2012年7月617号 内容・もくじ
弱さのなかの信仰
長く信仰を持った生活をしてきて、他人のためにも祈り、また自分も祈りの生活を続けてきた。しかし、重い病気となって祈れなくなった、あまりの病気にともなう苦しさのゆえに、読むことも聞くことにも心が向かなくなった。
自分の信仰とは何だったのか、と心の揺らぎと体の病気ゆえの苦しみにある方から、お話しを聞く機会があった。
信仰が強かったらどんなときにも祈ることを続けられるし、聖書や関連した書物をも読み続けることができると思われるだろう。
しかし、信仰がしっかりしていても、人間は弱くもろい。 私たちの体に痛みと苦しみがつのるとき、祈る気力も出てこないということがある。とくに夜に眠れないことが続くとき、心身は消耗する。もうろうとした状態となるとき、祈る相手の神様のこともおぼろげとなり、疲れと体の苦しみとで魂の焦点が定まらず、祈れなくなることがあるだろう。
主イエスですら、釘付けられるという途方もない苦しみ、痛みを受けたときには神の愛、神の御手の守りなど感じられなくなり、わが神、わが神、どうして私を捨てたのか!という激しい叫びをあげずにいられなかった。
そのことは、弱い体を持っている私たちに、いかに信仰の強い人であっても訪れることのある深刻な信仰上の戦いであり、一時的にせよ、その戦いに敗北してしまい、神が必ず助けてくださるという確信をもてなくなるのである。
それでもなお、神はその弱さをかかえた人間の小さき祈りをも見逃がされない。
主イエスにおいても、そのように、神が自分を捨てたと思われるようなときでも、じっさいは捨てたのでなく、肉体の苦しみゆえに、神の御手が見えなくなっていたのである。
それゆえに、そのような叫びととにも、「すべてが全うされた」という言葉も記され、 イエスは死後、神のもとに復活されたのであった。
人生の荒波とは、まさにそうした信仰の喪失の危機を思わせる状況のことであり、その荒波を越えて神の助けの御手ははたらいてくださる。そして静けき港へと伴ってくださる。
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新しいものの到来
私たちが未来を思い見るとき、何か本当によいものが来ると想像できるだろうか。
新聞、テレビ、さまざまのインターネットによる情報の洪水など、そのような真に希望に満ちたものの到来を告げるものがあるだろうか。
ニュースは、現在の日々の興味を引くようなことを第一に取り上げる。それ自体価値がなくとも、大衆が関心を強く持つようなことを事細かに映像をもって報道する。何らかの事件が生じたというとき、その現場とか犯人の自宅その他を写して全国に報道してなんのよいことがあるだろうか。
それらは価値のないことであるが、一時的な関心を持つというその興味に追従しているだけである。それらは現実の汚れた現実を報道するだけのことにすぎないから、何ら良きものの到来を伝えるものではない。現在多くの小説、雑誌類も同様で、みな本当によきものが、将来来るのだ、ということは言っていないし、言うことができない。
そのようなマスコミなどの状況に対して、一貫して未来に良きものが生じるということを告げ続けているのが聖書であり、神の言葉である。
どんなに闇があっても、光が来る、神の言葉によってその全能の力によって光がもたらされる、現在も、そして未来においても―これが、聖書の最初にある言葉の意味である。
ここには何にもまして強い未来へのメッセージが込められているといえよう。どんなに現在や未来が暗く、混沌としていてもそこには光が来るのだ、ということである。これはただ、宇宙を創造し、全能の神ゆえにいえることである。
そして、世界の圧倒的な人々(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教)の信仰の重要人物となっているアブラハムにも、やはり未来に確実に良きもの―大いなる祝福がやってくる、ということが約束された。
神はアブラハムをテントの外に連れ出し、満天の星を見させて、あなたの子孫はあの星のようになる、と言われた。実際、アブラハムから、四千年近い歳月を経て、アブラハムの持っていた信仰は、全世界に広がった。
未来を単に根拠なくして言うのでなく、実際に聖書が語る未来像が実現していったのがうかがえる。
その後も、現実のさまざまの悪と混乱が渦巻く歴史の流れにあって、必ず、それらのあらゆる矛盾や闇が克服されるという時代が到来する、ということを告げ続けたのが預言者たちであった。
悪の力が裁かれ、良きもの―神のわざが現れる。それはいかなる国家権力や世の腐敗、あるいは戦乱や病気や飢饉などの崩壊させる力や暗い予測を越えて、実現することが言われている。
…終りの日に
主の神殿の山は、山々の頭として固く立ち
国々は川のようにそこに向かい
多くの民が来て言う
主の山に登り、神の家に行こう…
彼等は、剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向って剣を上げず
もはや闘うことを学ばない。
ヤコブの家よ(*)、
主の光の中を歩もう。
(イザヤ書2の2~4より)
(*)唯一の神の存在を知らされたのはイスラエル民族であった。イスラエルとは、ヤコブの別名。それゆえ、ヤコブの家とは、イスラエル民族を意味しており、神を知らされた人々を指す。
この世に終わりの日がある。世の終わりというとふつうは、大変な混乱と災いが起こるというように思われている。しかし聖書においては、そうした混乱を通って預言者イザヤが受けたようなこと、永遠の真理に向って流れていく大いなる流れがあり、武力による戦いが当たり前の状況は終止符を打つ時が必ず来る、という壮大な預言である。
真理から至るところではずれている現状があるにもかかわらず、そうした状況と関わりなく、万能の神の御計画として真理は成就する、真理のもとに諸民族、諸国が流れてくるような時が来るという預言なのである。
神を知らず、罪深い生活をしてきた異邦人ですら、そのようになるのだ、だから神の民であり神のことを特別に知らされたイスラエルの人たちよ、与えられている主の光の中を歩もうではないか、という呼びかけで締めくくっている。
そして、このイザヤ書には、あちこちに人間の罪深い状況を救いだすために、人類全体の救い主が、未来に現れることが預言されている。ここにも究極的な良きものが到来するということが神の偽りなき約束として記されている。
そのことは、また人間に本当に良きものが来るのを妨げている悪の力が滅ぼされるということも含んでいる。悪の力が一層されるということ、それは人間にとって比類のない良きこと、恵みである。
そのことは、古代の神話的な表現をもって象徴的に次のように記されている。
…その日、主は、
厳しく、大きく、強い剣をもって
逃げる蛇、レビヤタン
曲がりくねる蛇を罰し
海にいる竜を殺される。(イザヤ書27の1)
このような表現は現代の私たちには、不可解で違和感を持つものであるが、ここで言われていることは、今から二千七百年ほども昔にイザヤに語られたことであるから、表現が現代人に受けいれがたいのは当然ともいえよう。レビヤタンとか蛇、竜といったものは、悪の力の象徴的存在として言われているのである。
それが、この世に深く住み着いている悪の根源的な力を、未来のある時において神が罰し、滅ぼされるということなのである。
サタンのことは、すでに創世記からアダムとエバを誘惑したものが蛇であって、神に逆らう力の象徴として出てくる。また、海とは、古代にあっては、深い無限の闇の世界が広がっていると考えられており、また大嵐や津波のときで分るように海の力はすさまじい破壊力と呑み込んでいく力を持っているので、サタンの力が宿っているところとみなされていた。
ここで語られているメッセージ、最終的な悪の滅びということは、後のキリストや使徒の時代、そして現在の私たちの時代に至るまで、きわめて重要なことである。
悪の力が厳として存在しつづけている限り、私たちにとって本当の良きものは来ない。その良きものが悪の力によって壊されるからである。それゆえに、未来に到来する良きもの、それが真に永続的であるためには、必ず闇の力が一層されなければならないのである。
さきに引用した箇所はそのような意味で良きものが到来するために不可欠のことを述べているといえよう。
また、未来において、ある神の特別なしもべが現れることを告げている。
…彼の上に私の霊は置かれ
彼は、国々に正義を示す。
彼は叫ばず、声を巷に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく
正義(道)を確立する。(イザヤ書42の1~3より)
いつの時代にも、弱く傷ついたものは助けが受けられない、見捨てられていくということが常である。戦争とはまさにそのような典型である。
しかし、驚くべきことに、この弱いものが踏みにじられているこの世に、かえって弱きゆえに顧みて下さる正義のお方が来られるというのである。
いったいどこからこのような、およそ時代の状況や流れとまったく相いれないことをイザヤは知るに至ったのだろうか。それはまさに、あらゆる時代や社会状況を越えて、神からの啓示を直接に受けたゆえであった。
イザヤに続く預言者エレミヤにおいても、新しい良きものが到来するということは、繰り返し記されている。エレミヤは自分の国が外国から攻撃され、多くの人々が殺され、町が焼かれ、そして彼等の信仰の中心であった神殿も破壊され、国が滅んでしまい多数の国民が遠い外国に連れ去られていくという、暗黒と混乱の世に生きた人である。
その現状からは何一つよいものが来るということは予想できない。
しかし、ここでも、エレミヤは、神からの啓示として示されていた。
…私の律法(神の言葉)を彼等の胸の中に授け、彼等の心にそれを記す。
私は彼等の神となり、彼等は私の民となる。
彼らは、すべて大きい者も小さき者も私を知るからである。(エレミヤ31の33~34より)
エレミヤとほぼ同時代にあって、遠く外国の都(バビロン)に連れ去られた人たちのうちのひとりがエゼキエルという預言者であった。
その書には、異国にあって本来なら滅んでしまう状況にもかかわらず神が大いなる啓示を与えたことが記されている。そしてどんなに民族が枯れはてて骨の散乱するような状況となってもなお、神の力が臨んでそこに新たな復活が起こる、そのような未来の良きことが、彼自身がありありと霊の目で見たこととして記されている。
そしてその預言書は、次のひと言で終えられている。
…この都の名は、その日から「主がそこにおられる。」(*)と呼ばれる。
(エゼキエル書48の35)
(*)ヤハウエ シャーマー。なお、このヤハウエという神の名は、イスラエルでは、アドーナイ(主)と読んでいるので、アドーナイ シャーマー という発音にもなる。なお、この言葉やアドーナイ
イルエー(主は備えたもう―創世記22の14)など、重要な言葉を一つの讃美の中におさめた歌がある。
アドーナイ シャマー アドーナイ シャマー
主は 主は 主は ここにおられる
アドナイ イルエー アドナイ イルエー
主は 主は 主は 備えたもう (プレイズ&ワーシップ88番「アドナイより」)
崩壊した祖国、そして自分は遠い異国の地で捕囚として生きることを余儀なくされている。それにもかかわらず、未来においては、新たな都、町が与えられ、それは最も望ましいことである「主がそこにおられる」と言われるというのである。
この長大な預言書の最後に置かれたこの言葉、それは私たちの変わらぬ希望であり、ただそのことだけあれば、ほかは要らないといえるほどである。
そして旧約聖書の最後にも、また未来において永遠によきもの―義の太陽といわれている―が到来すると約束されている。
以上はごく一部の例であるが、旧約聖書だけをとっても、多くの箇所に、「良きものが来る!」ということが神の約束として述べられている。
そして新約聖書においては、さらにキリストという究極的によきお方が実際に来られ、人間の根本問題である罪の赦しと死の力にうち勝つ復活の力を信じるものに与え、さらに未来において、再びキリストが来られ、この世界と宇宙の究極的なよき姿である
新しい天と地が到来するということを告げられた。
良きものを何も期待できない状況にありつつ、つねにこのように明るい未来を予告し、しかも万能の神の約束ゆえに必ず成就するということを信じることができるように導かれている。
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主はわが光―詩篇第27篇
光を求めるのは、一般的には、動物だけでなく植物も同様である。光がなかったら、植物は育たず、生物の栄養源となるブドウ糖はできない。地上の動植物のエネルギー源の根源は太陽の光にある。人間も、太陽の光なく闇の世界なら一切の人間の活動はあり得ず、食物もなく存在できない。
しかし、人間の場合には、物理的な光だけでなく、目に見えない光、霊的、精神的な光を求めるというところが、動物と根本的に異なる。
光を求めるのは、根本的な要求であるため、聖書ではその最初に光の創造が記されているし、旧約聖書の最後にも、次のように、大いなる光が現れることが預言されて、その最後の巻を締めくくっている。
…見よ、その日がくる
悪を行う者は
すべてわらのようになる。…
しかし、わが名をおそれ敬うあなたたちには、
義の太陽が昇る。
(マラキ書3の19~20より)
この世には、さまざまの悪が私たちの内外にあって、私たちを苦しめている。しかし、それは決して永久的でなく、必ずそうした悪の力が藁のようにされて燃やされてしまう―滅びてしまうときが来ることを確言している。
そしてあくまで真実なる神を信じ続ける者には、そうした裁きでなく、太陽のように大いなる光、正義に満ちた光が現れるという。
これは過去の話でなく、特定の民族のことでない。現代の私たちにおいても、確かに主を待ち続けるときには、自分の罪、失敗や闇、あるいは社会の混乱にもかかわらず、私たちの魂のうちに、「義の太陽」が昇ってくるのを示している。
そして新約聖書の最初の部分にも、キリストの到来は、光の差し込むことだとして記されている。
…暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が差し込んだ。(マタイ4の16)
さらに、新約聖書の最後の黙示録―これは聖書全体の最後の書であるが、その最後の章にも次のように光として現れることが記されている。
…私、イエスは輝く明けの明星である。…
私はすぐに来る。
(黙示録22の16、20)
明けの明星、それは現代のような人工的な光のはんらんするところにあってもなお、はっとするような強い輝きを私たちに提示している。それは今から二千年も昔の人工的な光の一切なかった時代の夜の明けないとき、明けの明星は天来の輝きを思わせるものであったろう。
再び来られてこの世界を根源的に変えられる、そのキリストはあの明けの明星というイメージで迫害のすさまじかったローマ帝国の時代に、信徒たちの魂に迫ってきていたのである。
このような光なる神、それは聖書全体にわたって見られる。
ここでは、そのうちの詩篇27篇を取り出してみたい。
…
主はわたしの光、わたしの救い
わたしは誰を恐れよう。
主はわたしの命の砦
わたしは誰の前に恐れることがあろう。
悪を行う者どもが、襲ってきて、
わたしを攻めるとき、彼らこそ、よろめき倒れた。
彼らがわたしに対して陣を敷いても わたしの心は恐れない。
わたしに向かって戦いを挑んで来ても わたしには確信がある。
この詩の最初の言葉、「主はわが光」(*)、この一言だけ私たちがしっかり自分のものとすることができたら、すでに引用してきた聖書の言葉にあるように、人間が待ち望む根本的なものを与えられていることになる。
(*)この一言は、ラテン語の表現 Dominus illuminatio mea ドミヌス(主)、 イルーミナティオー(光) メア(私の)は、オックスフォード大学の紋章となっていて、分厚い辞典などの背表紙にはこの文字が記されている。
これは、大学が真理の光を求めるということから紋章とされている。
(*)日本盲人の父と称される、好本 督(ただす)の著書名は「主はわが光」である。1981年日本キリスト教団出版局発行。好本督は、視覚障がい者であったが、オックスフォード大学に学んだ。点字聖書の全巻の完成(1924年)はイギリスについで世界で2番目であった。これも好本の尽力が大きかったし、一般の新聞社が発行する点字新聞というのは世界で初めてであったがそれは現在も毎日新聞社によって継続されている。これも好本の発案であった。また盲人のキリスト教伝道の会もまた、好本がその母胎を造った(盲人キリスト信仰会)。この会も現在も日本盲人キリスト教伝道協議会(盲伝)と移行して続けられている。
そして、たしかに、神を信じ、神の聖なる霊を受けることによって学問的真理への愛と探究心はより強くなるであろう。
神を愛する心には、身の回りのいろいろな現象に対して積極的な関心が生まれ、学ぶことを愛する心が生まれる。主の光で照らし出されるから、今までつまらないと思っていたことに、意味があることが分かるからそれを学ぼうという気持ちになる。
一般の学校教育においても、学ぶための光を与えるが、それはとても限定された光であり、魂の救いには関係がない。それは霊的な光でないから、知れば知るほど自慢したり、知らない者、勉強のできない者を見下したり、その知識を悪用したりすることがある点で違う。
神への信仰が、学問的探求にも大きな影響を及ぼす例として、科学者として歴史的に名高い重要な発見をした、ケプラー、ニュートンたちも神を信じる人たちであったし、現在の水力、火力、原子力など発電、さらには自転車のタイヤに接触させて発電する自転車のライトなどが共通して用いている発電の原理(*)を発見したファラデーも熱心なキリスト者であった。
(*)磁石の中でコイルを運動させる、あるいはコイルの中で磁石を運動させるとコイルに電気が生じる。このように磁石とコイルがあると回転する機械的エネルギーを電気エネルギーに変えることができる。回転のエネルギーとして自転車なら人間がこぐ力、水力なら水が落下するエネルギーでタービン(巨大な羽根車)をまわす。火力なら石油を燃やし、原子力なら核分裂反応で水を沸かして生じた水蒸気をタービンに吹き宛てて回転させて電気エネルギーに変えている。
けれども、この詩篇の「主はわが光」という言葉は、その言葉のあとに続く文章からもうかがえるが、この言葉は、学問的真理への道が開けるといった意味では使われていない。
1節にある「主はわが光」という言葉は、ここだけが引用されて用いられることがよく見られる。
ここで言う「光」とは霊の光、精神的な光であり、何が良いことか、何が真実なのか、何が価値あることなのかということかを見分ける光である。主の光があればそうした霊的な真実が見える。主の光がなければ、目先のことやさまざまな良くない事にはまってしまう。そして神の業も見えない。
主の光がなかったら、五感に感じることばかりに頼ってしまう。動物はそうした感覚的なこと以外のことは、まったく分からない。
例えばニワトリとヒヨコの実験がある。ニワトリが卵をあたためて、ヒヨコができたとき、親ドリはヒヨコの鳴き声が聞こえたら、ただちにヒヨコのほうに大急ぎで走っていく。
ところがヒヨコにガラスのふたをかぶせて、ヒヨコの悲鳴が聞こえないようにすると、どんなにヒヨコが鳴いていても親ドリは何も反応しない。鳥類は目が良いので遠くからでも小さいものを見つけることができるが、ヒヨコが苦しそうにしているのを見ても何も反応しないのである。
このように動物というのは感覚的な刺激によって行動している。
人間は動物と何が違うかというと、目に見えないもの、五感ではとらえられないものについて考えたり思ったり悩んだりすることである。人間には、目にはみえない霊的なものに反応することができるのであって、それゆえに神は、人間を神の形に創造したと言われている。
人間は悩み苦しむが、目に見えないものを照らす光がなければ、正しい方向も分らずに、考え迷う。心配してもどうしようもないことでも、長い間考えてしまう。しかしそこに上よりの光が射せば、それは全く無意味なことなのだと目が開かれる。
霊的な世界でも、周りが見えてきたらまっすぐな道を歩くことができるが、光がなければ、常に間違いや罪に満ちている人間のことばかりを考えたり、過去のことを後悔したり他人を恨んだりする。
このようなことから私たちを救いだすために「主の光」が与えられている。
この詩では、主が自分にとっての光であるとき、畏れるべきものが何であるかということや神の助けがはっきり見える(分かる)ので、悪しき者の攻撃を受けることがあってもそれは一時的な力に過ぎないということが見えるということである。
1,2,3節では、主の光によって見えるものは、さまざまのものがあるが、特に日々の生活において敵対する者の力や危険が迫っていること、あるいは困難の前触れ、悪の限界などなどが見えてくる。
敵対するものがどんなに迫ってきて、自分の体が持ちこたえられないほどとなっても、なおこの詩の作者は恐れない。
それは、なぜか。
主はわが光、と言われているように、主が霊的な光となって敵対する力の限界と悪の力は究極的には滅びるという真理を見せてくれるからである。
どんなに敵対する力が私を取り囲んでも恐れない(3節)。正義なる神の御手、とき至れば必ず悪を裁かれるということが見えるからである。
最初の殉教者となったステパノの場合、周囲に迫る敵対する人たちが大声で叫びながら石を投げつけて殺そうとしたとき、天が開けて神とキリストが見えたとある。そのような状況にあっては、恐怖に包まれて何も分からなくなると思われるにもかかわらず、霊的に静けさと敵対する人たちへの祈りまでなされたという。
それは、まさに神が光となり、大いなる神の国を見ることができたということであり、この詩篇の作者が述べているように、「主がわが光、だれを恐れようか。敵が迫り、取り巻いても、恐れない。」ということが、ステパノにも起こっていたのである。
時として、あまりの苦しみのゆえに、そのような光が見えなくなることがある。ヨブ記はそのような苦難の状況を記したものであるが、そのヨブという人間は、最終的には光を与えられる。
私たちにおいても、主の光が見えなくなる苦しみに置かれることもあるだろう。それでもなお、主イエスが言われたように、求めよ、そうすれば与えられる、という約束を信じ続けて、求め続けていくときには光が再び与えられることを信じていきたい。
そして最終的には、この世での生が終わったときには、光に満ちた天の国へと導かれるのであるから。
… ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
命のある限り、主の家に宿り
主を仰ぎ望んで喜びを得
その宮で朝を迎えることを。 (4節)
災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ 幕屋の奥深くに隠してくださる。
岩の上に立たせ(5節)
群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださる。
わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ
主に向かって賛美の歌をうたう。(6節)
4、5、6節はつながっていて、「主の家」「宮」「仮庵」「幕屋」とあるが、これらは似たような意味で使われている。この詩の作者において、ただ一つの願いははっきりしていて、それは主の家に宿ることである。これは主との深い霊的な交わりを意味している。人間には限りなく願いがある。しかしイエス様はまず第一に「神の国と神の義」を願いなさいと言われ、そうすると他のものも添えて与えられると言われた。
この部分だけを見ると宮や仮庵、幕屋など、現代の私たちには関係のない言葉のように見える言葉が並んでいるから、読み過ごしやすい。
聖書は一人で読んだり、何の手引きなしに読むと重要な内容が心に入ってこないということがあるので、現代のわたしたちには、どのような表現になるのか、と考えながら読んでいく必要がある。
神との魂の交わりがあったら、さびしくないし、群がる反対者がいても不思議と打ちのめされない。わたしたちが不満を持つのは、本当に願うことをただ一つに単純化していないからで、たくさんのことを願えば願うほど、かなえられないと思い、平安を失っていく。
敵対するものに対して、神がわが光となって照らしてくださり、その御手の働きを見せて下さり、さらに神の家に導かれて、主の交わりのうちに翼で覆って、悪魔的な力から守ってくださることに、心からの感謝と賛美を歌っている。
このように、讃美と感謝を捧げた後にもかかわらず、7節からは内容が大きく変わり、ふたたび、苦しみの淵にある状況が記されている。どのような苦しい状況に置かれているかということが出てくる。
…
主よ、呼び求める私の声を聞き、わたしをあわれみ、わたしに答えてください。(7節)
あなたは言われた、「わが顔をたずね求めよ」と。(8)
主よ、わたしはみ顔をたずね求めます。
み顔をわたしに隠すことなく、怒ることなく、あなたのしもべを退けないでください。
わが救の神よ、わたしを離れないでください。見捨てないでください。
たとい父母がわたしを捨てても、主は必ず、私を迎えてくださる。
主よ、あなたの道をわたしに教え、わたしを平らかな道に導いてください。
わたしを敵に引き渡さないでください。…
わたしは信じます、生ける者の地でわたしは主の恵みを見ることを。
主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め。
6節までの前半では神の家にかくまってくださることへの確信を述べていたが、8節では、主の言葉として、「私の顔を尋ね求めよ」と言われている。
わたしたちが苦しい状況に置かれても、神の顔を求めるという言い方はしないだろう。これは、はっきり神の御顔が見えると感じるほどに真剣に神を求め、神にしっかり心を向けよということである。
「御顔を隠すことなく、私を退けないでください」と作者は真剣に祈っている。苦しみがひどくなり、しかもそれが続くときには、病気にしても、敵対する人間の問題にしても、神がいるかどうか分からなくなって、見えなくなる。これはヨブ記の重要なテーマともなっている。神に祈っても応えはなく、神がおられるとは思えなくなる。
それでもなお神をあくまで求めなさいということである。そうすると霊的な交流が起こる。新約聖書でも神の御顔ということが出てくる。 わたしたちとあるように、パウロのように聖霊に満たされていた人でも、「わたしたちは、今は鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる。」と述べている。(コリントの信徒への手紙十三章12)
いかに信仰深くとも、地上にいる間は、神の御顔を求めてもおぼろげである。しかし、必ず神と顔と顔を合わせて見る、完全な霊的な交流の世界へと導かれるとパウロは私たちに示している。
この詩人は、神の御顔が隠されているという思いが強くあった。わたしたちも本当に苦しいときになったら、このような気持ちに陥ることが十分ありうる。神を信じていない場合には、つねに神の御顔が隠されているといえる。
苦難のときには、神の御顔は、他の信仰ある人には向けられているかもしれないが、わたしには向いてくれていない、どうしてこんなに苦しいのかという気持ちにある。そのような状況にあっても、必死に主に向って叫ぶ心の奥には、10節にあるように父母という一番最後まで見捨てないような人が、たとえ見捨てるようなことがあろうとも、主は決して見捨てないという確信を持って、祈り願っている。
主は引き寄せてくださるという固い信仰があるので、敵がいても13節にあるように地上の生活において、主の恵みを必ず見るということを信じて待ち望んでいる。そして自分の心にも強くせよと言って、自らを励まして主を待ち望もうとしているのである。
このように、前半の6節までは確信と讃美、感謝がある。
しかし7節からは追い詰められた人の叫びと祈り、そして信仰を持ちつつ苦しい状況の中から、必死で祈る人の姿がある。
どうして内容の相当異なる二つが一つの詩としておさめられているのであろうか。
現実に多くの人は、6節までのような強固な確信で終わっていないことが多く、現実は後半のように、さまざまの問題で心がなえてしまい、ただ、憐れんでください!
と呼び求めるほかはないという状況こそ、多くの人々が経験させられることである。
そうした現実をしっかりと見据えつつ、最終的には、6節にあるように、主の霊的な家―神の国に招かれ、讃美の歌を歌うことへと私たちは導かれているのを示している。
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リサイクルと永遠のエネルギー
現代社会の大きな問題は、資源を食いつくし、有害な廃棄物が限りなく排出されていくという、科学技術の問題である。本質的に科学技術は、確実に資源を消費していく。例えば、空き缶やビン、紙などをリサイクルすることは重要なので、現在もつづけられているが、その相当部分は回収されずに捨てられていく。鉄などは、建築物や橋、機械、自動車、列車、家庭機器など現代のあらゆる方面で不可欠なものであるが、それらをいかに回収しても、大量の部分はさび(*)がついて大地に吸収されて消失していく。
(*)錆の本質的な化学成分は、鉄と酸素の化合物である。それはもともとこの自然界では、鉄の原料である鉄鉱石は、二酸化鉄のように酸化物として安定して存在していた。それを、その鉱石を石炭などの炭素ともに高温にして炭素を燃焼させると、鉄鉱石のなかの酸素が、炭素と化合し、鉄だけが取り出せる。
紙にしても、大量のものは腐食し、あるいはゴミとして燃やされる。このように、人間のすることのできるリサイクルは大きな限界がある。
原発にかかわる人たちは、核燃料をリサイクルしようと考えた。発電のため、ウランを核分裂させた後の廃棄物からプルトニウムを取り出して、それを再び核分裂させてエネルギーを取り出そうという目的である。
そのために、もんじゅという高速増殖炉を造った。しかし、それは、核分裂によって生じた熱を取り出す物質として、水でなくナトリウムを使う。
ナトリウムは、空気中でも発火し、また水と反応して水素を生じそれが爆発する危険性を持っていること、制御が困難であることなどから、世界の主要国では開発を断念しているし、日本も莫大な費用を投入してきたにもかかわらず、故障続きで断念を迫られている。
しかも、その核燃料をリサイクルした後で生じるのは、おびただしい放射能をもった廃棄物であり、これは100万年も管理が必要となる。
それだけでなく、そのリサイクル過程で生じるプルトニウムは核爆弾用に利用することができるとされている。
このように、科学技術の粋を集めた原子力発電とその廃棄物のリサイクルということは、人類の滅亡にまでかかわる重大な問題となっている。
このように、人間の造ったもののリサイクルは、大きな限界を持っているのがわかる。
これに対して、この自然界は完全リサイクルの仕組みとなっている。
落ち葉が落ちたらそれは微生物の食物となり、一部は大気中に二酸化炭素などの気体となって出て行き、残りのミネラル成分は大地に帰る。
そして別の植物の栄養となって使われる。生じた二酸化炭素はまた、植物によって吸収され、その植物のからだを造っていく。
動物の死体や排泄物も同様で微生物のはたらきによってみな、大気中や大地に帰り、また植物のからだを構成する物質となっていく。
このように、驚くほど無駄がない。腐敗したもの、排泄物、死骸といった目をそむけるようなものであっても、すべてそれらは自然界においては不可欠なリサイクルの一環なのであり、それらを食べて生きている生物がいるからこそ、リサイクルして再び植物の栄養となっている。
太陽の光や熱のエネルギーはどうか。
太陽の光は、数十億年という人間の生活する時間からいえば無限というほどの寿命をもってそのエネルギーを放射し続けている。
それは核融合という反応から生じるエネルギーであって、核エネルギーをすでに人類は神から与えられたものとして使ってきたのである。
太陽エネルギーが核反応だとは多くの人は意識しないで日々を送っている。それがすべての地上の生命体を支えているほど極めて重要なものであり、地上の植物や動物の命を支え、リサイクルさせるもととなっている。
あらゆる良きものを提供しているのが太陽エネルギーである。
しかし、人間がそれと類似の核エネルギーを使おうとすると、とたんに途方もない有害物質が生じてくる。
しかも、先述したように、リサイクルできない永久的な困難をもたらすのである。
このことを見ても、核のエネルギーを取り出そうとすることは、本来人間がするべきことでないということが浮かびあがってくる。
人間が好奇心と物欲にかられ、エデンの園で、十分に満たされていたのに、あえて禁じられているものを取ったために、楽園から追い出されたように、人間が核エネルギーを用いようとするとき、核兵器と原子力発電という双方によって、安全な地球の生活から追放される可能性が現実のものとなりつつある。
このような現実を前にして、私たちは、尽きることのないエネルギーはあるのか、ということである。
このことは、主イエスが暗示された。神の愛は、太陽のように万人に注がれているという。太陽が人間の生活のレベルでいえば、無限のエネルギーを絶えず放射しているように、神もまたその無限のエネルギーを絶えず人間に放射しているのである。
しかも、そのエネルギーというのは、人間を破壊したり、罪に陥れたりする誘惑の力としてでなく、悪しき人、迷える人、苦しむ人にも注がれている愛なのである。
太陽にたとえられる最も大いなる精神的なエネルギー、霊的な力とは神の愛のエネルギーである。これこそは、不滅であり、リサイクルどころか、永遠に注ぎ続けられているのであり、無限のエネルギーを生み出す泉なのである。
しかも、そのエネルギーは、太陽のように、万人に注がれているという。太陽のエネルギーは、どんな人でも受けている。しかし、そのことを知っている人もあるが、全くそのことを知らない人、あるいは知っていても、ほとんど思いだそうとしない人もある。
同様に、神からの目に見えない力や真理をだれでも受けているけれども、それに気付かない場合が、非常に多いと思われる。私たちの日常生活で、食前の祈りをするが食物だけが、神から与えられているのではない。衣食住のすべて、日常につかう車や道具、書籍…等々は、だれかがそれらのもとになる木綿など繊維植物をつくり、あるいは化学繊維なら石油を取り出し、それを運搬し、精製すること、また、住居にしてもその材料は木材ならたくさんの林業関係の人たちのはたらきがあり、さらに建築業者によってなされる。それらすべては、数限りない人たちの共同作業である。
それらの人たちは、神などいないという立場からでは、自分の力で生きていると思っているが、すべてを御支配されている神がおられると信じるときには、そうしたいっさいの衣食住にかかわるものはみな、それらにたずさわる人間を神が支え生かせているからであると思うことができる。
そうしたすべての人たちを生かし、働くエネルギーはみな太陽のエネルギーであり、真実を愛する心や不正を憎む心、忍耐心等々いっさいの心の動きもまた、神のエネルギーによって支えられている。
そのように見ると、次の聖書の言葉がよりはっきりと受け取ることができる。
…雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。(イザヤ書55の10~11)
このように、神の言葉こそは、天地創造の無限のエネルギーをすら持っているものであり、それがこのように無駄になることはまったくなくて、必ずさまざまのところでご意志にかなったはたらきをして帰って来るという。
ここには、神のなさる良きことへのまったき信頼がある。よいことをしても、受け取ってくれない、誤解される、誰かのためになることもできない、かえって悪く言われたりする…等々、私たちは良きことの力への信頼は弱く、何をしてもよくならないのだ、神は愛でも何でもない…というように思うようになっていく。
ここに、私たちが信仰を働かせる場がはじまる。実際に良きことにつながるのを見ることができなくとも、だからこそ、信じていく必要性が強まる。結果が良いものが出たのがはっきりわかるのなら、信じる必要はない。分からないからこそ、信じるということがはじまる。
神の言葉は、雨のように、天から降ってそれで終わることなく、さらに必要なことをなし続けていく。
神の国に属するものは、みなこのように、いくらでもリサイクルできる本質を持っている。永遠から永遠まで、衰えることはないからである。
フクシマの嘘
第2ドイツテレビ(*)というドイツの公共放送テレビがある。今年3月8日にフクシマ関連のドキュメンタリー番組が放映された。それは、日本やアメリカでの取材をもとにしたものである。ここに登場する人物は、福島原発事故の問題に深く関わった、あるいは過去に関わった人たちである。(**)
これらの人物と直接に会って対話を映像で収録しているもので、ドイツの重要な公共テレビ局の視点がよくわかる。
そのタイトルは、「フクシマの嘘」(Die FukushimaーL・ge)というものであった。
(*)第2ドイツテレビ(Zweitesk Deutsches Fernsehen―略してZDF)ドイツには公共放送が二つあり、その一つ。受信料制度を採用しており、徴収された6割がARD(第一ドイツテレビ)に、残りの4割がこの第2ドイツテレビに分配される。なお広告放送も行っているが、1日に20分以内でかつ、午後8時までと厳しい規制が掛けられており、総収入の数%に留まっている。(インターネットの百科事典ウィキペディアによる)
NHK BSでも、そのZDF のニュース番組が放送されている。
(**)名嘉幸照(東北エンタープライズ社長)、菅直人(元首相)、ケイ・スガオカ(元GE点検主任)、佐藤栄作久(元福島県知事)、河野太郎(自民党衆議院議員)、松本純一(東電原子力・立地本部長代理)、島村英紀(地球物理学者・武蔵野学院大学特任教授)、白井功(東電福島事務所・福島県災害対策本部技術・広報担当)
まず、この公共放送テレビの番組のタイトルが、フクシマの悲劇、とかフクシマ原発の現状、あるいはフクシマ原発事故の将来、等々のタイトルでなく、「フクシマの嘘」ということをタイトルとしているのに驚かされる。
もう一つのドイツの公共放送である、第1ドイツテレビ(ARD)も、福島原発の事故に関連した特別番組を放送したが、そこでも、冷温停止とか福島原発がコントロールされていて、その状態は安定しているとか、また推進しようとする政府高官や都知事たちが福島の野菜を食べたり、水を飲んで見せたりしていて、新たな安全神話を造り出そうとしている様を放送している。
現在も嘘がこのように国民の前で放送されている、というのである。
このように、ドイツの二つの公共放送のいずれもが、福島原発の問題を「嘘」という観点から放送しているのである。
今日の福島原発の悲劇は、原子力ムラ(原発を推進することで互いに利益を得てきた政治家・官庁と企業、学者・研究者の集団)といわれる大量の人間たちが造り出したさまざまの嘘によって生じたのである。
もしこのような嘘がなかったら、津波や地震によっても今回のような事故は生じなかったであろうということが示されている。
そもそも、原発に関しては、その出発点から嘘が深く入り込んでいた。アメリカの核戦略を効果的にすすめるために必要であったというのが本当の目的であったにもかかわらず、平和のためのエネルギーとして魔法の技術のように、よいことばかりのように原子力エネルギーのことを宣伝したこと、そして日本でもそれをごく一部の政治家(中曽根康弘)と実業家(正力松太郎)らが先導して原発を導入していった。
原子力の平和利用に関して、アメリカ原子力委員会の名によって、飛行機や列車、商船などを動かすことができるとされた。 日本でも同様なことが宣伝されたし、都会のビルの地下ででも発電できるようになるから、火力発電所とか水力発電のダムのような大規模な土地も要らない―などという現在では、おとぎ話のようなことが言われていた。
このようなことは、事故が起こったら、たちまち飛行機や列車などが放射能を広範な地域に飛散させるし、都心での原発は、大変な放射能が市街地にもまき散らされることになるのは、すぐにわかるはずであるが、そのような見え透いた嘘をつかってでも平和利用と称するものを拡大していったのであった。
こうした出発点を持っていた原発は、その後もたくさんの嘘を重ねて、その嘘を宣伝するために膨大な費用を使って進めてきた。こうしたことの一部は、「原発のウソ」小出裕章著にも詳しいが、日々の新聞や原発関連の書物にもこの一年多くのウソがあるのが報道されてきた。
嘘は個人的にも人間関係を破壊するが、国家的な規模での事業においては、重大な悲劇をもたらす。
原発は嘘で固められたものだ、と言われる。そしてその原発が今も福島だけでなく、世界的に見れば数知れない人たちの安全を脅かし、人間関係を壊し、かけがえのない郷里の土地を汚し苦しみと悲しみを生み出し続けている。
それに対して、真実で固められた世界がある。
それが、聖書の世界である。 聖書の世界、それは真実の神の世界であるからだ。人間は不信実、嘘をついてしまう弱いものである。
そのことは、聖書の最初から、アダムとエバが、神への背信となる行為―食べてはいけないものを誘惑に負けて食べてしまうということにも表されている。
しかし、そのような人間に対していかに神が真実に、そして愛と正義をもってふるまうか、そのことを一貫して書いてある。
神の御性質として、旧約聖書の古い段階から、一貫して記されているのは、その真実である。
…主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみと真実に満ち、…(出エジプト記34の6)
ここで、「真実」と訳され、また、「まこと」 とも訳される原語は、エメスであり、アーメンと語源的につながっている。
祈りのときに、アーメンというのは、旧約聖書の時代から、続いている。
初めてキリスト教の集会に出たときには、アーメンなどなぜ言うのかと不可解な思いであった。
説明なしには、日本人には全く意味不明な言葉である。
これは、「真実をこめて」という意味がある。誰かが祈ったあとで、アーメンというのは、その祈りと同じことを、真実をこめて祈りますということなのである。
これは、真実な神への祈りのたびごとになされる応答でもある。
主イエスは、重要なことを語るときには、アーメン、アーメンと繰り返し言われた。
それは、真実を込めて、あるいは真理を言うのだ、という強い決意を感じさせる使い方となっている。
地上に現れた人間のうち、最も真実な、しかもその真実が永遠に変わらないといえるお方はキリストお一人である。
私たちは不正や嘘に満ちた存在であるけれども、そうしたどうすることもできない弱さを、イエスは担って下さり、十字架で死ぬことまでしてその赦しへの道を開いてくださった。
原発の悲劇が起こらないようにするためにも、その根源となった嘘をなくするためにも、私たちはそれと反対の世界―聖書の世界の真実に触れることこそ、求められている。
詩の世界から
(八木重吉の詩より)
静かな?
各つの 木に
各つの 影
木は
静かな ほのお
・一つというのに、作者は「各」という漢字をあてている。それぞれの木という意味を込めたのだと考えられる。
多くの人が無関心に通りすぎる沈黙の樹木、しかしその木にも、影と?を感じ取っていた。
静かなもの、動かないものには、影を感じることは容易だろう。しかし、そこに?を実感するというのは目に見えないものを見つめるまなざしがなければできない。
キリストは生前は、静かな人、祈りの人であった。ときには夜を徹して祈られた。そして彼には万人の罪をわが身に担う罪の影があった。けれども、キリストは静かに燃える?であった。それは十字架の処刑によっても消えることなく、いっそうはげしく燃えはじめ、世界に燃え広がっていった。
大木を たたく
ふがいなさに ふがいなさに
大木をたたくのだ
なんにも わかりゃしない ああ…
「真理よ 出てこいよ
出てきてくれよ」
わたしは 木をたたくのだ…
・作者は、自らの弱さ、それは真理を求めつつも絶えずその弱さ、罪を思い知らされる。沈黙の大木、人のように揺れ動くことなく、風雨に耐えて立ち続ける大木、静かに燃える?でもある木をたたき、呼びかける。
私たちも行き詰まるとき、そのように神に向ってたたく。神こそは、そしてキリストこそは、真理を無限にたたえた存在である。主イエスも、「たたきなさい、そうすれば開かれる」
と言われた。
CD「人生の海の嵐に」北田 康広 を聴いて。 (その2) ・さっそく聴かせていただきましたが、本当にすばらしい賛美でした。「主のうしろ姿」と「紫の衣」を襟を正して目を閉じて、繰り返し繰り返し聴きました。なんてすばらしい賛美、歌詞も曲も。それを歌われる北田さんの歌も。
世界中の人に聴いてもらい、共に賛美してほしい曲だと思いました。
「朝静かに」「「とびらの外に」「主は教会の基となり」「ガリラヤの風かおる丘で」「勝利をのぞみ」も北田さんの心こもった賛美が光っていますね。
またCDジャケットに入っている、ていねいな熱のこもった解説がとてもすばらしく、このCDは神様が導かれて作られたということが本当によく感じられました。
私が行っている教会の祈祷会で、届いたばかりのCDの感謝をさっそく話し、その教会の伝道者にもお見せしたら「解説がすばらしいですね、解説は本当にこのようにあるべき」とおっしゃっていました。(関東地方の方)
・北田さんのCDを仕事で運転しながらですが、何回も聞きました。
聞けば聞くほど、北田さんの声とメロディと歌詞が味わい深く、心身に入ってきます。
8番の「紫の衣」は初めて聞く歌ですが、イントロが美しく清いメロディが主イエス様の苦しみの階段を登りやすくしてくれます。
十字架のイエス様にこころが引き寄せられるのを感じます。北田さんの歌が、悔い改めに導き、心が清められるのを覚えます。
「人生の海の嵐」の歌い方が好きです。主イエス様を知った今は、この歌のように 主の平和が与えられ、どんな嵐も私達を引きずり回すような力はありません。
背後の神様が支えて下さるので嵐とて穏やかで恵みの豊かさがあるのです。嵐は恐怖ではなくなりました。
港に必ず導かれる確信を感じます。すべての事相働きて益になるのを感じます。
北田さんのこの讃美集が主に用いられますように。(四国の方)
・北田さんの深い賛美の歌声に、神様の愛と慈しみが私のうちにあふれてくるようで、魂の平安に満たされるのを覚えます。この喜びを悩みにある友にも届けたいと願います。このCDを主が用いてくださいますように祈ります。(関東地方の方)
・CDは、本当に感動して聞きました。(関東のKさん)
・北田康広さんのCD中の3の「主のうしろ姿」は本当に心に深くしみて丁度受難週に聴いてまして涙があふれてました。北田さんの歌唱がこの曲にぴったりでチェロの音も悲しみを一層伝えてます。今回のCDの中で一番好きな歌で作詩作曲の方が素晴らしいと思います。
・多くの賛美の中からよりすぐられた曲でどれもこれもとてもよかったです。信仰をもって歌っておられるので聞くものの心を癒して下さいます。私は最初聞いたときは、高熱が出て苦しんでいた時だったのですが、聴いていて病気の苦しみをいやされ、心に平安が与えられました。その後の回復も早かったです。
讃美歌とともに、歌詞と解説が詳しく書かれてあり、とてもよくわかりました。一曲一曲の解説は講話のように胸にひびいてきました。どの歌もよかったのですが、私は「主の後ろ姿」と「紫の衣」が特に魂に迫る曲でした。オーケストラの伴奏もとてもよかったです。(関東地方の方)
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○次ぎの感想は、インターネット(ブログ)で公開されていた内容です。
・北田 康広氏「人生の海の嵐に」(最近聞いたCDについて)
全盲のクリスチャン「歌手」「ピアニスト」「講演家」である北田 康広さんの3月11日発売の新CDを聴きました。これまでのCDはメジャーな一般曲が多かったのですが、今回は全曲讃美歌。実はこの方のCDは聴いたことがなかったのですが、今回は買わずにはいられなかった。
なぜか?
このCDには、このブログ内で過去5回も採り上げた、私のスピリットソング「紫の衣」が入っているからです! やはり男声だと、力強くてズシンと響いてきますね。ちょっとまた違うよさがあります。
これは、私のまったく個人的な好みですが、受難の賛美は、男声でこそより曲のよさが引き立つ、というより詞が心に入ってくるような気がします。
やはり、この賛美は別格ですね。
そして、このCDで初めて聴いた曲が、ゴスペルシンガーの山口博子さん作詞作曲の「主の後ろ姿」。これは一聴惚れ。ここ数年で最高の出会いです。この賛美に関しては、後日単独の記事で紹介したいと思います。
今回のこのCDは、実に選曲がすばらしい。新聖歌・讃美歌21などからを中心に、いい曲ばかりでした。その中に、「紫の衣」や「主の後ろ姿」のような、あまり知られていない曲が含まれていてアクセントになっている。この両曲も、北田さんのような著名な方に採り上げられて、これでかなり知られることになるでしょう。
受難の賛美である「紫の衣」「主の後ろ姿」をぜひ多くの人に聴いてもらいたいです。
・『人生の海の嵐に』というCDを聴きながら仕事をしています。
これは,いわゆる賛美歌名曲選集で,それを北田康広さんが歌っておられます。
本当に人生は,嵐の海を小舟に乗ってこぎ出しているようなもので,辛いこと,厳しいこと,悲しいことの方が圧倒的に多いと思いますが,例えば,このCDを聴いて,その荒波に立ち向かっていって欲しいです。(大阪府の弁護士)
ことば
(358)私は目が見えなくなっていくことは、打ち消しがたい悲しみであった。しかし、ようやくそのことについて平安を得ることができるようになった。
それは、「わが恵み なんじに足れり」というささやきを聞いたからである。…
世間の人のようによく見える目より私の目のほうがはるかによい働きを私に対してなしてくれた。
なぜかといえば、この眼のゆえに、いっそう真剣に祈ることができ、いよいよ深い思いやりを盲人のために寄せることがてき…日の光を恵まれない人たちのために、霊の光を与えるべく招かれる御声を、私は明らかに聴くのである。(「主はわが光」好本督著210頁
)
・好本督は、日本の盲人世界に著しい働きをした。今月号にその一部に触れたが、その大きな働きの根本となったのは、みずからが視覚障がい者であり、徐々に見えなくなり、ついに失明に至るという悲しみと苦しみであった。
神は大きな働きをまかせようとするときには、こうした苦難や悲哀を与えるということが彼の場合にも明らかに示されている。
(359)祈り―その中心は「主の祈り」である―は、隣り人との交わりの中で、その衝動を覚えるのである。
祈りにおいていかに低き者であっても、そこでキリストの働きにあずかるこの上なき特権を与えられる。(同19頁)
・好本督の祈りは、具体的であった。たえず隣人との関わりのなかで―彼の場合は、とくに視覚障がい者との交わりのなかから常に新たな祈りが湧いてきた。盲人ゆえの悲しみや絶望に、関われとの御声をはっきりと聞き取り続けたのであった。
編集だより
来信から
○怪我をして自宅から離れていました。ようやく治ってきたので自宅に帰りましたが、いったい私の信仰は何だったのかと、自問自答していました。娘たちの家でも居場所がないと感じるだけでなく、どこにも居場所がないように感じます。…
こんなときこそ、神様に祈らなければと思ってもそれがなかなかできず、一日が長いです。
そんなとき、「いのちの水」誌が送られてきて、「あっ、読むものがある」と思って読みます。ひとり暮らしなので、だれとも話すことがなく、言葉を忘れます。「いのちの水」誌は楽しみに待っていますので、送付をよろしくお願いします。…
・県外の方からの来信ですが、老年になり、からだも不自由になり、さらにひとり暮らしということになると、生活が単調となり、心は暗くなりがちだと思います。
「いのちの水」誌もそうした方々にも 小さなともしびとなり、み言葉を運び、御国の風を少しでも吹かせることができればと願っています。
○…無教会の集会では、聖書研究は熱心ですが、現実社会のなかで抑圧され、差別されている人たちのうめきや叫びを聞いて、そういう人たちに寄り添い、関わるなかで福音の光を指し示す姿勢が欠如しているようにおもいます。
内村鑑三の言葉を長々と引用して話するキリスト教の講演会に出たことがありますが、今の若い人たちには、だれにもわかるような言葉を繰り返し 心に刻み込むようにみ言葉を取り次ぐ必要を痛感します。…
(九州の方)
・聖書研究は、苦しむ人への愛や,福音を伝えようとする力を生み出すものではないのは、聖書を見ても、また現実の私たちの知るところからでも言えます。
主イエスは聖書研究をして福音を伝えたのではなかった。イエスは、伝道の生涯に入る前まで、父親と大工(石工)の仕事をしていたからです。
イエスの弟子たちも同様です。主イエスも伝道の出発点に、天から聖なる霊が降ってきたとあり、弟子たちも、イエスを見捨てて逃げ去ったあと復活のキリストに出会ったけれどもなお、福音を伝える力は与えられなかった。
彼等がまったく新たにされて、福音を伝えるために力を与えられたのは聖なる霊が注がれたからであり、またパウロのように活けるキリストに出会ったからだったのです。
弟子たちは、漁師が半数近くを占めていたり、徴税人や政治運動に関わる者たちもいたりで、およそ、聖書を研究して伝えるということはあり得ない人たちでした。
聖なる霊とは、神の本質そのもの、神の力であり、愛や真実そのものですから、そうしたものが与えられねば、私たちには弱者への関心や福音を証しする力が出ないのは当然といえます。
お知らせ
7。
○高槻聖書キリスト集会の新しい集会場
この集会は、那須佳子さんが集会の責任者として毎日曜日の主日礼拝を続けておられます。 このたび、その高槻聖書キリスト集会で新しい集会場が完成し、6月24日(日)に初めて私はその集会場を訪れてみ言葉に関する講話をさせていただきました。
隣家が転居し、その土地を購入することができたとのことで、そこに平屋の集会場を新たに建てられたものです。
すぐ横が竹林となっていて、二つの窓からはその緑が大きな緑の絵画のように見え、また別の窓からは水田も見えて心が落ちつきます。
集会場のために捧げられたその志が祝福され、その集会場が今後とも、キリストの福音伝道のために用いられますようにと祈ります。