思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。 |
・2012年2月 612号 内容・もくじ
つる性の植物のたくましさ
私の家の周辺には、さまざまのつる性の植物がある。
美しい花を咲かせるフジ、あるいは野草のセンニンソウやヤブカラシあるいはクズなどがそれであるが、こうした植物は、自らは弱く、立ち上がることもできないなよなよしたものにすぎない。しかし、それらは近くにあるしっかりした草や樹木にからまって上へと成長していく。そして、雑草や木々の枝を越えて、日の当たる高いところまで上っていく。そしてそこで緑の葉を広げ、十分な光を受けて、樹木の上部でたくましく広がっていく。
弱いものはこのように、よりすがって上がっていくことによって上なる太陽の光を受けることができる。
これは、人間も同じだ。私たちもなよなよとしてしっかり自分の足で立つこともできない。他人の批評、攻撃、誤解といったもので簡単に倒れたり、また自分自身の弱さのために、倒れてしまう。
そのままでは、地面にうごめいて光があたらないために弱ってしまう。
人間は、たくましい樹木に相当するものが与えられている。それは神であり、キリストである。私たち弱い者であっても、神により頼んでいくときには、上へと上っていける。そして、霊の太陽たる神の光を受けることができる。
この世は藪の生い茂る暗いところであるが、そこから目ざましく伸びていく道が備えられているのである。
神が蒔いて下さるもの
種を蒔く、それは人間の生活にとって根本的に大切なことである。私たちの日毎の食事、それは米や小麦の種まきによって、あるいは野菜や果物もまずその出発点に種を蒔くということがある。接ぎ木の場合でも、もとになる木はやはり人間あるいは、自然に種蒔かれたものをもとにしている。
このように日常の生活を支えている重要なことであるが、これは目に見えない精神的、霊的な世界においても、種まきということは根本的に重要であるから、主イエスも種まきのたとえを話されたことがある。
この世界全体が、大地であり、そこに神は福音の種、真理の種を蒔かれる。さまざまの場所に―荒れ地、茂み、あるいは乾燥した地、よき地―蒔かれる。そして、それらの多くは、あるものは芽生えることなく、あるものは芽生えてもまもなく水分の不足によって枯れ、あるものは茂みゆえに埋もれてしまって成長できない。だが、あるものは、めざましく成長し、多くの実を結ぶ。
この種まきのたとえは、現代までのあらゆる世界の状況を映し出している。福音が蒔かれたその状況は、たしかに蒔いてもまったく芽の出ないこともあり、国家的迫害によって枯れてしまったこともある。また何とか芽を出しても大きな災害や戦乱によってかき消されてしまったものもある。
しかし、どこかで、その種は成長し、大いなる実を結び続けてきた。それゆえに、福音は今日まで全世界に伝わってきたのである。
このような歴史的な視点から見ても、神の種まきは確実になされてきたのがわかる。
それとともに、神は、私たち一人一人の心の世界にも、さまざまの種を蒔いて下さっている。
…神に従う人のためには光を、心のまっすぐな人のためには喜びを種蒔いてくださる。(詩篇 97の11)
神を信じ、従っていこうとするだけで、本来どこにも喜びのなかった心の荒れ地にも、神は喜びを種蒔いてくださる。そして、前途が真っ暗で道がないようなところにも、希望を種蒔いてくださり、そこから新たな喜びや希望が育っていくようにされる。
困難なとき、自分の力で喜びや希望を心に種蒔こう、生み出そうとしてもすぐに枯れてしまう。しかし、蒔いてくださるのは無から有を生み出す神であるから、私たちはただそのことを信じて神が蒔いて下さるのを待っているだけでよい。
祈って待つ魂には、かつて神は、聖霊という最も大いなる種を蒔いてくださったように、現代の私たちにも神の時が来ればいろいろなよき種を蒔いて下さる。
だれにでも可能な対策
2011年の1月、九州の新燃岳の噴火からはじまり、この一年の日本は、3月に大地震、大津波が発生し、福島原発の爆発となり、かつてない大被害を引き起こした。
さらに、9月には、和歌山県南部では、72時間で1000ミリを超える観測史上最大の雨量を記録して多くの被害を出した。
そしてこの冬には、例年の数倍の積雪とか、観測史上でも最大級の豪雪となっている地域が多い。
こうした自然の災害は、今日のように科学技術が発達していても、いずれも予見できなかった。
それは今後も同様であろう。こうした天災の被害は、それに対する何らかの可能な対策を怠るという人災が大抵は加わってその被害を大きくすることも多い。福島原発災害はその最たるものであって、大地震やそれに伴う津波によって電源が断たれ、冷却機能が損なわれ、最悪の場合は炉心溶融という大事故になるということは、もう何年も前から指摘され、国会でも取り上げられていた。しかし、それを政府や東京電力が怠っていたのである。
ここに人間の限界がある。どんなにすべきことがわかっていても、なお自分の目先のことに目を奪われて自分の地位や欲望を満たしてしまう。そこから人災が生じる。
人災の根源にあるのは、本当に正しいことを知っていてもできない、という人間の弱さ、罪である。
また、そうした天災や人災による被害が生じたとき、今回のことや、今までの水俣病や原爆被災などでわかるようにその補償はなかなか進まず、長い歳月が費やされてしまう。
そしてようやく補償金などもらっても、すでに年老いてその補償金を生かすこともできない場合すらある。
このような悲しむべき事態が繰り返されてきた。
人災を起こさないためにも、また天災を受けたときでも、そして補償もなかなかしてもらえないときにあっても、どのような状況に置かれても重要な支えとなることがある。
それが弱いときに与えられる神の力である。
害を与えた人たちの間違った主張にも反論もできない、打ちのめされて精神的に立ち上がれない、といった時においてもなお、求めることによって与えられるものは、神の力である。
そして、自然災害や人災など自分の外から来る苦しみ以外に、自分の内からくる苦しみがある。人災を引き起こすことに関わったような人だけでない。自分の罪からくる苦しみはだれにでも襲って来る。ときには突然にまた、徐々に津波が押し寄せるようにして魂をのみこんでいく。そのために、魂のよき部分は壊され、生涯にわたる不幸を生み出すことになる場合もある。一番よいお方(神)を知らないこと、その愛の神に目を注がないところから来る不安や動揺、あるいは悲しみである。
それは、魂の深いところにあってその魂を責め、苦しめる。外から来る苦しみはだれにもよくわかるが、自分の内面から来る、罪による苦しみについては気付かない場合が多い。
どのような場合でも私たちに可能な対策、それは、罪の赦しとそこからくる神との交わり、平安を持っていることであり、弱さの中に与えられる力を受けることである。
力は弱さの中で完全にされる
だれでも、何らかの力を求めている。乳児が母親に頼るのも、乳児は全く力がなく、放置されたらたちまち死んでしまう弱いものだからである。それゆえに、本能的に力ある存在―母親を絶えず求めている。
少し大きくなっても、同様である。遊んでくれる友だちの力、小遣いを自由に使えるお金の力、自分が他人より上になるための力…を求めていく。
学校でも同様で、そこでは学力やスポーツなどの力を持っているものが重要視されるから、それらを親や教師、子どももともになって必死に求めていく。
大人の世界では、経済力、お金の力を持っている人間や会社が重要視されるし、政治の世界でも同様である。国際的にも経済力や軍事力を持とうとして絶えず競争がなされている。
死が近づく老年や病気が重くなると、そこからのいやしをもとめて、医療の力に頼る。
この世は、このように、すべて何らかの力を切実に求めている。
こうしたすべての力に共通していること、それはお金の力がかかわっていることと、自分中心ということである。
自分のために力が必要だということで頭がいっぱいになり、その力を分かとうとするどころか、他者の力を奪い取ろうとすることさえ多い。金や権力という力を考えると分るが、分かとうとすればなくなっていくからである。
また、自分の健康を他者―病人に分かつということはできない相談である。
この力の奪い合いということが、大規模になるとき、戦争となり、第二次世界大戦のように数千万人の命が失われ、それをはるかに上回る家族たちが苦しみの淵に追いやられ、国土は荒廃してしまう。
エネルギーも一種の力であり、多くのエネルギーを生み出す国は、それをもって多大な生産をなしとげ、収益をあげていく。
そうした豊かさを守るために軍事力が必要となり、核兵器が生み出され、それを支えるために原子炉が次々と作られ、今日の原発時代となっていった。
そしてその原子の核分裂によって生じる途方もない力が軍事兵器として用いられ、一瞬にして数十万人の命が広島、長崎において奪われ、生き残った人も以後何年、あるいは何十年も苦しまねばならなくなった。
そしてその原子力は平和利用と称して発電のために使われ、その原発の大事故によっておびただしい放射能が放出され、何十年と人々を苦しめていくことになったばかりでなく、今後永久的にその廃棄物の管理をせねばならなくなってしまった。
力をもとめていったそのあかつきに、究極的な力、エネルギーを得たが、それは希望の喜ばしい世界でなく、恐るべき核戦争の危険をはらみ、原発の大事故という取り返しのつかない事態を同時に生み出してしまったのである。
人間をよくする力でなく、破壊し、食い尽くしていく力となってしまったのである。
こうした現在にあって、私たちは本質的に異なる力があるのを知らされている。
そしてその力は驚くべき仕方で私たちに与えられるという。
「神の力は、弱さのなかでこそ、完全に現れる。」(Ⅱコリント12の9より)
このようなことは、一般の人にとっては絵空事である。弱さと力とは正反対だからだ。弱いとは力がないことで、そこに力があるなどは、意味不明の文になる。
しかし、聖書はこのように、一般の常識を打ち破る真理を秘めたエネルギーを持っている。
このキリスト者にはよく知られた言葉は、一般の人には知られていない。
聖書の言葉やその内容であっても、一般の日本人にも広く知られているものはある。
例えば、「求めよ、さらば与えられん」、「隣人を愛せよ」、「狭き門より入れ」、「目からうろこ」、「タレント」、クリスマス、家畜小屋で生まれたキリスト、ペテロ(英語ではピーター)やヨハネ(ジョン)、パウロ(ポール)などの使徒たちの人名…等々である。
しかし、弱いところに力が現れるなどは、聞いたことがないという人が圧倒的に多いはずだ。
パウロはこの言葉をどのような文脈で言ったのだろうか。それは、彼が、14年前に与えられた特別な啓示と結びつけている。彼は、第三の天にまで引き上げられて、それは体を離れてか、体のままか分からないという。それほど、霊的に高いところに引き上げられ、体から彼の霊が離れていったかと思われるほどであったのがうかがえる。
そこで、彼は言葉では言い表すことができない言葉を聞いたという。
単に言葉で表現できない感動、ということなら、何もそのような啓示がなくとも多くの人に見られる。
例えば、高山を登っていて、思いがけず美しい風景に遭遇して言葉を失う、というようなことは、登山を多くしていたら大抵の人は一度や二度は経験しているはずである。私自身もそれはいろいろと思いだされる。今から40年近く前に、北アルプス(後立山連峰)を一週間ほどをかけて単独縦走していたとき、標高二千五百メートルほどの稜線であったが、そこで午後に強い風雨に遭遇した。数時間後、雨が上がったときに、西の空に夕日と夕焼けの雲の壮麗な美しさに息をのんだ。今もあの美しさは忘れられない。それは到底言葉では語れない壮大な美しさであった。
こうした言葉で言えない感動は、苦しいときに受けた純粋な愛、長い病のいやしを経験したとき、等々、いろいろな人が経験したと思われる。
しかし、パウロが経験した言葉にすることを許されない、言い表せない言葉とは、右に述べたような経験とは大きく異なる、著しく霊的なものであったと考えられる。
神の直接の語りかけ―パウロの全存在を圧倒するようなものであったであろう。そしてそれは、かつてパウロよりも700年ほども昔の大いなる預言者イザヤがやはり霊的に引き上げられて神を見、天使たちの厳粛な歌声を聞いたことにも通じるものであったと考えられる。
こうした特別な経験は、ほかにはほとんど誰にも与えられないことが分ったゆえに、パウロの内に、ひそかにある種の高ぶりが頭をもたげてくる危険性を彼は知っていた。
神は、そのことを見抜いておられ、彼の体に一つのとげを与えた。それはパウロがサタンから送られたといい、その苦しみのあまり、三度もそれを取り去ってくださいと懇願した。三度というのは象徴的な数であるから、文字通りでなく、もう完全だというほどに力を注いで祈りに祈ったということであろう。
しかし、そのような彼の切実な祈りと願いにもかかわらず、そのとげは取り去られることはなかった。そして神は言われた。「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さのなかでこそ、完全に現れる。」(*)
(*)原文は、teleo 完全にする、の受動態であるから、多くの英語訳では、 my power is made perfect in weakness. (私の力は、弱さの中において、完全にされる)と訳されている。
私たちが強いと思っている間は、神の力が与えられても、それは完全にはならない。神の力が完全とされるには弱さというものが必要だというのである。
だれもが避けたい弱さ、だれもがあこがれる強さ―それはとくに最もマスコミなどで大々的に毎日のように写真で取り上げられるスポーツでは鮮明である。野球、サッカー、あるいは相撲にしても弱いものはたちまち放り出される。強さだけが取り上げられ、しかも最も強い優勝者が圧倒的に大きく取り上げられる。
これは、政治、軍事、経済、芸術、芸能など、どれを取っても同様である。子どものときでも、学校の成績がよいとか、スポーツができるなど何らかの才能で力あるものはもてはやされる。
そのような弱いものが排除されるのが当たり前の世界にあって、神は、弱いところにあってこそ、神の力は完全にされるという。
これは福音である。強いこと、とくに一番強いなどはきわめて少数だけがなれることである。
しかし、弱いことは誰でも、いつでも身近なこと、毎日の生活で常時経験されていることである。
睡眠がとれない、食事をしなかったらたちまち弱ってしまうほど、人間は弱い。そんなことだけでない。体の病気での弱さ、老齢化の弱さ、人間関係の悩みが解決できない弱さ、家族問題や、職業上での弱さ等々、誰でも至るところにころがっているのが弱さである。
そうした石ころのように身近にあって、何の役にも立たないと思われている弱さの中から芽を出してくるものがあるという。
しかも立派な花を咲かせるというのである。神の力、それは神の美も清さや永遠性をも併せ持っている。そのような力が完全に現れるという。
弱さの中において、神の力は完全とされる。人間の力は弱いときに完全とされるなどあり得ない。
しかし、ここで言われているのは、神の力、キリストの力のことなのである。
物質的に貧しいとき、また心貧しいとき―言い換えると心に何も誇るものもない状態のとき、あるいは、大切なものを失ったり、自分の罪によって他者を大きく苦しめたとき、また、愛するものからの裏切りとか死に遭遇して深い悲しみに沈むとき…そうしたときは、私たちが弱さの中にあるときである。
そうした弱さにおいて、キリストは次のように言われた。
…ああ、幸いだ、心貧しき者たちは。なぜなら、神の国はその人たちのものだからである。
ああ、幸いだ、悲しむ人たちは。なぜなら、その人たちは(神によって)慰められるからである。
(マタイ福音書5の3~4)
ここにも、弱さの中において、神の力が十分に発揮されるということの別の表現がある。
そして、キリスト教信仰において最も重要なことである、十字架と復活ということもまた弱さの中から完全な力を発揮したのである。
人間の根本問題は経済問題でも病気でも、また教育や軍事問題でもない。それは心の奥深いところの問題であり、どうしても正しいこと、愛あることができないということである。そのこと―罪こそ最大の問題である。
自分という最も身近なものなのにそこからそのような罪を取り出して一掃することもできない。
万人の罪を取り出して清めるなどという、まさに神のみがなし得ることを、キリストは確かになされた。
それゆえ、私たちはただ信じるだけでその清めを受けることができるようになった。そのような人間の精神的な世界で最も重大なことを成し遂げたのは、どのようにしてであったか。
イエスは、鞭打たれ、血を流し、ののしられ、つばをはきかけられたうえ、重い処刑のための木(十字架)を担わされ、よろめきつつ歩いた上、木に釘付けられ、途方もない苦しみにさいなまれつつ、わが神、わが神どうして私を捨てたのか!と
叫んで息絶えていったという。
これは最も弱々しい人間の生々しい姿である。しかし、万人の罪からのあがないという全人類にわたる大いなる事業はこの弱さのただなかで成就された。まさに、神の力は、弱さの中で成就されたのである。
そして、復活も同様である。死という最も弱さを私たちが感じるところに、神は、復活という死に勝利する力を完全に現されたのである。
まことに、弱きところに神の力は完全とされる。
人間の魂には何が住むべきか
私たちの心あるいは魂の中には、何が住んでいると言えるだろうか。
それは自己である。古い自分である。あるいはその古き自分と結びついた他の人間である。
どんなに、社会的によく働いていても、聖書の基準からすれば死んだようなもの、というのは一般的な考えからは到底受けいれられないだろう。言い換えると、それほど聖書の世界が指し示すのは、通常の人間の感覚とは全く異なる、清くて愛のある魂の高い状態を基準としているのである。
神、キリストが持っておられるような基準に照らしていうとき、初めて人間はいかに汚れているか、不純であるか、愛なき存在であるかが浮かびあがってくる。
キリストのような究極的な標準を見ないで、ふつうの人間社会を見るから、誰でも人間は死んでいるなどと言われたら、何という極端なことを! と思ってしまうのである。
衣服の色が黒かったら、少々の汚れがついてもわからない。結構きれいだと思う。しかし、純白のシャツなら、わずかの汚れもはっきりとわかるのと同様である。神やキリストの完全な愛や純粋さをバックにすれば、どんな人間も汚れ果てていることになる。
正しそうに見える人間も、無数の不正でいっぱいとなる。
人間の実態がそのようなものであるゆえに、その心にはつねにサタンが働く場となっていると言える。サタンが働くといえば、何か人の命を奪うといった犯罪というようなことを連想するが、聖書では、そうしたこと以前の心の動きをすら、サタンのわざとみなしている。
イエスがもうじき自分がとらわれて十字架につけられと言われたとき、ペテロはイエスを引き寄せてそんなことがあってはいけないと叱った。 そのペテロに対して、イエスは、「サタンよ退け、神のことを思わず、人のことを思っている。」と激しい態度で叱責された。このようなことを見ても、神の御意志を思わず、人間的な願望や考えで行動したりすることがすでにサタンのはたらきだと言われているのである。
このことを見ても分るように、サタンは、たえず人間のなかで働こうとする。ペテロにも入り込んだ。ペテロがすべて捨てて従ったときには、サタンは追いだされたはずだが、油断するとすぐに戻ってくるのである。
たんに掃除してあって整えられているだけでは、サタンがさらにひどく入ってくる、というのは驚くべきこと、私たちの思いを越えることである。これは通常の人間の道徳教育などの致命的限界を意味している。
人間の魂の中に何があるのか、何が住むべきか、そのことについてのイエスのたとえがある。
…「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。
それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。
戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。
そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。
そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになる。」(マタイ福音書12の43~45)
汚れた霊、それは悪の霊と同じである。それは住んでいた人間の魂から出て行くことがある。そして、休み場所を求めて砂漠をうろつく。それは水のない荒れ地、砂漠こそ悪の霊がいるところであるからだ。主イエスも、荒れ野にてサタンの試みを受けられた。しかし、本当の悪の霊の住み着こうとするところは、人間の中なのである。
とくに、一時的に人間的な決心とか、他人からの勧めで何かよい行いをはじめたというような心は、掃除をして、整えられていた状態だと言えよう。(飾りつけをしてあった、
とも訳される)
しかし、そこは空き家であった。精神の荒れ野の状態は、人間的努力によっては解消されないのである。
このことを主イエスは特に言おうとされている。どんなに人間がその一時的な考えや努力、他人の勧めなどを受けて何らかのよい決心や行いをしようとも、あるいは、何らかの学問や経験を積んでも、あるいは芸術やスポーツで名をなしてもなお、それはやはり霊的に見れば、空き家である。それは、命の水で潤っていない、精神の荒れ野の状態だというのである。
このような表現は到底一般的には受けいれられないであろう。それは、最初にあげた言葉、「あなた方はだれでもみなその罪のために、死んでいたのだ」(エフェソの信徒への手紙2の1)というような記述とともに、私たちが通常目に触れるような印刷物やテレビその他でも全く相いれないような表現だといえるだろう。
それほどに、主イエスが言おうとされているのは、人間の魂の内に住むべきなのは、神の霊、キリストの霊であり、キリストご自身だということなのである。
ヨハネ福音書において、キリストが逮捕されるその夜の最後の食事のときに語ったのは、「私の内に留まれ。そうすれば私もあなた方の内に留まる」(ヨハネ15の4)ということであった。
もうじき、翌日には殺される、という主イエスが、私があなた方の内に留まるということをこのように重要な約束として語られた。それは復活すること、人間の魂の内に留まることのできる霊的存在になることを意味している。
キリストが、私たちの内に留まることこそ、永遠の命そのものである。
使徒パウロは、コリントの教会の人たちに、あなた方の内にキリストが住んでいるのが分からないのか、とただしている。信仰を与えられたとき、すでに復活したキリスト、聖霊なるキリストが信じた人の内に、静かに住んで下さっているにもかかわらず、そのことに気付かずに外のことに気を取られているからこのように言われている。
現代の私たちも同様である。キリストを信じているといっても、内に住んでくださっているキリストのことを忘れ、この世のことでいっぱいになっていることが多いのではないか。それは、空き家のようになっていることであり、そのようなことこそ、気をつけなければならない。
どんなに信仰の年月が長くとも、やはりうっかりすると空き家となり、サタンがさらに悪い霊を連れて入ってくるのを思う。
こうした状況があるが、他方、主イエスが言われたように、求めよ、そうすれば、聖霊が与えられる。(ルカ11の13)という約束こそ私たちへの福音である。
キリストは地上におられるとき、その最大のはたらきは、こうした悪霊を追いだすことであった。「今日も、明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」(ルカ13の32)
このように、とくに悪霊を追い出すことを年頭においておられた。
12弟子を選んだときも、彼らに与えた使命とは、汚れた霊に対する権威を授け、そのような霊を追い出す力を与えたことであった。(マタイ10の1)
主の祈りにある、「御国が来ますように」という祈りは、原語のギリシャ語の意味を汲んで訳するなら、「神の、王としての御支配が来ますように」という意味になる。(*)
(*)御国とは、ギリシャ語では、バシレイアであるが、それはバシリュース(王)という言葉がもとになっている。それゆえ、バシレイアとは、王の権威、王の支配というのが原義である。その後、王の支配が及んでいる領域も意味するようになり、王国という意味をも持つ。英語訳では、 kingdom と訳され、王 kingという語が含まれている。
それゆえ、御国がきますようにと祈ることは、悪霊が追い出されるように、そしてそこに神の王としての御支配が来ますようにという祈りである。それはまた、神の完全な力そのものである聖霊が来ますようにとの祈りである。
私たち一人一人から、そして家族や何人かの集り、学校や会社、さらには国家そのものから悪の霊、悪の力が追い出され、そこに、神の霊が来るようにとの祈りこそは、最も大切な祈りなのである。
私たちへの呼びかけ― ヨハネの福音書の特質から―
新約聖書には、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという四つの福音書がある。そのなかで、ヨハネ福音書はほかの三つとは異なる特質がある。ここでは、その一つを私たちへの直接のメッセージという観点から見てみたい。
「信じる」という言葉(動詞)の新約聖書における原語(ギリシャ語)は、ピステューオー pisteuo である。この言葉は、どのように新約聖書のさまざまの書で使われているだろうか。
コンピュータでそれを調べると意外なことがわかる。
ヨハネ福音書 98回、、マルコ福音書14回、マタイ 11回、ルカ 9回。ローマ書21回。
これを見れば、ヨハネ福音書が断然多い。同じ福音書といっても、マタイ、マルコ、ルカなどよりはるかに多い。
ヨハネ福音書がほかの福音書以上に、「信じる」という動詞の形を―「信仰」という名詞形でなく(*)―特に重視しているのがこの言葉の面でもはっきりとうかがえる。
(*)「信仰」という名詞形は、パウロが圧倒的に多く用いており、ローマ、コリント、ガラテヤの三書だけで 76回も使われている。信仰によって義とされる(救われる)という、いわば 法則として多く語られているからである。
それに対して、意外なことにヨハネ福音書では、「信仰」という名詞形は、一度も使われていないのであって、パウロの使い方と際立った対照をなしている。ヨハネ福音書では、すべて「信じる」という動詞の形で用いられている。
その理由として考えられるのは、マタイ、マルコ、ルカの福音書が、イエスの教えとその行動を記すことを中心としているのに対して、ヨハネ福音書は、神(キリスト)から、この福音書を読む人々に直接に語りかける内容を主体としているからだと言えよう。
例えば、「神とキリストを信じなさい。 信じるなら永遠の命が与えられる。」という言葉について言えば、この言葉を繰り返し、当時の人たちに語りかけるだけでなく、以後のあらゆる人たち、そして現代の私たちへのメッセージとして語り続けていると受け止めることができる。
それは、マルタとの会話でもその特質がわかる。
マルタは、当時のファリサイ派の人たちのように、世の終わりのときに復活することは知っていると答えた。しかし、主イエスは、それを訂正するかのように、「私を今信じるなら、それだけで今、永遠の命を与えられ、死なない者と変えられる。死んでも生きる」と言われた。そしてその真理を語ったあと、「あなたはそれを信じるか…」と問いかけられた。
これは、単にマルタという昔の女性に問いかけた言葉でない。それは世界の国々のあらゆる人たちに語りかける生きた言葉なのである。
このように、動詞の形を多く用いることで、私たちへの呼びかけ、メッセージというニュアンスをたたえたものとなる。
他の例をあげる。
「私の内に留まっていなさい!」(*)という言葉(ヨハネ15の4~)に用いられているのが、メノーという動詞である。これは、「留まる」という意味の言葉である。これはヨハネ福音書やヨハネの手紙に特に多く用いられていて、この二つだけで67回も用いられている。
これに対して、ローマ、コリント、ガラテヤの各書を合計でもわずかに12回しか用いられていない。ここでも、ヨハネ福音書では、キリストが、私たちに「わが内に留まれ!」という情熱的な語りかけ、メッセージを発しているのである。
(*)新共同訳では、「わたしにつながっていなさい。」と訳されている。原語は、メノー meno であり、原意は、「留まる」。英語では、 remain あるいは、 abide を用いて訳される。
そしてヨハネ福音書での中心といえる、永遠の命に関して、死んでも生きる、いつまでも生きる、という真理と通い合うものを持っているいのちの水についても、祭の最後の日にイエスは立って、大声で叫んで言われた…とある。
そこにどんな聴衆がいたのかすら定かでない。
それは、特別に強調した表現によって、キリストがそこにいた人たちに語りかけるというより、神が以後のすべての人間に熱誠を込めて語りかけていると感じられる表現となっている。
ヨハネ福音書の最初の部分にある、次の箇所も同様である。
(バプテスマの)ヨハネは、自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(ヨハネ 1の29)
この表現も、だれに対して言ったというのがはっきり書いてない。すでに述べた箇所と同様である。こうした言葉もやはり、全人類に向って神がヨハネを通して言われているのを感じる表現である。
この世界で最大のこと、それは人間の根本問題である罪を取り除くことであり、そのために神の小羊となって死なれるお方こそ、万人の最も注目すべきお方だと言おうとしているのである。
そしてこの箇所に続くヨハネ福音書の1章では、「来たりて、見よ!」という表現が繰り返し用いられている。
…イエスは、「来れ、見よ」と言われた。39節。(英訳では、He said to them, Come and see. )
ただし、新共同訳では、「来なさい。そうすれば分る」となっていて、「見る」という言葉には訳されていない。see は 分るという意味にも用いられるが、この箇所では、基本的には やはり 見る、霊の目で見よ、それによって本当に分るのだという意味が暗示されている。(*)
(*)このヨハネ福音書の1章では特に、29節から終わりまででは、「見る」というさまざまのギリシャ語が用いられていて、見ることの重要性が暗示されている。ホラオー(見る、分る)、セアオマイ(見る)、ブレポー(見る)、エムブレポー(見つめる)など、4種類の動詞が、あわせて14回ほども用いられている。
…ナタナエルは、ナザレから何の良いものが出るだろうか。と言ったので、フィリポは、「来れ、そして見よ」と言った。 46節。
実際に、ナタナエルは、この言葉に従って、行って、見た。それによってはっきりとイエスがただの人ではなく、神と同じ本質を持ったお方、神の子だということが霊的に見えたのである。
このような記述もみな、当時の人たちへの言葉であるがそれ以上に、以後の無数の人間に語り掛けられた神のメッセージとなるように記されている。
私たちも、今も生きて働いておられるキリストのもとに行く、それは信じること、キリストを仰ぎ見ようとすることである。キリストの言葉を聴こうとし、そのキリストに従おうとすることである。
そうすることによって実際に神(キリスト)が生きて働いておられることが霊の目で見えるようになってくる。
来たれ、見よ!という呼びかけは、現代の私たちにも日々呼びかけられているのである。
マタイ、マルコ、ルカの福音書、そしてそれに続く使徒言行録などは、実際にイエスがなさった行動や教えを記すことによって、それが後のあらゆる人々へのメッセージとなるように書かれている。
他方ヨハネ福音書は、より直接にイエスの口から、私たちへの魂に向けて、霊的なメッセージが語られていると言うことができる。
ヨハネ福音書の実質的な最後の章となっている20章の後半部で、弟子たちは、ユダヤ人たちが自分たちも捕らえようとしてくるのではないかと恐れ、部屋の戸の鍵をかけている場面のことが記されている。
そこに入ってこられたキリストは、それから八日後の同じような場面もあわせて「あなた方に平和があるように!」という短い言葉を三度も重ねて言われた。(「平和」は、ギリシャ語では
エイレーネー、ヘブル語では シャーローム という。)
これは、単なる挨拶でなく、そのまま、この世のさまざまのことの心労ゆえに魂の平和(平安)をうしなった現代の私たちへの、呼びかけなのである。
そしてその後に、なかなか信じようとしないトマスに向って、「信じない者でなく、信じる者になれ。幸いだ、見ないで信じる人は」と言われた。
これがヨハネ福音書での事実上のイエスの最後の言葉となっているて、これも、あらゆる時代の人々へのメッセージなのである。
神の存在、その神が愛の神であること、その愛によってキリストが人類に遣わされ、十字架で死んでくださり、私たちの心で犯してきた罪が赦されること、私たちは死んでも神のもとに復活すること、そしてキリストのように清められたものとなること、この世の悪は最終的に滅ぼされて、清い新しい天と地が生まれること…こうしたすべては信じるか、信じないか、だれでも選び取ることができる。
この世が神の愛に導かれている、それは信じないなら決して分からない。逆に悪や不可抗力の自然によって支配されていると思ってしまう。
だからこそ、見ないでも信じる者になれ、と言われているのである。そしてそうしたことを、その証拠がないままに信じるとき、神は聖霊を与え、その聖霊がすべてを教えてくれるようになる。さらに、生きていく過程で、実際に愛の神がおられることもわかってくる。
この世でどのようなことが起ころうとも、すべては愛の神が、人間の考えをはるかに超えた深い意図をもってなされている―これも「見ないで信じる」ことが求めれており、あなた方はそれを信じるか、という問いかけが現代の私たちに問いかけられている。
迫り来るもの
私たちは、誰でも何かが近づいているという感じを持っているだろう。多くの日本人にとって、それは経済問題ではないか。中国、インドの台頭、韓国のIT関連産業の隆盛、TPP問題、人口減少、急速な老齢化…等々、日本の将来に暗雲が垂れ込めているというかつてないような状況が近づいていると漠然と感じている人が多いと思われる。
それとともに、近年の地震の頻発で数十年以内に、東南海大地震、南海地震が発生する確率は 60%~50%と言われているゆえに、巨大地震やそれに伴う津波、さらにそこから原発の大事故など、地震関連の災害が近づいているということも特に現在の日本では多くの人の心にある。
世界的に見ても、原発の世界的な増大やそれに伴う大事故の危険性、さらに核兵器増大とその暴発の危険、人口増大やエイズ、ウイルス病の増大、温暖化、貧富の差の増大、ヨーロッパの経済問題等々、前途には、希望に満ちた世界の接近より、黒雲の接近といった状況を感じる人たちが多い。
そうした社会的、政治的な闇の接近だけでなく、個人のレベルで考えるなら、万人に近づいていると言えるのは死ということである。青壮年の人たちは、死などまったくはるか遠くにあるようなもので、それが近づいているという実感は全くない場合が多いと考えられる。
しかし、死は万人に着実に近づいているし、老年になると徐々に体力は衰え、死の接近はいっそう実感するところとなるであろう。
このように、どのような分野をとってみても、冷静にこの世や人間そのものを見つめるときには、光の世界が近づいているとは考えられない状況がある。
だが、闇がいかに迫っていようとも、神の霊を受けた者は、光の世界がすぐそこまで来ていることも同時に啓示されている。夜はもう遠くに去った。昼―光に満ちた世界が近づいている。その足音を聞いている。その前触れの朝焼けを感じ取っているのである。
そのことは、主イエスが初めて福音を宣べ伝えはじめたときにも言われた。
…暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰に住む者に光が射し込んだ。(マタイ福音書4の16)
そして、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言われ、主イエスご自身が、闇の世界のただ中に、天の国、光の世界がそこに来ているとその霊的な足音というべきものを聞き取っておられたのである。
使徒パウロが、この光の世界が近づいたことを次のように語っている。
…あなた方は今がどんな時であるかを知っている。あなた方が眠りから覚めるべき時がすでに来ている。今や、私たちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからである。
夜は更け、日は近づいた。
(ローマ13の11~12より)
ここで言われている救いとは、究極的な救いであり、キリスト再臨のときになされる新しい天と地を意味している。パウロの命がけの福音伝道を支えている一つのことは、このように闇の世界がまもなく終わって、「日が近づいた」すなわち、光に満ちた新しい世界が神の御計画に従って到来する、という確信であった。
こうした光の世界の足音というべきものは、聖書全体に感じられる。
聖書は、このいつの世にも変ることなき闇の状況にあって、光の世界、天の国の接近を常に語り続けている書物だと言えよう。
すでにあげた、「暗闇に住む民、死の陰に住む者」への光については、それより七〇〇年ほども昔の預言者イザヤによってすでに言われていたのである。(イザヤ書9の1)
迫り来るものが何であるのか、それこそ、私たちにとって最も重要なテーマである。
今から3千年近く昔から、預言者が現れ、何が近づいているのかを神の言葉として告げ始めた。すでにあげたイザヤもその一人である。それは、正しい道からはずれ、弱い者を踏みつけるような不正な行為を続けている者に対しては必ず裁きの時がある、ということである。
しかし、ただ裁きだけではない。もしこの近づく神の裁きを知って悔い改めるとき、神は赦し、祝福に変えて下さる。
預言者たちは、まさにさきにあげたパウロが言っていることと同じことを繰り返し告げていたのである。
救いは近づいている。眠りから覚めよ…と。
旧約聖書に現れる預言者たちも、眠りから覚めよ、立ち返れ。 主の日は近づいている、と命がけで語り続けた。その一部を次に引用する。
・わたしはあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。(イザヤ書 44の22)
・神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め。(ホセア書12の7)
・背信の子らよ、立ち帰れ。私は背いたお前たちをいやす。(エレミヤ書3の22)
このように、旧約聖書においては、「立ち帰る」という言葉は100回ほども使われている。この数を見ても、いかに預言者たちが、近づく主の日に備えて救われるために、立ち帰ることをいかに繰り返し語り続けてきたかがうかがえる。
悪そのものが裁かれ、滅ぼされるという主の日、それは同時に神の新しいわざが現れる大いなる希望の日である。この二つはもちろん相互に深くつながっている。人間にとってあらゆる問題は、悪の力がはびこっているゆえである。その悪が裁かれ、その力が一掃されるときには、おのずから真の幸いが訪れる。
それゆえに、旧約聖書の最後に次のように記されている。
…見よ、その日が来る、炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる。
彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。
しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。(マラキ3の19~20より)
悪は、燃やされる。火の力こそは、ほかのいかなる方法にもまして徹底的にその姿を失わせる。それゆえに悪の力が滅ぼされて清い神の力のみになることが、このような表現で記されている。
そこに義の太陽が上る。義の太陽とは、将来現れる救い主としてのキリストを意味しているのであって、今は闇であるが、もう夜明けとなり、太陽が上る時となったのだという確信がここにある。
キリストが来られてからは、間近にキリストはおられるようになった。風はどこにでも吹いているように。
それゆえに、キリストは風のように、どんな少数の人のところにでも来て下さる。
…二人、三人私の名によって集まるところには、私もその中にいる。(マタイ18の20)
さらには、そこから、求める人には、その心の内にまで来て下さって住んで下さる。
かつてモーセがシナイ山で神の言葉を直接に受けようとしたとき、一般の人々はシナイの山に登ってはならない、もし勝手に登ろうとするなら、そのような者は滅ぼされると言われた。(出エジプト記19の12~13)
このような、ごく一部の人しか神には近づけないというのと何と大きな違いであろう。
そのように、近くまで来て下さっているゆえに、次の「着る」という表現が生まれる。
現代の私たちにとっては、「キリストを着よ」などという言葉は、たいていの人にとって違和感があるだろう。そのような言葉はほとんど耳にしたこともないし、使われないからである。
しかし、キリスト教の代表的な使徒であったパウロは繰り返し用いている。
…闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身につけよう。(*)
(ローマ13の12)
主イエス・キリストを身にまといなさい。(同14)
(*)「身につける、身にまとう」などと訳されている原語(ギリシャ語)は、エンデューオー といい、これはごく普通の「着る」という日常的な言葉である。例えば、旧約聖書のギリシャ語訳聖書で、「皮の着物をつくって彼らに着せた。」(創世記3の21)のように使われている。
キリストを着よ、などという見慣れない表現をなぜパウロは使ったのか。
一般の人だけでなく、キリスト者においても、キリストは人間の姿をしているとイメージされていることが多いであろう。とすれば、キリストを着るなどということは考えられない表現である。
また、キリストは神と同じという信仰はキリスト教での根本ともなっている。神を着る、などということは全く考えられないような表現である。
また一方では、キリストは聖なる霊でもある。これもまた、聖なる霊という風のような存在を着るとはどういうことか、霊というギリシャ語はまた風という意味をも持っている。風を着るなどということもまず使われない表現だ。
このように考えると、いよいよこの「キリストを着よ」という表現は意外な驚くべき表現である。
なぜ、パウロはキリストを着るということを啓示として示されたのだろうか。
それは、光の国は近づいたゆえに、そこに光がすでにあるゆえに、その光を受けて、あたかも洋服掛に掛けてある衣服を着るように、キリストを着ることが可能になったからであった。
私たちに勧められていること、イエスは次のように言われた。
…神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。
まず神の国と神の義を求めよ。そうすれば必要なものは与えられる。
狭き門より入れ。
神を愛し、隣人を愛せよ
敵対する者、私たちに害を加えようとする者のために祈れ。
私の内に留まれ。(我に居れ)
我が愛に居れ。
このようにさまざまのことが勧められている。ヨハネはそれを一言にしてすべてを含ませて書いている。それが、わが愛に居れ! である。キリストも、キリストの愛もすぐ近くにある。それを信じるとき、永遠の命がすでに与えられているというのが、とくにヨハネ福音書のメッセージである。
さまざまの苦難の内にあっても、その苦しみは決して私たちを苦しめるためにふりかかったのではない。そこには、必ずキリストの何らかの愛の御計画がある、と信じるとき、それはキリストを着ること、キリストの愛に居る、留まることになる。
しかし、神はいないと思うとき、別のものを着てしまうことになる。まずそのキリストの愛を着ること。そして、み言葉を剣として持ち、信仰と愛を胸当てとして着ることが示されている。(Ⅰテサロニケ5の8)
真の権威に従うこと
私たちは常に何らかの権威、自分より高い地位や立場にある人に従うことで生活は成り立っている。子供のときには、親の権威、学校の先生の権威に従い、会社に入ると、その会社の上司に従う。
乗り物に乗ったときには、その列車や飛行機を管理する権威のある人に従う。
このように、何らかの権威に従うことはごく普通のことである。
聖書にもすでに、今から三千数百年も昔に、モーセが受けた神からのと最も基本的な人間のあり方にも、親を敬え、というのがある。(出エジプト記20の12)
このことに関して、新約聖書の使徒パウロの書いた手紙のなかで、歴史上でも政治的、社会的に問題とされ、また悪用されてきたこともあるのは、次の箇所である。
…すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。(ローマ書13の1)
ここだけを読むと、上にある権威は何でも神が立てたのだから、それに従え、というように受け取られる。実際、ヨーロッパでも国王が、自分の権威は神によるのであるから、議会の承認などなくとも法律を作ったり命令したりできるというように主張したこともある。(*)
(*)王権神授説という。16世紀後半にイングランドの王であったジェームス一世もこのような主張を持っていた。
こうした主張の根拠としてこの箇所が用いられたのである。聖職者が神から直接に権威を受けているというのは聖書にはさまざまに記されているが、王のようなこの世の支配者が神からその権威を受けたのだからそれに従え、というような箇所は、聖書ではこのローマ書の他にごく一部しか見られない。
(*)Ⅰペテロ2の13~14、テトス3の1
聖書においては、人間でなく神に従え、というのが圧倒的に多いのは当然であるが、支配者たちがその支配を正当化するために、こうした一部の箇所を拡大して用いようとしてきたのであった。
日本においては、王権(天皇の権威)が神から受けたものだ、ということを大きく越えて、天皇が神だとまで主張されて、それが太平洋戦争が終わるまで続いていた。(*)
(*)日本では、狐やヘビ、タヌキ、巨木や山、あるいは人間の体の一部まで神とまつられ、家康や秀吉、楠木正成など人間も神とされ、あるいは、戦死した数百万という人間―その中には中国などで多数の地元のひとたちを虐殺したような人もいる―もまた神としてまつられる(靖国神社)という、世界で類のない神のはんらんする状況である。
そのために、単に天皇が神であるというのでは、権威がないので、神が絶対的な権威を持つという、もともと日本にはなかった、聖書の神の観念を持ち込んで、天皇にあてはめるということをしたのであった。
さきにあげたローマの信徒への手紙の箇所は、上にある権威なら何でも無条件に従えと言っているのか、それを聖書の全体的な記述から検討してみたい。
まず、聖書はその冒頭から、人間がいかに正しいこと、神の御意志に従えない存在であるかを記している。神がエデンの園を造り、あらゆる良きものを備え、何ら不自由がないようにして恵みを十分に与えていたにもかかわらず、それでもなお、神には従わず、神に逆らう不真実なもの(サタン)に従ってしまう。
そして、最初の家族においても、カインが自分の弟をねたんでその命を奪ってしまうということが記されている。(創世記3~4章)
このことは、正義や真実が人間にはなく、神にのみある、ということを聖書の最初から宣言していることになる。ノアの箱船もまた、人間がみな不正で悪に染まってしまったゆえに、滅ぼすというように書かれてあって、そこでも罪深い人間の実態が示されている。
こうした人間の現実の姿から見れば、そのような人間に従うということは、誤りに陥るということは当然のことになる。
エジプトにいたイスラエルの人たちが、モーセに導かれ脱出していくが、そのときでも、せっかく救いだされたにもかかわらず、砂漠地帯の長期の旅に耐えがたくなり、モーセを殺そうとまでしたり、モーセの兄弟で彼を助ける役目であったアロンという人間も、人々とともに偶像を作って唯一の神への背信行為をはじめたことも記されている。
その後の時代にも、真に従うべき王というのはないゆえに、神が直接に呼び出した霊的指導者(士師、さばきづかさ)(*)によって人々は導かれた。
(*)士師という言葉は、本来の日本語にはないが、中国語訳の聖書の訳語をそのまま日本語聖書に取り入れた言葉である。士師とは、古代イスラエルの民の指導者であり、外国との戦いを指揮したり、裁判や行政にもたずさわった。
原語(ヘブル語)では、ショーフェート。これは、「裁く、支配する」という意味を持っている動詞シャーファットの分詞形。口語訳や新改訳では、「さばきつかさ」と訳されている。「つかさ(司)」とは、役人のことであるから、裁くことを担当する役人、といった意味になる。
英語では、Judge(裁判官) と訳されている。なお、この英語は、ラテン語 judico(ユーディコー) に由来する。jus とは、法 を表し、dico 言う から成る。原意は、「法にかなったこと、正しいことを言う人」の意味。法律は正しいことを記したことから、justus(ユーストゥス)は、法にかなったこと、正義という意味となり、英語の justice となった。
その後、民衆が人間の王を求める強い気持ちがあり、すぐれた士師、預言者であったサムエルは、王を求める民の要求を認めることができず、神に祈った。その時に神の答えは、次のようであった。
…主はサムエルに言われた。「民があなたに言うままに、彼らの声に従え。彼らが退けたのは、あなたではない。彼らの上に、私が王として君臨することを退けたのだ。」(サムエル記上8の7)
このように、民の本来は間違った要求ではあったが、彼らの言うことを聞いてイスラエルの歴史で初めて王を認めることになった。しかし、他方では王を認めることによって、人々はその王によって苦しい仕事に使われ、王の奴隷となってしまう。その苦しさに叫んでも神は答えては下さらない。(同11~18節)ということも警告として言われた。
こうして生まれた王は、予告されたように、人々を戦争に駆り立てさまざまの罪をも犯し、人々を苦しめることにもつながった。それは、旧約聖書の歴史書である列王記や歴代誌に詳しく記されている。
ダビデのようなすぐれた王ですら、さまざまの苦難を越えて安定した国となったとき、大罪を犯してしまった。そしてそれが以後の歴史にも大きな影を落とすことになった。
このように、人間の王がいかに誤り多いか、罪深いかを聖書それ自体が、長いスペースを用いて記しているのである。
さらに、その間違った王たち、そしてその王によって導かれてともに滅びへと向う民全体に、真のあるべき姿を神からの言葉を受けて示し続けたのが、預言者であった。
王のうちでも、優れた王であったといえるユダの王ヒゼキヤは、国がアッシリアという大国によって滅ぼされようとする危機的状況のとき、預言者イザヤの言葉を聞くために使者を遣わした。そしてイザヤの導きによって王は神に真剣に祈り、それに応えて神が大いなるわざを起こされたこともあった。(イザヤ書37章)
王という制度が始まっても、なお、神を知る人たちは、真の王は神であることを深くわきまえていた。それは、詩篇や預言書にも表されている。
…主は大いなる神、すべての神を超えて大いなる王。(詩篇 95の3)
…国々にふれて言え、主こそ王と。世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。主は諸国の民を公平に裁かれる。(詩篇96の10)
また、預言書にも、神こそ本当の王であることが記されている。
…イスラエルの王である主…(イザヤ書44の6)
このように、イスラエルの歴史は、現実の王が偶像崇拝に陥り、人々をもまどわし、それによって神から裁きを受けていくという繰り返しであった。それゆえ、預言者とは、そのような王も民もが悔い改め、真の王である神に立ち返ることを語り続けた人なのである。
詩篇にも、事実上の本編の最初に置かれた第2篇には、次のように記されている。
…なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して、主に逆らうのか、
「我らは、枷をはずし、縄を切って投げ捨てよう」と。
天を王座とする方は笑い、憤って、彼らに宣言される。
「聖なる山シオンで、わたしは自ら、王を即位させた。」…(詩篇第2篇より)
これは、詩篇第一篇が全体の要約、タイトルという性質を持つから、この第2篇が実際の内容の最初に置かれていることになる。そのような重要な位置づけをされた詩の内容は、大方の予想を裏切り、まったく個人的な悩みや苦しみを訴えるといったものではない。
それは、神の正義とその支配をあざけり、不正な権威をもって支配しようとするこの世の権威に対して、神がすべてを見抜き、時至るならそれらの力を滅ぼし、一掃されることを述べている。そして、その目的のために、人間の欲望や権威でなく、神の御意志そのものを受けた神の子というべき王をこの世界に送り出すということが言われている。
そして確かにこの預言に従ってキリストは霊的な王としてこの世界に現れたのであった。
ここでも、この世の権威と神の権威とは全く対立するものとして記されている。
このように、王は上にある権威だから、無条件的にそれに従え、というような記述は全く見られない。
それでは、新約聖書においてはどのように言われているであろうか。
主イエスは、このことに関する有名な言葉を出された。それは、税金を取り立てることに関して、ローマ皇帝(カイザル)に税を収めるべきかどうかを問われたことがある。
税を納めるべきだというと、ローマの支配に屈伏してユダヤ民族を裏切る者だという非難を浴びせて、民衆からイエスを離反させようとしていたし、税を納めるべきでないと言えば、ローマ帝国への反抗を企てているということで訴えようとしていた。そのときに話された言葉である。
「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。」(マルコ12の17)
このひと言の中に、地上の権威と神の権威に関するあり方が凝縮されている。税金というお金、目に見える問題に関しては、カイザル(ローマ皇帝)の支配に従え、しかし、神への真実、信仰は神へと返すべきだと言われた。
それでは、どこから先が、カイザルのもので、どこからが神のものになるのか、その区切りを見定めるのはしばしば困難になる。
例えば、不正な税金の取り立てや違法な言論統制、あるいは原子力発電所の建設やその危険性に関して、権威ある学者とか政府などが偽りの安全を主張している場合にもその権威に従うべきなのか等々、いくらでも問題は生じてくる。
主イエスは、当時の領主であったへロデに関して、敬うどころか驚くべき表現を使っている。
…ファリサイ派の人々が来て、イエスに言った。「ヘロデがあなたを殺そうとしている。」
イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』(*)とわたしが言ったと伝えなさい。わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。(ルカ13の31~33より)
(*)三日目というのは文字通りの意味でなく、3は完全数であり、象徴的な表現。神の定めた御計画に従ってその道を歩み、その御計画が全うされるとき―十字架の苦難、復活まで続くという意味。
当時の領主に対して、「狐」という呼称を持って言われるほどに、へロデの狡猾なやり方への強い否を意味した言葉であった。
また、もしイエスが、当時の大祭司や律法学者、長老、ファリサイ人などの権威ある人たちに従って、福音を宣べ伝えていなかったら、十字架も復活もなく、キリストそのものがこの世に存在しなかったのである。
それは、「権威に従え」とローマの信徒への手紙で書いている使徒パウロやペテロに関しても同様である。最初にキリストの復活の福音を宣べ伝えはじめたペテロに対して、当時のユダヤの権威ある人たち―議員、長老、律法学者、大祭司といった人たちが、「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。」(使徒言行録4の18)
しかし、そうした権威ある人たちに対して、ペテロやヨハネはその権威に従うことなく、次のように答えた。
…神に従わないであなた方に従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてほしい。私たちは、見たことや聞いたことを語らずにはいられない。(使徒言行録4の19~20)
このように、ペテロたちは答えて、福音の宣教を続けたのであった。
パウロにおいても、もし、ユダヤ人たちが反対し、また後にローマ皇帝も禁じたキリストの福音を宣べ伝えることを止めていたらそもそも迫害を受けることもなかった。
主イエスがこうした弟子たちにもあるべき姿をみずから示したのである。そして福音を伝えるな、という命令には従わなかったが、イエスを捕らえ、無実の裁判であったが、その判決を受けいれて死ぬ、ということは、また権威の判断に全面的に従ったということでもある。
パウロが、ギリシャ地方などの信徒から、エルサレムにいるキリスト者たちへの献金を携えて滞在しているとき、ユダヤ人たちがパウロを激しく憎んで、殺そうとするほどであった。そのような時、主はパウロに現れて「勇気を出せ。エルサレムで私のことを力強く証ししたように、ローマでも証しをせよ。」と言われたのであった。
このように、地上の権威に従ってはいけないと、神みずからパウロに現れて励まし、命じたことが記されている。
地上の権威について、それが神に由来するからそれに従え、権威はよいことをするためにある、ということは、決して全面的に言えることではないのは、以上の聖書の記述から見ても明らかである。
さらに、聖書の最後の書である黙示録には、地上の最大の権威それ自体が、サタン(悪魔)からその権威を受けているのだという記述が見られる。
…この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンと呼ばれるもの、全人類をまどわすもの…(黙示録12の9)
…わたしはまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒涜するさまざまの名が記されていた。
わたしが見たこの獣は、豹に似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜(サタン)はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた。…竜が自分の権威をこの獣に与えたので、人々は竜を拝んだ。そしてこの獣をも拝んだ。…(黙示録13の1~4より)
このような記述は黙示録特有のものであり、わかりにくいが、竜とはサタンであり、その竜が、海から上がってきた獣にサタンの力や権威を与えた。この獣とは、この後に続く記述から、ローマ皇帝のネロだとされている。
ネロ皇帝は、キリスト教徒を激しく迫害し、自ら火をつけたローマ火災の罪をキリスト者にかぶせて、たくさんの人々を捕らえ、大競技場で飢えたライオンに食わせたり、十字架で磔にした上で、焼き殺したといわれている。
そのようなローマ皇帝のなす仕業はまさにサタン(悪魔)からのものだと黙示録の著者には示されたのである。
このように、上に立つ権威には何でも従うというようなことは、聖書には言われておらず、むしろ、人間的権威に従うことなく、神の権威のみに従うようにというのが一貫した姿勢である。
聖書のなかの特定の箇所だけを、意図的に引用して主張するということは、戦争の肯定などにもよく用いられてきた。
それゆえにこそ、聖書の本当のメッセージをくみ取るためには、聖書を旧約も新約もバランスよく調べ、読まなければ間違った主張に引き込まれることがある。
真の権威である、神のみに従いつつ、個々の場合には、神の指示に従いつつ、人間の権威や制度に従っていくことが求められている。
詩の中から
( 八木重吉の詩二つ)
○よいことばであるなら
ふたたびいうにためらうな
いつまでもくりかえすのに おそれるな
・聖書の言葉、キリストの言葉は、二千年繰り返されてきた。 繰り返せ、確信をもって語り続けよ…という言葉を聞き取った人たちが、いつまでも繰り返してきた。
私もまた、そのキリストの言葉、主に関する言葉を―主の許しがあるならば―繰り返し語り、書き綴っていきたい。
○イエスの名をよびつめよう
入る息、出る息ごとに呼び つづけよう
いきどおりがわいたら
イエスの名で溶かそう
弱くなったら
イエスの名でもりあがって 強くなろう
きたなくなったら
イエスの名できれいになろう
死のかげをみたら
イエスを呼んで生きかえろう
・体は常に呼吸しなければ生きていけない。
同様に、私たちの魂は、神への祈りによって生きる。呼吸のような祈りによって生かされる。高い山に咲く美しい花は、神の霊をそのまま呼吸しているかのようだ。
地震と原発
福島原発の大事故の原因について、繰り返し津波だと言われてきた。そして、地震が重大な原因となっていることには触れようとしない。政府も同様である。
それは、もし、地震が今回の大事故の大きな原因であれば、日本のすべての原発は、その対策のためには単に、非常用電源を高所に移すとか、防波堤を高くするなどの津波対策だけでなく、地震に対する安全対策を根本的にやりなおさねばならなくなる。
そのためには、相当の時間と経費がかかる。そして、どれだけすれば、今後の地震の対策になるのか、その地震がどのような規模のものが発生するのかが、明確でない以上、そうした巨大地震への万全の対策などは、容易なことではなくなる。
日本での地震は、世界の他の原発を持っている国々と比べると断然多く、地震から来る危険性は、比較にならないほど大きい。(*)
(*)日本では、地球の全地震の10%が集中する地震列島である。これは、日本の面積が、地球の表面積のわずか、0.073%程度であることから考えると特別に地震が多いのがわかる。
福島第一原発において、実際は、大地震により、原発に電力を供給していた6系統の送電線のうちの鉄塔1基が地震による土砂崩れで倒壊し、5号機と6号機が外部からの電気を受けられなくなった。
さらに、1~4号機もまた、送電線の断線やショート、関連設備故障などにより、外部電源を失っている。
去年の4月13日の東京電力の清水社長(当時)の記者会見という早い段階から、公式見解で事故原因は未曽有の大津波だとしてきたし、政府などもそのように津波だけが原因であるかのように言っている。そしてマスコミもたいていは、それをそのまま報道している。
しかし、すでに去年の4月27日の衆議院経済産業委員会で吉井英勝議員(共産党)は、地震による送電線の鉄塔が倒壊したため、福島第1原発の外部電源が失われ、炉心溶融が引き起こされたことを追及している。
当時の、経済産業省原子力安全・保安院の寺坂信昭院長は、倒壊した鉄塔が「津波の及ばない地域にあった」ことを認めており、この送電線の鉄塔が倒壊したことが、まず第一に炉心溶融につながるものとなっていたのである。
この鉄塔が倒壊しなければ、内部電源としての非常用電源が津波で使えなくなっても、電源を融通しあい全電源喪失に至らなかった。従って、炉心溶融にはならなかったのである。
これに対し原子力安全・保安院の寺坂院長(当時)は、倒壊した受電鉄塔が「津波の及ばない地域にあった」ことを認め、全電源喪失の原因が津波にないことを明らかにしている。
(2011年4月30日(土)「しんぶん赤旗」、インターネットによる衆議院経済産業委員会の録画などによる)
この外部電源の問題とともに、原発の配管がまず、地震によって破壊された可能性が高いことが早い段階から、原子炉設計にたずさわっていた専門家から言われていた。原発の配管は、総延長が80キロメートルにも及び、その溶接箇所は、2万5000箇所もあるのだから、大地震によってそうした配管の破損がどこかで生じるという可能性が高いのである。
九州大学副学長の吉岡斉氏(*)は、「地震の揺れのために主要配管が壊れたかどうかは、実際に見てみなければ分からない。…津波対策だけしっかりやれば、大丈夫などということはあるはずがない、というのが、事故調査・検証小委員会での共通認識だと思う」と語っている。(「AERA」12月12日号 朝日新聞社 )
(*)東京大学理学部物理学科卒、九州大学教授。事故調査・検証小委員会のメンバー。
そして、福島第一原発の4号機の圧力容器の圧力容器詳細設計などを手がけた、元原発設計技術者の、田中三彦氏は、「科学」(岩波書店)に掲載した論文には、地震によって配管が破壊されたために、冷却剤の水が、失われるに至ったのでないかと推論している。
そのことは、格納容器の圧力変化や推移変化の記録、運転員のとっさの記録などから、津波が襲ってくる以前に、地震によって主要配管の一部が破損していた可能性が高いと結論付けている。
その配管の破損から、冷却剤(水)が、噴出しはじめ、そのため、原子炉の水位が急速に低下し、その結果、最終的に燃料棒が水面より上に出て、燃料損傷や炉心溶融が生じたのではないか。
(「世界」2012年1月号 岩波書店刊。108~110頁)
この可能性が高いにも関わらず、東京電力や政府は、まったくこのことをはじめから考慮に入れない方針を取っている。去年の12月2日に、東京電力は、福島第一原発の事故調査に関する中間報告を公表した。そのなかで、やはり、地震による機器の損傷はないとしている。(二〇一一年12月の新聞報道)
このように、東京電力や政府は、地震の影響を無視しようと一貫した姿勢がある。それは、地震の影響によって福島第一原発の事故が起こったことを認めると、ほかの原発もみな、地震が起きると事故になる可能性が高いことを示すことになり、全面的に安全性を見直さねばならず、そのための補強などということになると、相当な時間と費用がかかることになる。
それゆえに、原発の事故原因を津波だけと断定されると、非常用電源を置く場所を高くし、防波堤だけを高くすれば再起動できる。再起動を何がなんでもやろうとする勢力にとっては、津波だけが原因だとするのが万事において好都合となる。
先ごろ、首都直下型などマグニチュード(M)7クラスの地震が、南関東で4年以内に発生する確率は70%に高まった可能性があるとの試算を、東京大地震研究所が明らかにした。
南関東でのM3~6の発生頻度は、昨年5月時点で大震災前の約6倍に達し、現在も約5倍と高い。
同研究所の、平田教授は「大震災でひずみが解放され安全になったと考える人もいるが、地震の危険度は依然高く、防災対策をしっかりやるべきだ」と指摘している。
このような地震予測は、必ずしもその予測通りに起こるということではない。東北大震災も予測できなかった。
しかし、大地震の後、数年は余震というかたちで大地震が再度起こる可能性が以前から指摘されている。
福島原発に再び大地震が襲うなら、原発にさらなる破壊が起こり、現在行われているいろいろな冷却などの作業ができなくなり、絶えず発熱する大量の燃料を貯えているために、再度大量の放射能が放出たれる危険な状況に陥る可能性もある。
この地震による損壊は、ほかの日本中の原発に対して言えることであって、それゆえに、電力会社や政府なども地震による原発への影響を語ろうとしないのである。
原子炉、格納容器、配管などの損傷がどの程度あるのかについては、放射能がきわめて高いので、現実にそれらを直接に見て調べることができないゆえに、都合のよい推論だけを取り上げて、津波だけが原因であるかのように言っているのであって、より根本にある、地震によって生じる原発の危険性を忘れてはならないのである。
ことば
(351)祈りのためにまず必要なのは沈黙です。
祈りの人とは、沈黙の人です。 (マザー・テレサ)
The first requirement for prayer is silence.
People of prayer are people of silence.
(「MOTHER TERESA ーIN MY OWN WORDS」 8頁)
(352)私の秘密は、非常に単純です。私は祈ります。
キリストに祈ることは、キリストを愛することなのです。 (同右)
My secret is very simple one. I pray. To pray to Christ is to love him.
休憩室
○最近の夜空、火星他
厳冬期の夜空をながめる人は、その寒さのゆえにほとんどいないかも知れませんが、最近の夜空は、めったに見られないほど、明るく澄んだ星々が多く見られるのです。
まず、夕方には、以前から何度か指摘した金星が、西の空に強い輝きを見せていますし、それより南寄りには、木星がやはり大きな輝きで見えます。この二つはだんだん距離が狭まっているのが、以前からこの二つの星を見ている人にはよく分るはずです。
夜9時過ぎになると、木星は西に傾き、オリオン座やおお犬座のシリウスなどが、南の空に輝いています。そして、東から、火星が上がってきます。火星は明るくしかも赤い星なので、晴れていれば、この時間に東を見ると、だれでもすぐに見つかる惑星です。
このように、冬の空は、もともと1年で最も明るい星々が輝いているのですが、そのうえに、金星と木星が同時に見られ、さらに金星が西に沈むころに、東から火星が上ってくるために、近年見られなかった輝かしい夜空となっています。
北国や日本海側では連日の大雪で星空など見えない状況ですが、関東から南の太平洋岸では、しばしば晴れるので、これらの明るい星々に接して、神の国の光を思い、この世の汚れに染むことのない清い世界からのメッセージを受け取る機会となります。
編集だより
来信より
○原発についての知識は新聞及びインターネットでしかなかったので、メモを取りながら少し苦労して読みました。
「原子力発電と平和」の本を読み、少し長い説教を間いている思いがしました。これはやはり著者の信仰の証しのように思います。
原発の問題をこうして、みことばに照らして語られたのは、初めてなので強く心をうごかされました。
一部の大学教授は、東電に買収され、(東電京も保安院も)国民の生命より先に利益に走った事実。真実を隠していた闇の力の大きさを思い知らされました。
聖なるエネルギーが注がれていない人達、人間の数々のあやまち、教訓から学ばない人間の愚かさ、傲慢さ、鈍感さ、「人間が主人公であるから諸問題が発生する」「聖言にみちびかれていないことがすべての問題の根源である」本当にそうだと思います。
また中3女子のコメントには勇気づけられました。若い方がその清らかな眼で、真実を見、公表して発言してくださって希望が湧いてきました。若い方々がどんどん声を上げ、これからの日本、世界の未来を築いていって欲しいと願っています。「神のことばは滅びることはない」のですから。神様の忍耐に感謝しながら、私達一人一人がねばり強く祈りたいと思います。(これは、「原子力発電と平和」を読んだ人が四国のNさんに宛てた読後感が、編集者に送られてきたもの。)
○去年の夏ごろ、「はこ舟」(「いのちの水」誌の以前の名前)1999年12月号を読んでいました。「0.111グラムが引き起こした危険と不安」という記事があり、夢中で読み、放射性廃棄物の取り扱いの難しさを知りました。今日届いた「原子力発電と平和」の本の表紙の写真を見て感じるのは、こんなにも美しいもの、神が創ってくださったものを踏みにじる人間の愚行です。
人間の能力では制御できないものに頼る愚かさを、この写真にある野の花や緑の大地が語りかけています。
この本をじっくり読んで、教会の人たちにもまわします。それであと3冊送ってください。(四国の方)
・この方は、去年の「いのちの水」誌は持っていなかったのですが、それ以前のものは持っていて読んでいたとのことです。
「原子力発電と平和」の本の表紙に用いたのは、山形県の月山(がっさん)の頂上への急な上りにさしかかるところで撮影したニッコウキスゲが、緑の草原に広がるなかで咲いているものです。普通は原発関係の本の表紙には、原発を暗示するものとか関連の画像が使われますが、あえてまったく原発と関係のない自然の写真を用いたのは、原発にかかわる様々の人間の腐敗、欲望などといかに神の直接の被造物はかけ離れているか、その清さと美しさを示し、神の国にかかわる清いものを見つめつつ、この世の原発という複雑で、あちこちから闇が除いている問題にかかわっていくべきだと思ったからでした。
お知らせ
○2月の移動夕拝
熊井 勇宅。スカイプでの参加も可能です。申込は、熊井勇兄
へ。kyrie@mb.pikara.ne.jp
テーマ「仰瞻(ぎょうせん)」
―私を仰ぎ望め (イザヤ書45の22~25)
○横浜での聖書講話
吉村孝雄は、3月25日(日)キリスト教横浜集会の主日礼拝にて聖書講話の予定です。
○高松市での集会
3月4日(日)午後3時~
松浦 大亮・ローレン夫妻宅
○イースター特別集会
4月8日(日)午前10時~午後2時。徳島聖書キリスト集会場にて。
内容は、聖書講話、特別讃美(コーラス、手話讃美、いのちのさと作業所の歌、子供向けの紙芝居、7~8人の感話、昼食と交流など)会費500円(昼食代)
キリストの復活を記念し、その復活の新しい力を共に受けましょう。
○第39回 キリスト教 無教会 四国集会
・主題 キリストの十字架
・日時 2012年5月12日(土)午後~13日(日)午前中。
・会場 スカイホテル(松山市三番町 8の9の1)
・内容 聖書講話、一言感話、自己紹介、自由な交流
早朝祈祷、主日礼拝、主にある賛美(徳島)、主にある感話(二人)など。
・申込先 松山市南梅本町甲 1099の2 天神梅本団地 1棟 112号 小笠原 明
電話 089-970-7505
・会費 一万円。部分参加も可(1日500円、夕食代金2700円、写真800円)