何とさいわいなことか、すべて主を待ち望む人は。
(イザヤ書3018より)



20123 613号 内容・もくじ

リストボタン壊す力と、生かす力と

リストボタンいつまでも続くよきもの

リストボタン詩篇の真珠―第23

リストボタン君が代」と元号

リストボタン水野源三の詩から

リストボタン福島原発4号機の危険性

リストボタン人生の海の嵐に」CDの 紹介

リストボタンことば ガンジー

リストボタンお知らせ


 

リストボタン壊す力と、生かす力と

この世は、壊そうとする力で満ちている。それは憎しみであり、侮辱や怒り、無関心、差別等々、さらには、病気や自然の災害などさまざまのものがある。
この私たちのからだにも、たえず壊そうとする力が働いている。病気の苦しみに直面するとき、そのような力の大きいことを知らされる。
それに対抗して、造り上げようとする力が勝利しているからこそ、生きている。
これは、無意識のうちに働いている力である。私たちは日常生活においてそのような造り上げる力のことをほとんど感じていない。
太陽が万人にその光と熱をたえず注いでいるように、神は、生かす力をも常に与えようとしておられる。
母親が乳を与える、それはまさに乳児を造り上げようとする営みである。そして現実に生まれたばかりの乳児は大きく造り上げられていく。
これと同様に、私たちも神の霊のミルクを飲んではじめて真実に生きる力が与えられ、造り上げられていく。
…生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。
(Ⅰペテロ22
私たちは日々、何らかの意味で、この世の壊そうとする力に直面し、困難な状況に遭遇する。
そうした弱さを持っている私たちに、愛の神は、真実に求める者に、霊の乳を与え、新たな力を与えられて生きていくようにと導いておられるのである。

 


リストボタンいつまでも続くよきものによって

3
11日、それは日本の今後の歴史にも永久的に残る日となるだろう。
今もなお、苦しみや悲しみ、そしてさまざまの困難に圧迫されている方々が何万人とおられる。いつまで続くのかという不安、そのときまで自分は生きているのか、ふるさとに帰れるのかというつらい気持ちを抱いての日々を過ごしている人も多いだろう。
この世には、悪しきこと、苦しみがいつまで分からないほどに続いていくことがある。
そのような現実にあって、いつまでも続く良きことを知らなければ、心は晴れることはなく、沈んでいく。
そして、この世には、まさにそのいつまでも続く良きことがあるということを一貫して私たちに語りかけてきたのが聖書である。
闇が変わらない、絶望的な闇だと思われることがある。しかし、永遠に消えることのない光がある。
津波や地震で失った命は永久に帰らない。命とは、はかないものと思われる。
他方、そのような自然の災害によって決して壊れない命がある。
人は、日々弱っていく、老化していく。
しかし、日々新たにされる世界がある。
地震などの災害がなくとも、私たちはみな死という闇の世界へと向っていく。これはだれも止めることができない。
しかし、他方、それとは逆の、光の世界へ、命の世界へと向っていく道が備えられている。
どこに持っていきようもない、怒りや寂しさ、悲しみがある。
けれども、そうしたいっさいの心の悶え苦しみをも受け止めて、消し去ってくれるお方がいる。
私たちは、そのような光と闇の行き交う世界に生きているのである。
そして、いかに闇が介入してこようとも、ただ神とキリストを信じるということだけで、光の道、この世とは分かたれた永遠への世界へと導かれていく。その確かな約束が記されているのが聖書なのである。

 


リストボタン詩篇の真珠
―詩篇23


聖書に含まれる詩の中には、神とはどういうお方なのか、また神は私たちに何を与え、どのように私たちの生活と関わってくださるのか、というような私たちが深い関心を持つことを、この世の厳しい現実を見据えつつ、そこに注がれる神の限りない愛と導きを、生き生きした言葉、だれにもわかりやすい表現で描いている詩がある。
それが、詩篇23篇である。旧約聖書のなかで、最も愛されている箇所の一つである。この詩は三千年も前に書かれたものだが、その内容は今でも変わらずその真理の輝きを人々に与え続けている。
新聞は現代人の聖書だと言われたこともあった。最近の世代は、それはインターネットに代わろうとしているが、新聞やインターネットで報道される圧倒的な内容は、常に移り変わることについてである。新聞は永遠の真理を知らせることが目的でなく、そのときどきに生じた出来事をしかも、人々が関心を引くこと、単に時間的に新しいことが書かれている。
19
世紀のイギリスの生んだ世界的なキリスト教の指導者であったスパージョン(*)は、この詩に関して次のように言っている。
「これは、詩篇の真珠である。この穏やかで清い輝きは、あらゆる人の目を喜ばせる。この喜ばしい歌に関して、次のように確言することができよう。すなわち、そのうるわしさと霊性は比類のないものであると。」
This is the pearl of psalms whose soft and pure radiance delights every eye; Of this delightful song it may be affirmed that its sweetness and its spirituality are unsurpassed.
THE TREASURY OF DAVID Vol.3ー332P

*)スパージョン(Charles Haddon Spurgeon 18341892)イギリスの19世紀の代表的な福音宣教者。(なお、名前の発音は、Spur-であるから、右のようになるが、発音の仕方によっては、スポル- とも聞こえるので、スポルジョンとも訳される。 岩波文庫のヒルティの著作では、スパージョンと表記。 なお、ヒルティは、スパージョンを自分が最もよく理解したひとの一人として、キリスト、ヨハネ゜トマス・ア・ケンピス、ブルームハルト、トルストイなどとともにあげている。またスパージョンの邦訳された著書としては、「朝ごとに・夕ごとに」がすでに1932年から発行され、現在多くの人によって愛読されている。

まさに、詩篇150篇のなかで、真珠のように不滅の輝き、しかも霊的な光をたたえているのがこの第23篇なのである。
この詩がわかりやすいのは、すべて一人称「わたし」で書かれているのもその理由の一つだと言えよう。

主はわたしの牧者。わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。

たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れない。
あなたがわたしと共におられるから。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰める。

あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、
わたしの頭に香油を注いでくださる。
わたしの杯はあふれる。

わたしの生きているかぎりは
必ず恵みといつくしみとが伴う。
わたしはとこしえに主の宮に住む。

冒頭の一行、「主はわが牧者」(*)というひと言がこの詩の全内容を要約したものとなっている。

*)1節「主はわが牧者」、英語訳や他の日本語訳は原文の通りに、「主はわたしの羊飼い」と、「わたしの」が入っているが新共同訳だけ「わたしの」という言葉が省かれているが、これは当然訳すべき言葉である。英訳では、The LORD is my shepherd. (NRS)
日本語では「主 は わたし の 羊飼い で あっ て」と、多くの品詞を用いて書かれているが、原文では四語で、「ヤハウェ ローィー ロー エフサール」である。その語順通りに訳すると「主、わが羊飼い、~ない、乏しい」となる。


導きの神
この詩はすべて「私」という一人称で書かれている。聖書に記されている神は、どこかの建物にいるとか、空の彼方にいるだけで、個々の人間と関わりのない存在というのではなく、わたしと神という個人的で霊的な心の結びつきがあるお方だということをこの詩を作った人は深く体験していたのであり、今から三千年ほども昔から、すでに生きて働く愛の神をはっきりと知っていたことがうかがえる。
日本では羊飼いというのは、なじみがないが、聖書の書かれた地域では、今も羊飼いが実際に羊を導いている。
主が私を個人的に導いて下さる。 人間はありとあらゆる個性があり、また置かれた状況、家庭や健康状態、経済的、また社会的状況など実に千差万別である。そうした限りない多様性のなかで、どんな人にとっても一番よいこと、それがこの愛の神―しかも万能の神によって導かれて生きることである。
これこそは、本来万人が求めること、これさえあれば、他のものは要らないといえるものである。
主がわたしを個人的にいつも養って導いてくださるなら、当然欠けることがなくなる。2節以降に羊飼いがどういうふうに養ってくださるのか、どういうふうに導いてくださるのかということが具体的に書かれている。
私たちは事故や病気、あるいは家庭の難しい問題、貧困や職場の問題など、だれでもさまざまの問題を持っている。 そしてそれらに苦しみ悩まされるとき、その解決に心を痛める。人間やお金、そして医療や福祉の力によって解決をはかろうとする。それらはそれぞれに私たちに大きな助けとなってくれるだろう。耐えがたい痛みと苦しみが医療や薬の力によっていやされた喜びは忘れることができない。もしあのとき、そうした医療や薬がなかったら、生きていけないほどになっていただろうと思われることが私にもある。
それでもなお、そうした医療や薬でいやされたら万事解決というわけにいかない。次々とまた新たな問題が生じてくるからである。ある種の問題には医療や薬は全く関係がなく、人間の努力やお金、あるいは心尽くしての働きかけすら全く解決できないような困難な問題もある。
そうしたあらゆるときに、私たちを導き、最終的な解決へと導いてくれるのが、ここに言われている、神をわが牧者、導き手とすることである。
そうすれば、直接にそのような困難な問題が解決されなくとも、魂に力と平安が与えられる。
そのことを、次のように述べている。

主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。(*
主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。

*)「伏させる」あるいは「休ませる」と訳されている原語は「からだを横たえる、憩う、宿る」といった意味で英語訳では、rest あるいは、lie down などが使われている。He makes me lie down in a green pasture.

わたしたちは誰でも心の休みが必要である。このように体を横たえるようにして心が休まるのはどこなのか。家族、家庭があれば、家族がその役割を果たすに越したことはないが、しばしばそうではなく、家族の中でいても心が落ち着かないという場合もあるだろう。
家族の問題は寝ても覚めても離れることができないから、いったん何かが起きれば、家庭は安らぎの場ではなく苦しい場となる。もちろん家庭が安らぐという人もいるが、事故や病気が起こった途端にそれは崩れる。
また神を知らず家庭もないという状況にあれば、特定の人間に安らぎを求めていくということが当然ある。しかし人間は不安定で、何かあったらすぐに動揺する。
だからそんな人間に求めていっても最終的には安定を得られない。家庭も人間も安らぎにはならない。
それではどこに安らぎの場があるのか。しばしば人間は、そのために身近な手段として昔からお酒や飲食、娯楽その他を求めてきた。
多くの人は、飲食やいろいろの娯楽によって一時的に嫌なことを忘れて、一種の安らぐ場を得ようとする。酒やたばこのように、いくらそれらが体に悪いと分かっていてもそれらに頼る人が多いのは、どこか心が安らぐ場がないからである。
このように世の中には安らぐ場がなく、何らかの疲れた心や傷ついた心を紛らわせようとする娯楽施設が至る所に見られる。
これに対して、この詩の作られた数千年の昔では、現代のような娯楽施設は何もない。そのような何もない状況であっても神自身が霊的な心の安らぎを与えてくださるということをここで言っている。
緑の牧場、それは希望と命を表す。私が羊であり、神は私の羊飼い、その羊飼いである神が、私を導いてくださる所は、まず食物としての緑の草である。たしかに神は私たちを霊的に、精神的に生かしてくださる。神に導かれるときには、私たちは旧約聖書以来、天よりの食べ物をいただくことができる。
そして、水際(みぎわ)とは、これも命を支えるものである水のほとりで、精神的に打ちのめされたようなときでも私たちに霊的な水、命の水を飲ませて下さる。
実際に、この聖書が書かれた地域のような乾燥地帯では羊を水のほとりへ連れて行くということはきわめて重要なことである。
それと同じように私たち人間も、憩いの水のところに導いて下さるという。ここでは魂を生き返らせてくださるとあるので、これは命の水であり、心の中に染み通るような目に見えない水を与えてくださるということである。
誰もが主に結びついたらここにあるような不思議な安らぎを与えられる。また生き返らせるような力も与えられる。このようなことがあるから1節にあるように、確かに主はわたしを導いてくださるから欠けることがないという実感を持つのである。
これは、主イエスが言われた約束と同じである。
「私のところに来て私が与える水を飲む者は決して渇くことがない。私が与える水はその人の内で、泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4の14
魂の渇き、それはだれにもある。そしてどのようにしたらその渇きがいやされるのか、圧倒的多数の人たちは知らないままである。私自身も、21歳の5月の終わり頃になるまで全く知らなかった。学業に励んでも、専門的な勉強を続けて、いろいろな知識も身につけてもその渇きをいやすことはできなかった。
友達同士でいろいろと話したり議論してもやはり同じだった。みなそのような深いところでの渇きを持ったままなのであった。
人間そのものの根源的なところでの渇きであるから、音楽を聞いても、演劇やドラマを見たり旅行したりしても、一時的にはいやされたように思ってもふたたび渇きははじまる。
音楽も耳が聞こえなくなったら意味を失うし、お金がなかったらCDなども買えないし、演奏会などにも行けない。旅行も費用がかかるし、病気になったとたんできなくなる。このように何かが起こったらたちまちできなくなるようなことは、人間という存在の根源に触れていないゆえに、渇きは深いところで残り続けるのである。
本当に渇きをいやすのは、人間の本質そのものにはたらくものでなければならない。それがイエスが言われた「いのちの水」である。それを与えられるなら、たとえ目が見えなくなり、聴覚に障害を生じて音楽も聞こえなくなっても、また健康を失っても、魂の根源をいやすいのちの水はその力を失うことはない。そのことを私は、実際にそのような重いハンディを持たされた方々に出会って知ることができた。
そして、私自身の限られた経験からも、キリストからのいのちの水を与えられるとき、たとえ人から見下されようとも、また困難に直面しようとも打ち倒されることがないということを経験してきた。
緑の牧場に伏させ、いのちの水のわき出る憩いのみぎわに伴ってくださる神、それはこのような魂の深みに働きかけてくださる神を意味しているのである。

死の陰の谷を歩むとも
…たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れない。(4節)
あなたがわたしと共におられるから。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰める。

実際、「わたしには欠けることがない」と言える人は少ないだろう。人は何か起こったらすぐ欠けた気持ちになるからである。しかしこの詩篇で言っているのは4節にあるように、たとえ死の陰の谷を行くときも、災いを恐れないほどに何か欠けることのないような不思議な力が与えられるということである。
こうした神の導きを受けていてもなお、この世では死ぬかと思われるような苦しみに遭遇することがある。しかし、そのようなときでも、きっと神は助けて下さるという絶対の信頼を持ち続けることができるゆえに、恐れないということができた。
神がともにいてくださるときに、いかなる困難も乗り越え、勝利することができることをこの詩の作者ははっきりと知っていたのである。
この詩は羊が水のほとりで遊んでいるのどかさを単に言っているのではなく、この詩の作者は4節のようなことを知っていた上で言っている。この世に生きるということは、昔から今に至るまでもう死ぬかと思うような、精神的にも肉体的にも、あるいは発展途上国などのなかには、戦争や内争、飢饉などありとあらゆる死の陰の谷があるところもある。
死の陰の谷というのは、いつどこでどんなふうに発生するかは分からない。世の中は危険に満ちているので、わたしたちがそういうときであっても、なお主が共にいてくださるからという確信を持てるということが、わたしたちにとって一番ありがたいことである。現実に私たちはみな死の陰の谷へと向かっている。
 人間は絶えず導かれないと、わたしたちの心はさまよい、考えてはいけないことを考えたりと絶えずわき道に入る。そのままどんどんわき道に入り、挙句の果てには犯罪を犯したりいろんなことが起こる。また死が近づいてきたら、正しい道が何か分からなくなり、もうこれで終わりだと思ってしまう。
本当の正しい道というのは、目に見えない神様の国へとつながっている。でも神様の国を知らないと正しい道が分からないということになる。
すると、人生は最終的には死ぬだけだ。死んでただ暗い道へ行くだけだと思ってしまい、希望の道といえるものは全部消えてしまう。このように死んだら終わりだという人にとっては、正しい道を歩いているつもりでも、最後にはみんな消えていくのである。
しかし神様のことを本当に知らされたものだけは、生きている間、何事があってもずっと御国への道を歩ませてくださる。このように導きの人生というのは、自分勝手に行き当たりばったりの人生とは非常に大きな違いがある。 
たしかに、最終的にはだれでも文字通りの「死の陰の谷」―死を迎える。その時であっても、神が共におられるなら、恐れることはない。その神が私たちの病気の痛みや死の苦しみをも乗り越える力を与えてくださるからである。
ここには、この詩をダビデの作とすれば、これが作られてから千年ほども後の時代にはっきりとした真理となった、復活ということをも暗示し、預言しているということが言える。
神の鞭、杖とは何か。
普通、ある人間が単に怒って鞭で誰かを打ったら、打たれた人は弱ってしまうことが多い。ところが神様の鞭は愛の鞭である。間違ったら滅びるのであるから、大変なことになるのだから、鞭と杖を使って導きだされる。
羊飼いが羊が迷い出ようとしたときには、鞭をふるい、杖をもって指揮する。同じように私たちも道を踏み外そうとしたときには、神から何らかの罰、苦しみを受ける。しかし、それをも後から振り返ると大きな恵みであったことを思い、慰めとなる。
神への信頼が十分にあるとき、良きことも苦しいことも励ましや慰めとなる。
このことによって、自分は間違っていたのに神様は正してくださったと、神様の愛を感じるからいっそう力づけられるということである。わたしたちが困難にあってもこれは神様からの試練だと思えば、力が不思議と与えられる。

敵対する者の前における恵み
…あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、
わたしの頭に香油を注いでくださる。
わたしの杯はあふれる。(5節)

 5節にある「わたしを苦しめる者」(*)というのは、原文では「敵」という言葉で、他の日本語訳では「敵」と訳されている。

*)英語訳では enemyである。You prepare a table for me in the presence of my enemies.

「苦しめるもの」というのは人間だけに限らず、病気が最大の敵になる場合もある。そんなときでも不思議とわたしたちに霊の食べ物を与えてくださるのである。
しかもこれには条件がない。良い家庭が幸いというと、家庭がない人もたくさんいる。しかしそういう人ほどいっそうここに書かれていることが身近になる。わたしは親から捨てられた。しかし主が羊飼いでわたしを助けてくれる。また能力とも関係ない。この世は、能力のある人だけ引っ張っていきますが、なければ放っておかれる。むしろ自分には能力があると思っている人には、ここにあるような恵みは与えられない。
神の大いなる恵み、それは敵対する者の前ですら、良きものを備えてくださる。言い換えると、敵対するものがいて苦しめられているような時であっても、また、ほかの困難や悩みの中でも、それにうち勝つ力と喜びを与えて下さる。
敵の前に食卓を整えてくださる。これはどういうことか。ふつうの人間の感情では、敵対する人や嫌なことを言う人に会うのも嫌だということになる。しかし神からの良きものを受けているなら、たとえ敵対する人が前にいても、そこで打ち勝つ、あるいは相手を憎んだりしなくなる力、霊的な栄養ともいうべきものを与えてくださるということである。
後に主イエスが、あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈れと言われた。そのように祈るのは神からの良きもの―神の愛や力を受けていなければできない。その意味で、この「敵の前で良きものを備えてくださる」という言葉は、はるか後に有名になる「敵を愛せよ」という言葉と通じるものが、早くも現れているということができる。
神から、霊的な食物を与えられたから、敵対する者にすらそれを注ごうというのが敵への祈りである。
神は人間同士の感情を越えて、敵対する者が前にいたり、嫌なことがあってもそこで神に求めるならば、5節にあるように食卓を整えて、頭に香油を注ぎ、杯を溢れさせてくださるのである。(5節)
ここで出て来る香油とは、王や大祭司に注がれるものであり、神の本質、その力を象徴している。香油を注いでくださる、というのは、あたかも自分が王や大祭司であるかのように、神の本質である力や愛を注いでくださる。そして魂を満たしてくださり、そのように神の賜物によって満たされるとき、喜びはあふれ出るばかりとなるのをこうした表現で表している。
キリストは、最もそうした意味での香油を注がれたお方であり、キリストという言葉自体が、「香油を注がれた者」という意味を持っている。
杯を溢れさせてくださるということは、2節にある憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださるという言葉が意味することと共通したものがあり、杯の中に、なみなみと神様の目に見えないぶどう酒、命の水を溢れさせて、そして飲ませてくださるということである。このようなすばらしい約束が、苦しめる者、敵を前にしてでも与えられる。
自分の心が満たされたと感じるのは、普通は家庭や健康に恵まれ、生活も保障され、よき友達もいる、というような状態のときであろう。しかし、この詩篇が指し示すのは、そのような恵まれた状況がなく、たとえ敵を前にしても良いものを豊かに与えてくださるというのである。
この言葉も、キリストが、「私が与える水を飲む者は、渇くことがなく、その人の内で泉となってあふれ出るようになる」と言われたことに通じるものがある。

追いかけてくる恵み
…わたしの生きているかぎりは
必ず恵みといつくしみとが伴う。(*
わたしはとこしえに主の宮に住む。(6節)

*)「伴う」この原語(ヘブル語)は、ラーダフ というが、これは、追跡する、追いかけるという強い意味を持っていて、「アブラムは、略奪した敵を追跡した」(創世記1414)のように使われる言葉である。

 4,5節にあるように極限状態であっても、なおかつ主が共にいてくださる。この詩の作者はこのような経験をしたからこそ、この詩の終わりの部分で、命のある限りー死の間際まで恵みと良き事、慈しみがわたしをいつも追いかけてくると言っているのである。
これは、わたしたちの経験とは逆で、たいていの人の経験は、神の恵みあるいはこの世で良いものを追いかけても追いかけても取れないというのが多くの人の気持ちであろう。だからこの世には幸福はないのだと考える人が多くなる。
近代の日本の詩は暗さや憂鬱感、悲しみ、絶望感を綴っているものがしばしば見られる。神を知らなければそうなる。
しかし神を信じ、神の愛を受けたときには、この世の暗い中にも光があるということを感じるから、それがおのずから言葉として出てくる。同じ詩でも聖書にある詩集(詩篇)は全世界の人に最もたくさん読まれてきた。その理由はまさにここにある。
キリスト教詩人でよく知られているのは水野源三である。彼の詩には曲が付けられて、一種の讃美歌として親しまれてきた。しかし、出版社は彼の詩集の発行を受けいれなかった。
水野源三の詩はキリスト者の詩として、とくに優れているので、当時、今治教会の牧師であった榎本保郎が、キリスト教関係の出版社にいくつも出版を持ちかけたが、詩集は売れないからとすべて断られたという。
それで、仕方なく教会から出版することにした。それがキリスト教界に広く受け入れられた。
この例でもわかるように、一般的にいえば詩集を読む人は少ない。しかし、3000年にもわたって世界中で最も多く愛され、読まれてきた詩は何か、と問われるなら、それはこの詩篇23篇である。それは、人間が与えられる究極的なことを、神の啓示を受け、その導きにより、自分の経験を通して述べているからである。
どんなことがあっても神を信じて従う限り、生涯にわたって神の恵みと慈しみが追いかけて来る、と言えるのは何とすばらしいことであろう。この詩の作者は、ただ羊飼いとしての神を信頼しているだけで、いわば法則のように確実に神の賜物が追って来るということを深く経験していたのである。
5節の「私たちを苦しめるもの」(敵)というのは人間だけに限らず、病気が最大の敵になる場合もある。そんなときでも不思議とわたしたちに霊の食べ物を与えて、神の国のよきものを注いでくださるのである。
しかもこれは後に、キリストが言われたように、求める者にはだれにでも与えられるというほかのいかなることにも見られない特質がある。
この詩の最後の言葉にあるように、神の恵みと慈しみが、追いかけて来るというほどに満たされている生活こそ、聖書でいわれている平和(平安)であり、それをシャーロームという言葉で表している。。
このような生活は、生きている間は、神とともに歩み、さらに、地上での命を終えた後も、永遠に神のもとで生きるということをも暗示するものとなっている。
このように、この詩篇23篇は、人間の魂は究極的にどのように生きることができるのか、神の恵みによって何が与えられるのか、ということが、だれにもわかりやすく、心に残る表現で記されたものとなっている。

 


リストボタン「君が代」と元号について

学校での入学、卒業などの式のとき、「君が代」を歌うことがいっそう強制されるようになった。そして、大阪では、「君が代」斉唱のとき、不起立を3度繰り返すと免職にまでされるという。
教員が、その生徒に対する教育の熱意や愛によって評価されるのでなく、単に「君が代」斉唱のときに起立するかどうかといったことで決定的な評価を受けるなど、実に不可解なことである。このようなことは、教育の核心を知らない人たちが考えることである。
児童、生徒たち、とくに勉強が十分にできない、行動がよくない、家庭状況が恵まれない、病気がちであったり、孤独であるといった生徒たちにこそ、心をこめて対処し、また勉強や何らかの特技のできる者たちはさらにそれをのばすようにつとめること、そうしたことを一人一人の生徒たちに時間とエネルギーを注いでかかわることこそ教育で最も大切なことである。
そうしたことを問わずして、単に上司の命令に機械的に従う、という点で免職にまでなるほどの重要な評価をするなどは、真に独自の生徒への愛から教育にかかわろうとする教師を排除する傾向を生み出す。
「君が代」のような問題の多い歌を、強制的に起立させ、形式的に歌わせたからといって、国を愛する心が育成されるだろうか。国とは、国土、国民、主権からなるが、その中心は国民であり、人間である。
「君が代」のような意味の不可解な歌を強制的に歌わせて、日本の人々が互いに敬愛するようになり、この国土を愛するようになるだろうか。
日本の国を愛するということは、日本が優れているのだといった誇りを持つことではない。そのような誇りは自慢に通じ、また他国の弱点をみて見下すことにつながりやすい。
日本の国を愛するとは、日本にいる人々がどんな人であっても、よりよくなるように―真実さや愛、正しいことへの感覚―がより深くなるようにという心を持つことである。 そうした心が根本にあれば、その人々が住む国土をも大切にするのはごく当然のことになる。
「君が代」の歌詞(*)については、その意味をわざわざ、本来の意味を曲げて、「君が代」を象徴天皇の代だから国民の代、国民全体のことだとか、国をあらわすなどと無理やり説明してきた。そもそも、歌を歌うときにそんなこじつけを考えていったいだれが歌うだろうか。そのようにして歌わせられる歌にどんな利益が、生徒たちの魂に与えられるのであろうか。

*)これは、「古今和歌集」の賀歌に含まれる。ここでは、「我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」となっている。「君が代は…」ではじまる歌詞は、「和漢朗詠集」にみられる。ここで「君」とは、恋人、支配者、天皇などいろいろに解釈されるが、戦前の修身の教科書には「君が代の歌は、天皇陛下のお治めになる御代は千年も万年もつづいてお栄えになるように、という意味で、国民が心からお祝い申し上げる歌であります。」と、明確に天皇の支配する代が永遠であるようにという意味だと記された。
「君」とは、二人称単数であり、相手の長寿、あるいは支配が永遠であるようにという祝いの歌というのがもともとの意味であったと推定できるのであり、国民全体の祝福を祈り願うという発想はみられない。


なぜ、「君が代」に対して不起立の教師がいるのか。それはその歌詞が、天皇の支配の永遠をうたうものとして教育され、そのように歌われてきたものだからである。だからこそ、戦前は徹底して軍国主義に用いられたのであった。
近年は、マスコミも「君が代」の歌詞それ自体が問題だということをあまり取り上げなくなっている。
もし、国歌の歌詞が、自由と平和、国民の互いの敬愛や真実を重んじる内容であるならば、いったいだれがそれを歌うのに反対するだろうか。
学校には、校旗や校歌があるように、国があれば、国旗があり、国歌があるのは当然だと言えよう。
しかし、肝心なことは、その国歌の内容である。単なるメロディーが国歌でない。まずその歌詞が重要で意義深いものであるからこそ、それにメロディーをつけて歌とし、その歌詞に記された内容を広く共有しようとするのである。
メロディーが根本でなく、歌詞が根底にある。その歌詞を生かすためにメロディーが付けられるのである。本来、「君が代」のような、天皇の支配の永遠を願う内容の歌は、戦後廃止して、新たなものを公募するべきであった。
現在、ますますグローバルな時代になっており、世界に向って開かれた歌詞である必要性はいっそう大きくなっている。「君が代」を歌わねば処罰するなどという無意味なことをするのでなく、歌詞やメロディーを世界の平和、自由や真理にかかわる歌詞とそれにふさわしいメロディーを配することに力を注ぐことこそ重要なのである。そうすれば、そもそも権力で強制とか起立しないものを免職にするなどまったく必要なくなる。
現在の「君が代」は、その歌詞を十分に検討したうえで、日本の国歌としてふさわしいと、どれほどの人が考えるだろうか。そもそも「君が代」の歌詞は何を意味しているのかを知らずに歌っている児童、生徒たちが、圧倒的に多いと思われる。
それはちょうど、現在の日本の元号(一世一元制)の意味、何のために、いつこの制度が作られたのか、その目的と成立の状況を知らずして、日本の伝統だなどと思って、昭和とか平成を使っている人の意識と似たものがある。
一世一元制のもとでの元号の制度、それは古来からの伝統でなく、明治政府が天皇の神格化を国民に浸透させる手段として考え出したものなのである。(元号そのものは、中国の漢の時代に行われていたものを取り入れたものである。)
それ以前は、元号は天皇が時世の状況により、また一種の迷信によって、飢饉や外国の船などのトラブルがあれば元号をかえるということで、一世一元ではなかった。
一世一元のように、個人の人間の名前を時間を表すときに用いるなど、全世界で全く行われていない不都合なことである。(*
いったい平成などといって現在のグローバルの時代に通用すると考えているのだろうか。現在の天皇が死去するとともに、膨大な数の文書、印鑑、コンピュータ、カード等々を造り替えねばならなくなる。その費用は莫大なものになるだろう。

*)昭和天皇というとき、昭和というのはヒロヒト天皇の個人名である。天皇が在世時は、ヒロヒトという名前があるにもかかわらず、それを用いずに単に天皇陛下、あるいは今上天皇(きんじょうてんのう)などという。 昭和という名前は、死後の贈り名(諡 おくりな)であるから、死後は、昭和天皇といって昭和というのが天皇の名前として使われる。

何の為にそのようなことを続けるのだろうか。天皇の名前を刻みつけるということをいまだに多くの政治家などが考えているからであり、それはまた、日本人の多くが元号制度制定の目的や意味を知らないからに他ならない。
私がかつて教員であったとき、転勤先の高校ではすべての文書や生徒の提出物にも、元号が使われていた。しかし、その元号の意味の問題点を詳しく歴史的に指摘していくと、はじめは全く元号の問題点を知らずに、私がキリスト者であるから、元号に反対しているのだと非難していた人たちも、詳しく元号の成立と問題点、その意味を知るに及んで、ほとんどだれも反対しなくなって、多くの教員や生徒が元号でなく、西暦を使うようになった。
元号の無意味は、例えば、次のようなことを考えればすぐにわかる。 徳島県では現在、飯泉という知事がいる。彼が知事になったとたん、県下のすべての公文書から教育その他のことまで、みな飯泉元年というように言い換えるなどという法律を制定するといったら、いっせいに非難され正常な判断でないと即座に相手にされないだろう。個人の名前を国民の時間を数えるときに使うなどまったく無意味かつ有害だからである。それゆえに、世界で数々の特異な支配者が現れても、自分の名前で国家全体の公文書などの時間を基準に数えるなどということは前例がない。しかし、日本だけが、そのような無意味なことを現在も続けている。(外務省の公文書だけは、以前から西暦。元号では通用しないからである。)
「君が代」についても、本当に生徒たちがその歌詞の意味を知ったなら、心から歌えるであろうか。その意味を学校教育でまったくといってよいほど教えてこなかった。「君が代」を歌わせられた経験はだれでも思いだすであろうが、その歌詞の意味を十分に教えてもらったという人は戦後生まれの人たちはごく少ないと思われる。 この「君が代」の歌と歌詞は、歴史的にどのような起源があり、いかに用いられてきたのかを教えられたという経験は日本の現在の戦後生まれの人たちにはほとんどないはずである。
現在の日本、それは精神的な支えとなるものを持っていないということが、これからますます根本問題となってくるであろう。人々は急速に老齢化し、日本の農業、工業など産業は中国やインド、あるいはその他の国々の動向によって大きく変容していく。大地震の頻発するこの狭い国土に原発を密集させたために、今後50年、100年とそのために、大きな犠牲をはらっていくことになるであろう。
こうした日本がかつて経験したことのない状況にあって、個々の人間の根底にかかわること―真理や真実、正義といった感覚を鋭くしていくことこそ、肝要である。
そのためには、聖書やギリシャ哲学のような人類の根源にかかわる真理を学ぶこと、あるいはそうした真理を体得したダンテやトルストイ、ガンジーといった思想家たちの精神を取り入れることこそ重要なことである。 真理こそは、最も国際的であり、普遍性があり、永遠的なものである。
だが、日本の保守的政治家や東京、大阪といった大都会の知事、市長たち、教育関係者たちが考えることは、「君が代」のような古代の祝い歌を、つごうのよいように歌詞解釈をして、強制的に歌わせるとか、単なる成績を最大事のようにして競争させるなどといったことに大変なエネルギーを注いでいる。何と的外れなことをやっているのかと思う。そんなことは国際的な人間を育てることには何の関係もない。
そんなことを考えていたなら、ますます日本の前途は危うい。主イエスが言われた言葉(マタイ2323)を少し変えると、それはそのまま現代のこうした政治家たちにあてはまる。
…ああ、ものの見えない指導者たちよ、形式的なことには熱心で、「君が代」は法律まで作って歌わせようとする。しかし、あなた方は最も大切な、正義、愛、真実はないがしろにしている。これこそ、行うべきことである。

 


リストボタン水野源三の詩から

しみる

雪解け水が
地にしみる
主のみ言葉が
わが胸にしみる

・心にしみる、神を知らないとき、なにが心にしみるだろうか。よい音楽、美しい風景、人間の愛、思いやり…いろいろあるだろう。
しかし、最も魂の深みにしみるものは神の言葉。それは、数千年も人間の最も深いところを流れてきた水の様なものだからである。そしてそのしみ入ったみ言葉はまた、外にあふれていくものとなって他者にも及んでいく。

御霊の神よ 働きかけて

いくらみ言葉を聞いても
理解できないあのともに
御霊の神よ 働きかけて
救いの御業をなしたまえ

ますますかたくなになって
素直になれない心に
御霊の神よ働きかけて
救いの御業をなしたまえ

どうしてもナザレのイエスを
主と呼べない者に
御霊の神よ働きかけて
救いの御業をなしたまえ

・人がキリストと愛の神を信じるということは、一つの神秘である。人間の説得や説明ではどうしても超えられない壁がある。それゆえに、祈る。聖なる霊が働きかけてくださいと。

 


リストボタン「君が代」と内村鑑三

今から110年ほども昔に、「君が代」は国民の歌ではないと、はっきりと主張していた人がいる。当時はそのような批判的な考えで「君が代」を見つめていた人など、きわめて少なかったと考えられる。
それが内村鑑三である。次に、私(吉村)が教員として在職中、今から20年あまり以前にその内村のことを引用して書いた文を掲載する。
内村鑑三と現代 (1991年頃 徳島新聞に掲載)
「いずれの国にも国歌なるものがなくてはならない。しかし我が日本にはまだこれがない。「君が代」は国歌ではない。これは天子(天皇)の徳をたたえるための歌である。国歌とは、その平民の心を歌ったものでなくてはならない」(「万朝報(よろずちょうほう)(*)」一九〇二年11月)

*)万朝報 1892年黒岩涙香(るいこう)により創刊。 一時は東京の新聞では、第一位の発行部数となった。日露戦争開戦のときは、非戦論であったが、次第に主戦論となり、そのため非戦論を主張する内村鑑三、幸徳秋水らは退社した。

今から九十年近く前、「君が代」の内容について、ほとんどだれも疑わなかった時代に内村鑑三がすでにこのような洞察をしているのには驚かされる。今日、学習指導要領の改訂で全国的に大きい波紋を呼んでいる「君が代」の問題の本質を時代に先駆けて内村は見抜いていたのであった。
 こうした内村の思想の真価について教科書裁判で知られている歴史家の家永三郎氏は 十年ほど前に岩波書店から刊行された内村鑑三全集によせた推薦文で次のように書いている。
…そうした一般的風潮にあって、超越―非連続の立体的世界観を展開したのが、十三世紀の鎌倉新仏教開祖たち
と十九世紀から二十世紀にかけての、少数のキリスト者たちとの例外的思想的営為であり、彼らの遺したものは日本人の平均的試行の限界を突破しようとする貴重な精神的遺産として高く評価されねばなるまい。
内村鑑三の思想は、後の方の一群中、最も充実した典型例であり、親鸞、道元、日蓮らの宗教とともに、日本思想史の最高峰を形作るものと思う。
しかも親鸞らに欠けていた『義』の精神と歴史哲学とを併有する点で、私たちに一層切実な示唆を投じる内容を豊かに含んでいる」
ただにキリスト教界だけでない。文学、社会運動、思想方面にも広く、深い影響を及ぼした内村鑑三の思想的基盤は、いうまでもなく、キリスト教であった。キリスト教といっても、多くの人が連想する単なる教えではない。十字架による罪のあがないの信仰こそが内村のこの深い洞察の根源なのであった。 正しい道を歩くことができない。よいことが分かっているのにそれをなすことができない、そうした心の弱さをキリスト教では罪という。そうした弱さの問題を解決するのでなければ真の心の平安は到底おとずれないし、力も生じない。内村はこの自分の弱さをどうするかという一点に全力を傾けたのである。
そして、ついにキリストの十字架を仰ぐことによって、その弱さの真の克服の道を示されたのであった。そして歴史にその足跡を刻み込む力を得たのであった。内村が、そのよって立つ思想、信仰の原点は罪の問題、言い換えれば、自らの弱さの深い認識とその弱さを克服するキリストの十字架を仰ぎ見るところにあったということは、現代に生きる我々にも多くの示唆を投げかけている。
 今日、私たちは、地上のさまざまの難問に苦しみ始めている。猛毒の核廃棄物プルトニウムの増加に象徴される汚染、二酸化炭素の増加による温暖化、森林の激減による地球環境の変化等々、こうした問題はその背後に浪費癖とか権力欲、物欲といった人間の弱さが必ずといってよいくらい潜んでいるのである。
また、日本の急速な老齢化に応じて、いっそう人間の弱さの問題が浮かびあがって来るであろう。老齢化における根本問題は生きがいの喪失ということである。こうした我々の社会におけるさまざまの相を持った弱さの問題を政治や社会制度の問題からだけ見るのでなく、人間の存在の最も深いところから見つめるということを内村鑑三は告げている。
 私自身、大学時代に多くの問題を抱えて自分も含めた人間や社会の弱さと醜さにどう向かっていくのか悩み抜いたことがあった。その時、思いかけず古書店で見つけた矢内原忠雄著「キリスト教入門」によって無教会のキリスト教を知り、キリストの十字架による罪のゆるしということを受けることになったのである。
 内村鑑三の力の源となったこの真理は、現在においても変わることなく、あらゆる人間―ことに自らの弱さ、罪に苦しむ人々への福音であり続けている。

 


リストボタン福島第一原発4号機の危険性と「祈ること」

日本は現在、地震が多く発生するようになっている。福島にも大きな余震がある可能性があり、その場合には、大事故を起こした原発は、さらなる困難に直面する。場合によっては、現在までの状況よりはるかに重大なことすら生じる可能性をはらんでいる。
そのようなことをいつも私たちは考えておかねばならない。去年の原発大事故は、まさにそのような重大な事故など起こらない、大地震が来ても絶対安全であるように幾重にも安全装置が装備されている、という御用学者たちの宣伝を信じてしまったところにその原因があった。
そうした大変な事態が生じるということを本当に知っているほど、原発を造ってはいけないのだ、という考えにおのずとなっていくであろう。

2月18日(土)に、京都大学原子炉実験所の小出裕章氏が徳島市で講演をされた。そのなかで、福島原発4号機に関する危険性を次のように語っていた。

…政府によれば、2号機こそは、最大の破壊を受けていて、放射能を環境に放出した最大の原因となっていると言われてきた。
そして、3号機は写真で見てもわかるが、建屋の骨組みすらないほどに破壊されている。
それと比べると、4号機は骨組みは残っている。それなら、 3号機と4号機とどちらが破壊が深刻なのかといえば、3号機と思われるかも知れない。
しかし、そうではなく、4号機なのだ。
3号機は原子炉建屋の最上階の2階の部分が吹き飛んだが、その下はまだ壁がある。
それにくらべると4号機は骨組みは残っている。しかし、4号機は最上階の二階の部分も、その下の部分も壁がなく、その下も穴があいている。3号機も4号機も最上階の2階の部分は体育館のような巨大な空間である。オペレーションフロワと言われる、 クレーンや燃料取り替え装置がある巨大な空間だ。そこで水素が出て爆発した。
4
号機はそこも壊れ、その下も壊れている。使用済み燃料プールに膨大な燃料を入れてある。そこも何らかの破壊があった。そして生じた水素が最上階の二階に相当するオペレーションフロワを吹き飛ばした。
ほかの1号機から3号機までは、破損したとはいえ、なんとか容器は残っているから燃料、廃棄物は大体はその容器にの中にある。
しかし、4号機の使用済み燃料プールの冷却に本当に失敗するなら、そこからは、なんの防壁のないまま放射能が環境に大量に出て来る。
 4号機が大きな余震によって、崩れ落ちる可能性がかなりあり、危険であったから、耐震補強工事して何とか崩れ落ちないようにしたという。しかし、猛烈な放射能で汚染されているから人間は近づくこともできない。
東京電力は補強工事をしたというが遠隔操作か何かでやったのかも知れないが、そういう強い放射能汚染の場所で本当に補強できたのかと思う。
もし、大きい余震があって、この使用済み燃料プールが崩壊でもしたら、もうなすすべはない。もう天に祈ることしかできない。
このプールが崩壊するような大きな余震がこないでくれよと、それを願うしかないのが今の状態だ。この4号炉のなかには、広島原爆がばらまいた放射能生成物の約四千発分もある。…
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このように、4号機の重大な危険性を排除する方法がなくて、巨大地震が起こらないでくれと、祈るだけしかないという。原子炉に関する現役の科学者、40年もの間その方面の研究を専門的にやってきた学者が、「ただ祈るしかない」というほどに、今回の原発の事故は、将来の廃棄物の処理の難問や除染、復興といった以前に、現在も深刻な状況を抱えているのであり、恐ろしい爆弾を抱えているような状況なのである。
このことに関しては、アメリカの原子力技術者、A・ガンダーセン(*)が次のように述べている。

*)1949年生まれ。原子力の技術者。アメリカで原子炉の設計、建設、運用、廃炉などに関わり、アメリカエネルギー省の廃炉手引き書の共著者。妻と共に設立した組織で原子力発電に関する調査分析や、訴訟、公聴会における専門家として意見の提供をしている。

…三号機の爆発はたしかに凄絶であったが、一番の懸念材料は4号機であり続けてきた。アメリカの原子力規制委員会 (Nuclear Regulatory CommissionーNRC)が、当時の日本政府の勧告より広い80キロまでの避難を提言した理由でもありました。NRCは、使用済み燃料プールが乾いてしまって、発火することを非常に心配していた。あまりにも熱くなって金属が燃える現象だ。
水では消化できない。そのような状態になると、水をかければ事態は悪化する。水から発生した酸素がジルコニウムを酸化させるうえに、水素が発生して爆発する。
こうなると最悪の事態だ。10~15年分の核燃料が大気中で燃えるという世にも恐ろしい状況となる。 4号機の建屋は構造が弱体化し、傾いている。事故後、東京電力は作業員の健康をリスクにさらしながら、プールを補強した。それだけ損傷が激しかったのである。
 大きな地震に襲われたときに倒壊する可能性が、4つのなかでは最も高いといえる。
 耐震性を高めるために打つ手はあまりない。
 再び、震度7の巨大地震が来ないことを祈るだけだ。
 このような事態は、科学にとって未知の世界である。取り出してまもない完全に近い炉心が入った使用済み核燃料プールでおきる火災を消し止める方法など、だれも研究すらしたことがないのである。 事実上燃えるがままにまかせるしかないとすれば、それは解決策などとはいえない。
 大気圏内で行われた歴代の核実験で放出された量を併せたほどの放射線セシウムが、4号機のプールには眠っている。4号機の使用済み燃料は、今でも日本列島を分断する力を秘めている。…(「福島第一原発―真相と展望」7078頁 集英社新書)

 このように、小出裕章氏も、ガンダーセンもいずれもが、4号機に巨大地震が襲うことになれば、その大量の放射能によって日本全体にとって―否世界にとっても現在よりはるかに重大な事態となることを指摘し、そのようなことを確実に防ぐ方法がないために、「祈る」だけだと言っているのに驚かされる。
 さらに、この4号機を含め、3~4年ほどして、燃料集合体が大気中で保管できるようになったら、核燃料を取り出さねばならない。これは、至難のわざであるが、そうしないと再び地震や津波の襲来のときには、大変な事態となるからである。
 しかし、その取り出しがまた極めて困難だという。4号機の建物自体が傾いているうえに、4号機では、上部のクレーンも破壊された。 その状況で、危険な高い放射能を持つ燃料を持ち上げて、直径3m、厚さ7・5センチもある鋼鉄製の容器(キャスク)に入れて運ばねばならないが、それは100トンにも及ぶ重量となるから、それを操作するときにもし落下でも起こすと、燃料がたくさん入ったプールの底が抜け、東京を壊滅させる火災を引き起こす可能性があるという。それは、そのような事態になるとおびただしい放射能が放出されてしまうからである。
 さきに、もし、4号機の燃料プールが地震で崩壊したなら、世にも恐ろしい火災となるといったのと同様のことである。このような事態となれば、消すことはできず、莫大な放射能が、首都圏に降り注ぐゆえに壊滅させると言っているのである。東京地域がそのようになるなら、ほかの地域も当然たいへんな状況となるのは容易に想像できる。
 最悪の場合には、このような事態まで生み出す、原発というもの、このような本質を知らないゆえに、そして金や自分の地位に執着するものたちがたくさんいるからまだ再稼働させようとする人たちが多いのである。
 こうした事態をはらんでいる原発が何故収束したなどといえるのか、大いなる偽りでしかない。
 私たちは、電気―エネルギーをできるだけ無駄使いをしない、という生活へと転向し、まず贅沢に電気エネルギーをいくらでも使うということでなく、まず安全、安心を生み出すような生活のあり方へと進んでいかねばならないと思う。
 ささやかなもので満足する、その根本的な道は、はるか2500年以上も昔に言われている。
「主はわが牧者、わたしには乏しきことがない。」(詩篇23篇)という道である。

 


リストボタン「人生の海の嵐に」
―北田康広CD について


3月11日という日本人に忘れることのできない日を記念して表記の讃美歌CDが発売された。 これは、被災された方々の魂に届くよう、人々が私たちのために十字架にかかられたキリストを知って「人生の海の嵐」から逃れ、魂の港であるキリストを知って真の平安と力を与えられるようにとの願いが込められている。
北田さんは、全盲のピアニスト、バリトン歌手で、今回初めて讃美歌のみのCDを出された。
心に残るすぐれた内容の賛美が収録されていて、いままでにない讃美歌CDとなっているので、この内容を知ってより多くの方々、とくに被災を受けた方々の心に届くようにと願ってやまない。

○以下は、CDに添付された推薦文より

1、加藤常昭 (神学者。東京大学文学部哲学科卒、1956年に東京神学大学修了。1986年まで東京神学大学教授、元鎌倉雪の下教会牧師。)

主に向って喜び歌おう  救いの岩に向って喜びの叫びをあげよう。(詩篇95
 北田さんは、ピアノだけでなく、こんなにすばらしい歌をも神に捧げるカリスマを与えられている。すぐれた師匠たちに出会ったからでもあろう。朗々と、のびのびと、神を賛美し、隣人に主キリストを紹介する愛と熱情があふれている。深い闇のなかにある悲しみをしっているのに、幼な子のように賛美に生ききっている。私は驚き、感動している。私はここに神の愛の奇跡を見る!

2、小中陽太郎(作家)
 この苦難のときに、主を賛美する力強い歌声がひびきます。この一枚のCDは、みずからのトゲを力に、苦しむ日本中の人々に、主のいやしと励ましを与えてくれるでしょう。

3、中川健一(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ代表)
 北田 康広氏は、未曽有の大震災以来、自分に何ができるかと問いかけ、讃美歌だけのアルバム「人生の海の嵐に」を出されました。のびやかな声で歌われる16曲の讃美歌をお聴きして、私の心は、ときには踊り、ときには祈り、ときには涙しました。
4、神田光(音楽プロデューサー)
 讃美歌においては、オペラ的歌唱法よりも、ビブラートを最小限に抑えた、透明感溢れる純粋な発声が望ましく、北田康広の歌声は、真っ直ぐ天に届くような清らかさをたたえており、「まさに讃美歌を歌うために神から与えられたナチュラルヴォイス!」と絶賛されています。
 十字架を背負う主のうしろ姿が眼前に迫り、心を揺さぶられる「主のうしろ姿」は秀逸です。人生の港へと誘ってくれる「人生の海の嵐に」は、今苦しんでいる人々の傷ついた心を癒し、慰め、勇気付けてくれるでしょう。特に「いと静けき港に着き われは今 安ろう」という部分は、疲れた心に主の平安を注ぎ込んでくれるようです。 小さな善意の重要性を歌った賛美が「ちいさなかごに」です。人知れず善の行いを積み重ねている人を、必ず神は祝福されるとの約束は、被災地で働くボランティアの方々の心を慰めてくれることでしょう。
 未曽有の災害により、閉塞感漂う空気を吹き飛ばしてくれる賛美が、「勝利をのぞみ」です。このメロディーは男性的であり、キング牧師の大行進でも歌われています。日本の復興と、希望を持って前進する人々の後押しをしてくれるかのような、力強い賛美です。
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○北田 康広
・1965年徳島県生まれ。未熟児網膜症と医療ミスが重なり5歳で失明。
・徳島県立盲学校、筑波大学附属盲学校音楽科、武蔵野音楽大学ピアノ科卒。
・東京バプテスト神学校神学専攻科卒。
・現在、ピアノ演奏&&トークというユニークな演奏活動を展開している。
・ヘレン・ケラー協会主催第31回全日本盲学生音楽コンクール第1位受賞。
・2009年の無教会全国集会(青山学院大学礼拝堂)で、夜の音楽のプログラムにおいて、ピアノ演奏、賛美、証しなどをされた。

○現在までに発売されたCD 「ことりが空を」、『心の瞳』、『藍色の旋律-愛・祈り・平和・自由-』、『Mind's eye マインズアイ ~心の瞳~』

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○北田 康広のホームページより(http://kitada.info/index.html)
 東日本大震災で多くの方々が被災され、お亡くなりになられた方々のご家族の皆様には、まだ癒えぬ深い悲しみの中におられることと思います。心よりお慰めをお祈り申し上げます。また、現在も被災地で不安の中におられる皆様が、一日も早く安心して暮らせる日がきますようにと、心からお祈り申し上げます。
 復興には長い時間と、多くの方々のご支援が必要になると思いますが、私も微力ながら、音楽を通した義援活動を行って参りたいと願っております。 皆様方のお力添えのもと、お役にたてますようにと、切に祈念いたしております。
 東日本大震災を覚えて、初の讃美歌集を3月11日に全国発売する運びとなりました。このアルバムを通して、慰めと希望の源である救い主イエス・キリストに出会っていただけるよう、お祈りしております。北田康広
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このCDに収録された曲目の解説を次に掲載する。

1
、ちいさなかごに 詞:A.J.Cleator :G.C.Tullar(讃美歌Ⅱ編26
 作詞者 Cleator1871-1926)は、 イギリスとアイルランドの間にある小さい島に生まれた。その後アメリカに移住。オハイオで住んだ。200曲に及ぶ讃美歌をつくっている。
この賛美は、TUNE名(曲名)が、LITTLE DEEDS(小さき行い)とあるように、主にあってなされるささやかな行いの重要性を歌ったものである。そしてこの原詩の折り返し部分(refrain)の初行は、Let us all be helpful で、「私たちはみな、誰かの助けになるようにと心がけよう」と呼びかける内容となっている。これは、主イエスが、隣人を愛せよ、互いに愛し合え、と言われたことを思いださせるものとなっている。
小さいものへの主イエスの深いお心は、福音書によってよく知られている。
『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』(マタイ 25:40) この世は大きいものへと注目するが、主イエスは、小さきものをいつも目に留められる。それゆえに、主にある愛をもってなされる小さき行いをも祝福される。そうした主の御心がこの歌にはわかりやすく親しみやすい言葉で歌われている。

2
、朝静かに 詞:水野源三 曲:竹田由彦(新聖歌334)
作詞者は、水野源三。戦後まもなく、小学四年のときに赤痢による高熱のため脳性小児麻痺となった。しかし、のちにキリスト教信仰を与えられ、母親が五十音表を順に指差し、瞬きで合図をするという方法により、主イエスによる感動を多くの詩に作った。四七才で天に召された。
この詩は、寝たきりというきわめて不自由な状況にあっても、聖霊を注がれ、活きてはたらく主がおられるときには、祈りと学び、そして賛美によって、主にある平安、希望、喜びがあふれてくることを静かに語りかけてくる。主イエスが、最後の夕食のときに語った言葉として伝えられているなかに、「私の平安(平和)をあなた方に残していく」と言われ、聖霊を与えると約束された。そしてその聖霊が与えられるときには、その人の内奥から生ける水が泉のようにあふれ出すと言われた。この詩はまさにそうした聖霊によってあふれ出た内容だと言えよう。そしてたしかに、この寝たきりであってしかも言葉も発することのできない極めて不自由な人から湧き出たいのちの水は、数しれない人々の心をうるおしてきたのである。

3
、とびらの外に 詞:W.W.How 曲:J.H.Knecht & E.Husband (讃美歌21―430、讃美歌240)
この曲は、ドイツのクネヒト(古典文学の教授であったが、音楽家でもあった)が前半を作って発表され用いられていた。その後イギリスの聖職者で音楽家のハズバンドが、後半を作って一つの曲とした。
 これは、聖書に「見よ、私は戸口に立って、たたいている。私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をする。」(黙示録3の20)から作られた。だれも訪れてくれない、顧みてくれないという孤独な魂に、主イエスはその魂のそばにたち続け、心の扉をたたき続け、語りかけ続けている。原詩では、O Jesus Thou art…(ああ、イエスさま あなたは…)が1~3節の冒頭に繰り返されていて、主イエスへの親しい呼びかけがそこにある。遠くいて見守るだけでない、すぐ近くで私たちの側でたち続けて下さって、語りかけを続けてくださっている、心の扉を開くと主イエスが来てくださり霊の食物をともにいただけるという祝福が約束されている。この賛美を心から歌うときにじっさいに主イエスがその歌のメロディーに乗って来てくださる思いになる。主イエスはこのように、私たちの魂に近くある。それゆえに私たちのほうからも、門をたたけ、そうすれば開かれるという主イエスの言葉にしたがって、門をたたくことも必要である。

4
、主の後ろ姿 詞・曲:山口博子
これは、魂に迫ってくる歌である。目を閉じて聞き入るとき、罪という人間の根本問題を背負ってただ黙して十字架を担い、よろめきつつ歩んで行かれる主の姿が彷彿としてくる。裁判のとき、総督も驚かせたほどにイエスは沈黙を守られた。その沈黙の歩みは十字架へと続く。その歩みはキリストの愛と祈りそのものであった。この賛美からは、それが伝わってくる。主の十字架に関する讃美歌は数多くあるが、主の後ろ姿がこれほど迫ってくるのは、十字架それ自体の意味の深さと力が根本にあるが、さらに、この旋律が歌詞をよく浮かびあがらせる力を持っていることのゆえであろう。
 作者の山口氏は、病気のために若いとき4年ほどの間に6回も長期入院を繰り返したという。その入院中に、ラジオのキリスト教放送によって聖書を知り、キリスト者となった。主がそうした苦しみを用いられ、このような歌が生み出されたと言えよう。

5
、主は教会の基となり 詞:S.J.Stone :S.S.Wesley(讃美歌21―390、讃美歌191
「教会」と訳されている言葉は、エクレシアというギリシャ語の中国語訳をそのまま日本語として受けいれたものであり、原語の意味は、建物でなく、キリストを信じる人の集りを言う言葉である。今も生きて働いておられる主イエスこそは、そうした信徒たちの唯一の基であり、この分裂と混沌にあえぐ世にあって一つにしていく神の力であることが歌われている。2節では、原詩では、ONE という言葉が7回も用いられているほどに、真理なる神は唯一であり、その真理から生まれたキリスト者の集りもまた一つであり、そのように一つにしていく力が主イエスにはあることが歌われる。
世界のキリスト者の集りが、一つとされていくためには、十字架による罪の赦し、復活、そして再臨という三つの根本的真理が不可欠であることがこの歌で歌われている。
 
6
、もしも私が苦しまなかったら 詞 水野源三  曲 高野忠博(新聖歌292)
2
、と同じく水野源三作詩で、日本人の作曲者による作品。寝たきりで、声も出せないという重いハンディを持っていたにもかかわらず、その苦しみと神の愛の深い関わりが歌われている。この世のさまざまの苦しみや悲しみはそれを通して神の愛が働くためであることを知らされる。自然災害の他にも、病気や人間関係において苦しみや悲しみはこの世では避けることができない。そうした苦しみによって神の愛を本当に知ることへと導かれるようにとの祈りがこの詩の背後に感じられる。
 苦しみは決してただそれだけで終わることはない。神とキリストを信じるようになってそのことが示されていく。生まれつきの盲人という非常な苦しみを受けている人について、弟子たちが「この人がこのようになったのは、誰かが罪を犯したからなのか」と尋ねたとき、イエスは、「誰が罪を犯したからでもない。神のわざがこの人に現れるためである。」(ヨハネ福音書9:23)と言われた。 水野源三の受けた苦しみも、まさにそれによって神のわざが現れるためであった。彼の死後、彼の詩は数知れない人たちの魂に流れ込み、清いいのちの水を注ぎ、うるおすことになり、それは現在も変ることなく続いている。

7
、人生の海の嵐 作詞:H.L.Gilmour 作曲:Gerge D.Moore(新聖歌248
3・11の東北大震災、それは日本人の多くの魂を揺さぶる出来事であったし、今もなお、その余震は、物理的な意味だけでなく、精神的な意味においても続いている。肉親を失い、職業の場を失い、緑したたる愛する大地を汚染され、悲しみつつ立ち去らねばならなくなった、まさに人生の海の嵐に遭遇した人たちが数多くおられる。さらに、原発周辺の人たちは今後長期にわたってこの人生の嵐を受け続けることになる可能性が大きい。そうした厳しさのなかに、キリストが来られるとき、波立つ心、大嵐に翻弄された魂にも主の平安―シャーロームが訪れる。
 主イエスは、その最後の夕食のときに、主の平安(平和)を残していくと言われた。最愛の家族、住み慣れた家やふるさと、そしてその美しき自然、それらの奪われた人たちにとって、それをいやす力あるのは、ただ主の力、主の平安である。そのことへの祈りを込めてこの歌を聞くだけでなく、私たちも歌っていきたい。

8
、紫の衣  詞・曲:谷有恒
この歌の作詞、作曲は、裁判官をしている人で、音楽の専門家でない方の作品である。これはキリストの深い愛が伝わってくる歌である。それとともに自分の罪深さも思わされ、それにもかかわらず、そのような者のために、いかに苦しみがひどくとも、それをも私たちに本当の悔い改めを与え、主の平安を与えるためにあざけられ、鞭打たれ、釘打たれるという極限の苦しみを受けられた。その深い愛が、なぜ自分のような罪深きものに与えられたのか、その言い表しがたい感謝がこの歌には込められている。
 この無限に深く偉大なお方であるにもかかわらず、自分のような小さきものを顧みてくださることへの驚きと感動は、詩篇にも歌われている。
「あなたの天を、指の業を私は仰ぎます。月も星もあなたが配置なさったもの。そのあなたが、御心に留めてくださるとは、人間は何者なのでしょう。」(詩篇8の4~5)
 なお、この歌のはじめと終わりの部分に、バッハのマタイ受難曲に繰り返し用いられている旋律が用いられていて、讃美歌の「血しおしたたる」が響いてくるようである。

9
、二ひきのさかなと 詞:佐伯幸雄 曲:小海基(讃美歌21198、こども讃美歌104)
これは、福音書にあらわれる奇蹟をもとにした歌である。子どもとともに歌える賛美であるが、決してその歌われている内容そのものは簡単なものではない。二匹の魚と五つのパンを主イエスが祝福されると男だけでも五千人にもなったという。表面的にこの奇蹟を読む人はこんなことはあり得ないと一蹴してしまうかもしれない。
 しかし、この奇蹟が意味するところは深くかつ重要である。それは、これとほぼ同じ内容の四千人になったりするのも含めると六回もほぼ同じ内容のパンの奇蹟が記されてている。貴重な紙、筆記具の時代であるにもかかわらず、マルコ福音書のように分量も少ない福音書であってもこの記事は二回も記されている。それほどにこの奇蹟は重要であった。主の祝福を受けるならどんなに小さなものささやかなものであっても、大いなるよき実を結ぶ。
 それだけでない。残りのパン屑を集めたら12の籠にいっぱいになったという。残りもまた12という一種の完全数が用いられていることからもうかがえるが、イエスの祝福は限りなく増やされていくということを暗示しているのである。この記事は福音書に記されているが、それらは、ローマ帝国の厳しい迫害の時代に書かれた。何の権力も武力も持たない民衆の力の基となったのは、このキリストの祝福の力であったし、実際にその力によって無に等しいとされていたような奴隷や貧しい人たちからも次々とキリストの福音は伝わっていった。
 過去2000年にわたって12の籠を満たした祝福されたパン屑によって人々は満たされ、現代の私たちも同様である。この奇蹟によって表されていること―小さきものを限りなく祝福して用いてくださるキリストの力こそ、困難なこれからの時代に最も必要なものであり、そうした意味を思いつつ歌いたい。

10
、天の神 祈ります 詞:D.T.Niles 曲:E.G.Maquiso(讃美歌21-354
私たちの心の願いを簡潔に表現した賛美である。この賛美はそのまま、誰にとっても祈りをもって歌える内容である。人間世界は、家庭や地域、あるいは組織や世界…、どこにあっても常に分裂に悩まされてきた。憐れみと祝福の神が、それらを顧みてくださってどうか一つにしてくださいと祈る。
 2節は、御子イエスが、復活と十字架という人類にとっての最大の恵みを与えてくださったことへの感謝である。復活は死に対する勝利であり、十字架は罪からの解放であるゆえ、この二つを信じて受けいれる時、私たちの人生はどのような状況にあっても祝福に変えられていく。
 3節、すべての真理を教え、愛、喜び、平和など最も大切なものを実として与える聖霊を、とくに悩み、傷ついた人々のためにと待ち望む。父なる神、子なるキリスト、そして聖霊という三位一体の神に立ち帰りつつ、他者の苦しみとそのいやしを祈りをもって歌える讃美歌である。

11
、あさかぜしずかに吹きて 詞:H.E.Stowe 曲:Felix Mendelssohn (讃美歌21-211、讃美歌30
この賛美は、作詞がストー夫人、作曲はメンデルスゾーンという世界的に広く知られた人たちによるものである。ストー夫人は、奴隷解放運動のためにも力を尽くし、その経験から生まれた歴史的名作である「アンクル・トムの小屋」は、出版されてたちまち世界に広がったが、トルストイはいち早くその価値を認めた一人であった。彼は、神の愛そのものをテーマとした作品は、世界文学の長い歴史においてもわずかしかないと述べ、その芸術論において、「神と隣人に対する愛から流れ出る、高い宗教的、かつ積極的な芸術の模範」として、ユーゴーの「レ・ミゼラブル」などとともにあげている。(「芸術とは何か」第十六章) また、スイスの思想家ヒルティもストー夫人のこの作品を次のように高く評価している。「あなたはどんな本を一番書いてもらいたいと思うか。この場合、聖書の各篇は問題外としよう、同じくダンテも競争外におこう。 … わたしの答えは、ストー夫人の「アンクル・トムズ・ケビン」アミチスの「クオレ」、テニソンの「国王牧歌」である。 (「眠れぬ夜のために下」七月十六日)
 なお、ストー夫人は、父も牧師、兄弟6人も牧師となり、夫も聖職者であったが後に大学教授というキリスト教一家の環境であった。
 文字も知らない黒人奴隷が神への愛と神からの愛を受けて、いかなる厳しい運命にも希望をもって耐え抜き、この世を去っていく。そのような歴史的な文学作品を書いたストー夫人の詩が、メンデルスゾーンの曲によって朝の礼拝のときの歌として広く愛される賛美歌となっている。
 この曲は、彼のピアノ独奏曲「無言歌集」(作品30の3)にある。
 メンデルスゾーンは、ユダヤ系ドイツ人の音楽家で、祖父は有名な哲学者。彼の父の代からキリスト教(プロテスタント)に改宗した。
 彼の音楽は、結婚行進曲や交響曲「スコットランド」、「イタリア」、「バイオリン協奏曲」などで広く知られているが、バッハのマタイ受難曲の公演を実現して、全ヨーロッパにバッハの音楽の卓越性を認識させ、復興させることにつながったという点でも重要である。メンデルスゾーンはバッハの作品を「この世で最も偉大なキリスト教音楽」と見なしていたという。メンデルスゾーン自身もキリスト教音楽としては、詩篇第42篇「鹿が谷の水を慕うように」、オラトリオとして「聖パウロ」、「エリヤ」、「キリスト」など、多くのキリスト教関係の作品も残している。
 
12
、みどりもふかき 詩:E.R.Conde :イギリス民謡(讃美歌21―289、讃美歌122)
これは、イエスの若き日の歩みの一端をイザヤ書のメシアの預言と関連させて歌った讃美歌である。(特に2節)
「彼は主の前に若枝のように芽生え、
砂漠の地から出る根のように育った。
彼にはわれわれの見とれるような姿もなく、輝きもなく、
われわれの慕うような見ばえもない。」(イザヤ書53章2節)
この歌に歌われたような静かな生活、それは後の激しい霊的な戦いの備えとなった。
若きイエスは、かつて清い心もて故郷の村を歩まれたが、現在も生きたキリスト、あるいは聖霊となって私たちの世界のただ中におられ、共に歩んでおられる。「神の国はあなた方のただ中にある」(ルカ1721)と言われ、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる。」(マタイ1820)と約束してくださっているとおりである。
なお、 この歌はイギリスの古い民謡で、イエスの心清く歩まれた若き日を感じさせる流れるようなさわやかさの感じられるメロディーである。

13.
ガリラヤの風かおる丘  詩:別府信男 曲:蒔田尚昊(讃美歌21-57、友よ歌おう3)
作詞、作曲者ともに日本人の作品。この新聖歌に収録された歌は、1976年に日本キリスト教団出版局から発行された「ともにうたおう」に含まれていたもので、中高生キャンプ指導者として参加したときに書かれた。曲は桐棚学園大学講師であった蒔田尚昊(まいた しょうこう)による。
この歌は、礼拝のはじめにとくにふさわしい。歌詞と曲がよく溶け合っていて、ガリラヤの風という歌詞のように、主イエスが歩まれた湖岸からの聖なる風が吹いてくるような曲である。み言葉を聴きたいという切実な願い―マルタとマリヤ姉妹のうち、マリヤはただひたすら主イエスに耳を傾けていた。それを主イエスはなくてならぬものとしてそのマリヤの姿勢を重視された。私たちもこの歌とともに、み言葉に耳を傾ける心の準備をすることができるとともに、この賛美にのってみ言葉が流れてくる思いがする。1節は、キリストがガリラヤ湖岸にて語られたその命のみ言葉が、2000年という歳月を越えて現代まで、聖霊という風とともに伝えられてきたこと、それゆえに、今も私たちが心の耳を傾けるとき、そのみ言葉を聞き取ることができること、2節は私たちの日々の生活において、また世界のいずこにあっても吹き荒れるこの世の嵐と大波、それにうち勝つ力あるみ言葉を待ち望む祈りの言葉がある。
3節は、人間の根本問題たる罪からの救いのために十字架につかれたキリストは、その激しい苦しみの中からさえ、私たち罪人への愛ゆえに招きの言葉を発せられた。そのような命がかかっているみ言葉を今も聞かせてくださいと願う。
4節は、よみがえられたキリストが、エマオへの途上で二人の弟子に語られた時、そのみ言葉によって弟子たちは心が燃やされた。現代の私たちにおいても、キリストの言葉こそあらゆる人の魂に点火し、神の愛で燃やし続ける力があり、それこそが、困難な現代に立ち向かう力を与えることができる。

14
、われ聞けりかなたには  詞:不詳 曲:ロシア民謡 (新聖歌471、讃美歌第2編136) 
 これは、天の国への憧憬を歌った讃美歌である。私たちの現実の歩みは弱く、またさまざまの悲しみもある。そのような中で、「わが足は弱けれど 導きたまえ 主よ」、「悲しみも幸とならん」、「御声 聞きて喜び 御国へと昇り行かん」このような歌詞をもつこの歌は、多くの人にとって深い共感とともに歌える讃美歌であろう。この世の苦しみの中にありつつ、御国を見つめて歩み続けようとする心を励まし力づける歌である。この歌には、ハレルヤ!(主を賛美せよ、主は素晴らしい)…が繰り返されているが、これは聖書にある「常に喜び、祈り、感謝せよ」(Ⅰテサロニケ5の1617)を思い起こさせる言葉である。 
 この歌の歌詞は、ローマ帝国による迫害という現実の苦しみや重荷のなかにあって、使徒の一人が受けた天の国からのうるわしい啓示(黙示録7の9、22の1~5)がもとにあるが、それにふさわしいメロディーが付けられて、現代の私たちにも愛唱される讃美歌となった。

15
、勝利をのぞみ 詞・曲:アフロ・アメリカン・スピリチュアル (讃美歌21―471、讃美歌第2編164)
 アフロ・アメリカン・スピリチュアルとは、アフリカ系アメリカ人の霊歌という意味。奴隷としてアメリカに連れてこられた黒人たちに由来する歌。霊歌とは、黒人霊歌、白人霊歌の総称。原詩の冒頭は、WE SHALL OVERCOME(私たちは勝利する) となっていて、shallが用いられているのは,私たちが勝利するということは、人間の意志を超えて神が必ずそうされるのだという強い確信が込められている。
 この歌は、黒人の差別撤廃のために命をささげた、マルチン・ルーサー・キングの心に深く響き、20万人が参加したワシントン大行進のときにもこの歌を歌い、また、1965年になされた説教でも「We shall overcome. We shall overcome. Deep in my heart I do believe we shall overcome…」(我々は勝利する。私の心の深いところにおいて、私は、我々が勝利することを確信している)と語っている。さらに、暗殺される直前の1968年3月31日の日曜日の説教にも、この歌の主題である「We Shall Overcome…」という言葉を繰り返したほど、彼の魂に深く根ざし、励まし勇気づけた歌となった。
 この歌は、現代の私たちにも、さまざまの苦難に直面しても、「あなた方はこの世では苦難がある。しかし、私はすでに勝利しているのだ」(ヨハネ福音書1633)という主イエスの言葉とともに重ね合わされ、生きた励ましの言葉として伝わってくる歴史的な讃美歌である。 

16
、救い主は待っておられる 詩・曲 R.Carmichael (新聖歌188、讃美歌第2編196)
誰かが私を待ってくださっている、どんなに罪深い者も、またいかに孤独であり、あるいは病気や災害で苦しむときにも待っていて下さるお方がある、そう信じることができるなら何とすばらしいことであろう。
そして実際、それは単なる願望でなく事実なのである。求めよ、さらば与えられる。門をたたけ、そうすれば与えられると主イエスは言われた。私たちのほうからまず神に求め、門をたたかねばならない。しかし、時として求める力、門をたたく気力も失われていることがある。そのようなとき、この黙示録に記されているみ言葉に魂は安らぐ。この歌は、そうした神からの語りかけ、魂への呼びかけを思い起こさせるものとなっている。
「見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者とともに食事をする…」(黙示録3の20

 


リストボタンことば

353)私は自分 の限界を自覚している。この自覚こそ、私の唯一の力なのである。
私の人生で、いかなることがなし得たにせよ、それは何にもまして、自分の限界を知っていたということから生まれたのである。(ガンジー )

I am conscious of my own limitations.That consciousness is my only strength.
Whatever I might have been able to do in my life has psroceeded more than anything else out of the realization of my own limitations.
(「Gandhi- ALL MEN ARE BROTHERS35P

・ガンジーは、インドという広大な面積と人口を持つ国をイギリスの支配から独立させるのに最も大きな力を及ぼした。しかも、いかなる武力や権力を用いず、非暴力、断食、祈りといった信仰にかかわる手段によってこのような社会的、政治的な広範な規模の日々を動かして独立へと導いたということは、前例のないようなことであった。
その彼の驚くべき力の根源は、自分の力の限界を深く知っていることにあった。これは、一般的に、自信をもてといわれ、強い自信と実行力を持つ人が大きなはたらきをするように思われていることとは全く異なる。
自分の限界を知ればこそ、自分という人間を超えた存在の力を真剣に求めるようになる。これはそのまま、キリスト教における「弱きところに神の力は現れる」、「神の国は、心の貧しい者のものである」といった真理と通じるものがある。
キリスト教における最大の使徒パウロは、「自分は罪人のかしら」であるいう実感を持っていたし、自分はよいことを意図してもどうしてもそれができない死のからだをもった存在であること―自分の決定的な限界をいつも自覚していた。そこにあの大いなるはたらきの根源があった。

354)信仰は、創意に富む。

Faith is full of inventions.
(スパージョン 「朝ごとに」9月7日)

・スパージョンは19世紀イギリスの代表的な福音宣教者。
「主をおそれることは、英知の初め」と言われている。神を信じ敬うこと、神を愛することは、さまざまの創意を生み出す。ことに最も重要な、人の魂の救いのために、さまざまの方法を考えだす、というより、そのようないろいろな創意を神が示される。
スパージョン自身、かれの多様な活動や、生き生きした詩的な語り方は、かれの信仰から生まれた創意そのものであった。 また、日本語と英語に関して、それぞれの辞書が作られたことのように、多くの言語が次々と別の言語に訳されていったのも、福音という最も重要な真理を伝えようとするところから考え出されたことであった。
音楽も、讃美歌から、絵画もキリスト教の壁画などから、文字もキリスト教を伝えようとして生み出された、福祉とか女性の重要性、差別の撤廃等々 実にさまざまのものが、キリスト教から生まれてきた。現代においても、神を愛し、キリストを信じることこそは、あらゆる創意の源となる。

 


リストボタンお知らせと報告

○吉村孝雄の中部、関東方面訪問。
次の日程で、各地の集会を訪ねて、み言葉の真理の一端を語らせていただく予定です。主の助けを祈っています。
場所の詳細など、問い合わせは、吉村孝雄まで。
・3月24日(土)石川宅(静岡市)午前1030分~12
同 午後1時~2時半 足立宅(静岡市葵区)
同 午後3時半~5時半 西澤宅(静岡市清水区)
・3月25日(日)主日礼拝(キリスト教横浜集会) 場所 横浜市技能文化会館801号室
横浜市中区万代町2-4-7 Tel. 045-681-6551 JR根岸線関内駅南口から徒歩5分
・3月26日(月)午前10時~ 永井宅 (八王子市)
・3月27日(火)午前10時~ 加茂宅(山梨県南アルプス市)
・3月28日(水)午前10時~有賀進宅(長野県上伊那)
・同日 午後3時~5時 松下宅(長野県下伊那)

○イースター(復活節)特別集会
・4月8日(日)午前10時~午後2時
場所 徳島聖書キリスト集会

○北田康広の賛美集CD「人生の海の嵐に」
北田さんは、盲学校在学中に、私(吉村孝雄)が放課後にしていた聖書などの学びに加わり、徳島聖書キリスト集会にも短い期間でしたが参加。
東京の青山学院大学礼拝堂での、無教会全国集会にも、夜の音楽のプログラムの時間に、賛美とピアノ演奏で出演したことがあります。
CDの定価は三千円。アマゾンなどから購入できますが、徳島聖書キリスト集会に申込すれば、特別価格でお送りできます。問い合わせは「いのちの水」誌奥付の吉村孝雄まで。

○原発関連のCD、DVD
・原発の問題は、1年を経た現在であっても、その困難は決して消えることがなく、新たな問題を生じつづけています。そして、経済界や、電力業界、政府、地方の首長、さらに科学者など多くの人たちが、原発再稼働させたいとさまざまの方策をめぐらしています。
日本に大きな地震が襲って現在の事故を起こした原発が崩れ落ちるようなことがあれば、―とくに大量の燃料体を保有している4号機―それは関東地域の大都会に、世界でどこも経験したことのない、甚大な被害を与える悪夢のような事態となりかねない状況が続いているのです。
こうした原発の引き起こす困難な問題をより深く知っておくためにも、原発のことについては、私たちも常に学び続けていかねばならないと思います。
そのような点から、次のCDまたは、DVDを希望者の方々に提供したいと思います。
価格は、いずれも1枚 100円。送料100円で、合計200円です。

①原子力発電の現状について  ― 原子力の専門家が原発に反対するわけ―
・小出裕章氏の徳島市における講演。  2012年2月18日(1時間30分 MP3録音のCD) これは、今月号の本文に引用したもとの講演の録音です。

②あきらめから希望へ―高木仁三郎さんが伝えたこと―
(NHK  ETV特集) 2000年10月放送
・出演者  久米三四郎(大阪大学講師)、佐高信(評論家)、鮎川ゆりか(元原子力資料情報室勤務)
・高木仁三郎は、科学者として原発の危険性をはやくから見抜いてその本質を知らせるために生涯を捧げた。高木と共に原発に反対してきた久米三四郎やよき理解者であった佐高信や、共同して働いた鮎川らの対談。(DVD)

○原発に反対してきた 京都大学原子炉実験所の研究者たち
・映像 '08 毎日放送TV 2008年放送。(DVD)

○第39回 キリスト教 無教会四国集会
・主題 キリストの十字架
・日時 2012年5月12日(土)午後~13日(日)午前中。
・会場 スカイホテル(松山市三番町 8-9-1)
・内容 聖書講話、一言感話、自己紹介、自由な交流
早朝祈祷、主日礼拝、主にある賛美(徳島)、主にある感話(二人)など。
・申込先 松山市南梅本町甲 1099の2 天神梅本団地1棟 112号 小笠原 明 電話 089-970-7505