祝 クリスマス 山と丘とはあなたたちを迎え、 歓声をあげて喜び歌い、野の木々も手をたたく。 |
・2012年12月622号 内容・もくじ 祝 クリスマス
クリスマスを迎えるころになると、多くの讃美歌が歌われる。そのなかでとくに多く用いられている聖書の箇所は、次のものである。
…栄光、いと高きところにおいて神に、
地には平和(平安)、み心にかなう人に。(ルカ福音書2の14)
この短い言葉は、イエスの誕生のときに、無数の天使たちが歌った壮大な讃美であった。
ここに訳した文は、原文のままにほぼ直訳したものである。原文はこのように、簡潔な表現であって、…神に栄光があるように、平和がみ心にかなう人にあるように、といった祈願文ではなく、事実をあらわしている。 (*)
(*)それは外国語訳、例えば英語訳が原文を日本語訳よりも忠実に表している。
Glory to God in the highest, and on earth peace among men with whom he is pleased !
日本語訳でも、次のように、祈願文でなく、天使たちの讃美は、未来に起こってほしいと願うのでなく、いますでに現在の事実を意味しているとして訳されているのもある。それは塚本虎二訳やフランシスコ会 聖書研究所訳などである。
塚本訳は右の文とほぼ同様であるが、二行目は、
「 地上にては、いまや 平安、御心にかなう人々にあり !」と 感嘆符付きで訳している。
フランシスコ会訳は、ほぼ右に引用した訳と同じである。
いと高きところ―天の神のいますところでは、そこに栄光があるようになどと人間が祈る必要はないのであって、永遠の昔から、栄光はいと高きところに存在し続けているのである。
栄光とは、旧約聖書からある言葉であるが、その栄光というヘブル語は、「重い」という意味を持っていて、聖書の人々が示されたのは、神の重要な特質は、その重厚さ、重々しい威厳、岩のごとく動かない強固さをとくに感じていたのがうかがえる。
さらにそこから、神の変質しない愛、永遠の正義、いかなる時代や人間の思惑にも動か14されない重みある威厳、力といったものすべてが栄光という言葉に含まれるようになったと言えよう。
こうした神の栄光が、つねに存在していることは、例えば、イザヤが召命を受けたときに神を見たことが書いてある。そこには、やはり天使たちが讃美を歌っていた。
…聖なる、聖なる、聖なる万軍の主
その栄光は全地に満つ。
このように、天の世界が開かれるなら、神の栄光はすでに全地に満ちているのが啓示されている。
また、黙示録においても、地上では、キリスト者は捕らわれて焼かれたり、磔にするとかライオンに食わせるとかの残酷な迫害が随所で行なわれていたにもかかわらず、黙示録の著者は、聖なる霊を注がれて天の世界が開かれた。
…あらゆる国々、民族からの無数の人々が集まった。彼等は、白い衣を身につけ、神とキリストの前で大声で叫んだ。
救いは神とキリストのものである、と。そして天使たちも、讃美して 栄光、力、英知…は限りなく私たちの神にあり、と歌った。
さらに神の周りには、おびただしい天使たちの声を聞いたがその数は、万の数万倍(数億もになる!)であった。その讃美は、こうであった。
…殺された小羊(キリスト)は、
力、英知、栄光、そして讃美を受けるにふさわしい。
こうした記述を見ても分るのは、どんな暗い世の中であっても、神のところには栄光が変わりなく存在しているということなのである。
イエスの誕生のときに歌った天使たちは、まさにこの永遠の神の栄光の現実を歌ったのであった。
そして、地には御心にかなう人々に平和! という言葉は、これもまた現実を言っている。
イエスが来られるまでは、本当の平和(平安、ヘブル語でシャーローム)はほとんどの人たちは知らなかったといえよう。イザヤ書などの預言書や詩篇などに記されたごく一部の人たちがそのような平安を知っていた。
御心にかなう人々―それは言い換えると信仰を与えられた人たちである。神を信じ、キリストを信じることの与えられた人たちは、それまで知られていなかった、キリストの平和(平安)を与えられることになった。
主イエスが最後の夕食のときに語られた次のことがそれである。
…私は平安(平和)をあなた方に残し、私の平安を与える。
私はこれを、この世が与えるような仕方で与えるのではない。(ヨハネ14の27)
この世が与える平和や平安は―個人的なものや国際的な平和にしても、それはどこかで妥協があり、保身のために言うべきことも言わないでおこうとする利己的なものが混じり込んでくることも多い。そしてそれは実にはかない。人間のちょっとしたひと言や背信行為でも壊れてしまうようなもろいものである。
それに対して、キリストが与えてくださる平安(平和)は、そうした人間的な平和とは全く異なる。それはキリストそのものである。
旧約聖書の時代からずっと続いてきた「平和(平安)」という重要な言葉、その原語はシャーロームであり、新約聖書の時代になって、その原語は、ギリシャ語に訳されたけれども、その本来のヘブル語の意味で用いられていると考えられる。
シャーローム、これはそもそも 戦争がない状態 といった否定的表現でなく、完全にする(complete)という積極的、肯定的意味を持っている言葉なのである。神の賜物で完全にされた状態、満たされた状態を意味するのである。
それはキリストが十字架にかかって死ぬという比類のない犠牲をはらって与えられた恵みである。そのような特別な仕方で与えられたゆえに、この世の与える仕方とは違うと言われている。
このように、この二つの言葉の意味するところは きわめて重要なことなのである。
いと高きところにて、神に栄光あり!― いかにこの世が混乱し、暗くとも神のところには厳然として光が存在し、真実や愛が存在し続けているということ―それを信じ続けることができるというのは大きな恵みである。
それを確信し、さらにしっかりと実感することができるとき、それは日々の前進のための大きな力となる。
また、ただ神を信じるだけで永遠の命が与えられ、罪ある身であるのにあたかもなかったかのように扱ってくださるという大いなる恵み、信仰によって義とされるということ―そうした福音信仰の恵みが、天使たちの歌の二行目「地には平和、御心にかなう人々にあり!」にすべて込められているのである。
あるように、という願いではなく、キリストによってすでにそれが現実のものとなった!という大いなる喜びの讃美なのである。
この世では、一番大切なものは命だというのは常識となっている。他のものは、失ってもお金があったら取り返せる。しかし、死んでしまったらどんなに巨額の金があっても、どうすることもできない。
だが、最近ではこの一番大切な命という評価も揺らぎ始めている。
それは、iPS 細胞を用いると、生物としての人間を造り出すことさえ可能となってきたからである。
すでに、1996年には、遺伝的にも全く同じ羊が体細胞から造り出されている。
今回の山中博士らの研究によって、さらにiPS細胞からの作成が可能になっている。
このように、生物としての命は、科学技術によって、死んだら終りでなく、体細胞から再度作ることさえ可能となる道が開かれようとしている。
このような状況にあって、私たちが普通、生命といっているものは、次第にその絶対的な価値を失っていく可能性が生じている。
もし、一番大切なものは命だというのなら、その命が科学技術、そしてそれはお金があればできるということになると、命でなくお金や科学技術が一番大切なものだということになりかねない。
物質の根源にある原子のそのなかにある原子核を扱うということから、核兵器が生み出され、原子力発電もその副産物として生まれた。
しかし、原爆や水爆がひとたび大都会に投下されたら、何十万、何百万という膨大な人たちが死傷して、その都会は壊滅的となる。
また、大規模原発が爆発など大事故のとき、それは途方もない放射能を排出し、またいま運転を止めたとしても何十万年もの歳月を隔離しておかねばならない。その過程で、どんな自然災害や人間の悪意によってその恐るべき放射能廃棄物が拡散しないともかぎらない。
物質の根源の原子核を壊すという操作からこのように、人類の破滅をももたらす状況すら生まれるに至った。
このように、科学技術の進展ということは、決して人類のプラスになることばかりでなく、人類の破滅に至るものまでも生み出したのである。
他方、生物の根源は細胞の核にある。この核や、そこにあるDNAを扱うことによって、現在は医療への適用ということがよく言われているし、たしかにそのような希望がある。
しかし、こうした技術は人間の目に見える病気などの治療にはなっても、―また、iPS細胞づくりでウイルスを使うとき、細胞のがん化する危険性があるとか、人間の体の部分を売買することなどから生じる問題など、生物学的な問題点もあるだけでなく、心の世界には新たな難問を投げかけてくる可能性が大きいのである。
原子力発電についても、その開発の初期には、現在のような原子炉の大事故が生じたらいかに深刻な問題が生じるか、といったことなど全く言われなかった。大都会のビルの地下のような狭い場所で、わずかの量のウランから莫大なエネルギーが取り出せる、そのエネルギーは、船から列車、自動車など何でもに使えるなどと、およそ夢物語のようなことが堂々と宣伝されていた。
多くの科学技術が生み出した公害―銅の採掘から生じる有毒イオンやガス、水俣病やイタイイタイ病、各種の大気汚染等々、はじめはそこから生じる利点、工業製品の利益ばかりが言われた。そして相当の時間が経ってその犠牲者が多く出るころになってようやくその危険性、マイナスの側面が明らかになっていく。
こうした今後の科学技術における困難な問題を、すでに聖書の真理は見通している。
聖書においては、一番大切なものは、生物としての命ではない。
そうでなく、そのような生物としての命を与え、万物を創造し、周囲の自然界のいっさいを支配している科学的法則をも創造された神こそが一番大切なのである。そして神は愛であると言われるように、最も大切なものは、神の愛であるとも言えよう。
そして命に関して言えば、神が持っておられる命こそが最も大切なものということになる。言い換えるとそれは永遠の命である。
聖書、キリスト教という信仰は、まさにこの神の命、永遠の命があるのだということを宣言し、それを万人が得られるようにと導こうとしている書物なのである。
その重要性のゆえに、4つの福音書の最後に記されているヨハネによる福音書は、その実質的本文の最後に、その福音書を書いた目的を次のように述べている。
…これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じて(永遠の)命を受けるためである。(20章31より)
生物としての命は、永遠の命のいわば影だと言えよう。
人間の持つ愛―親子愛、異性間の愛や友情としての愛―それらは神の愛の影であるのと同様である。
影というのは、それは何かおこるとたちまち消えてしまうということである。生物としての命も小さな刃物一つで失われるし、親子愛や異性愛なども、ちょっとした言葉や行動で簡単に失われてしまうし、また時間や距離が遠くなれば確実に失われていくというもろさを持っている。
神の愛が無制限であり、無差別であり永遠であるのに対して、人間の愛は、差別的であり、特定の人にしか及ばないという著しい狭さを持っている。この点においても、人間の愛は、神の愛のごくかぎられたものであり、影が、実物のごくかぎられた様子、姿を表しているのと同様である。
神の命、神の愛こそは、いかなる科学技術の進展によっても決して人間が生み出すことができないものであり、そうした技術によっても何ら影響を受けない領域である。
ここに私たちの最終的な希望があり、その神の愛への希望はまた、日々の生活の力ともなっている。信仰と希望と愛はいつまでも続く―これは今後の科学技術の予期しがたい危険な進展に対しても唯一かつ最大の守りとなるのである。
誰でも、いろいろな人とつながりや関わりがあり、日々の生活のなかでその人たちを思いだす。何気なしに思い出すこともあれば、思いだしたくない人が念頭から離れない、ということもある。
その逆に、意識的に思いだす人もある。それが祈りである。他者への祈りとは、神に心を向けつつ、人を思い起こすことである。
冬空に夜半の明星なる木星が輝く。シリウスやオリオン座の星々など明るい星々が 夜空の一帯を飾っている。
それらの星々を見つめることもまた祈りへと導く。星の輝きは、永遠に語りかけてやまない神の言葉のように、変ることなくその澄んだ光を送ってくる。
いかなることがあろうとも、善きものを送り続けること、これが祈りのあるべき姿を指し示すものである。
このように星たちは、人間に祈ることが何であるかをも、語っている。
…わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなた方のために祈るたびに、いつも喜びをもって祈っている。(フィリピ1の3)
このパウロの喜びと感謝は、どこから来たのか。それは、人々が、キリストの福音をしっかりと持ち続けているからであった。
何が人を思い起こすときに、一番の喜びであるか。それは、人が、神の国からの良き知らせ―福音をその魂の内に受けて、それが内なる泉となってよきものを絶えずあふれさせているのを知るときである。
福音―それは神の言葉、神の力であり、約束であり、希望である。神の愛がかたちを変えたものである。それゆえ福音をしっかり持ち続けることは、その人の魂に持続的によきものが注がれることであり、さらにそこから周囲にも流れだしていくことである。
私たちがだれかを思いだすたびに、この使徒の喜びと同じような喜びを持てること、それが私たちの望みである。
他方、思いだすたびに、悲しみと痛みをもって思い起こす人もある。それは現在のその人たちの受けている苦しみや悲しみ、そして孤独を思うとき、そのなかにあるにもかかわらず魂の平安を得られていないことを思うとき。
そのような人のことを思いだすとき、みずからの非力を、そして罪を知らされる。
しかし、そこから私たちはそのような自分をも赦し受けいれてくださる主を仰ぎ、喜びを与えられる。弱さのなかにも、与えられる喜びがあるという事実、ここにほかの何ものにも代えることのできない感謝がある。
人間だけが、理想というものを考えることができる。あるべき究極的な姿を思うことができるのである。
そのようなことを動物は考えることができない。人間がそうしたことを思うことができるということは、神がそのあるべき姿を見ることができるように創造されたということである。
理想と現実とは違う、とよく言われる。それは当然のことである。理想とは、あるべき究極的なものをいうのであるから、現実と異なるのが当たり前である。
問題は、そうでなく、理想は実現できるのかということである。
あるべき究極的な姿というのは、何であるかは、罪深く、肉体という制限を持っている人間には、正確には分からない。
パウロが言っているように、それは鏡におぼろに映ったものを見るようなものである。(昔の鏡は金属などで作られており、今のような明瞭に見えるものでなかった)
なぜかと言えば、あるべき究極的な姿というのは、それを思い描く人間の魂が成長し、深まっていくほど、またその魂が豊かになるほど、さらに高いあり方が見えてくるからである。
例えば、こどものときの理想とは、例えば、お金持ちになる、医者になる、プロスポーツの選手になる…等々である。しかし、実際にそうなってみれば―金持ちとなっても、いくらでも上があり、金持ちなど際限がない。スポーツなどでのトップになることも、1度や2度優勝しても、その上はいくらでもある、続けて10回優勝するとか…。
また、正義に満ちた人などという理想も、こどもが正義ということの内容は到底ふかくは分からないから、漫画やアニメでの遊び感覚の正義でしかない。
このように、あるべき究極的な姿ということ自体が変化していくのである。
私たちも揺れ動く、理想も揺れ動く―すべてが動いているのがこの地上の生活である。
しかし、そのような中に、究極的な姿としてキリストがこの世界に遣わされた。そこに人間の理想がある。そしてこの姿そのものは変わらない。永遠に変わらない神と同じだからである。
キリストを理想として見つめるとき、私たちはそのキリストのようにしていただけるというのである。
…キリストは万物を支配する力によって、私たちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる。(フィリピ書3の21より)
このことは、理想は、神を信じるものにとって必ず実現することを意味している。
理想と現実は永遠に深い溝があり、永久に越えられないというのは、神を知らない立場である。
もし神が愛であり―すなわちどんな弱い者も顧み、そして導き、その罪を赦し、究極的には、その万能の力によって、私たちをキリストと同じようにしてくださるということを信じるときには、私たちの理想は確実に実現する。それは議論でなく、思索でも経験でもなく、信仰である。
だれでも祝福されることを願う。祝福とは、幸いな状態であるから、それを万人が望むのは当然のことである。
しかし、ひとたびこの祝福ということを考えてみると、単純に、幸福をねがうといったことではないのがわかる。
「祝福」という漢字はもともと中国語であり、現在も中国で使われている言葉である。これらの漢字の元の意味は、それぞれに「示偏」があるように、中国人の考えていた神との関連が「祝」と「福」という漢字にはある。(*)
(*)祝 という漢字は、示す偏の右側の旁(つくり)の部分は、祈る人間の姿を表すとされているし、福という漢字は、右の旁は、「とくりに酒を豊かに満たしたさまを描いた象形文字。福はそれを音符とし、示(祭壇)を加えた字で、神の恵みが豊かなこと。」(「漢字源」)と説明されている。
・祉は、神の恵みがそこに止(とど)まること。
以上のように中国の古代の人たちは、祝も、福、祉 もみな示す偏が付いているように、神との関わりと考えてきた。
しかし、日本語として使われている「祝福」という言葉は、人間がするものだと受け取られている。結婚式とか誕生日に○○さんを皆で祝福した、というように。
そもそも本来の意味の祝福とは、人間ができないことだ。その人間の前途を何が起こっても、本当の幸いとなり、その幸いな状態が続くことを祝福というからである。
英語では、祝福は、BLESS であり,BLOOD(血)がもとにあると語源辞典では説明されている。動物の犠牲の血を流すことと結びついているのである。これは、人間は本来神からの祝福を受けるには値しない汚れたものなので、いけにえの血で清められることが祝福であり、さらにそこから良きものが与えられることを祝福されることと受け取っていたのがうかがえる。
このように、中国語でも英語でも、祝福を受けるということは、神からのものであるということがその言葉に表されているのである。
言葉は、思想、精神の化石であると言われるように、こうした言葉の元来の意味をたどることで、その民族の古代からの考え方の一端を知ることができる。
祝福という言葉が初めて聖書に現れるのは、創世記の第一章である。それは、神が創造された生物に対して、それらを祝福して言われた、生めよ、増えよと言われたという記述である。
…神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」(創世記1の22)
祝福の具体的な姿は、このように生み出し、増えていくそのエネルギーに見られる。
そしてこの祝福は、人間の創造に際しても言われている。
「神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ…」(創世記1の28)」
この増えていくことが祝福である、ということは、箱船に乗って助けられた後のノアにも言われている。
「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地や空のすべての獣等はあなた方の手にゆだねられる。それらをあなた方の食物とせよ。」(創世記9章より)
そして、次には、第7日を祝福して言われたという安息日の祝福がある。
キリスト教となってからは、キリストの復活の記念である日曜日を主の日として守るようになって、安息日の精神と復活の記念をして礼拝するということが一つになって日曜日が事実上の安息日となった。
この日曜日を主の日としてまた安息日として守り、礼拝に捧げることは、確かに祝福を与えられることにつながる。
私自身、日曜日を主の日、礼拝の日として守ることによって今まで、はかり知れないさまざまの善きことを受けてきたのが分かる。
次に、創世記において、祝福という言葉が印象的に語られているのは次の箇所である。
… わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。…
地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。」(創世記12の2~3)
ここで言われていることには、聖書で最初に祝福という言葉が用いられた生き物が増え広がるエネルギーと関連したことが含まれている。それは、一人の人間アブラハムから大いなる国民、民族と増え広がっていく、ということである。
しかもその広がるというのは、単なる人間の数が増えるというのでなく、アブラハムに与えられた神への信仰、神との生きた結びつきを与えられた人間が増え広がっていくということが暗示されている。
さらに、神が与えるこの祝福は、そこから驚くべき形で広がっていくことが言われている。「それは、地上の氏族はすべてアブラハムによって祝福に入る」というのである。
アブラハムが祝福の源となる(*)という。
(*)これは原文では、「あなたの名は祝福となる」である。名とは本質であるゆえに、アブラハムが信仰を与えられて、神に従っていくというその本質そのものが他者にもそうした祝福を与える、いいかえれば、ほかの氏族、民族にもアブラハムが与えられた生きた神を信じるその信仰が伝わっていくということである。
このアブラハムが受けた祝福と、一般的に言われる祝福との大きな違いがここにある。
聖書における祝福は、創世記の古い時代から自分だけのものでなく、自分に与えられた神からの善き恵みが、他者にも波及していくという本質を持っていたのが、このアブラハムへの祝福から分る。
神が与える祝福は、聖書の至る所で何らかのかたちで記されている。
聖書の人物は、アブラハムやヤコブ、ヨセフ、そしてダビデやソロモンなどもみな神の祝福を受けた人たちであり、その祝福の内容がさまざまに記されている。
ヤコブにおいても、兄から殺されそうになって遠くに逃げていくとき、荒れ野で一人孤独な旅をしているとき、夢に天にいたる階段が見えて天使が上り下りしていた。
…あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。
見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
このように、ここでも、増え広がっていくということが祝福の大きな内容としてあげられ、アブラハムに言われたと同様に、ほかの地上の氏族への祝福が波及していくことも言われている。
そして、神が共にいてくださることも祝福の内容となっている。どんなことがあっても、神はヤコブとともにあって、守り導く、そして約束の地へと導くというのである。
こうしたことは、聖書の表面的な内容を読んでいくだけなら、過去のこと、私たちと関係ないことと思いがちである。
しかし、ここで言われていることは、そのまま現代の私たちにもあてはまる。
私たちに与えられた善きことが他者にも伝わり、それが他者の祝福へとつながるならば、私たちはそれにまさる喜びはないと言えよう。だれでも、自分の存在が他人の何らかの役に立ちたいと思っている。自分の存在が何の役にもたたないという気持ちほど生きる力を失わせるものはないであろう。
自分の存在がだれかの役に立っている、だれかの祝福につながっているということは、私たちを力づける。
また、どんなに苦しい状況にあり、人間から見下され、あるいは誤解され、また罪ゆえに生きていけないようなことがあったとしても、なお神だけは共にいて愛を注いでくださる。そして目的の地である神の国へと連れていってくださるという希望をしっかりと持つことができるならば、私たちはひどい孤独や苦しみにあっても何とか耐えていけるであろう。
この世における祝福―健康や、家庭、豊かな暮らし、人々からのよい評価等々がなくとも、ただ愛と真実の神がともにいて、私たちの魂のうちに住んでくださるならば、私たちは平安を与えられる。 そこにこの世では到底与えられない祝福がある。
人間世界の荒野、荒れ地にあっても、このような神の祝福を受けるときには、そこに花が咲き、水があふれるのだと詩的表現をもって記されているのが次の箇所である。
…荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ
砂漠よ、喜び、花を咲かせよ 野ばらの花を一面に咲かせよ。
花を咲かせ 大いに喜んで、声をあげよ。
そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。
…
そのとき 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う。
荒れ野に水が湧きいで
荒れ地に川が流れる。
熱した砂地は湖となり
乾いた地は水の湧くところとなる。(イザヤ書35章より)
これは、神を信じる者がうける究極的な祝福を詩のかたちで表現したものである。
この祝福は、創世記の1章や2章に記されていることをさらに生き生きした表現で詩的に言い表されている。
荒れ地、荒野に水がわき、そこに花が咲く、そのことは、創世記2章の記述をさらに詳しく表現したものである。また、見えなかった人―全盲―の人の目が開き、聞こえない人の耳が開くという。それは、闇と混沌にあったところに神の風(霊)が吹くことでもある。目が見えない、あるいは耳が聞こえないということは、盲学校やろう学校教育が開始されるまでは、まともな人間扱いをされない悲惨な状況に置かれることを意味していた。 たたっているのだとか、役にたたないもの、それどころか何か不吉なことのようにみなされ、生まれながらの盲人が家にいると 外にださず、遠いところに行っていると偽りを家族が口をそろえていい、夜間のトイレのときだけ、その部屋から出ることを許すといった、生涯を日陰者、存在しないものとされてしまうという現代では考えられないような 耐えがたい状況に置かれることがあった。
そのような見えないという状況に、光が与えられ、見えるようになるというのはこの上ない祝福であった。
創世記のこの最初の記述はそうしたあらゆる祝福をも簡潔な一語に秘めている言葉なのである。
これは、闇と空しさ、荒廃、混沌のただ中に、神の国からの祝福が投じられたことを意味している。
預言書のなかには、祝福を受けるにはどうすればいいのか、が繰り返し記されている。
…主は言われる、「わたしのもとに立ち返れ。」…
もし、あなたが真実と公平と正義をもって、「主は生きておられる」と誓うなら、諸国の民は、あなたを通して祝福を受ける。(エレミヤ書4の1~2より)
このように、祝福への道は単純明解であり、だれにでもその道が開かれていることが示されている。一人一人がただ、心においてまず神をみつめ、神の言葉の精神に立ち返るだけで祝福を受け、さらにその受けた祝福が他の国民に広がっていくというのである。
これは、かつてアブラハムが受けた祝福と基本的に一致しているし、現代の私たちにおいてもそのままあてはまる。
また、次のようにも記されている。
…祝福される人、それは主に信頼する人。
主がその人のよりどころとなられる。
彼は水のほとりに植えられた木。
その葉は青々と茂り、日照りのときにも、憂いはなく
絶えず実を結ぶ。(エレミヤ書17の7~8より)
Blessed is the man who trusts in the LORD,
whose confidence is in him. … (NIV)
ここにも、祝福を受けることは万人に開かれていることが示されている。それは能力や血筋、経験、あるいは知識や学問、男女の別、年齢といったものに関わりなく、ただ主に信頼するということだけが求められている。
主に信頼するとき、私たちは主からの祝福を受ける。そして、うるおされる。実を結ぶ。祝福された状態はこのように、私たちが求めてやまない魂の潤いであり、そこから植物が実を結ぶようにさまざまの良きことが伴ってくるという状況なのである。
主イエスは、何が祝福された状態なのかについて、次のように言われた。
…心の貧しい人たちは、幸いだ。(祝福されている)
なぜなら、神の国はそのひとたちのものだから。
悲しむ人たちは、幸いだ。
なぜなら、その人たちは慰められ、励まされるから。
義に飢え渇く人たちは幸いだ…
なぜならその人たちは満たされるから。
幸いだということ、それは祝福されているということである。この「幸い、祝福されている」と訳された原語(ギリシャ語)のマカリオス という言葉は、本来は神々の持っている祝福された幸い―いかなる地上のものによっても壊されない幸いを意味する。
心が貧しい―高ぶらない、自分の力や自信、誇り、あるいは持っていると思っていた意志、愛、心などがみな、実ははかないもの、壊れてしまうものだと思い知らされている心の状態を「心の貧しい者」といわれている。
この世では、結婚や出産、入学や入社、あるいは何かの業績で表彰されたとかなどのときに、周囲の人たちから祝福される。
このように、祝福とは人間がするものだ、というのがごく普通の考え方である。
しかし、祝福されるということは、運命の悪しき手から守られ、神のよき御手によって招かれ、育まれるということであり、また、いかなる悪しきことに出会っても、最終的にはすべてがよくなるように導かれるということであり、そのようなことは、ただ全能の神だけができることである。
旧約聖書の詩編には、その冒頭に、祝福された状態が記されている。
いかに祝福されていることか、
悪しき者の言うことに従って歩まず、…
主の言葉を愛し、昼も夜もそれを思う人。
その人は流れのほとりに植えられた木のようだ。
ときが来れば実を結び、葉もしおれることがない。(詩篇1の1~3より)
神の言葉―み言葉こそが、祝福の基なのだということが、この詩篇全体のタイトルともいうべき最初の詩で記されている。
すでに述べた創世記の冒頭においても、そのみ言葉によって暗黒と混沌のなかに光は生じた。
聖書における祝福とは、すでに述べたように、その巻頭から記されている。
それは、闇と空虚に聖なる霊(風)が吹くことであり、荒野に水が流れることである。
闇と空虚が襲ってこないことでなく、そうした状況のただなかにあって、そこに神の国からふいてくる風があることであり、荒れ野に直面しないことでなく、荒れ野に直面してもそこに水が流れることである。
このように、聖書の巻頭から新約聖書の最後の黙示録にいたるまで、一貫して言われていることは、神の霊の重要性である。
しかし、日本語として「霊が動いている」という表現に接して、多くの人は何を感じるであろうか。霊と言えば、まず幽霊といったものを連想することが多いゆえに、この表現には何か清いもの、良きものを感じる人は少ないのではないか。
(*)霊についての中国古代の考え方は、その文字にあらわれている。語源辞典によれば次のように説明されている。
靈の上部の字(音レイ)は「雨+○印三つ(水たま)」をあわせた会意文字で、連なった清らかな水たま。零と同じ。靈はそれを音符とし、巫(みこ)を加えた字で、神やたましいに接する清らかなみこ。転じて、水たまのように冷たく清らかな神の力やたましいをいう。霊はその略字。
神の創造したその光こそは、祝福の根源であったが、現在の私たちにおいても、神の言葉が投げかけられるとき、それはすなわち祝福された人間ということになる。
日々の歩みのなかで、神の言葉が与えられる生活、それが祝福された生活である。
現実の生活で、病気になったり、家族の問題が生じたり、あるいは自分自身の罪や、他者からの攻撃、悪意による苦しみなど、だれにおいても大なり小なり生じる。そこから神に求めるときには、力が与えられ、祝福が注がれる。
神の言葉なく、人間の考えや言葉、意見だけであるならば、そこには祝福はない。人間のそうした言葉、考えなどは次々と変化していくゆえに、私たちが本当にそこに土台を置く事はできないのである。もし、そうしたものに土台を置くときには、その人間そのものもたえず揺り動かされる存在となってしまうからである。
神の言葉こそは、私たちの直面するあらゆる困難に対しての導きと力になる。ここでの神の言葉とは、生ける神、キリストからの直接のはげましや語りかけであり、またそれを明確に聞き取った人たちによって記された聖書の言葉である。
聖書における祝福は、この世の祝福とちがって、苦しみ、悩みあるいは悲しみがないということではない。そうした苦しみや悲しみのただ中において注がれるのが祝福なのである。だからこそ、主イエスも、心の貧しきもの、悲しむもの、義に飢えかわくような者こそ祝福された人だと言っているのである。
キリストは神の愛を完全に受けて、かつ神の力―愛、真実、正しいこと等々をすべて受けておられた。それゆえに、ときには徹夜で苦しむ人たちのために祈り、また彼らを苦しめている霊的存在―サタンとの戦いをもそうした夜通しの祈りのなかでもなされていた。
その苦しみ―それを外からみるとき、一体どこに祝福があるのかといぶかしく思うだろう。
しかし、神の与える祝福は、そうした苦しみや悲しみなどと不可分に結びついているのである。
聖書の最後に置かれた書である 黙示録においても、祝福の究極的な姿が記されている。
それは、神と小羊なるキリストの玉座から命の水の川が、流れ出て、水晶のように輝いている。もはや闇はなく、いっさいの悪はない。太陽の代わりに、神とキリストが光の基となり、それは信じる者すべてに与えられることなのである。
そしてこの究極的な祝福の状態は、現代に生きる私たちと無縁のこと、あるいははるかな未来のことでもない。
それは、もし聖なる霊が豊かに与えられるならば、それを小さい規模であっても日々の生活のなかで、味わえるようにしてくださっているのである。
○木星と、冬の星座
日本海側に住む人たちには、冬空はほとんど星を見る機会もなく、雲で覆われた夜空だと思いますが、太平洋側の徳島では、しばしば澄みきった夜空に、ほかのどの季節にもない厳しさのなかに輝く澄んだ星たちがみられます。
ことに今年は、木星が、冬の強い光を放っている星々のリーダーのように、強く透明な光を地上に注いでいて、夜半に外に出て星空を仰ぐたびに、その神の国にある清らかさそのままの光に心が惹かれます。
夜、10時ころに、南の空には、オリオン座が正面に見えます。その右上、頭上に最も強く輝いているのが木星であり、そのすぐ下にあるのが赤色の牡牛座の一等星アルデバランです。さらにその右上方にすばる(プレヤデス星団)が見えます。
中学1年のとき、かんたんな手製の望遠鏡を作ってそのすばるを見たときの感動はいまも覚えています。たくさんの星々が初めてはっきりと見えたからです。
さらに頭上の北寄りに明るく光る御者座のカペラという一等星があります。オリオン座の左、東のほうには、小犬座の一等星 プロキオンが見えて、さらにその下方南寄りには恒星では全天で一番目に明るいシリウスが輝いています。
すばる(プレヤデス星団)は、いまの季節に最もよく見ることができます。千年ほども昔、日本人の書いたもの、万葉集やそれ以降のさまざまの和歌集にもほとんど星の記述がないなかで、清少納言は、「星は、すばる。ひこぼし。ゆふづつ。」といった記述を残していて、これは中学の国語の授業で学んだとき以来知らされていることです。
しかし、その星の順序がどうも不可解であったのです。とくにすばる(プレヤデス星団)が、最もよく見えるのは冬ですが、そのときには、オリオン座の二つの一等星や大犬座のシリウスの強い光その他たくさんの明るい星々―一等星たちが1年のうちで最も多くみられます。
それなのに、星がはっきり見えないで薄雲のように見えるこのぼんやりとした星の集りをなぜ、第一においたのか、ということです。また、天の川をはさんで、こと座のベガ(織女星)と、わし座のアルタイル(牽牛星、ひこぼし )は夏にははっきりとよくめだちますが、アルタイルよりベガが明るく、まずこちらのほうが目に入ります。それにもかかわらず、わし座の彦星(ひこぼし)をあげていること、そして ゆふづつとは金星ですが、この宵の明星として いかなる星よりも強く輝く金星がそれらよりあとに置かれているということも不思議なことです。
これは単に清少納言個人の好みの問題を越えて、日本人のあいまいなことを好む感性が表れていると言えます。くっきりとした強い輝きの星よりも、雲でくすんだような星の集団に、より心惹かれたということです。
こうしたことが、いかなるものにも抜きんでて万物を支配されている神を受けいれず、人間でも動物でもまた大木や山、あるいは死んだ人まで、その正体がわからないもの、曖昧模糊としたものを神々として拝むということにもつながっていると思われます。
私たちの心の世界も、もし聖書で示されている明確な本質を持っておられる神を知らないときには、その心の中はやはり薄雲がかかったようなどんよりとした暗さが覆っていると言えます。光あれと言われる神を知らずその神を受けいれないということはその光を受けいれないからです。
主イエスも次のように言われました。
… 神の光を受けいれるための心の窓(魂の目)が濁っていたら、光は入ってこない。すると全身が暗い。魂の内なる神の光が消えたら、その暗さはどれほどであろう…(マタイ福音書6の22~23より)
善か悪かあいまいではっきりしないことを、そのまま受けいれるのでなく、善はあくまで夜空の星のように明確な本性を持っているということを示され、それを記しているのが聖書でもあります。
なお、金星は明けの明星として9月ころからずっとその輝きを見せてきましたが、1月の下旬には見えなくなります。 早朝の東空にはっとするような輝きを見せていましたので、それが見えなくなるのは名残惜しい気持ちです。
(343)人生の最も美しい目的は、できるだけ多くの善きことを行なうことである。
・これはマザー・テレサの言葉、
Something beautiful for God …
を思い起こさせる。
ここにあげたヒルティの言葉は、人生の目的に関して実に簡潔であり、 無数の目的があげられるなかで、きわめてわかりやすいものである。しかし、本当に善いことであるためには、動機が純粋でなければならない。他者のために善いことをするといいながら、心の中では、そうすることで人々からよい評価を受けるとか、自分で何かよいことをした気持ちになりたいからといった自己満足のためにするのなら、それは善いこととは言えない。
持続的に真実な愛をもってすることが本当に善いことと言えるが、それは善そのものである神と結びつかねばなし得ないことである。
神とむすびついた心でなすとき、それは小さなことであっても、神が大きく意味深いものとされる。
主イエスが、ぶどう酒を水に変えた奇跡がある。私たちのすることは、水のような実態のないものであっても、それをぶどう酒―味わい深い善きものの象徴として言われているーとなすのは、神である。
私たちの小さきことをも、清きものとしてくださるのは神であり、そのように神の万能と愛を信じてなすときに、善きこととなる。それは言い換えると、祈りの心をもってなすとき、さまざまのことは善きことになる。
病気となって祈るだけしかできなくとも、その祈りによって神がよきわざをなしてくださることを信じることができる。
そして真実な祈りそのものが、「善きこと」であるから、私たちは、他者のための神への祈りを続けることで、善きことをなし続けることになる。
○元旦礼拝
2013年1月1日(火) 午前6時30分~8時 徳島聖書キリスト集会場にて。
毎年、新しい年を迎えて早朝の元旦礼拝を行なっています。今年も、その集りによって一年の上よりの祝福をともに祈り、御国のために歩むことができるように、み言葉を受け、讃美と祈りを共にしたいと願っています。
6時半といえば、まだ真っ暗ですが、礼拝をすすめるとともに明るくなっていきます。
義の太陽がのぼる、と言われていますように、新しい年を迎えて、主イエスを私たちのうちに受けられますように。
○クリスマス特別集会
12月23日(日)徳島聖書キリスト集会場にて。午前10時~午後2時。
参加希望の人は、会費500円(昼食代金)を添えて申込してください。
申込先 ・貝出久美子 E-mail
kumistaurostoko@ybb.ne.jp
電話 090-1176-9040
・熊井勇 E-mail kyrie@mb.pikara.ne.jp
電話 0886-53-3980
・問い合わせ先 吉村孝雄 電話、E-mailは、奥付を参照してください。
○キャロリング
12月24日(月)集会場付近をクリスマスの讃美歌歌って歩きます。 夜6時半に集会場に集り、準備のうえ、7時
に出発します。
問い合わせ先 綱野悦子 電話 088ー641ー4170
○第15回 冬季聖書集会(横浜市にて開催)
さまざまの苦しみは、この世で生きるかぎりつきまといます。新しい年を迎えて、私たちの直面するそうした困難や悲しみにいかにして対処していくべきか、人の経験、証しによっても教えられますが、そうした人間の考えや経験のすべてを包み込んでいる神はそれについてどのように指し示しているのかを学びたいと思います。
・日時…2013年1月12日(土)~14日(月・祝日) 13時解散。
・テーマ 「苦難と信仰」…苦しみを越えて復活の希望へ
・講師…吉村孝雄
・ 聖書講話の主題
1、聖書に記された信仰の人は、苦しみをいかにして乗り越えたか
2、苦難の中に示された復活、再生の道 ―預言書と詩篇から
3、キリストの受難と復活 ―現代の私たちへのメッセージ。
・聖書講話以外に、早朝の祈祷会、それぞれのテーマについての話し合い、讃美、DVD鑑賞(コルベ神父の生き方)、感話会など。
・場所…上郷(かみごう)・森の家 横浜市栄区上郷町 1499の1
電話 045ー895ー5151
・会費…大人 二万二千円。学生五千円。 会場で納入。部分参加の費用は、個別に問い合わせてください。
・交通…JR東海道線・横須賀線「大船」駅 笠間口から (バスターミナルを間違えないよう)
発車時刻 11時45分、12時15分、12時45分。 20~30分で「森の家」下車。徒歩7分。
・用意するもの…聖書、讃美歌、筆記用具、着替え、洗面用具、パジャマなど。この集会のための讃美集は、印刷したものを準備します。
・申込期限…12月25日(火)まで。
・申込先…栗原 庸夫(つねお)
〒330ー0855 さいたま市大宮区上小町844
電話・FAX 048ー643ー5367 ・メール
kuri844@jcom.home.ne.jp
○来年のキリスト教四国集会(無教会)は、2013年5月11日(土)13時~12日(日)16時まで。
徳島市にて開催予定です。
○移動夕拝…12月18日(火)午後7時30分~9時。今月の移動夕拝は、中川 啓・春美宅にて。
いつもは移動夕拝は第4火曜日ですが、12月はキャロリングがあるので、第三火曜日です。
○12月25日(火)の夕拝は休会です。(キャロリングが前日の24日にあるためです。)
○聖書講話「出エジプト記」が完成しました。
MP3版で、2枚のCDに収録されています。48回分の講話で、1回30分余なので、大体25時間余あります。
価格は、千円(送料含)