことをいうが、それとともに集団的自衛権を行使するようになってしまうと、いかなる危険性が待ち受けているかを我々は深く知らねばならないのである。
国を守るのは軍隊や外国ではない。それは、憲法9条にある平和主義にあくまで徹すること、軍事費などに膨大な費用をかけるのでなく、そうした費用を、アフリカやアジアの貧しい国々への血の通った援助と交流を費用をかけてなし続けていくことこそ、本当の防衛である。非武装、弱い者への配慮、正義、真実といった聖書で2000年前から、記されている真理こそ、本当に国を守ることになる。
○10月の移動夕拝は、10月23日(火)午後7時半~9時。熊井宅
○沖縄での無教会全国集会…11月3(土)~4日(日)私(吉村)は、「福音と伝道」というタイトルでの20分ほどの発題をする予定です。
○九州訪問予定…11月8日(木)~12日ころまで、九州地方のいくつかの集会にて聖書講話の予定です。
・大分の集会…11月8日(木)午後7時~9時 大分市東津留1-7-21梅木宅。
問い合わせ先 中村 陽一(電話 0977-23-8307)
・鹿児島の集会…11月9日(金)夜(午後7時~9時) 場所 牧善商会
鹿児島市 東開町4-29 電話 099 269 3310 問い合わせ先 古川 静(電話 0995-43-6723)
・福岡の集会…11日(日)会場 ももち文化センター 3階・会議室2 福岡市早良区百道2-3-15
TEL 092-851-4511
問い合わせ先…秀村弦一郎(TEL 092-845-3634)
○九州訪問についで、中国地方の一部(島根、鳥取、岡山)の集会を訪ねる予定です。